Archive for 6月, 2020

Date: 6月 19th, 2020
Cate: audio wednesday

audio wednesday (first decade)

最初のころはaudio sharing例会といっていたaudio wednesdayの一回目は、
2011年2月2日だった。
2021年1月で十年やったことになる。

いつまでaudio wednesdayを続けるのか。
このまま続けてもいいように思う反面、
十年を区切りにしよう、とも考えている。

Date: 6月 19th, 2020
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その19)

吉田秀和氏の「ベートーヴェンの音って?」は、1980年に発表されている。
ゼルキンのエピソードは、大分前のこととあるから、最低でも十年、
もしかすると二十年くらい前のことなのだろうか。

吉田秀和氏は、ゼルキンのエピソードをきいた時から《ひどくひきつけられ》、
その後も「ベートーヴェンの音」のことを考えられていた。

ゼルキンがいおうとした「ベートーヴェンの音」は、
その時点で発売されていたゼルキンのベートーヴェンのレコードをきいても、
はっきりしなかった、とある。

その数年後、バックハウスのベートーヴェンのレコードを、
《ほんの数秒、音楽でいって一小節もすぎたかすぎないかのところで、私は思わず「これこそベートーヴェンの音だなあ」と声に出した》とある。

ゼルキンのエピソードをきいていて、
その後も「ベートーヴェンの音」について考えていたからこその、
これはひとつの啓示のようなものとなったのだろう。

ゼルキンのエピソードをきいていなければ、
「ベートーヴェンの音」について考えていなければ、
バックハウスのベートーヴェンのレコードをきいても、
「これこそベートーヴェンの音だなあ」と感じることも、声に出すことはなかったはずだ。

ただ漫然ときいているだけでは、
バックハウスのベートーヴェンをきいたところで、
「これこそベートーヴェンの音だなあ」と感じることはない。

そんなことを考えながら、「ベートーヴェンの音って?」を、ここまで読んでいた。

“See the world not as it is, but as it should be.”
「あるがままではなく、あるべき世界を見ろ」

アメリカの人気ドラマだった「glee」の最後に、このことばが登場する。
このことも思い出していた。

Date: 6月 18th, 2020
Cate: ディスク/ブック

Bach: 6 Sonaten und Partiten für Violine solo(その2)

ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタのレコードで最初に買ったのは、
シェリングとイングリット・ヘブラーによる演奏だった。

シェリング盤を選んだ理由として、これといった大きなものはなかった。
ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタを聴きたかった。

誰の演奏(ヴァイオリン奏者)にしようか、と迷っていたはずだ。
そしてシェリングにしたわけだが、何故シェリングにしたのかは、思い出せない。

そのころはヘンリク・シェリングではなく、ヘンリック・シェリングと表記されていた。
外国人の名前のカタカナ表記は、時代によって少し変化することがある。

ヘンリック・シェリングも、ヘンリク・シェリングのほうが、実際の発音に近いのだろう。
それでも、私がシェリングの演奏と出逢った時には、ヘンリック・シェリングだった。

なのでヘンリク・シェリングと書いていると、ちょっとの違和感がある。

シェリングとヘブラーによる演奏は、どこかに強烈なところがあるわけではなかった。
ほかの演奏のレコードも、まだ持っていなかった。
ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタは、この盤だけを聴いていた。

シェリング盤を選んだのも、
シェリングのコンサートを選んだのも、同じだったように、いまなら思う。

レコードとのであいには、強烈なであいもある。
私にとって、ケイト・ブッシュがそうであったし、他にもあるけれど、
シェリングはそういうのと無縁だった。

そうではなかったし、シェリングのレコード(録音)をその後、熱心に聴いてきたかといえば、
そうとはいえない。

シェリングのコンサートも、1988年に来日するということで、
行こうかな、とは思っていた。
シェリングは来日前に亡くなっている。

シェリングも、ずいぶん聴いていない。
これも特に、これといった理由はなかった。
なんとなく聴かなくなっていた。

なのに、シェリングのことを書き始めたのは、これもMQA絡みである。
e-onkyoで、クラシックのMQAを検索していたら、シェリングはかなり出ている。

ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタもある。
ヴァイオリン協奏曲もある。
モーツァルトもある。

シェリングの人気からすれば、かなりの数揃っている、といえるほどだ。

バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータもある。

Date: 6月 18th, 2020
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その18)

 そのうち、私は、レコード会社の人からきいた、一つのエピソードを思い出した。
 もう大分前のことになるが、現代の最高のピアニストの一人、ルドルフ・ゼルキンが日本にきた時、その人の会社でレコードを作ることになった。ゼルキンはベートーヴェンのソナタを選び、会社は、そのために日本で最も優秀なエンジニアとして知られているスタッフを用意した。日本の機械が飛び切り上等なことはいうまでもない。約束の日、ゼルキンはスタジオにきて、素晴らしい演奏をした。そのあと彼は、誰でもする通り、録音室に入ってきて、みんなといっしょにテープをきいた。ところが、それをきくなり、ゼルキンは「これはだめだ。このまま市場に出すのに同意するわけにいかない」と言い出した。理由をきくと「これはまるでベートーヴェンの音になっちゃいない」という返事なので、スタッフ一同、あっけにとられてしまった。今の今まで、そんな文句をいわれた覚えがないのである。
 ことわるまでもないかも知れないが、レコードというものは、音楽家が立てた音をそっくりそのまま再現するという装置ではない。どんなに超忠実度の精密なメカニズムであろうと、何かを再現するに当って、とにかく機械を通じて行う時は、そこにある種の変貌、加工が入ってこないわけにはいかないのである。そう、写真のカメラのことを考えて頂ければ良い。カメラは被写体をあるがままにとる機械のようであって、実はそうではない。カメラのもつ性能、レンズとかその他のもろもろの仕組みを通過して、像ができてくる時、その経過の中で、被写体は一つの素材でしかなくなる。あなたの鼻や目の大きさまで変ってみえることがあったり、まして顔色や表情や、そのほかのいろんなものが、カメラを通じることにより、あるいは見えなくなったり、より強度にあらわになったりする。そのように、音楽家が楽器から出した響きも、録音の過程で、音の高い部分、中央の部分、低い部分のそれぞれについて、あるいはより強調され、ふくらませられたり、あるいはしぼられ、背後にひっこめられたり等々の操作を通過してゆく間に、変貌してゆく。
 その時、「本来の音」を素材に、そこから、「どういう美しさをもつ音」を作ってゆくかは、技師の考えにより、その腕前にかかっている。レコードの装置技師は、いわゆる音のコックさんなのだ。もちろん、それでも、いや、それだから、すぐれた技師は、発音体から得られた本来の音のもつ「美質」を裏切ることなしに、その人その人のもつ音の魅力をよく伝達できるような「音」を作るといってもいいのだろう。
 だが、ゼルキンが「これはベートーヴェンの音じゃない」といった時、日本の最も優秀な技術者たちは、その意味を汲みかねた。「何をもってベートーヴェンの音というのか?」困ったことに、それをいくら訊きただしてみても、ゼルキン先生自身、それ以上言葉でもって具体的に説明することができず、ただ「これはちがう、ベートーヴェンじゃない」としかいえない。それで、せっかくの企画も実を結ばず、幻のレコードに終ってしまった──というのである。
     *
この後も、実に興味深い。
が、引用はここまでにしておく。

シャルランの「それはそうと、あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」、
ゼルキンの「これはまるでベートーヴェンの音になっちゃいない」、
同じことをいっているはずだ。

若林駿介氏録音の岩城宏之/NHK交響楽団のベートーヴェンの第五とシューベルトの未完成のレコード、
シャルランはおそらく「これはまるでベートーヴェンの音になっちゃいない」、
「これはまるでシューベルトの音になっちゃいない」といいたかったのではないか。

Date: 6月 18th, 2020
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その17)

その4)でも、
さらには他の項でも何度か引用していることをまた一度やる。

中野英男氏の著書「音楽 オーディオ 人々」に「日本人の作るレコード」という章がある。
     *
シャルランから筆が逸れたが、彼と最も強烈な出会いを経験した人として若林駿介さんを挙げないわけにはいかない。十数年前だったと思うが、若林さんが岩城宏之──N響のコンビで〝第五・未完成〟のレコードを作られたことがあった。戦後初めての試みで、日本のオーケストラの到達したひとつの水準を見事に録音した素晴しいレコードであった。若くて美しい奥様と渡欧の計画を練っておられた氏は、シャルラン訪問をそのスケジュールに加え、私の紹介状を携えてパリのシャンゼリゼ劇場のうしろにあるシャルランのスタジオを訪れたのである。両氏の話題は当然のことながら録音、特に若林さんのお持ちになったレコードに集中した。シャルランは、東の国から来た若いミキサーがひどく気に入ったらしく、半日がかりでこのレコードのミキシング技術の批評と指導を試みたという。当時シャルラン六十歳、若林さんはまだ三十四、五歳だったと思う。SP時代より数えて、制作レコードでディスク大賞に輝くもの一〇〇を超える西欧の老巨匠と東洋の新鋭エンジニアのパリでの語らいは、正に一幅の画を思わせる風景であったと想像される。
事件はその後に起こった。語らいを終えて礼を言う若林さんに、シャルランは「それはそうと、あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」と尋ねたのである。録音の技術上の問題は別として、シャルランはあのレコードの存在価値を全く認めていなかったのである。若林さんが受けた衝撃は大きかった。それを伝え聞いた私の衝撃もまた大きかった。
     *
今年は、ベートーヴェンの生誕250年である。
音楽関係の書籍も、ベートーヴェンに関係するものが出ている。

河出文庫から吉田秀和氏の「ベートーヴェン」が出ている。

そこにおさめられている「ベートーヴェンの音って?」に出てくるエピソードが、
まさにこのことに関係してくるからである。

長くなるので(その18)で引用することになるが、
読まれれば、同じことが起っている、と思われるはずだ。

Date: 6月 17th, 2020
Cate: ディスク/ブック

Bach: 6 Sonaten und Partiten für Violine solo(その1)

東京で暮すようになって、初めて行ったクラシックのコンサートは、
ヘンリク・シェリングだった。

いま思うと、なぜシェリングを選んだのか、もう定かではない。
クラシックのコンサート、それも海外の演奏家のコンサートには、
それまでの熊本での暮しでは行っていなかった。

39年前のことである。
あのころ、東京を感じさせてくれたのは、雑誌のぴあだった。
こんなにも東京では、あちこちで毎日いろんなことが催されているんだ──、
とにかく驚いていた。

ぴあも毎号買っていたわけではなかった。
学生で、しかもロクにアルバイトもしていなかった。
年中金欠だった。

ときどきぴあを買っては、東京を感じていた、ともいえる。
関心あるのはクラシックのコンサートと映画だった。

それ以外のページも眺めていた。
お金さえあれば、今日はここに行って、明日はあそこ……、楽しいだろうなぁ、
そんなことを妄想していた。

シェリングのコンサートを知ったのは、ぴあだったような気がする。
シェリングのコンサートがあるんだ、くらいで受け止めていたのではないだろうか。

ぴあも毎号買えなかったのだから、オーケストラのコンサートのチケットは高くて無理だった。
それでもシェリングはS席を、かなり無理して買ったものだった。

そうやって聴きに行ったにも関らず、演奏された曲をすっかり忘れてしまっている。
それでも、この日聴いたヴァイオリンの音は、
初めて聴くヴァイオリンのナマの音だった。

Date: 6月 17th, 2020
Cate: 単純(simple)

シンプルであるために(その2)

 どういう訳か、近ごろオーディオを少しばかり難しく考えたり言ったりしすぎはしないか。これはむろん私自身への反省を含めた言い方だが、ほんらい、オーディオは難しいものでもしかつめらしいものでもなく、もっと楽しいものの筈である。旨いものを食べれば、それはただ旨くて嬉しくて何とも幸せな気分に浸ることができるのと同じに、いい音楽を聴くことは理屈ぬきで楽しく、ましてそれが良い音で鳴ってくれればなおさら楽しい。
(虚構世界の狩人・「素朴で本ものの良い音質を」より)
     *
五年半前の(その1)も、同じ書き出しだ。

別項「218はWONDER DACをめざす(番外)」で書いていることが、
ここでの瀬川先生が書かれていることと重なってきたからだ。

《いい音楽を聴くことは理屈ぬきで楽しく、ましてそれが良い音で鳴ってくれればなおさら楽しい。》
まさにそうだった。
四人が、その場にいた。

みな同じだった(はずだ)。

この時のオーディオは、《難しいものでもしかつめらしいものでもなく》、
ただただ楽しいものだった。

Date: 6月 17th, 2020
Cate: ショウ雑感

2020年ショウ雑感(その24)

Pro-Jectのアナログプレーヤー、Xtention 10TAの発売が中止になった、
ステレオサウンド・オンラインの記事にあった。

《搭載アームの供給が困難になったため》と記事にはある。
それ以上のことは書かれていないか、
記事にあるXtention 10TAの写真をみれば、トーンアームがJELCO製なのはすぐにわかる。

その19)で書いているように、
JELCO 市川宝石株式会社は4月から休業しているが、どうも廃業するようだ、という話もある。

休業なのであれば、Xtention 10TAの発売延期となるだろうが、
実際は発売中止である。

記事には、《同型アームを搭載した「Xtention 9TA」については、アームの確保ができている》ため、
継続して販売される、とある。

ということは、確保分が終了すれば、Xtention 9TAの販売も終了となるか、
別のトーンアームを搭載して、型番に変更が加わるかもしれない。

ステレオサウンド・オンラインの記事の終りには、
「※4月13日の発表記事はこちら」とあり、
Xtention 10TAについての記事へのリンクがある。

その記事を読むと、《オルトフォン製9インチショートアームを搭載》とある。
Xtention 10TA発売中止の記事で、
JELCOのことについて一言も触れていないのは、そういう理由からなのか。

コロナ禍が、あらわにすることはまだ続くだろう。

Date: 6月 16th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(post-truth・その7)

誰が読んでいるのかわからない、いいかえると、
どれだけの知識や経験をもっているのかまったく不明な人たちに向けて書くのであれば、
きちんとしたオーディオの知識を身につけておくべきである。

こう書いてしまうと、たいしたことではないように受け止められるかもしれないが、
では、きちんとしたオーディオの知識とは、いったいどの程度のレベルのことなのか。
どれだけの知識をもっていればいいのか。
そのことについて書いていくのは、なかなか難しい。

「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」の人も、
オーディオの勉強を、まったくしていなかったわけではないだろう。
少なくとも慣性質量という言葉は知っているのだから。

でも、その知識があまりにも断片すぎるのではないのか。
そんな気がする。

断片すぎる、ということは、知識の量が圧倒的に少ない、ということなのか。
そうともいえるし、これは以前書いていることなのだが、
知識の量だけでは理解には到底近づけない。

知識の有機的な統合があってこその理解である。
これはどういうことかというと、
これも以前書いていることのくり返しなのだが、
分岐点(dividing)と統合点(combining)、それに濾過(filtering)だ。

Date: 6月 16th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(post-truth・その6)

「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」は、
あきらかに間違いだから即座に否定したわけだが、
もし私が悪意で「そうだよ」といったとしたら、
その人は、「やっぱり! そうですよね!」と大きな声で喜んだはずだ。

オーディオにおいて仮説を立てるのはよくあることだ。
仮説を立てて、検証していくことで学べることはある。

「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」も、
その人にとっての仮説であったのだろう。
ずいぶん稚拙な仮説ではあっても、その人にとっては大事な仮説だったのかもしれない。

でも、仮説を立てるにも、ある程度の知識は必要となる。
CDの回転がどういう性質のものなのか、大ざっぱにわかっているだけで、
そして慣性とはどういうことなのかを、これも大ざっぱにわかっているだけで、
「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」という仮説は、
仮説ですらないことに気づくものだ。

私が「そうだよ」といって、周りにいた人が誰も否定しなければ、
その人は、SNSやブログなどに、その仮説は正しかった、と書いたのかもしれない。

インターネット普及前は、こんなことは起らなかった。
間違った仮説を発表できる場は、なかったといえよう。
せいぜいが、その人の親しい人とか、その人にオーディオのことを訊いてくる人に、
話すくらいでしかなかった。

けれど、インターネット普及後は違う。

ここで考えることがある。
オーディオをやっていくうえで、技術的な知識は必要なのか。

私は基本的には必要ない、と考えている。
オーディオのプロフェッショナルになるのであれば技術的知識は必要だが、
そうでなければ、所有しているオーディオ機器を自分で接続して使えるだけの知識があればいい。

ずっとそう思ってきた。けれど状況はインターネットの普及によって変ってきた。
その人が間違っている仮説を、さも正しいことのようにインターネットで公開した、としよう。

ほとんどの人が、まったく相手にしない。
けれどほんのわずかでも、それを信じてしまう人がいる。

そんな人はいないだろう、と思われるかもしれないが、
この項の前半で例に挙げた人は、
CDは角速度一定、アナログディスクは線速度一定という間違いを書いているサイトを、
大半のサイトが正しいことを書いているにも関らず、信じてしまった。

ごく少数ではあっても、あきらかな間違いを信じてしまう人がいる。
しかもインターネットは不特定多数の人に向けての公開である。
母数は、周りにいる人だけの時代よりもずっと大きい。

Date: 6月 15th, 2020
Cate: 218, MERIDIAN

218(version 9)+α=WONDER DAC(その9)

LAN用のターミネーターを最初に作ったとき、
端子は手持ちのLANケーブルの両端を利用した。

このケーブルについていた端子は、透明の硬めのプラスチック製で、
よくみる端子でもある。

オーディオと関係のないところで使う分には、特に気にも留めないのだが、
オーディオで使うとなると、気になる点もある。

ツメのところである。
硬めのプラスチックのツメの共振は、どうなんだろう……、と考えてしまう。

それでも最初はターミネーターの効果を、とにかく知りたかったので、そのまま使った。
でも、どうしても気になる。

カーボン抵抗でターミネーターを作ったときには、実は端子も変えている。
白い樹脂製の端子を採用しているLANケーブルを買ってきて、その端子を使った。
バッファローのケーブルで、パッケージに「折れないツメ」とある。

指で弾いた音も、違う。
メリディアンの218に手を加える際にも、
LAN端子の薄っぺらい金属部にはアセテートテープを貼っている。
この部分の雑共振を少しでも減らしたいからである。

カーボン抵抗のターミネーターが、予想よりもよく感じたのは、
抵抗の違いだけでなく、端子の違いも作用してのことだろう。

同じ抵抗で端子のみを変更した比較試聴は行っていない。
ほんとうはきちんと行った上で端子を決めるべきなのはわかっていても、
DALEの無誘導巻線抵抗でのターミネーターの自作には、バッファローのケーブルの端子を使った。

ターミネーターとしての端子の比較試聴は行っていないが、
端子のみの比較は、ターミネーター自作のあとにやっている。

LANケーブルの端子部分を切り取って、218に挿しただけの比較試聴である。
少なからぬ違いがあった。

Date: 6月 15th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(post-truth・その5)

ある人がCDプレーヤーを、数ヵ月前に買い替えた。
その人は、重量級のCDプレーヤーを購入した、と喜んでいる。

その人が、それまで使っていたCDプレーヤーよりも重量があるから、
その人にとっては確かに重量級といえる(感じる)のだろうが、
重量という数値だけで判断するならば、傍からみれば、それほど重量級ではない。

かといって軽量級ではないのも確かだから、本人が喜んでいることに水を差すことはいわずにいた。
でも、その人がこんなことをいった。

「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」

CDプレーヤーでもターンテーブル(スタビライザー)をもつモノがある。
エソテリックの製品がそうだし、
47研究所の4704/04 “PiTracer”もそうだ。
古い製品では、パイオニアがPD-Tシリーズもそうだった。

これらの製品であれば、ターンテーブルプラッターの分だけ慣性質量は増す。
けれど、それ以外の大半のCDプレーヤーは、センターをクランプしているだけでディスクを回転させる。

CDプレーヤー本体の重量がどれだけあろうと、
ディスクの回転に関する慣性質量にはまったく関係ない。

それにCDプレーヤーにおいて、
つまり線速度一定の回転系において、慣性質量が増すことのデメリットはある。
もちろんターンテーブルプラッターをもつことで、
ディスクの回転のブレを抑えられるというメリットもある。

「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」の発言には、
その場にいた複数の人から、つっこみがあった。

その人は「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」であって、
「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですよね」ではなかった。

いちおう疑問形になっていたのだから、まだいいほうなのかもしれない。
でも、その人のなかでは、確信に近かったのではないか、とも感じた。

誰にも勘違いというのはある。
それでも、その人は、(その4)で書いている人と同じにみえる。
同じ人ではない。
(その4)の人と、ここで書いている人は、30以上齢が離れている。
世代はずいぶん離れている。

それでも、どの世代にもいる、ということなのか。
それともたまたまなのか。

Date: 6月 14th, 2020
Cate: 憶音

憶音という、ひとつの仮説(その8)

瀬川先生の「虚構世界の狩人」を読んだことも、
憶音について考えるきっかけに なっている。
     *
「もう二十年も昔の事を、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるか、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついてゐた時、突然、このト短調シンフォニィの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。」
「モオツアルト」の中でも最も有名な一節である。なに、小林秀雄でなくなって、俺の頭の中でも突然音楽が鳴る。問題は鳴った音楽のうけとめかただが、それを論じるのが目的ではない。
 だいたいレコードのコレクションというやつは、ひと月に二〜三枚のペースで、欲しいレコードを選びに選び抜いて、やっと百枚ほどたまったころが、実はいちばん楽しいものだ。なぜかといって、百枚という文量はほんとうに自分の判断で選んだ枚数であるかぎり、ふと頭の中で鳴るメロディはたいていコレクションの中に収められるし、百枚という分量はまた、一晩に二〜三枚の割りで聴けば、まんべんなく聴いたとして三〜四カ月でひとまわりする数量だから、くりかえして聴き込むうちにこのレコードのここのところにキズがあってパチンという、ぐらいまで憶えてしまう。こうなると、やがておもしろい現象がおきる。さて今夜はこれを聴こうかと、レコード棚から引き出してジャケットが半分ほどみえると、もう頭の中でその曲が一斉に鳴り出して、しかもその鳴りかたときたら、モーツァルトが頭の中に曲想が浮かぶとまるで一幅の絵のように曲のぜんたいが一目で見渡せる、と言っているのと同じように、一瞬のうちに、曲ぜんたいが、演奏者のくせやちょっとしたミスから——ああ、針音の出るところまで! そっくり頭の中で鳴ってしまう。するともう、ジャケットをそのまま元のところへ収めて、ああ、今夜はもういいやといった、何となく満ち足りた気持になってしまう。こういう体験を持たないレコード・ファンは不幸だなあ。
 しかし悲しいことに、やがて一千枚になんなんとするレコードが目の前に並ぶようになってしまうと、こういう幸せな状態は、もはや限られた少数のレコードにしか求めることができなくなってしまう。人は失ってからそのことの大切さに気がつく、とはよくぞ言ったものだ。
     *
レコードのジャケットを半分みえただけで、
そのレコードおさめられている音楽が、一瞬のうちに頭のなかで鳴ってしまう、という経験は、
音楽好きの人ならば、きっとあったはずだ。

でも、いまでは《ひと月に二〜三枚のペースで、欲しいレコードを選びに選び抜いて、
やっと百枚ほどたまった》というような聴き方は、とおい昔のことになっているかもしれない。

瀬川先生が、この文章を書かれたころからすると、レコード(録音物)の価格は、
相対的に安くなってきている。
それにいまではインターネットにアクセスできる環境があれば、
ほぼ聴き放題の状態を簡単に得られる。

月に二〜三枚のペースで、百枚ということは三年から四年ほどかかる。
いまでは百枚(それだけの曲数)は、聴く時間さえ確保できれば、それで済む時代だ。
三年から四年かかる、なんてことは、いまでは悠長すぎるのかもしれない。

けれど、それだけの時間をかけながら、音楽を聴いてきたからこそ、
一瞬のうちに頭のなかで音楽が鳴ってくる、はずだ。

この経験は憶音に関係してくることのように感じているけれど、
そういう経験をもたない人も現れ始めていても、不思議とはおもわない。

Date: 6月 13th, 2020
Cate: 憶音

憶音という、ひとつの仮説(その7)

別項で、コーネッタについて書いている。
いつかはタンノイ……、いつかはコーネッタ……、というおもいはずっと持ち続けていたけれど、
いまさらコーネッタなのか……、というおもいもないわけではない。

なのにコーネッタなのは、ここでのテーマである憶音という仮説について、
検証してみたいから、という気持もあるのだろう。

それでも思うのは、MQAを聴いていなければ、実行にうつすことはしなかっただろう、ということ。
MQAで音楽を聴いていると、確かめたいことが次々と出てくる。

こんな仮説を、誰かがかわりに検証してくれることはないのだから、
自分でやるしかない。

Date: 6月 13th, 2020
Cate: Cornetta, TANNOY

TANNOY Cornetta(その5)

コーネッタに取り付けるユニットの違いは、わかりやすい。
HPDじゃなくて、IIILZ(モニターゴールド)なんですよ、と自慢気に語る人がいたとして、
肝心のエンクロージュアはどうなのだろうか。

ステレオサウンドのキットを組み立てたものだから、それで安心、とか、
何かが保証されているわけではない。

ステレオサウンドの古くからの読者ならば、
海外製のスピーカーシステムは、オリジナル・エンクロージュアでなければならない──、
これは、いわば常識ともいえる。

コーネッタにおけるオリジナル・エンクロージュアは、
ステレオサウンドのSSL1ということになる。
これは間違いないわけだが、
くり返すが,組み立てなければならないのがキットだから、
そこから違ってくる要素が大きすぎることに気づいていない人が、どうもいるように感じる。

ヤフオク!にも、ときどきコーネッタは出てくるようである。
そのコーネッタが、どの程度の技術によって組み立てられたものなのかを、
写真だけで判断するのは容易なことではない。

しかもコーネッタは、そうとうに古い。
1977年に登場しているだから。

私はやってしまったわけだが、
こういうモノを、ヤフオク!で落札してしまうのは、控えた方が賢明である。

実物をみて、音を聴いて納得したのであればいいが、
写真だけで判断してしまうことは、場合によってお金をドブに捨てるようなことにつながる。

私がいえるのは、後悔しない範囲の金額にとどめていたほうがいい、ということぐらいだ。
そのくらい運試しと思っていた方がいい。