Xというオーディオの本質(その10)
別項のテーマである純度と熟度。
ここでも、純度の高い音と熟度の高い音、
そして、純度の高い音と熟度の高い音のバランスということを考える。
別項のテーマである純度と熟度。
ここでも、純度の高い音と熟度の高い音、
そして、純度の高い音と熟度の高い音のバランスということを考える。
今年の1月20日、21日、川崎市にあるオーディオ・ノートの試聴室で、
「オイロダインを楽しむ会」が開催された。
私も行ってきた。
私が行った回は、天気が悪かったせいもあってか、六人だけだった。
クラシックだけでなく、いろんな音楽(レコード)がかけられた。
それらを聴いていて、ある人が、
「オイロダインでこういう音楽を聴けるなんて!!」と興奮気味に語っていた。
どうも、この人はオイロダインは、
クラシックを主に聴くスピーカーという印象を持たれているのだろう。
よく考えてみなくても、オイロダインは劇場用スピーカーであるから、
いろんな音源を鳴らすことを前提としたスピーカーともいえる。
音楽も鳴らせば、それ以外のものを鳴らすわけだ。
映画であれば、セリフや効果音などがある。
むしろ、そこでは音楽は背景になってしまうこともある。
にもかかわらず日本では、オイロダインはクラシックのためのスピーカー、
そんなふうに思い込まれている感じすらある。
このことはオイロダインにとっても、聴き手側にとっても損なことだな、とは思う。
その意味で、オーディオ・ノートの試聴室で、
クラシックに限定することなく、ジャズもロックも、というのはよかった。
それでも別項で、「オイロダインを楽しむ会」について書いているが、
そこではオーディオ・ノートの社屋についての感想だけしか書かなかったのは、
当日のオイロダインの音がひどかったからではなく、でもよかったわけでもなく、
「音の毒」が抜かれてしまっていたように感じたからだ。
オーディオ・ノートの製品は、ずっと以前にカートリッジと昇圧トランスは聴いているが、
アンプに関しては「オイロダインを楽しむ会」で初めてだった。
そのくらい縁がなかったわけで、オーディオ・ノートのアンプがどういう音なのかは、
まったく把握していない、といっていいぐらいだ。
なので毒気を抜かれた音になってしまった原因がどこにあるのかは、
なんともいえない。
それに毒気を抜かれたと感じたのは、私ぐらいだったのかもしれない。
トーンアームのパイプの形状は、
私がオーディオに興味を持ち始めた1976年は、S字型かJ字型が大半だった。
ストレート型もいくつかあったけれど、少数派だった。
ストレートパイプが増えてきたのは、1980年代に入ってからだろう。
しばらくしてピュアストレート型が提唱されるようになってきた。
オフセット角は不必要というもので、
それまでのストレート型はヘッドシェル部に角度がついていたが、
ピュアストレート型はヘッドシェルまで直線になっている。
ピュアストレート型の優位性を、理論的に説明する人もいる。
それはそれで納得できるところも多い。
それでも、でもね……、と思うの私だ。
トーンアームは、ピュアストレート型でないほうがいい。
いい、というのは、好きだ、という意味、
さらには美しいという意味で書いている。
SMEの3012-R Specialが盤面をトレースする姿をみていると、
この長さ、そして形があってこそ、と思う。
レコードを聴いているとき、盤面をじーっと眺めているわけではない。
目に入るのは、カートリッジを盤面に降ろすときとあげるときぐらいであっても、
美しいと感じられる形であってほしい。
そんなことよりも、音のほうが重要だろう、といわれるのはわかっている。
それでも──、である。
7月3日のaudio wednesdayで、メリディアンのDSP3200をふたたび鳴らす理由のひとつが、
このエーリッヒ・クライバーによる「フィガロの結婚」を、
MQAで一人でも多くの人に聴いてもらいたいから、である。
ワンポイント録音だといわれる、この「フィガロの結婚」は、
「フィガロの結婚」という作品の美しさを、演奏(録音)された時代を背景に、
見事に聴き手に提示(展開)してくれる。
すでに書いているように、MQAで聴くといっそう、その感を強くする。
とはいえ、TIDALにエーリッヒ・クライバーの「フィガロの結婚」はあるが、
残念なことにMQAではないし、e-onkyoでもすでにMQAでの購入はできない。
もしかするとHDtracksで今年後半には聴けるようになる可能性はあるが、
それもはっきりといえるわけではない。
とにかくいまエーリッヒ・クライバーの「フィガロの結婚」をMQAで聴く機会は、
ひじょうに限られている。
だからこそDSP3200での「フィガロの結婚」である。
2023年4月にMQAの経営破綻のニュース。
9月にようやく回避された、というニュース。
それからは特にこれといったニュースはなかったけれど、
今日、MQAを買収したLenbrookとHDtracksが協同で、 あらたなストリーミングサービスを始める、というニュースが発表になった。
年内にはサービス開始とのこと。
日本からアクセスできるようになるのか、いまのところ不明だけれども、
MQAでの配信もあるわけで、期待は膨らんでいく一方だ。
処女作には──、ということが昔からいわれ続けている。
たとえばクレル。
クレルのPAM2とKSA100のペアを最初に聴いた時、ほんとうに驚いた。
この時のクレルはごく初期のモノで、フロントパネルの仕上がりが独自のものだった。
トランジスターアンプで、こういう音が出るようになったのか、と驚いた。
そのフロントパネルの仕上げに通ずるところもある質感に、
瀬川先生が、この音を聴かれたなんといわれただろうか、と妄想もしていた。
そのくらいクレルのPAM2とKSA100の音は、
マークレビンソンのLNP2とML2のペアが鳴らす音の世界とは対極にあり、
続いて登場したKSA50、KMA200の音にも魅了された。
クレルのフロントパネルは、金属加工を受け持っていた職人が亡くなったため、
その後、どのように試行錯誤しても同じ質感のパネルは出来上ってこなかった、らしい。
そして、このころからクレルの音は変化していったように記憶している。
KRSシリーズからは、はっきりと変っていった。
どちらが優秀なアンプなのかどうかではなく、あんなにも魅力的だった初期のクレルの音は、
もう聴けないのか──、そんなふうに感じさせる変化でもあった。
クレルを例に挙げたが、クレルだけに限らない。
マークレビンソンのアンプもそうだし、この時代に登場した新興メーカーのアンプの多くに、
そのことはあてはまった。
デビュー作が市場で高い評価を得る。同時にフィードバックもかえってくる。
それまでのフィードバックといえば、自分の周りにいるオーディオ仲間だけだったのが、
国中から、そして世界中から返ってくるようになることで、
ある種の「純度」は失われていくようにも、いまも感じている。
ジャクリーヌ・デュ=プレのバッハもかける、と5月28日に書いている。
6月5日当日、もちろんかけるつもりだった、というよりも、絶対かける、と決めていた。
なのにすべてが終って片づけをしているときに、
ジャクリーヌ・デュ=プレのバッハをかけていなかったことに気づいた。
ステレオサウンド 32号掲載の伊藤先生の連載「音響本道」。
「孤独・感傷・連想」というタイトルの下に、こう書いてあった。
*
孤独とは、喧噪からの逃避のことです。
孤独とは、他人からの干渉を拒絶するための手段のことです。
孤独とは、自己陶酔の極地をいいます。
孤独とは、酔心地絶妙の美酒に似て、醒心地の快さも、また格別なものです。
ですから、孤独とは極めて贅沢な趣味のことです。
*
1月の序夜から始まった今年のaudio wednesday。
6月の会で半分を終えた。
5月には、野口晴哉記念音楽室レコード鑑賞会もあった。
これら七回の音をふりかえって、《喧噪からの逃避》といえる音は出ていた(出していた)。
タイトルには、「トーキー用スピーカーとは」とつけている。
トーキー用は劇場用とも置き換えられる。
たとえばアルテックのスピーカー。
同軸型ユニット604を搭載したシステムは、モニター用であり、
一人で聴くためのモノ。
一方、A7、A5、さらにその上のA4などになると、はっきりと劇場用スピーカーであり、
あくまでも個人的ではあるが、
これらのスピーカーで一人ひっそりと好きな音楽を楽しみたいとは思わない。
アルテックの劇場用スピーカーの音の特質は私なりにわかっているつもりだし、
その良さに惹かれるところもあるが、
その良さを、私が聴きたい音楽を、一人ひっそりと聴くためためならば、
アルテックではなくイギリスのヴァイタヴォックスを選ぶ。
──そんな認識が私にはあった。いまも残っているといえる。
アルテックの劇場用スピーカーは、多くの人で聴く音なのだ、という。
けれどシーメンスのオイロダインも劇場用スピーカーである。
私にとってオイロダインは、一人ひっそりと聴くためのスピーカーである。
このことは二十代のころ初めて聴いた時から、その印象は変っていない。
ヴァイタヴォックスもCN191、Bitone Majorは家庭用スピーカーだが、
Bass Binはその規模からして、劇場用スピーカーであり、
ヴァイタヴォックスの成り立ちからして、ユニットそのものは劇場用といえる。
同じ劇場用スピーカーなのに、そういう違いを感じとってしまうのは、
ただ単に思い込みからくるものなのか──、そんなことを自問することもあるが、
実際にその音にふれると、思い込みでは片づけられないことも実感できる。
(その5)と別項「電源に関する疑問(バッテリーについて・その2)」で書いていること。
乾電池、充電式バッテリーを含め、
電池の類は残量と音に関係性があって、
どうも残り少なくなってきてからのほうが好結果が得られる、という感触を持っている。
5月のaudio wednesdayでも、
6月のaudio wednesdayでも、
残量がかなり減ったところでかけた曲の鳴り方は見事、というか凄かった。
5月の時は、カザルスとゼルキンによるベートーヴェンのチェロ・ソナタ、
6月の時は、フルトヴェングラーによるブラームスの交響曲第一番、
どちらも残量はわずかだった。
(その1)で、ステレオサウンド 211号の119ページ掲載の写真について書いた。
ステレオサウンド編集部は、なぜ、この写真を選んで掲載したのか。
昔のフィルム時代であれば経費節減で、撮影のカット数を減らすということもあろうが、
いまはデジタルカメラの時代だし、カット数を気にすることは、まずない。
とれるだけ撮って、その中から、いい一枚を選んで掲載すればいい。
なのに、こんな写真をあえて選んで掲載する。
ステレオサウンド 231号の250ページ掲載の写真を見て、
同じことを思ってしまった。
なぜ、編集部はこの写真を選んで掲載したのか、と。
同じようなアングルでの写真が、254ページにあるから、
よけいに、そう思ってしまう。
こんな写真を、あえて掲載する。
いまのステレオサウンド編集部には、なにか大事なことが欠けているのではないのか。
ブラインドフォールドテストで思っていることがある。
ずっと以前から、ブラインドフォールドテストをやるならば、
こういうやり方をなぜしないのか──、そう思っていることがある。
ステレオサウンド 230号の特集で、
小型スピーカーシステムのブラインドフォールドテストを行っている。
いわゆるブラインドフォールドテストのやり方である。
私が考えているのは、一歩進んだブラインドフォールドテストである。
スピーカーシステムは、鳴らし手の技倆が音になってあらわれる。
だからこそ(その2)で、
ブラインドフォールドテストでは何を聴いているのかをはっきりさせないと、
そしてそのことを読者にはっきりと伝えなければならない、と書いた。
230号でのブラインドフォールドテストでは、スピーカーシステムを設置しているのは、
編集部の誰かである。おそらく基本的には一人であろう。
セッティングのための持ち運びは他の人も手伝うだろうが、
セッティングに関しては、一人の編集者がやっていることだろう。
それはそれでいいのだけれど、一歩進めるとしたいのは、
鳴らし手を一人にしないことだ。
三人くらいいたほうがおもしろくなると考えている。
試聴スピーカーが二十機種あれば、三人がすべてのスピーカーをセッティングして鳴らす。
だからブラインドフォールドテストに参加したオーディオ評論家は、
六十機種のスピーカーの音を聴いたのと同じことになる。
こういう面倒な、そしてしんどいブラインドフォールドテストは、
どこも誰も行っていないはずだ。
audio wednesdayの開始は19時。
開場は18時で、開始までの一時間も、音楽をかけているけれど、
最初の一曲として鳴らすのは、19時からの音楽だ。
今回はグレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲をかけた。
もちろんモノーラルしかかけられないので、1955年録音のほうである。
アリアと続く変奏曲をいくつかかけて、次の曲にうつる。
ジネット・ヌヴーとハンス・シュミット=イッセルシュテットによる
ブラームスのヴァイオリン協奏曲。ライヴ録音である。
第一楽章を最後までかけた。
この演奏は、いろんな盤で聴いている。
アナログディスクでは二枚、
CDでは三枚の、それぞれ異る盤で聴いている。
今回TIDALで聴けるアルバムは、CDでも持っていて聴いている。
ヌヴーのヴァイオリンが、これまで聴いてきたどれよりも表情豊かだったことに、
内心驚いていた。
すごい演奏だ、とは最初に聴いた時から感じていた。
そのすごさに少しばかり耳を奪われすぎていたのか、
ここまで表情豊かだったとは、正直気づかなかった。
だからといって、表情に乏しいヴァイオリニストだと思っていたわけではない。
むしろ逆であり、それだから、
今回、こんなにも(ここまで)表情豊かだったのか、と驚いた次第。
6月5日のaudio wednesdayでは、(その20)で書いているとおり、
メリディアンのULTRA DACの電源は、
アンカーのモバイルバッテリー、PowerHouse 90から供給した。
正確に時間を計ったわけではないが、四時間ほどは大丈夫だった。
フルトヴェングラーのブラームスのときは、PowerHouse 90を使っている。
ULTRA DACのほかに、roonのNucleusにも使っている。
PowerHouse 90が二台あったからだ。
消費電力はNucleusのほうが大きいようである。
Nucleusに使ったPowerHouse 90は、本番が始まる四十分ほど前に、
いったん外して充電を行っている。
ULTRA DACで使っていたモノよりも早く、残量表示のLEDが減っていった。
PowerHouse 90は、どちらとも前日にフル充電している。
とはいえ、PowerHouse 90はどうもロットによって多少違いがあるように感じる。
なので、どちらの消費電力が大きいとか、はっきりしたところまではいえない。
もし三台揃っていたら、スイッチングハブにも使っていた。
とにかくPowerHouse 90でULTRA DACが四時間ほど使えるというのは、
十分実用になる、といえる。
PowerHouse 90ではなく、もっと大容量のバッテリー電源を使えば──、
とは私も思っているが、静かで持ち歩けて、というPowerHouse 90はなかなか魅力的だ。
実際に比較試聴してみないとなんともいえないのだが、
バッテリーの容量が大きくなり、それに伴いサイズも大きくなることは、
音質的にほんとうに有利に働くのだろうか。
そんな疑問もある。
実際のところ、どうなんだろうか。
昨晩は、audio wednesday 第五夜。
ウェスターン・エレクトリックの757Aをモノーラルで鳴らしたから、
曲もすべてモノーラル録音と言う制約つき。
スピーカーの757AとパワーアンプのマッキントッシュのMC275は、
まだ年代的に近い同士だが、
D/AコンバーターのメリディアンのULTRA DAC、
音源となるroonのNucleusと周辺機器はわりと新しい機器であり、
年代的には五十年ほどの開きがある。
むちゃくちゃな組合せと思われるかもしれないが、大事なのはそこから鳴ってくる音であり、
満足していたの私だけではなく、
今日、facebookに二人の方からコメントがあったが、満足されていた、とあった。
モノーラルで鳴らすことは、以前のaudio wednesdayでやったことがある。
その時よりも、今回のほうが楽しく充実していたのは、TIDALのおかげでもある。
次に鳴らしたい(聴きたい、かけたい)曲が浮んできたら、すぐにかけられる。
あのディスクをもってくればよかった……、というおもいはしなくてすむ。
リクエストにもある程度応えられる。
12月、もう一度、やろうと考えている。