憶音という、ひとつの仮説(その8)
瀬川先生の「虚構世界の狩人」を読んだことも、
憶音について考えるきっかけに なっている。
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「もう二十年も昔の事を、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるか、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついてゐた時、突然、このト短調シンフォニィの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。」
「モオツアルト」の中でも最も有名な一節である。なに、小林秀雄でなくなって、俺の頭の中でも突然音楽が鳴る。問題は鳴った音楽のうけとめかただが、それを論じるのが目的ではない。
だいたいレコードのコレクションというやつは、ひと月に二〜三枚のペースで、欲しいレコードを選びに選び抜いて、やっと百枚ほどたまったころが、実はいちばん楽しいものだ。なぜかといって、百枚という文量はほんとうに自分の判断で選んだ枚数であるかぎり、ふと頭の中で鳴るメロディはたいていコレクションの中に収められるし、百枚という分量はまた、一晩に二〜三枚の割りで聴けば、まんべんなく聴いたとして三〜四カ月でひとまわりする数量だから、くりかえして聴き込むうちにこのレコードのここのところにキズがあってパチンという、ぐらいまで憶えてしまう。こうなると、やがておもしろい現象がおきる。さて今夜はこれを聴こうかと、レコード棚から引き出してジャケットが半分ほどみえると、もう頭の中でその曲が一斉に鳴り出して、しかもその鳴りかたときたら、モーツァルトが頭の中に曲想が浮かぶとまるで一幅の絵のように曲のぜんたいが一目で見渡せる、と言っているのと同じように、一瞬のうちに、曲ぜんたいが、演奏者のくせやちょっとしたミスから——ああ、針音の出るところまで! そっくり頭の中で鳴ってしまう。するともう、ジャケットをそのまま元のところへ収めて、ああ、今夜はもういいやといった、何となく満ち足りた気持になってしまう。こういう体験を持たないレコード・ファンは不幸だなあ。
しかし悲しいことに、やがて一千枚になんなんとするレコードが目の前に並ぶようになってしまうと、こういう幸せな状態は、もはや限られた少数のレコードにしか求めることができなくなってしまう。人は失ってからそのことの大切さに気がつく、とはよくぞ言ったものだ。
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レコードのジャケットを半分みえただけで、
そのレコードおさめられている音楽が、一瞬のうちに頭のなかで鳴ってしまう、という経験は、
音楽好きの人ならば、きっとあったはずだ。
でも、いまでは《ひと月に二〜三枚のペースで、欲しいレコードを選びに選び抜いて、
やっと百枚ほどたまった》というような聴き方は、とおい昔のことになっているかもしれない。
瀬川先生が、この文章を書かれたころからすると、レコード(録音物)の価格は、
相対的に安くなってきている。
それにいまではインターネットにアクセスできる環境があれば、
ほぼ聴き放題の状態を簡単に得られる。
月に二〜三枚のペースで、百枚ということは三年から四年ほどかかる。
いまでは百枚(それだけの曲数)は、聴く時間さえ確保できれば、それで済む時代だ。
三年から四年かかる、なんてことは、いまでは悠長すぎるのかもしれない。
けれど、それだけの時間をかけながら、音楽を聴いてきたからこそ、
一瞬のうちに頭のなかで音楽が鳴ってくる、はずだ。
この経験は憶音に関係してくることのように感じているけれど、
そういう経験をもたない人も現れ始めていても、不思議とはおもわない。