Date: 6月 14th, 2021
Cate: ディスク/ブック
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Cantate de l’enfant et de la mere Op.185(その1)

TIDALを使うようになって、わりとすぐに検索した曲がある。
けれど、検索の仕方をいくつか試してみたけれど、TIDALにはなかった。

ナクソスのサイトで聴けるのは知っている。
ただしmp3音源だ。

昔、LPを持っていた。
廉価盤だった、と思う。
水色の背景のジャケットだった。
もちろんフランス盤だ。

この曲を知ったのも、聴きたいとおもったのも、
五味先生の文章を読んだから、である。
     *
 〝子と母のカンタータ〟は、フランス語の朗読に、弦楽四重奏とピアノが付いている。朗読は、私の記憶に間違いなければミヨー夫人の声で、こちらは早稲田の仏文にいたがまるきりフランス語はわからない。だからどんな文章を読んでいるのか知りようはないのだが、意味は聴き取れずとも発声を耳にしているだけで、何か、すばらしい詩の朗読を聴くおもいがする。フランス語はそういう意味で、もっとも詩的な国語ではないかとおもう。カタログをしらべると、ピアノはミヨー自身、弦楽四重奏はジュリアードが受持っているが、なまじフランス語がわからぬだけに勝手に私自身の作詩を、その奏べに托して私は耳を澄ました。空腹に耐えられなくなるとS氏邸を訪ねては、〝幻想曲〟とともに聴かせてもらった曲であった。
 私たち夫婦には、まだ子はなかった。妻は私が東京でルンペン暮しをしているのを何も知らず、適当な職に就いて私が東京へ呼び寄せるのを、大阪の実家で待っていた。放浪に、悔いはないが、何も知らず待ちつづける妻をおもうと矢張り心が痛み、もしわれわれ夫婦に子供があって、今頃、こんなふうに妻は父のいない我が子に詩を読んできかせていたら、どんなものだろうか。多分、無名詩人の私の作った詩を、妻はわが子よりは自分自身を励ますように朗読しているだろう……そんな光景が浮んできて、いつの間にか私自身のことをはなれ、売れぬ詩を書いている貧しい夫婦の日常が目の前に見えてきた。どんな文学書を読むより、音楽のもたらすこの種の空想は痛切であり、まざまざと現実感をともなって私を感動させる。
 いつもそうである。
 貧乏物語をしたいからではなく、音楽が、すぐれた演奏がぼくらに働きかけ啓発するものの如何に多いかを言いたくて、私は書いているのだが、ついでに言えば私が今日あるを得たのは音楽を聴く恩恵に浴したからだった。地下道や、他家の軒端にふるえながらうずくまって夜を明かした流浪のころ、おそらく、いい音楽を聴くことを知らねば私のような男は、とっくに身を滅ぼしていたろう。
 そういう意味からも、とりわけ〝子と母のカンタータ〟は私を立直らせてくれたことで、忘れようのない曲である。遂に未だにミヨー夫人の朗読したその詩の意味はわからない。私にはただ妻が私たち夫婦のために読んでいる詩と聴えていた。どうにか世に出るようになってこのレコードを是非とり寄せたいとアメリカに注文したら、すでに廃盤になっていた。S氏のコレクションの中にまだ残されているかも知れないとおもうが、こればかりは面映ゆくて譲って頂きたいとは言えずにいる。ステレオ盤では、たとえ出ていても、ミヨー夫人の朗読でのそれは望めまい。それなら別に聴きたいと私は思わない。ぼくらがレコードを、限られた名盤を愛聴するのは、つねにこうした個人的事情によるだろう。そもそも個人的関わりなしにどんな音楽の聴き方があるだろう。名曲があり得よう。
(オーディオ巡礼「シューベルト《幻想曲》作品一五九」より)
     *
五味先生が注文されたときには廃盤になっていたようだが、
私が20代前半のころは、手に入れられた。
五味先生以上に、私はフランス語はまったくわからない。

ミヨー夫人の朗読の意味は、なにひとつわかっていなかった。
当時、調べようとしたけれど、手がかりもなくあきらめてしまった。

「子と母のカンタータ」のLPは、無職時代に、
背に腹は替えられぬ、という理由で、ほかの多くのディスクとともに売り払った。

その時は、特に惜しい、とは感じていなかった。
ここ十年くらいである。
もう一度聴きたい、とわりと頻繁に思うようになってきたのは。

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