Archive for 6月, 2021

Date: 6月 18th, 2021
Cate: 戻っていく感覚

SAE Mark 2500がやって来る(その5)

1975年、登場時のMark 2500の価格は650,000円で、
その後690,000円になった時期もある。

Mark 2600は登場時、755,000円だった。その後円高のおかげで690,000円になっている。

それが四十数年後、十分の一以下で手に入れられた。
今回は運も良かったのだろうが、
それでも、いまではどちらかといえば安価な価格で手に入れられることが多い。

だからお買い得かといえば、かならずしもそうとはいえない。
なにせ四十年以上経っているアンプなのだから、
故障していなくとも手入れは必要となる。

それには自分でやるか、信頼できる業者に依頼するか。
私は自分でやる予定だ。

古いアンプの場合、ヤフオク!だけでなく、
オーディオ店でも、オーバーホール済み、メインテナンス済みとあったりする。

中には、完全メインテナンス済み、と謳っているところもある。
それをそのまま信じるのか、疑ってかかるのか。

私は、ほとんど信じていない。
音が出るようにはなっている──、そのくらいの感覚で受け止めている。

これに関してもだが、こういうことを書くと、
あそこの店の技術は信頼できる、といってくる人がいる。

どこなのかは書かないが、そういう店の一つで、ずっと以前、
ダイナコのSCA35を買ったことがある。
メインテナンス済み、完動品とあったが、ひどかった。

フォノイコライザーの真空管が左右チャンネルで違うモノがついていた。
信じられないようなミスをやっているにもかかわらず、完動品といっている。

そんな店の評判が、オーディオマニアのあいだでは高かったりすることがある。
でもよく話を聞いてみると、あそこの店の技術は高い、といっている人は、
そこで買ったことがなかったりする人だ。

買ったことのある人でも修理に出したことはない、という人だ。

なんとなくのイメージで、そう言っているだけである。
だから当てにしない方がいい。

今回、そんなひどい店の名前を出さなかったのは、
かなり時間が経っているからだ。

あのころのままかもしれないが、よくなっているかもしれない。

Date: 6月 17th, 2021
Cate: 戻っていく感覚
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SAE Mark 2500がやって来る(その4)

私が欲しかったのは、Mark 2500である。
三洋電機貿易扱いのMark 2600は、まったく興味がない。

こんなことを書くと、輸入元が変っただけだし、
RFエンタープライゼスもとっくになくなった会社なのだから、
輸入元の違いに、そこまでこだわることもないだろう、と考えている人はいる。

知人が、Mark 2600を昔買った、といっていた。
いい音ではなかった、ともいっていた。

だから、その知人に訊いた。
RFエンタープライゼス扱いではないてしょう、と。

三洋電機貿易扱いのMark 2600だ、という。
でも、知人は、どちらもMark 2600であることに違いはない。
三洋電機貿易扱いのMark 2600は、音がよくないから、
RFエンタープライゼス扱いのMark 2600もそうに違いない。

さらに、その知人は、瀬川先生の評価はあてにならなかった、とでもいいたげだった。

ステレオサウンド 51号に、「さようならSAE」というRFエンタープライゼスの広告が載った。
広告の本文にこうあった。
     *
当社では、これまで米国SAE社製品の輸入業務を行うとともに、日本市場での高度な要求に合致するよう、各部の改良につとめてまいりました。例えば代表的なMARK 2600においては、電源トランスの分解再組立てによるノイズ防止/抵抗負荷による電源ON-OFF時のショック追放/放熱ファンの改造および電圧調整によるノイズ低減/電源キャパシターの容量不足に対し、大型キャパシターを別途輸入して全数交換するなど、1台につき数時間を要する作業を行うほか、ワイヤーのアースポイントの変更による、方形波でのリンギング防止やクロストークの改善など、設計変更の指示も多数行ってまいりました。
     *
これだけのことをRFエンタープライゼスはやってきていた。
三洋電機貿易が、これだけのことをやるとは私には思えなかった。
やっていなかったはずだ。

これだけのことが施されたMark 2600と、そうでないMark 2600。
音に違いがない、とはとうてい思えない。

このことを説明した。
それでも、どちらもMark 2600だろ、と一緒くたに捉える人がいるのを知っている。

そんな知人のことはどうでもいいことであって、
冒頭のくり返しになるが、私が欲しいのはMark 2500である。

これはつまり、四十年以上前に製造されたアンプを買う、ということだ。

Date: 6月 17th, 2021
Cate: 戻っていく感覚

SAE Mark 2500がやって来る(その3)

Mark 2500は1975年に登場している。
1977年には製造中止になり、後継機Mark 2600がかわりに登場した。

Mark 2500は300W+300Wの出力をもつ。
Mark 2600は400W+400Wと、三割ほど出力アップしている。

外形寸法/重量はどちらも同じ。
外観も同じ。カタログスペックをみるかぎり、出力のみが変更になっているくらいだ。

Mark 2500とMark 2600に大きな違いはない、といえる。
瀬川先生はMark 2600も高く評価されていたけれど、
熊本のオーディオ店に来られた時に、ポロッと「2500の独得の艶っぽさのある中高域が、
2600になって少しカリカリするようなところが出てきた」、
そんな趣旨のことをもらされた。

Mark 2600のころ、SAEの輸入元は、
RFエンタープライゼスから三洋電機貿易に変った。

Mark 2600に関しては、RFエンタープライゼス扱いと三洋電機貿易扱いとがある。
さらに三洋電機貿易扱いでも、初期のころはEIコアの電源トランスが、
トロイダルコアに変更になっている。

Mark 2500(RFエンタープライゼス扱い)
Mark 2600(Rfエンタープライゼス扱い)
Mark 2600(三洋電機貿易扱い)
Mark 2600(三洋電機貿易扱い、トロイダルコア)

これら以外にも並行輸入品として入ってきている。

これらが中古市場に流れているのだが、
Mark 2500はなかなか出てこない。

当時650,000円のアンプとしては、二年ほどで製造中止になったことが影響しているのだろう。

ヤフオク!には、Mark 2600は割と出てくる。
三洋電機貿易扱いのMark 2600が多い。
RFエンタープライゼス扱いのMark 2600は少ない。
Mark 2500は、さらに少ない。

頻繁にヤフオク!をチェックする方ではないから、
見落しているだけかもしれないが、Mark 2500はめったに出てこない。

そのMark 2500が、もうしばらくしたら私のところにやって来る。

Date: 6月 17th, 2021
Cate: 戻っていく感覚

SAE Mark 2500がやって来る(その2)

SAEのMark 2500を知ったのは、
私にとって初めてのステレオサウンドとなる41号と
別冊「コンポーネントステレオの世界 ’77」である。

41号では特集「世界の一流品」で瀬川先生が紹介されていた。
「コンポーネントステレオの世界 ’77」では、
JBLの4343を鳴らすアンプとして、マークレビンソンのLNP2とのペアで、
バロック音楽を鳴らすための組合せをつくられていた。

同じ「コンポーネントステレオの世界 ’77」では、
室内楽を聴く読者のために、
タンノイのArdenにスチューダーのA68という組合せもつくられていた。
コントロールアンプは、こちらもLNP2だった。

オーディオに関心をもったばかりのころに読んでいるだけに、
クラシックを聴くための組合せであっても、
同じ人がつくる組合せであっても、
室内楽が中心となると、スピーカーがかわり、パワーアンプの選択もこうかわるのか。
求心的な響きをもとめるということとは、そういうことなのか──、
と中学二年の私は、そんなことを思っていた。

このことがあるから、タンノイにSAEのMark 2500を組み合わせたいとは、
ほとんど思ったことがない。

Mark 2500は、そのころ、私にとってスレッショルドの800Aととともに、
憧れのパワーアンプだった。
まだマークレビンソンのML2は登場していない。

それでもアメリカ製のパワーアンプで、タンノイとなると、
SAEよりも800Aで鳴らしてみたい、とそのころの私は憧れていた。

つまり、そのころの私にとってMark 2500は、4343を鳴らすための存在であった。

Date: 6月 17th, 2021
Cate: 戻っていく感覚

SAE Mark 2500がやって来る(その1)

一年前の6月、
タンノイのコーネッタをヤフオク!で手に入れた。

すでに別項で書いているから詳しいことは省くが、
予想していたよりもずっと安く価格で落札できた。
というよりも落札できるとは、ほとんど思っていなかった。

上限価格を決めて、最初からそれで入札。
誰かが高値更新しても応札はしない、と決めていた。

コーネッタの、なんとなくの相場は知っていたから、
その価格で落札できる可能性は低い。
まず落札できないけれど、もしできたらいいなぁ、ぐらいの感覚だった。

コーネッタを自分のモノとする以前から、
コーネッタを鳴らすなら、パワーアンプはスチューダーのA68か、
マイケルソン&オースチンのTVA1が候補だ、と、これも別項で書いている。

A68は少し前にヤフオク!に出ていたけれど、価格的に無理だった。
TVA1はあまり出てこないが、こちらはA68よりも相場は高い傾向にある。

TVA1はイギリスの、A68はスイスのパワーアンプである。
クラシックを主に聴き、スピーカーがタンノイなら、
アメリカのパワーアンプは候補として、あまり挙がってこない。

なのに今回SAEのMark 2500を落札した。
コーネッタと同じように、最初から上限を決めての入札で、
その六割くらいの価格で落札ができた。

なんとなく予感はあった。
コーネッタが一年前だから、
もしかすると、Mark 2500も同じように落札できるかも──、
そういう期待は、ちょっとだけはあった。

Date: 6月 16th, 2021
Cate:

いい音、よい音(その7)

ステレオサウンド 49号に、
「体験的に話そう──録音と再生のあいだ」という対談の最終回が載っている。

菅野先生と保柳 健氏の対談である。
47号、48号、49号の三回にわたっての、この対談は復刻されないのだろうか。

ステレオサウンドは、バックナンバーから記事をまとめたムックを、
わりと積極的に出している。

けれど、録音と再生に関する、この手のムックは出していない。
あまり売れないから──、というのがその理由なのかもしれないが……。

このことについて書いていくと、また脱線してしまうので、このへんにしておく。
49号で、菅野先生が、こう語られている。
     *
菅野 一つ難しい問題として考えているのはですね、機械の性能が数十年の間に、たいへん変ってきた。数十年前の機械では、物理的な意味で、いい音を出し得なかったわけです。ですがね、美的な意味では、充分いい音を出してきたわけです。要するに、自動ピアノでですよ、現実によく調整されたピアノを今の技術で録音して、プレイバックして、すばらしいということに対して、非常に大きな抵抗を感ずるということてす。
 ある時、アメリカの金持ちの家に行って、ゴドウスキイや、バハマン、それにコルトーの演奏を自動ピアノで、ベーゼンドルファー・インペリアルで、目の前で、間違いなくすばらしい名器が奏でるのを聴かしてもらいました。
 彼が、「どうですか」と、得意そうにいうので、私は、ゴドウスキイやバハマン、コルトーのSPレコードの方が、はるかによろしい、私には楽しめるといったわけです。
 すると、お前はオーディオ屋だろう、あんな物理特性の悪いレコードをいいというのはおかしい、というんですね。そこで、あなた、それは間違いだと、果てしない議論が始まったわけです。つまり、いい音という意味は、非常に単純に捉えられがちであって……。
     *
49号は1978年12月にでている。
もう四十年以上前なのだが、このことは、いまもそのままあてはまる、と感じている。

アメリカの金持ちは、オーディオマニアなのかどうかははっきりしないが、
そうではないような感じで、読んでいた。

けれど、少なからぬ数のオーディオマニアと接してきて感じているのは、
オーディオマニアのなかにも、このアメリカの金持ちと同じ感覚の人が、
けっこういる、ということである。

Date: 6月 16th, 2021
Cate: 新製品

JBL SA750(その6)

facebookでroonをフォローしている。
昨日、roonのfacebookページで、アーカムのSA30がroon readyになった、という投稿があった。

SA30がいつ発売になったのかは知らないが、roon readyになったということは、
JBLのSA750もroon readyになるのかと思ったら、
続けてSA750もそうなった、という投稿があった。

既発売のSA30とまだ発売になっていないSA750の両方が、
同時にroon redayになったということは、
SA750のベースモデルは、やはりSA30ということを間接的に語っている。

SA30をベースにしていても、大事なのは、その音である。

Date: 6月 15th, 2021
Cate: ショウ雑感

2021年ショウ雑感(その18)

11月に、インターナショナルオーディオショウは開催される。
詳細はまだ発表になっていないが、オンライン配信を行うのだろうか。

入場者の制限は、たぶんあるはずだ。
行きたいけれど、今年はまだ行けない、という方も少なくないと思う。

会場全体の入場制限だけでなく、
各ブースの入場制限も重要になってくる。

そうなると会場にいても、聴きたかったブースに入れなかった、という人が出てくるかもしれない。

こういう状況下での開催は誰も経験していないのだから、
どんなことがおこるのか、事前に完全に把握することはできない。

混乱を少しでも防ぐ意味でも、オンライン配信をやったほうがいいのではないだろうか。
クリアーしなければならない問題がいくつかあるだろうが、
完全なかたちではなくても、試みとしてのオンライン配信をやってほしい。

そう思っている人は、けっこういるかもしれない。

Date: 6月 14th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Cantate de l’enfant et de la mere Op.185(その2)

聴きたい、とおもうときには、聴けないことが多かったりするものだ。
そういうものだ、となかばあきらめていた。

それでもAmazon Music HDを使い始めたのだから、
こっちでも、検索してみよう、と思った。
すんなり見つかった。

五味先生が聴かれていたのと同じである。
私がずっと以前に手離したのと同じ、
ミヨー夫人による朗読の「子と母のカンタータ」である。

素晴らしい時代を迎えつつある、という感触がある。
ほぼ三十年ぶりに聴いた。

あのころは、ミヨー夫人の朗読が心に沁みてくるという感じではなかったけれど、いまは違う。

五味先生の個人的事情と私の個人的事情とではずいぶん違うけれど、
三十年のあいだに、いろんな個人的事情はあった。

そんなことがあったから、「子と母のカンタータ」が聴きたくなったのだろうし、
いま、こうやって聴くことができて、よかった。

あいかわらずミヨー夫人が、なにを言っているのか、まんたくわからない。
けれど、あのころと違って、インターネットがある。

インターネットがあるからこそ、こうやって「子と母のカンタータ」が聴けているわけで、
「子と母のカンタータ」の詩を検索すれば、きっとすぐに見つかるだろう。
翻訳も見つかるもしれない。

見つからなかったとしても、いまはDeepLという翻訳サイトがある。
そこを使えば、日本語に訳してくれる。

そこにかかる労力はわずかなものであり、
やろうとおもえばすぐにできることだ。

でも、知らないままでいいのかもしれない、といまはおもっている。

《音楽のもたらすこの種の空想》、
そのためにあえてやらないことだってある。

Date: 6月 14th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Cantate de l’enfant et de la mere Op.185(その1)

TIDALを使うようになって、わりとすぐに検索した曲がある。
けれど、検索の仕方をいくつか試してみたけれど、TIDALにはなかった。

ナクソスのサイトで聴けるのは知っている。
ただしmp3音源だ。

昔、LPを持っていた。
廉価盤だった、と思う。
水色の背景のジャケットだった。
もちろんフランス盤だ。

この曲を知ったのも、聴きたいとおもったのも、
五味先生の文章を読んだから、である。
     *
 〝子と母のカンタータ〟は、フランス語の朗読に、弦楽四重奏とピアノが付いている。朗読は、私の記憶に間違いなければミヨー夫人の声で、こちらは早稲田の仏文にいたがまるきりフランス語はわからない。だからどんな文章を読んでいるのか知りようはないのだが、意味は聴き取れずとも発声を耳にしているだけで、何か、すばらしい詩の朗読を聴くおもいがする。フランス語はそういう意味で、もっとも詩的な国語ではないかとおもう。カタログをしらべると、ピアノはミヨー自身、弦楽四重奏はジュリアードが受持っているが、なまじフランス語がわからぬだけに勝手に私自身の作詩を、その奏べに托して私は耳を澄ました。空腹に耐えられなくなるとS氏邸を訪ねては、〝幻想曲〟とともに聴かせてもらった曲であった。
 私たち夫婦には、まだ子はなかった。妻は私が東京でルンペン暮しをしているのを何も知らず、適当な職に就いて私が東京へ呼び寄せるのを、大阪の実家で待っていた。放浪に、悔いはないが、何も知らず待ちつづける妻をおもうと矢張り心が痛み、もしわれわれ夫婦に子供があって、今頃、こんなふうに妻は父のいない我が子に詩を読んできかせていたら、どんなものだろうか。多分、無名詩人の私の作った詩を、妻はわが子よりは自分自身を励ますように朗読しているだろう……そんな光景が浮んできて、いつの間にか私自身のことをはなれ、売れぬ詩を書いている貧しい夫婦の日常が目の前に見えてきた。どんな文学書を読むより、音楽のもたらすこの種の空想は痛切であり、まざまざと現実感をともなって私を感動させる。
 いつもそうである。
 貧乏物語をしたいからではなく、音楽が、すぐれた演奏がぼくらに働きかけ啓発するものの如何に多いかを言いたくて、私は書いているのだが、ついでに言えば私が今日あるを得たのは音楽を聴く恩恵に浴したからだった。地下道や、他家の軒端にふるえながらうずくまって夜を明かした流浪のころ、おそらく、いい音楽を聴くことを知らねば私のような男は、とっくに身を滅ぼしていたろう。
 そういう意味からも、とりわけ〝子と母のカンタータ〟は私を立直らせてくれたことで、忘れようのない曲である。遂に未だにミヨー夫人の朗読したその詩の意味はわからない。私にはただ妻が私たち夫婦のために読んでいる詩と聴えていた。どうにか世に出るようになってこのレコードを是非とり寄せたいとアメリカに注文したら、すでに廃盤になっていた。S氏のコレクションの中にまだ残されているかも知れないとおもうが、こればかりは面映ゆくて譲って頂きたいとは言えずにいる。ステレオ盤では、たとえ出ていても、ミヨー夫人の朗読でのそれは望めまい。それなら別に聴きたいと私は思わない。ぼくらがレコードを、限られた名盤を愛聴するのは、つねにこうした個人的事情によるだろう。そもそも個人的関わりなしにどんな音楽の聴き方があるだろう。名曲があり得よう。
(オーディオ巡礼「シューベルト《幻想曲》作品一五九」より)
     *
五味先生が注文されたときには廃盤になっていたようだが、
私が20代前半のころは、手に入れられた。
五味先生以上に、私はフランス語はまったくわからない。

ミヨー夫人の朗読の意味は、なにひとつわかっていなかった。
当時、調べようとしたけれど、手がかりもなくあきらめてしまった。

「子と母のカンタータ」のLPは、無職時代に、
背に腹は替えられぬ、という理由で、ほかの多くのディスクとともに売り払った。

その時は、特に惜しい、とは感じていなかった。
ここ十年くらいである。
もう一度聴きたい、とわりと頻繁に思うようになってきたのは。

Date: 6月 13th, 2021
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

試聴ディスクの変遷とオーディオ雑誌 (その2)

オーディオ雑誌の誌面に登場した試聴ディスクを網羅した記事は、
私の知るかぎりないけれど、ステレオサウンド 50号では、
それに近い感じの記事をやっている。

50号は、創刊50号記念特集が組まれている。

50号の記事の掲載順は、
まず五味先生の「続・五味オーディオ巡礼」がある。
これは、もう不動の位置であり、
創刊50号記念特集がどういう内容であれ、順番が変ることはない。

このあとから50号記念特集が続く。
巻頭特別座談会「オーディオの世界をふりかえる」が、まずある。
井上卓也、岡俊雄、菅野沖彦、瀬川冬樹、山中敬三、五氏の座談会があって、
岡先生と黒田先生の『「ステレオサウンド」誌に登場したクラシック名盤を語る』だ。

そして、岡先生の「オーディオ一世紀──昨日・今日・明日」、
「栄光のコンポーネントに贈るステート・オブ・ジ・アート賞」、
長島先生の「2016年オーディオの旅」と続く。

41号から読み始めた私にとって、
当時は、記事の、この順番を特に不思議とは思わなかったが、
少なくとも平成以降のステレオサウンドしか読んでいない人にとっては、
『「ステレオサウンド」誌に登場したクラシック名盤を語る』が、
前の方にあることを意外に思うのかもしれない。

この記事(対談)は、当時読んだときよりも、
数年後、さらには十年後、二十年後に読み返した方が楽しめた。

50号(1979年)当時は、それほど多くのクラシックのレコードを聴いていたわけではない。
というよりも、聴いたクラシックのレコード数は少なかった。
ある程度の知識はもっていたけれど、それでも微々たるものだったし、
岡先生、黒田先生の対談を読むのは、まず勉強という意識でもあった。

Date: 6月 12th, 2021
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

試聴ディスクの変遷とオーディオ雑誌 (その1)

Amazon Music HDが追加料金なしでも利用できるようになったので、
プライム会員ということもあって、今日から利用するようにした。

TIDALで満足しているどころか、
まだまだ聴くのが追いつかないほどなのに、
Amazon Music HDでも音楽を聴こう、と思うようになったのは、
TIDALが弱い日本語の歌を集中して聴きたくなったことも関係している。

あれこれ検索していたら、沢たまきが表示された。
「ベッドで煙草を吸わないで」とともに、である。

上杉先生が、ずっと以前試聴レコードとして使われていた。
といっても、私がステレオサウンドで働いたころは、もう使われていなかった。

1966年発表の曲だから、
私がいたころ(1980年代)には試聴ディスクとして使われてなくても不思議ではなかった。

それでも、上杉先生といえば、私にとってはこの「ベッドで煙草を吸わないで」が、
まっさきに浮んでくる。

この曲がヒットしたころは、私は幼かったから、その時代のことを知っているわけではない。
テレビ番組で懐かしのメロディで聴いたぐらいの記憶しかない。

「ベッドで煙草を吸わないで」を最後まで通して聴いたのは、
今日が初めてだった。

聴いていても、上杉先生のことを思い出していた。

いまオーディオ雑誌で試聴ディスクとして登場する日本語の歌は、
「ベッドで煙草を吸わないで」のころとはずいぶん違ってきている。

50年以上経っているのだから、変ってきていて当然なのだが、
そういえば、オーディオ雑誌で使われてきた試聴ディスクをまとめた記事がないことに気づく。

ステレオサウンドも創刊50年をこえて、今年の秋で55年になる。
誌面に登場した試聴ディスクの数は、どれだけになるのか。

オーディオ雑誌はステレオサウンドだけではない。
すでに休刊(廃刊)になったオーディオ雑誌も少なくない。

それらを含めて、誌面に登場した試聴ディスク(曲)がどれだけになり、
そのうちのどれだけでTIDALやAmazon Music HDで聴けるのだろうか。

Date: 6月 11th, 2021
Cate: Pablo Casals, ディスク/ブック

カザルスのモーツァルト(その7)

いろんな指揮者のモーツァルトの演奏を聴いていると、
ふと、こんな演奏じゃなくて……、と思ってしまうときがある。

そういう時に聴きたくなるモーツァルトは、きまってカザルス指揮のモーツァルトである。
そして、もうひとりフリッツ・ライナーのモーツァルトである。

ライナー/シカゴ交響楽団によるモーツァルトを聴いていると、
これこそがモーツァルトだ、と心でつぶやいている。

カザルスのモーツァルトもそうなのだが、こういうモーツァルトは聴けそうで聴けない。

ライナー/シカゴ交響楽団のモーツァルトの交響曲を聴く、ずっと前に、
ライナー/メトロポリタン歌劇場による「フィガロの結婚」を聴いていた。

録音は、私が手に入れたCDはかなり悪かった。
それでも演奏は素晴らしかった。

五味先生はカラヤンの旧録音(EMIでのモノーラル)を高く評価されていた。
五味先生はライナーの「フィガロの結婚」は聴かれていないのか。

「フィガロの結婚」の記憶があるから、
ライナー/シカゴ交響楽団のモーツァルトには期待していた。

期待は裏切られるどころか、こちらの勝手な期待を大きくこえたところで、
モーツァルトのト短調が鳴り響いていた。

五味先生の表現を借りれば、
《涙の追いつかぬモーツァルトの悲しい素顔》が浮き上ってくる演奏とは、
ライナーやカザルスの演奏のような気がしてならない。

Date: 6月 11th, 2021
Cate: 名器

名器、その解釈(その8)

指揮者にかぎらなくてもいい、ピアニストでもヴァイオリニストでもいい。
大ピアニストと名ピアニスト、大ヴァイオリニストと名ヴァイオリニスト。

どちらが優れた演奏家ということは、あまり関係ないように感じている。
それでもなお名指揮者、名ピアニストとはいえても、
大指揮者、大ピアニストと呼ぶことが、ちょっとためらわれる指揮者、ピアニストがいる。

その違いが、わかっているようでいて、よくわかっていない。
ただただ感覚的に大と名を使い分けているような気もしている。

大指揮者と呼ばれる人の演奏が常に名演とは限らない。
それは名指揮者と呼ばれている人の演奏にも同じことがいえる。

名演のときもあれば、さほどでもないときもある。
それでも名演とはいっても、大指揮者による名演を、大演とは呼ばない。
大名演とはいう。

このことから考えれば、大指揮者は大名指揮者なのか。
そんなことも思いつくわけだが、大指揮者は、やはり大指揮者である。

ここに深く関係しているのが、「スケール」なのだろう。
となると、大指揮者は必ずしも名指揮者とは限らないのか。

そんなこともまた考えてしまう。

オーディオはどうだろうか。
名器もあれば、大器と呼ばれるモノもある。

それに大器の場合、未完の大器という使われ方もある。

Date: 6月 10th, 2021
Cate: ロマン

好きという感情の表現(その8)

この項を書き進めていると、瀬川先生の、この文章が浮んでくる。
     *
 どういう訳か、近ごろオーディオを少しばかり難しく考えたり言ったりしすぎはしないか。これはむろん私自身への反省を含めた言い方だが、ほんらい、オーディオは難しいものでもしかつめらしいものでもなく、もっと楽しいものの筈である。旨いものを食べれば、それはただ旨くて嬉しくて何とも幸せな気分に浸ることができるのと同じに、いい音楽を聴くことは理屈ぬきで楽しく、ましてそれが良い音で鳴ってくれればなおさら楽しい。
(虚構世界の狩人・「素朴で本ものの良い音質を」より)
     *
オーディオは科学技術の産物ゆえに、技術的なことを語ろうとすれは、
際限なく語れるところがある。
しかも難しく語ろうと思えば、そうすることも際限なくできるし、
しかつめらしい顔をして深刻ぶることもたやすい。

菅野先生がいわれていたネアカ重厚の反対で、
ネクラ軽薄な人ほど、深刻ぶるのが得意なようだし、好きなようだ。

オーディオを介して音楽を聴くということは、
瀬川先生がずっと以前に書かれているように、《もっと楽しい》ものだ。

深刻ぶってしまったら、幸せな気分に浸ることは、もうできなくなる。