Archive for 6月, 2026

Date: 6月 4th, 2026
Cate: 電源

AC電源のこと(その2)

十年以上前のこと(二十年近くもしれない)、何もしていないにも関わらず、音が変化したことがあった。

システムも変らず、セッティングやチューニングも変えていない。なのにはっきり音が変った。

一ヵ月ほどしたから気づいた。電信柱の取り付けてあるトランスが新しくなっていた。それまでのトランスよりも小型のモノになっていた。
そういえばファインメットコアのトランスに変更されつつあることを思い出した。

私が当時住んでいたところも変更されたことによる音の変化だったわけだ。

電信柱といえば、ステレオサウンドで働いていた時に、読者からの電話で、電信柱に関することがあった。
その人によるとそれまで木の電信柱がコンクリート製にかえられ、音が悪くなったから、電力会社と交渉して、元の木の電信柱に戻してもらった、ということだった。

いまだったら、到底応じてくれないことをやってくれていた。とはいえそれから四十年ほどが経っているから、コンクリート製電信柱になっているはず。

こんなふうに変更が加えられているのが、AC(商用)電源である。

Date: 6月 4th, 2026
Cate: 電源

AC電源のこと(その1)

アクースティック蓄音器以外、オーディオ機器はなんらかの電源を必要とする。

アンプにしても、AC(交流電源)を整流、平滑してDC(直流電源)を入力信号に応じて変調して出力している。
ゆえに電源のクォリティは、そのままアンプのクォリティとなる。

ACをとり巻く状況は悪くなることはあっても、これから先良くなることは期待できそうにない。

1980年代に普及し始めたインバーター制御の高効率家電の登場によって、ACは高周波ノイズまみれになり、さらには直流成分も混じるようになっている。

今日、ある建築現場の前を通ったら、「同施設内のケーブルは全てアルミケーブルを使用してます」と書かれた看板があった。

電源の屋内配線もアルミケーブルが使われる。これまで屋内配線は銅線だとばかり思っていた。実際そうなのだろうが、さいきんでは高圧電線も銅線ではなくアルミ線が使われるやうになってきている、という話を半年ほど前に聞いている。

銅線よりもアルミ線の方が軽いというメリットがあるかららしい。

今度は屋内配線もか、と今日見た看板で、そう思った。
完成前だから、この建物の配線はアルミ線だとわかったが、完成してしまった建物だと、銅線なのかアルミ線なのかは、すぐにはわからない。

Date: 6月 3rd, 2026
Cate: ハイエンドオーディオ

ハイエンドオーディオ考(その26)

秋葉原に行くと、オーディオに使える部品を取り扱っている店だけでなく、部品そのものがはっきりと減っていることを感じる。

お金に余裕がある人は買い占めてしまうであろう状況ともいえる。
部品の買い占めに近いことは、昔からやっている人はやっていた。すぐに使う予定はなくとも、いま買っておかなければ──、と思っての行動だろう。

死蔵されている部品も、けっこうあるはず。いつか使う予定だったけど……、そんな部品が、世の中のどこかにあることだろう。

コンデンサーや抵抗といった受動素子、真空管やトランジスターといった能動素子。代替部品を見つけるのが困難なのは能動素子で、真空管よりもトランジスターの方である。

真空管は、ポピュラーなモノならば現在も製造されている。真空管全盛期のクォリティと比較すれば不満もあるが、
それでもなんとか使える真空管が供給されている。

資金に相当な余裕があるオーディオメーカーならば、満足できる真空管のたまに真空管製造メーカーを買収して、
徹底的にクォリティを追求して、全盛期の真空管に匹敵するレベル、さらには上廻るレベルまで求めることも可能だろう。

一方のトランジスター、FETといった半導体はどうだろうか。
オーディオ用としてポピュラーなモノが製造中止になった場合、どうなるか。真空管のようには、まずならない。

少し前にソーシャルメディアで見かけた記事がある。2025年8月の記事だから、すでに読まれている方もいよう。

半導体の製造中止による影響の記事だ。
性能的に代替部品はあっても、音質的に代替部品となるかどうかは別の話。
そうなるとハイエンドオーディオメーカーは、それらの部品を買い占めるのか。部品の取り合いが生じるのか。

そして、それらの半導体を使っていた機器が故障した場合、修理はどうなるのか。

Date: 6月 2nd, 2026
Cate: ディスク/ブック

ジュリーニのバッハ(その4)

(その3)で、見ている世界、聴いている世界と書いたが、思うに、見えている世界、聴こえている世界なのかもしれない、と公開した後に思った。

世の中は、そういうものだ。そういう世の中で、この音はいいとか、この演奏はいいとか悪いとか、各々が語る。

そういう世の中だからこそ、私と同じようにジュリーニのバッハを「美しい」と感じる人と出会えたのなら、その関係は大切にしていきたいし、
反対にジュリーニのバッハなんて退屈でしかないと感じている人との出会いは、私にとって、どうでもいいことでしかない。

Date: 6月 1st, 2026
Cate: ディスク/ブック

ジュリーニのバッハ(その3)

ジュリーニのバッハは、私にとって大切な録音なのだが、クラシックを聴く全ての人が、ジュリーニのバッハを素晴らしいと感じているわけではないことは、承知している。

私にとっては、バッハのロ短調ミサだけでなく、ジュリーニが残してくれた録音の多くが大切な存在であるけれど、これとて全くどうでもいい存在とうけとめているクラシック音楽の聴き手もいる。

反対のことだっていえることもわかっている。誰かにとって、私にとってのジュリーニのように大切な存在が、私にはどうでもいい存在だったりする。

昔は、若かったころは、どうして、この人は、この演奏(録音)の素晴らしさがわからないのか。ならば説得しようとおもったことは、結構ある。
私だけではないはず。自分にとって大切な音楽(録音)の良さを知ってほしい、わかってほしい、と思う人はいる。

そういう人たちは、どうしているんだろうか。若いころは私同様、良さを理解してもらおうと言葉を尽くしたもしれない。
いまも続けている人もいるだろうし、わからない人に対して、どれだけ情熱と時間を費やしても、無駄と諦めてしまった人もいる──と私は思っている。

同じように音楽を長いこと聴いてきたとしても、聴いてきた世界が全く違うのではないのか──、そんなことを一度も感じたことがない人はいない、と思っている。

人は見ている世界、聴いている世界の全てを受け止めているわけではない。勝手に取捨選択している。これは想像以上に人によって違っている、と二十年ほど前から思うようになってきた。

その感はますます強くなってきている。