タンノイはいぶし銀か(その5)
ステレオサウンド 207号の特集で、
和田博巳氏は、《他の弦楽器は艶やかというよりはいぶし銀のごとき味わい》とされている。
オーディオ的音色としての、ここでの「いぶし銀」と読めるし、
弦楽器の艶やかさがさほど感じられない、
もしくは表立ってこないから「いぶし銀」という表現を使われたのか。
確かにタンノイの、
それもフロントショートホーンをもたないスピーカーは、
最初から艶やかな弦楽器の音が聴ける、とは私も思っていない。
けれど、それはもう昔のことなのかもしれない──、とも思う。
ステレオサウンドを辞めてから、新品のタンノイのスピーカーを聴く機会はほとんどない。
それにステレオサウンドを辞めてから三十年以上が経っているから、
いつまでもタンノイのスピーカーを、昔の印象だけで語れないだろう。
そんなふうに思っているから、
ほんとうにタンノイの新しいArdenは、《いぶし銀のごとき味わい》なのか、と勘ぐりたくなる。
それに別項「真空管アンプの存在(KT88プッシュプルとタンノイ・その1)」で書いたように、
フロントショートホーンのないGRFメモリーから、魅惑的な弦の音を聴いている。
烏の濡れ羽色的艶っぽさではないけれど、それは《いぶし銀のごとき味わい》ではなかった。
結局、タンノイの音色がいぶし銀というのは、思い込み(バイアス)ではないだろうか。
こう書いてしまうと、
そういう思い込みをつくったのはステレオサウンドであり、
オーディオ評論家ではないか、といわれる。
でも、はたしてそうだろうか。
私には、どこからともなくわいてきた、ある種のバイアスのような気がしてならない。
(その2)で、
意外にもイギリスのユニットのフレームの仕上げから来ているようである、と指摘した。
視覚的イメージから起きてきた幻想がいぶし銀なのかもしれない。
当時は、海外のオーディオ機器を聴こうと思っても、
そう簡単に聴けるわけではなかった。
それに非常に高価だった時代がある。
写真や、ウィンドウに飾られている実物を眺めての憧れが生んだ「いぶし銀」。
これを悪い、とは私はおもわない。
思わないけれど……、
いつまで、そんなふうに語り継いでいくのか──、ともおもう。