Archive for 6月, 2022

Date: 6月 9th, 2022
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その76)

ここで考えたいのは、(その72)へのtadanoさんのコメントである。

《ここで単純に、生身の人間が発声した声と再生音とを、赤ん坊が聞き分けていると考えてみるのも面白いのではないかと考えました》
とある。

これは、私もそうだろう、と思っている。
しかも、このことはピストニックモーションで音を発していることを、
赤ん坊は無意識のうちに違いがわかっているのではないのか。

だから、スピーカーから流れてくるコンテンツの音声では、
赤ん坊の知能は向上しないのかもしれない。

これに関連してくるのかどうかはなんともいえないが、
まだスマートフォンが普及する前のことだから、もう十年以上は経っている。

電車に乗っていた。
向い側の座席に赤ん坊をつれたお母さんが座っていた。
赤ん坊はぐずっていた。

携帯電話を触りたがっていたようだ。
お母さんはおもちゃの携帯電話を赤ん坊に渡す。
すると持った瞬間に放り投げていた。

しかたなく本物の携帯電話を持たせると、赤ん坊は喜ぶ。
でも、弄ってしまうので、お母さんはまたおもちゃの携帯電話をもたせる。
すると、またすぐに放り投げる。

そんなやりとりが数回、目の前であった。

Date: 6月 9th, 2022
Cate: 「本」, 老い

オーディオの「本」(ラジオ技術のこと・コメントを読んで)

facebookにコメントがあった。
私よりも一世代若いMさんからである。

YouTube、ソーシャルメディア、ブログでは、オーディオの話をしている人がいる。
昔と違い、紙の本に頼ることなく情報発信ができる時代になっているのに、
なぜ紙の雑誌、書籍が必要なのか──、ということだった。

一ついえることは、マスで捉える能力について、である。
ステレオサウンドは昔、総テストを売りにしていた。
この総テストについては、別項でも書いている。

スピーカーシステムならスピーカーシステム、
アンプならばアンプを、一度に数十機種集めて数日で集中して試聴する。

この総テストを体験しているかいないか。
この違いが、オーディオ雑誌の存在理由である、と私は考えている。

このマスで捉える視点をもっているのかもっていないのか。
ただし、総テストを体験してきているかといって、
マスで捉える視点をもっているのかは、また別の話であるが、
私がオーディオ評論家(職能家)と認めている人たちは、
総テストをくり返し体験してきた上でのマスで捉える能力・視点をもっていた。

Date: 6月 8th, 2022
Cate: 朦朧体

ジャーマン・フィジックスのこと

ジャーマン・フィジックスは、最初タイムロードが取り扱っていた。
それがいきなり2006年ゼファン取り扱いになった。

それまでインターナショナルオーディオショウに行けば、
タイムロードのブースで、ジャーマン・フィジックスのUnicornを聴くことができた。

ゼファンが取り扱うようになってからは、
取り扱いブランドの多さもあって、
一度もインターナショナルオーディオショウでは聴くことがかなわなかった。

そして、あっさりとゼファンはジャーマン・フィジックスの取り扱いをやめた。
タイムロードがそのまま取り扱っていれば……、と思った。

それからどこもジャーマン・フィジックスを取り扱うところはなかった。
十年以上がすぎた。

Unicornのオリジナルモデルに関しては、
熱心な人が直接ジャーマン・フィジックスと交渉して輸入されている、と聞いている。
とはいえ、ジャーマン・フィジックス不在の時期は続いた。

やっとタクトシュトックが、ジャーマン・フィジックスを取り扱う。
取り扱うラインナップは、いまのところHRS130だけのようで、発売は7月10日。

とにかくジャーマン・フィジックスが、また日本に入ってくる。

Date: 6月 8th, 2022
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その75)

アクースティックの楽器のなかで、
ピストニックモーションで音を発しているのがあるだろうか。
なにひとつない。

昔のアクースティックの蓄音器の、いわゆる変換機としての性能は低い。
けれど、当時の人は、その音を聴いて驚いたり、満足していた。

アクースティックの蓄音器の音は、何度か聴く機会があった。
ヴィクトローラかクレデンザは、
置ける場所とそれだけの経済的余裕があれば、欲しい。

アクースティックの蓄音器を聴いている時に、
ふとこれがもしピストニックモーションで音を発する構造だとしたら、
ここまでいい音がする、と感じただろうか。
そんなことを考えたことがある。

ライス&ケロッグによる世界初のコーン型フルレンジユニットは、
もちろん基本的にはピストニックモーションなのだが、
当時の振動板の剛性を考えれば、中高域における分割振動は決して少なくなかったはず。

この6インチ口径のフルレンジユニットの再生周波数帯域は、
100Hzから5kHzほどであったらしいが、
完全なピストニックモーション領域は、どれだけだっただろうか。

人の声もアクースティックの楽器も、
ピストニックモーションで音を発しているわけではないが、
だからといってスピーカーがピストニックモーションであってはいけない──、
とは考えていない。

生の楽器と同じ発音構造でなければならない、とは思っていない。
それでもピストニックモーションこそ唯一とするのは改めるべきだろう、
とは考えている。

Date: 6月 8th, 2022
Cate: 「本」, 老い

オーディオの「本」(ラジオ技術のこと・その1)

別項で触れているように、
HiViが月刊誌から季刊誌へとなる。

広告が減ってきて、発行部数も減れば、そうならざるをえない。

別項「2022年ショウ雑感(その2)」について書いた。
ラジオ技術は、2020年にも、7月号が6月号との合併号として発売になったことがある。
新型コロナの影響のせいである。
2022年も、2月発売の3月号が休刊になり、3月発売の4月号との合併号になった。

6月になり、ラジオ技術のツイートは、
月刊誌から隔月刊への変更の知らせだった。

ラジオ技術のウェブサイトでも告知されているが、ツイートのほうが事情を説明してある。
それによると、ここ十五年ほど広告収入と発行部数の減少で、
実質的に赤字経営であったこと。

筆者の方たちも、原稿料無しで支援されていた、ということ。
数人の方から多大な資金援助があった、ということなどが語られている。

そして河口編集長の視力の急激な悪化により編集作業に支障をきたすようになった──、と。

出版業界は厳しい、とよくいわれるようになっている。
そういったことをよく目にするようになってもいる。

でもオーディオ雑誌はそれだけではないように感じられる。
老いの問題があるのではないだろうか。

ラジオ技術編集部に限ったことではなく、
若い人がオーディオに関心を持たなくなっている、といわれている。

そういう状況が続いていけば、
若い人がオーディオ雑誌の編集に就くことがなくなってくるのではないのか。

総じて、オーディオに関係する人みなが高齢化していく。
オーディオマニアも読者も、である。

Date: 6月 7th, 2022
Cate: 4343, JBL, ジャーナリズム

40年目の4343(オーディオの殿堂・その5)

黒田先生が「音楽への礼状」でカザルスについて書かれている。
     *
大切なことを大切だといいきり、しかも、その大切なことをいつまでも大切にしつづける、という、ごくあたりまえの、しかし、現実には実行が容易でないことを、身をもっておこないつづけて一生を終えられたあなたのきかせて下さる音楽に、ぼくは、とてもたくさんのことを学んでまいりました。
     *
大切なことを大切だといいきる、こと。
どれだけの人が実行しているのだろうか。

大切だ、と口にするのは誰にでもできる。
でも、この人は、それをほんとうに大切にしているのだろうか──、
そう疑いたくなることもないわけではない。

ないわけではない──、と書いたけれども、そうでもないと感じてもいる。

大切なことに新しいも古いもない。
そんなことさえ、いまでは忘れられているような気さえする。

だから、それを読み手に思い出させるというのが、
ステレオサウンド 223号の「オーディオの殿堂」ではないのだろうか。

私は「オーディオの殿堂」に対して、どちらかといえば否定的な考えを持っているが゛
それでも肯定的に捉えようとするならば、
大切なことを再確認するための企画だともいえる。

けれど、実際はどうなのだろうか。
私は、この項で書いているように、
三浦孝仁氏の4343についての文章だけを立読みしているだけだから、
他の人の文章については、なにもいえないのだが、
少なくとも三浦孝仁氏の4343の文章は、そうとは思えなかったし、
4343は殿堂入りしているとはいえ、ステレオサウンド編集部には、
そういう意識はないんだな、ともいえる人選である。

大切なことを大切だといいきることのできない「オーディオの殿堂」は、
なんなのだろうか。

ステレオサウンド編集部に望むのは、
自らの企画を検証する記事である。

Date: 6月 6th, 2022
Cate: ハイエンドオーディオ

ハイエンドオーディオ考(その3)

いまでは一千万円を超えるオーディオ機器が、もう珍しくなくなりつつある。
そんな高価なオーディオ機器には関心がない、とはいわない。

関心はある。
実力がきちんとあるメーカーが、持てる力をすべて注入しての、
その時点での最高の製品をつくりあげる。
そのためには一切の制約をなくして取り組む。

そうやって出来上ってきたモノは、そうとうに高価であってもいい。
高価なモノをつくろうとして出来上ってきたモノでなければ、
どれだけの価格になっても、いいと思うところはある。

そしてそうやって出来上ってきた製品の素晴らしさを、
次の世代の製品に活かしてくれれば、そして現実的な価格の製品に仕上げてくれれば、
それでいいという考えだからだ。

けれど、それらの非常に高価な製品を買える層の購買意欲をあおるために、
生産台数をごく少数に限定してしまっているのだとしたら、ひとこといいたくもなる。

そして、関連しておもっていることがある。
     *
 音を聴き分けるのは、嗅覚や味覚と似ている。あのとき松茸はうまかった、あれが本当の松茸の味だ——当人がどれほど言っても第三者にはわからない。ではどんな味かと訊かれても、当人とて説明のしようはない。とにかくうまかった、としか言えまい。しかし、そのうまさは当人には肝に銘じてわかっていることで、そういううまさを作り出すのが腕のいい板前で、同じ鮮魚を扱ってもベテランと駆け出しの調理士では、まるで味が違う。板前は松茸には絶対に包丁を入れない。指で裂く。豆はトロ火で気長に煮る。これは知恵だ。魚の鮮度、火熱度を測定して味は作れるものではない。

 ヨーロッパの(英国をふくめて)音響技術者は、こんなベテランの板前だろうと思う。腕のいい本当の板前は、料亭の宴会に出す料理と同じ材料を使っても、味を変える。家庭で一家団欒して食べる味に作るのである。それがプロだ。ぼくらが家でレコードを聴くのは、いわば家庭料理を味わうのである。アンプはマルチでなければならぬ、スピーカーは何ウェイで、コンクリート・ホーンに……なぞとしきりにおっしゃる某先生は、言うなら宴会料理を家庭で食えと言われるわけか。
 見事な宴席料理をこしらえる板前ほど、重ねて言うが、小人数の家庭では味をどう加減すべきかを知っている。プロ用高級機をやたらに家庭に持ち込む音キチは、私も含めて、宴会料理だけがうまいと思いたがる、しょせんは田舎者であると、ヨーロッパを旅行して、しみじみさとったことがあった。
     *
五味先生の文章だ。
私は、この文章を13歳のときに読んでいる。

Date: 6月 6th, 2022
Cate: ハイエンドオーディオ

ハイエンドオーディオ考(その2)

瀬川先生は、ステレオサウンド 56号、
トーレンスのリファレンスのところで、最後にこう書かれている。
     *
 であるにしても、アーム2本、それに2個のカートリッジがついてくるにしても、これで〆めて358万円、と聞くと、やっぱり考え込むか、唸るか。それとも、俺には無縁、とへらへら笑うことになるのか。EMT927までは、値上げになる以前にどうやら買えたが、「リファレンス」、あるいはスレッショルドの「ステイシス1」あたりになると、近ごろの私はもう、ため息も出ない、という状態だ。おそろしいことになったものだ。
     *
56号は1980年に出ている。
そのころの3,580,000円は、ほんとうに高価だった。

1980年は、3,000,000円を超えるオーディオ機器がいくつか登場した年ともいえる。
それまでは2,580,000円あたりが、価格の上限のように思えてただけに、
値段もだけれど、その威容もふくめて、すごいモノが登場したきた、と感じた。

リファレンスは、瀬川先生が熊本のオーディオ店に来られた時に聴く機会があった。
ほんとうにすごい音だった。圧倒された。

高校生の時だった。もちろんすぐに買えるわけではないが、
いつかはリファレンス、と思ってもいた。

そんなふうに思えたのは、
新聞配達のアルバイトでしかお金を稼いだことのない高校生ゆえだったのかもしれないが、
リファレンスは買えるようになるまで、現役の製品でありつづけてくれる──、
そんなふうに勝手に信じ込んでいたからでもある。

それから四十数年。
現在のオーディオ機器の、それぞれのジャンルの最高価格の製品は、
いつかは──、なんて思いもしない。
《ため息も出ない、という状態》なのだが、
それ以上に、そういう非常に高価なオーディオ機器は、
生産台数が最初から決っている。限定のオーディオ機器である。

お金をいま以上に多く稼げるようになって、
買えるようになるくらいにまでなれたとして、
その日には、そのオーディオ機器はすでに製造中止になって久しい。

非常に高価で、しかもごく少数の生産。
そういうオーディオ機器は、それらをポンと買える人にとっては、
まさにトロフィーオーディオである。

でも、そこに、いつかは──、という夢は存在しない。

Date: 6月 5th, 2022
Cate: きく

音楽をきく(その5)

私が10代のころ、レコード(LP)は高かった。
当り前のことだが、本は買えば読むための機器は必要としない。

レコードは違う。
それを再生する装置が必要となる。

それに本は図書館という存在があった。
学校にもあったし、市立の図書館もある。

東京だと図書館にレコードもあるけれど、
私の田舎ではなかった、と記憶している。

レコードと接する機会が田舎と都会とでは、そうとうに違う。
レコードはそうであっても、FMがあるだろう、といわれそうだが、
FMの民放が増えてきたのは、もう少しあとのことで、私が田舎にいたころは、NHKのみだった。
FMの民放は、隣りの福岡にはあったけれど、その電波は届かず、である。

とにかく、いろんな音楽を聴きたい、と思ったところで、かなわなかった。
私だけのことではないはずだ。
私と同世代、そして田舎暮しの人は同じだったのではないだろうか。

それでも家族に音楽好き、そうとうな音楽好きがいれば、少しは変ってこよう。
けれど、そんな人は私の周りにはいなかった。

東京に来て知ったのは、音楽に関してひじょうに恵まれた環境にいた人が、
少なからずいる、ということだった。

とにかく聴ける環境が違いすぎていた。
音楽評論家になる(なった)という人たちは、
10代のころに、どれだけ多くの音楽を聴いていたかは、とても重要なこととなっている。

だからといって、自分の環境を嘆きたいのではなく、
いまの時代は、もうそうではなくなっている、といいたいだけである。

TIDALをはじめ、ストリーミングで世界中の音楽が満遍なく聴ける。
それこそスマートフォンとイヤフォンがあれば、鑑賞にたえる音で聴ける。

Date: 6月 5th, 2022
Cate: きく

音楽をきく(その4)

私が生れた田舎は、さほど人口も多くない。
それでも当時は書店は何軒もあった。
いま思い出してみると、少なくとも六軒はあった。
すべて個人経営の書店である。

いま住んでいるところは書店の数が減ってきている。
人口は私の田舎よりも多いにも関わらずだ。

昔は、そのくらいあたりまえのように身近に書店がいくつもあった。
それでも田舎の書店は大きいわけではなかった。

その田舎からバスで一時間、熊本市内には大きな書店があった。
数ヵ月に一度、その書店に行くのが楽しみだった。

往復のバス代だけで二千円ほどかかるから、
読みたい本がすべて買えるわけではなかった。
書籍代よりもバス代のほうが高いのだから。

東京で暮すようになって、まず行ったのは三省堂書店だった。
ウワサには聞いていた。
実際に行ってみて、こんなに大きいのか、とその規模に驚いたものだ。

熊本市内の大きな書店よりもはるかに大きい。
しかも新宿には紀伊國屋書店もある。
東京のすごさを感じていたものだが、
それでもレコード店に関しては、三省堂書店、紀伊國屋書店に匹敵する規模のところは、
東京といえどまだなかった。

六本木にWAVEができるまでは、なかった、といっていいだろう。
秋葉原には石丸電気のレコード専門のビルがあったけれど、
それでも三省堂書店、紀伊國屋書店の規模かといえば、そうとはいえなかった。

私の田舎では、レコード店は少なかった。
書店は私が住んでいる時代に新しい店が二軒できたけれど、
レコード店はそうではなかった。

そういう環境で18まで育った。
東京に来て、それからステレオサウンドで働くようになって、
10代のうちに聴けた音楽の量に関して、同世代であっても、
田舎暮しと都会暮しではそうとうな差があったし、
さらにまわりに音楽好きな人たちがいる、という環境の人とは、
その差がさらに広がる。

Date: 6月 4th, 2022
Cate: ワーグナー, 映画

ワグナーとオーディオ(とIMAX 3D)

6月1日に「トップガン マーヴェリック」を観てきた。
IMAXで観てきた。

今年観た映画のなかで、ダントツに楽しかった。
映画って、いいなぁ、と素直におもえるほどよかった。

映画館で観てよかった映画だ、とも思っていた。
この十年くらいか、映画館が輝きを取り戻したような感じを受けている。

私が、再び積極的に映画館で映画を観るようになったきっかけは、
ドルビー・アトモスの登場である。

別項「トーキー用スピーカーとは(Dolby Atmos・その1)」で書いているように、
2013年12月1日、船橋まででかけて観に行った。

その時観たのは「スタートレック イントゥ・ダークネス」で、
ドルビーアトモスと3Dによる上映だった(IMAX 3Dではない)。

船橋まででかけたのは、
Dolby Atoms(ドルビーアトモス)を日本で初めて導入した映画館で、
まだ船橋にしかなかったからだ。

船橋からの帰りの電車のなかでおもっていたことは、(その3)に書いている。

ジョン・カルショウがいま生きていたら、
3D映像とドルビーアトモスを与えられたら、
どんな「ニーベルングの指環」をわれわれに提示してくれるであろうか──。
そんなことをぼんやりとではあるが考えていた。

それから九年ほど経って、IMAX 3Dが登場した。
別項「Doctor Strange in the Multiverse of Madness(その1)」で、
「Avatar: The Way of Water」の予告編を観た、と書いた。
この予告編もIMAX 3Dで、そのクォリティの高さは、また一つ時代が変った、
そう思わせるほどのものだ。

「ニーベルングの指環」。
最新のCGによる制作とIMAX 3Dでの上映。
観たい。

Date: 6月 4th, 2022
Cate: Jacqueline du Pré

Jacqueline du Pré(その4)

6月3日に、ジャクリーヌ・デュ=プレのリマスターCDボックスが発売になった。
TIDALでも聴けるようになるだろう、と予想していた。
昨日から、TIDALでも、かなりのアルバムが新しいリマスターで、
しかもMQA Studio(196kHz)で聴けるようになった。

CDボックスを買っても、MQAでは聴くことはできない。
CDのスペックでの音でしか聴けない。

ストリーミングで音楽を聴くなんて……、という人は、
このことをどう受け止めているのだろうか。

昨晩は、TIDALに入っていてほんとうによかった、と、
ひとりで首肯いていた。

もしTIDALで入っていなかったとしても、
今回のデュ=プレのことは、入る大きなきっかけとなったはずだ。

Date: 6月 4th, 2022
Cate: 4343, JBL, ジャーナリズム

40年目の4343(オーディオの殿堂・その4)

ステレオサウンド 223号「オーディオの殿堂」の4343の件に関して、
三浦孝仁氏を責めようとは思っていない。

三浦孝仁氏の4343の文章は、
三浦孝仁氏ならば、こんなことを書くだろうという予想通りのものだった。
それはいい悪いということではなく、
ステレオサウンドの編集部も予想していたことであろうし、
その予想通りの出来(どう評価するかは個人の自由)なのだからだ。

なので責めたいのは、なぜ三浦孝仁氏にしたのか、である。
消去的選択で三浦孝仁氏になったわけではないはずだ。
その1)で書いているように、黛 健司氏がいる。

4341、4343と鳴らしてきた黛 健司氏がいるにも関わらず、
あえて三浦孝仁氏にしなければならなかったのか、その理由がわからない。

黛 健司氏よりも三浦孝仁氏のほうが、
4343についてより面白い、よりよい原稿が書けるという判断だったのか。
それはおかしい、というか間違っている、といいたい。

それとも「名作4343を現代に甦らせる」で、
あの無様な、そして無惨な姿に変り果てた4343もどきの試聴記を書いた人だからなのか。

私は、223号の4343のところだけを立読みしただけなのだが、
きちんと買って読んだ友人によれば、「オーディオの殿堂」での黛 健司氏の文章は、
よかった、とのこと。

黒田先生が亡くなられた時も、そうだった。
なぜ、あの時、黛 健司氏にも追悼文を依頼しなかったのか。

4343のことだけでも、おもうところはある。
おそらく223号をきちんと読めば、もっとおもうところが多々あるだろう。

facebookにコメントをくれた方は、
223号を買ったけれど、これを餞別(香典代り)にして、
終りにします、ということだった。

(その3)で、和田博巳氏のことに触れた。
facebookへのコメント、メールが数人の方からあった。
編集後記に、体調を崩されている、とあるとのこと。

Date: 6月 3rd, 2022
Cate: 4343, JBL, ジャーナリズム

40年目の4343(オーディオの殿堂・その3)

今回、三浦孝仁氏に4343について書いてもらおう、と決めたのは、
誰なのだろうか。

編集会議で、この機種はこの人に、というふうに決めていったのだろうか。
それとも編集長が一人で決めたことなのだろうか。

どちらにしても4343については、最悪の選択と言い切ってしまう。
それに4343は1ページの掲載だった。

なんだろう、4343の扱いの雑さは。

「オーディオの殿堂」巻頭の座談会の見出しには、
読者が選んだこと、読者の思い、そんなことが書いてあった。

1970年代後半、そのころのステレオサウンドの読者の想いは無視なのか。
そういえば、223号には「読者の思い」とあった。「読者の想い」ではなかった。

そういうところのズレから生れてきたことなのだろうか。

「オーディオの殿堂」での4343の三浦孝仁氏は最悪の選択なのだが、
すべての機種について、そうなのではない。

4343以外に関してはパラッと眺めただけなのだが、
EMTの927Dstとトーレンスのリファレンス、
この二機種を黛 健司氏に担当させているのは、いい選択である。

どちらか片方だけではなく、二機種とも黛 健司氏であるから、いい。
こういう選択もできるのに、4343に関しては違う。
だから、雑な扱いをしている、といいたくなる。

4343とは関係ないのだが、
特集をパラッと眺めただけなので、私が見落しているのかもしれないが、
和田博巳氏が登場されていなかった。

あれっ? と思い、Kindle UnlimitedでHiViのベストバイの号を見てみた。
そこにも和田博巳は登場されていない。

体調を崩されているのだろうか。

Date: 6月 3rd, 2022
Cate: 4343, JBL, ジャーナリズム

40年目の4343(オーディオの殿堂・その2)

昨晩、友人が教えてくれた。
ステレオサウンド 223号の特集「オーディオの殿堂」で、
4343を担当しているのは三浦孝仁氏だ、と。

105機種が、オーディオの殿堂入りを果たしている、とのこと。
それぞれのモデルについて、誰かが担当しているわけなのだが、
まさか4343のことを三浦孝仁氏に書かせるとは、
ステレオサウンド編集部は「名作4343を現代に甦らせる」をどう捉えているのだろうか、
と詰問したくなる。

あの記事で無様に変容してしまった4343を、
ステレオサウンド編集部は、4343だと認めているのか。
そうだとしたら、呆れるとはるかにとおりこして、すごい、としかいいようがない。

でも認めているのだろう。
だからこそ三浦孝仁氏に4343を担当させたのだろう。

他に適任がいないというのならば、わからなくもないが、
黛 健司氏がいるにもかかわらず三浦孝仁氏である。

それでも、4343についてどういうことを書いているのか、
肝心なのはその内容である。
それが素晴らしければ、それでいい、とも思っているのだが、
残念なことに、当り障りない内容でしかなかった。

今日、三浦孝仁氏の4343のところだけ立読みしてきた。
素晴らしければ、ひさしぶりにステレオサウンドを買おう、ぐらいには思っていたのだが、
失望ではなく、やっぱりな……、というのが、私の本音だ。

失望はこちらが期待するから起ることなのだが、
期待もしていなければ失望はないわけで、やっぱりな……、ということになる。