Archive for 7月, 2018

Date: 7月 11th, 2018
Cate: ディスク/ブック

スピーカー技術の100年 黎明期〜トーキー映画まで(追記)

佐伯多門氏の「スピーカー技術の100年」。
昨日、電子書籍にしてほしい、と書いた。

電子書籍にするのであれば、英訳してほしい、とも思う。
そうすれば海外でも販売できる。

オーディオの技術書で、日本の書籍が海外で評価されていることはないのではないか。
海外の技術書は、日本にも入ってきている。
私も何冊か持っている。

英訳して紙の本ということでは、コスト面でも大変だろうが、
英訳・電子書籍であれば、一度制作してしまえば、長いこと販売できる。

Date: 7月 11th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その6)

フルトヴェングラーの「音楽ノート」のなかにある。
     *
 生きた作品は、思想や理論によって破壊されることがない。かといって、その生命が思想や理論によって守られるということもありえない。肝要なのは、火花が飛び移り、生きた音楽が生きた聴衆を見出すということである。そこでは、自己の過剰の知性による固定観念のなかに忌まわしく捕えられた現代に見られる、あの即座に準備され、いつでもすぐ仕上がる知ったかぶりなどは、まったく無視されるのである。
     *
私がどう解釈したかを、ここで書くつもりはない。
理解への実感に関係することだと感じたから、引用している。

そして、ここでのタイトルにも関係している。

Date: 7月 11th, 2018
Cate: 405, QUAD

QUAD 405への「?」(その4)

QUADのパワーアンプは、ステレオサウンドの試聴室でよく聴いている。
405以外に、プロ用の510、520、
405の改良型の405-2、上級機にあたる606、弟分の306と聴いている。
ステレオサウンドの試聴室を離れても、個人のリスニングルームで聴くことはあった。

そうやって聴いてきたQUADのパワーアンプであったが、
一度としてステレオサウンド 38号の新製品紹介の音の印象そのまま、
という音は聴けていないし、38号の試聴記との音のズレを感じていた。

聴けば聴くほど、38号の新製品紹介に登場した405の音を聴きたいし、
そういう音の405こそ、欲しい、と思うようになった。

405は一台持っている。
シリアルナンバーからすると、初期の405よりも数回変更が加えられたヴァージョンだ。
回路図を比較してみると、基本的な回路は同じであっても、細部は違う。

完全に最初の405と同じ回路にするには、ちょっと面倒である。
ならば最初のロットの405を、シリアルナンバーを調べて手に入れるか、というと、
そこまでの情熱はない。

そうやって手に入れたとしても、40年以上前のアンプだから、
全面的なメインテナンスも必要となる。
私の405も電解コンデンサーの交換が必要になっている。

つまり手を加えることになる。
ならば、と考えている。
どこまで38号に登場した405に近づけられるのか。

もっともその音を聴いているわけではない。
あくまでも文字からの想像が、私の中にあるだけだ。

QUAD 405への「?」を、「!」にしたい。

Date: 7月 11th, 2018
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その1)

昨年12月に別項で、このタイトル「カラヤンと4343と日本人」で書き始めたい、とした。
タイトル先行で、どんなことを書くのかはその時点ではほとんど考えてなかった。
半年経っても、そこは変らない。

でも何にも書いていかないと、書こうと決めたことすら忘れがちになるので、
思いついたことから書き始める。

五味先生と瀬川先生は、本質的に近い、と私は感じている。
それでもカラヤンに対する評価は、違っていた。

五味先生のカラヤン嫌いはよく知られていた。
瀬川先生はカラヤンをよく聴かれていた。

ここがスタートである。
カラヤンといえば、黒田先生が浮ぶ。
音楽之友社から「カラヤン・カタログ303」を出されている。

瀬川先生も黒田先生もJBLの4343を鳴らされていた。
この二人は、朝日新聞が出していたレコードジャケットサイズのオーディオムック「世界のステレオ」で、
カラヤンのベートーヴェンの交響曲全集の録音について対談されている。

JBLの4343という、フロアー型の4ウェイ、しかもペアで100万円を超えるスピーカーシステムが、
驚くほど売れたのは日本であり、
カラヤンのレコード(録音物)の売行きでも、おそらく日本が一番なのではないか。

こう書いてしまうと、日本人はブランドに弱いから、としたり顔で、
わかったようなことをいう人がいる。
そんな単純なことだろうか。

ステレオサウンドに書かれていた人では、岡先生もカラヤンを高く評価されていた。
1970年代、岡先生はARのスピーカーを鳴らされていた。

岡俊雄、黒田恭一、瀬川冬樹。
この三人の名前を並べると、ステレオサウンド別冊「コンポーネントの世界」での鼎談である。
「オーディオシステムにおける音の音楽的意味あいをさぐる」である。

この鼎談は、瀬川冬樹著作集「良い音とは 良いスピーカーとは?」で読める。

Date: 7月 11th, 2018
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その10)

そういえば、私はテンシュテットのマーラーの九番を聴いていない。
六番を聴いたら、九番を聴いてみよう、といまごろ思っている。

テンシュテットのマーラーだけでなく、シノーポリのマーラーを、
ここに来てもう一度聴いておこう、とも思いはじめている。

私が20代のころ、シノーポリのマーラーの録音は始まった。
発売順に聴いていったが、途中でやめてしまった。
理由は、もうよく憶えていないが、感覚的についていけないと感じたことも大きい。

あのころはそう感じたたけれど、いまはどう感じるのか。
そういえばシノーポリの九番も、聴いていない。

なにもマーラーの九番の、私にとっての名盤を選びたいわけではない。
そんな気持はまったくない。

正直、ジュリーニ、カラヤン、バーンスタイン、それにアバド(1987年録音の方)があれば、
私には充分である。
あとあげるならばワルターの古い録音である。

熱心なマーラーの聴き手からすれば、ずぼらな聴き方をしてきている。
網羅的な聴き方をそれほどしてこなかった。
これからそんな聴き方をしようとも思っていない。

聴いてきたマーラーよりも聴いていないマーラーの方が多い。
いまCDは安い。
集めようと思えば、それほど負担なくけっこうな枚数になる。
でも、聴くのか。

持っておけばいつでも聴ける。そんな安心感はある。
でも、心のどこかで、そんな聴き方とマーラーの九番の世界とはそぐわない。
なにか違う聴き方のようにも感じなくはない。

怠惰な聴き方のいいわけかもしれない──、
と思わないわけではないが、それで誰からに迷惑をかけるわけでもない。

それでも、これまで聴いてこなかったマーラーの録音に、
いまになって気になっている演奏がある。

Date: 7月 10th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その40)

その39)を読んで、オーディオ業界の事情通を自称している人のなかには、
菅野先生がそんな表情をするはずがない、と思う人がいるに違いない。

菅野沖彦が朝沼予史宏の才能を嫉んでつぶそうとした──、
いいかたは微妙に違っていても、
そんなことを言ったりインターネット上に書いたりしている人がいた。

そのことについて菅野先生は何も語られていない。
だから誤解が誤解のまま、一時期拡がっていた。

それは誤解だよ、と何度か書こうと思った。
けれど思いとどまって書かずに、十数年が経った。
まだ誤解は残っているようだ。

ほんとうに朝沼さんをつぶそうとしていた人が、
2002年12月8日に、あんな表情をするはずがない。

朝沼予史宏さんは、
Stereo Sound Grand Prixの前のComponents of the yearの選考委員の一人だった。
けれど降ろされていた。

オーディオ業界の自称事情通の人らは、
菅野沖彦が朝沼予史宏を降ろした、と吹聴していた。

確かにそれは事実だ。
このことが誤解につながっている。
だが理由がある。
朝沼予史宏さんをつぶそうとしてでは断じてない。

その逆だった。

Date: 7月 10th, 2018
Cate: 老い

老いとオーディオ(余談・その8)

ウエスギ・アンプのU·BROS3とマイケルソン&オースチンのTVA1。
ふたつのKT88のプッシュプルアンプの対比というより、
グラシェラ・スサーナの「抱きしめて」では、二人の女性の対比である。

歌い出しの「抱きしめて」。
その後に続く歌詞。

一人は「抱きしめて」といいながら、
こちらとの距離をぐっと縮めてくる。
「抱きしめて」の歌詞のあとは、すぐそこにいるような錯覚すら起す。

もう一人の「抱きしめて」は、そこに込められている心情は同じであっても、
ずっと控えめだ。奥ゆかしいともいえよう。

実際にこんなシチュエーションがあったなら、
そのあとにとる行動は、男ならみな一緒であろう。

それでも控えめな「抱きしめて」のあとには、
こちらから近づいていく必要はある。

その6)で上杉先生の、ステレオサウンド 60号での発言を引用している。
ここでは、もう引用しないが、つまりはそういうことだ。
控えめな「抱きしめて」でも、そういうことである。

肝心なところは同じであり、そういう違いをTVA1とU·BROS3には感じる。
若いころならTVA1を迷うことなく選ぶ、と(その7)で書いている。

そのころから30年が経っている。
どちらの「抱きしめて」も、いい。

聴き手のこちらの心情も、いつも同じなわけではない。
TVA1の「抱きしめて」でなければならない時もある。
U·BROS3の「抱きしめて」こそ、と思うときもある。

歌っているのはグラシェラ・スサーナである。
一人の歌手なのに、アンプというシステムの内面が変ることで、
「抱きしめて」も、それに続く歌詞も、
込められている心情は変らずとも表現はまるで違ってくる。

アンプの違いが、心情の違いになってしまっては困る。
なんともつまらない「抱きしめて」になってしまうアンプもある。

そんなアンプなら、「抱きしめて」を誰かと一緒であっても聴けよう。
けれど、心情をきちんと歌にのせてくれるアンプであるなら、
TVA1にしてもU·BROS3にしても、これはやはり独りで聴くしかない。

誰かと一緒でも聴ける、という人は、
「抱きしめて」に込められている心情がわかっていない。
それだけだ。

Date: 7月 10th, 2018
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その9)

クラウス・テンシュテットの名を知ったのも、
テンシュテットのLPで最初に買ったのもマーラーだった。

東ドイツの指揮者だったテンシュテットは、1971年に西ドイツへ亡命している。
1925年生れのテンシュテットではあったが、そのためあまり名が知られているわけではなかった。

はっきりとは記憶していないが、
黒田先生は、テンシュテットを海中深く潜っていた潜水艦に喩えられていた。

EMIから出ていたロンドンフィルハーモニーとのマーラー。
その印象が強いだけに、潜水艦ということに妙に納得していた。

テンシュテットのマーラは、二番のLPを最初に買った。
次に、五番か四番を買ったはずだ。一番は買わなかった。
そういえば、いまだテンシュテットのマーラーの一番は聴いていない。

そして六番を、発売後すぐに買った。
その6)で書いているように、
これが六番の、私にとって最初のLPだった。

テンシュテットのマーラーのなかで、六番はよく聴いていた。
テンシュテットの発売になっていたマーラーすべてを買ったわけでもないし、
聴いていたわけでもないから、六番がテンシュテットの演奏でもっとも素晴らしいとはいわないが、
集中的に聴いていた。

どこか、その行為には、
ステレオサウンドの試聴室でくり返しきいたレーグナーの六番を、
テンシュテットの六番によって消し去ろうとしていたところもあったのかもしれない。

それから、いくつもの六番を聴いている。
バーンスタインの再録も聴いているし、他の指揮者でも当然聴いている。

もういまでは六番を聴くことは、すっかりしなくなった。
六番を聴きたい、とおもうことがなくなっている。

でも、そろそろもう一度テンシュテットの六番を聴いてみようか、と思っているところだ。

Date: 7月 10th, 2018
Cate: ディスク/ブック

スピーカー技術の100年 黎明期〜トーキー映画まで

無線と実験に長期連載されていた「スピーカー技術の100年」。
佐伯多門氏が執筆されていた。

この記事だけのために無線と実験を買おうか、と思うくらいだった。
けれど、いずれ一冊にまとめられるだろうと思って、買わずにいた。

連載が終ってどれぐらい経つだろうか。
そろそろ出るかな、と思っていたら、
佐伯多門氏の「スピーカー&エンクロージャー大全」が出た。

「スピーカー技術の100年」を出さずに、こっちなのか、と思ったくらいにがっかりした。
もしかしたら出ないかもしれない……、
そうなったら図書館に行って、ひたすらコピーしてくるしかないのか……。

7月9日に、やっと「スピーカー技術の100年」が出た。
近くの書店になかったので、まだ手にしていない。

もうこの種の本は出てこない、と思っていた方がいい。
ハイエンドオーディオばかりに夢中になっている一部のオーディオマニアは、
そんな古いスピーカー技術のことを知ったところで何になる──、
そんなことを思うかもしれない。

そういう人にほっとくしかない。

「スピーカー技術の100年 黎明期〜トーキー映画まで」が出たのは嬉しい。
ただ、現時点では電子書籍化はされていないようだ。
こういう本こそ、電子書籍化をしてほしい。
つまり紙の本が絶版になったとしても、電子書籍だけは継続して出版してほしい。

Date: 7月 10th, 2018
Cate: 405, QUAD

QUAD 405への「?」(その3)

ステレオサウンド 43号で、瀬川先生は、
《発売後数回にわたって回路が変更されているようで、音のニュアンスもわずかに違うし、プリのノイズを拡大する傾向のある製品もあるようなので、選択に注意したい》
と書かれている。

ということは38号での新製品紹介での405は、初期の405のはず。
その年の暮の「コンポーネントステレオの世界 ’77」で使われた405は、
38号の405とそう変っていないのかもしれない。

けれど「コンポーネントステレオの世界 ’77」から半年後の43号の時点では、
はっきりと405は変っている、といえる。

私が405を聴いたのは、43号よりさらに五年後。
回路・仕様の変更があったと考えてもいい。

それにその間に、コントロールアンプの44が登場している。
このあたりでも回路・仕様変更はあったとみていいのか。

405は魅力的なパワーアンプだし、好きなパワーアンプのひとつである。
それだけに、38号での音の印象とその後の音の印象のズレについては、
ずっとわだかまりのようなものがあった。

実際に回路・仕様変更はあったのか。
確かに405-2が登場している時には、回路変更はあった。
それ以前はどうなのか。

ずっと確認できないまま時は経っていく。
数年前に、405のサービスマニュアルがダウンロードできるようになっていた。
405-2になるまでに、何度かの回路変更があったのが確認できる。

シリアルナンバーで、どのヴァージョンの405なのかを確認できる。

Date: 7月 10th, 2018
Cate: 405, QUAD

QUAD 405への「?」(その2)

ステレオサウンド 38号でのQUADの405の音についての、
井上先生と山中先生の対談は次のようなものだ。
     *
山中 この405については、アンプの話題の中にも含まれているので、ここではその音を中心に話を進めていくことにしましょう。実際に鳴らしてみて、驚いたのは今までのQUADというのはどちらかというと暖かみという比うょげんのできる、逆にもう一息ぬけが悪いというイメージがあったのが、このアンプでは、すっかり変ってしまった。ここにあるJBLモニターを鳴らした場合、とてもイギリスのアンプでドライブしているとは思えない、JBLのモニターアンプで鳴らしているようなシャープネスと、加えてものすごくナイーブな音を聴かせてくれたのは驚異でした。
井上 物理的な100Wのパフォーマンス以上の音量感とエネルギー感があります。少なくともQUADから、こういう音が出るとは夢にも思わなかったことです。
 かつてJBLがコンシュマー用のプリアンプとパワーアンプをつくったころのSE400を最初に聴いたときの印象と似ていて非常にびっくりしましたね。
山中 これが非常にコンパクトなアンプとして感性しているわけでしょう。それでJBLのスピーカーをフルにドライブしている。JBLをきりきり舞いさせるような音を出すということができるんですね。
     *
38号は、1976年春号だ。
この六年後に私は405をきちんと聴いている。

私の405の印象は、38号に書かれている印象とは違っている。
六年も経てば、アンプの進歩は早い。
周りが変っているだから、405の印象もそれにつれて変っていても不思議ではない──、
そう思おうとしても、405以前に、
SAEのMark 2500、GASのAmpzillaなどは登場していた。

それらの音の印象と照らし合せてみると、
どうにも38号での語られている405の音の印象と、私が抱いた音の印象とは、
かなり違っているところ(ズレ)がある。

確かに38号の音の印象であれば、
「コンポーネントステレオの世界 ’77」で、黒田先生が、
LNP2+Mark 2500よりも511+405で4343を鳴らしたい、という気持もわかる。

ここで思い出すのが、瀬川先生が43号で書かれていることだ。

Date: 7月 10th, 2018
Cate: 405, QUAD

QUAD 405への「?」(その1)

QUADのパワーアンプ405のことを強く意識するきっかけは、
1976年12月発行のステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’77」である。

まだペアとなるコントロールアンプ44は登場していなかったから、
他社製のコントロールアンプとの組合せで使われている。

瀬川先生と井上先生が、AGIの511との組合せを、最終的な組合せとして選ばれている。

たとえば瀬川先生の組合せでは、
バロック以前の音楽を、4343て鳴らすという組合せで、
最終的なアンプはマークレビンソンのLNP2とSAEのMark 2500のペアなのだが、
この組合せは高価ということで、第二案としてKEFのModel 104aBの組合せも提案されている。

この第二案でのアンプがAGIとQUADのペアである。
そこで黒田先生は、むしろAGIとQUADのペアで4343を鳴らしたい、という発言をされている。

これを読み、かなりスグレモノのパワーアンプなんだな、と感じていた。
「コンポーネントステレオの世界 ’77」の半年後のステレオサウンド 43号でも、
QUADの405は、特集ベストバイで高い評価を得ている。

405は、読者の選ぶベストバイでも人気があった。
なのに、聴く機会はなかなか訪れず、
聴いたといえる試聴は、ステレオサウンドで働くようになってからだから、
1982年になっていた。

そのころ、ステレオサウンド 38号も読んでいる。
この38号の新製品紹介に、405は初めて登場している。

このころの新製品紹介は井上先生と山中先生が担当されていて、
基本的に海外製品については山中先生、国産製品は井上先生となっていて、
特に話題の製品に関しては、対談によるまとめで紹介されていた。

405も話題の新製品なので、対談による紹介である。

Date: 7月 10th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その5)

編集者は読者が読みたがっている記事を提供する──、
そんなふうに考えている編集者がいるのかどうかはわからないし、
ステレオサウンド編集部がそうなのかも知らない。

仮に、ステレオサウンド編集部がそう考えて編集という仕事をやっていたとしたら、
お門違いとしかいいようがない。

読者が読みたがっている記事──、
そんなものは幻想だし、ありはしない。

読者のほとんどはおもしろい記事、ワクワクするような記事を読みたがっていても、
具体的にそれがどういう記事なのか、
そんなことは多くの読者は考えていないし、そういうものである。

そのことを嘆いたりはしない。

編集者は、読者が読みたがっている記事、
そんな幻想ではなく、読者に読ませたくなる記事をつくっていけばいい。
ただ、それだけだ。

Date: 7月 9th, 2018
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(整理と省略・その7)

一年ほど前のことだった。
信号待ちしていたら、近くにいる小さな女の子が、
歩行者用信号についている白杖マークのボタンを押そうとしていた。

一緒にいたお母さんが
「押しちゃダメ。そのボタンは目に障碍のある人が押すんだから」
と制止した。

小学校のときだった、
先生が、あのボタンは視覚障碍者のためのボタンだから、むやみに押してはダメ、
そんなことをいっていたのは記憶にある。

でも冷静に考えてみればおかしな話だ。
視覚障碍者は、あのボタンがあることに気がつかないのだから。

あのボタンは、信号待ちしているときに、近くに、もしくは反対側に、
白杖の人がいたら、代りに押すためのもののはずだ。

それなのに、そうやって使っている人を、これまで一度も見たことがない。
つい数ヵ月前に、あまり通らない信号で青になるのを待っていたら、
かすかな電子音がしているのに気づいた。

白杖マークのボタンが新しくなっていた。
赤で待っているときに、視覚障碍者であっても、
音で近くにボタンがあることを知らせている。

やっと改良されたのか、と思った。
それでも、このタイプのボタンは、まだ他では見かけていない。

Date: 7月 9th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その39)

2002年12月8日の午前中、私は菅野先生のお宅に伺っていた。
ドアのチャイムを押すと、菅野先生がドアを開けてくださった。
その時の菅野先生の顔は、いつも違っていた。

体調を崩されたのか、と最初思ったけど、そんな感じではなかった。
沈痛な面持ちとは、このときの菅野先生の表情をいうのだと、思った。
そういう表情だった。

靴を脱ごうとしているときに、菅野先生がいわれた。
「朝沼さんを知っているか」と聞かれた。

私がステレオサウンドでいたころ、朝沼予史宏氏は、
このペンネームで活躍をし始めたころだった。
本格的にステレオサウンドに朝沼予史宏の名で書かれるようになったのは、
私が辞めてからだった。

なので「沼田さん(本名)は知っています」と答えた。
「そうか……」とぼそりといわれた、と記憶している。

そして「朝沼くんが亡くなったんだよ」と続けられた。

ステレオサウンドにいたころ、沼田さんからいわれたことがある。
「(自分と体形が似ているら)甲状腺には気をつけた方がいいよ」と。
沼田さんは以前甲状腺の手術をされたことを、そのとき知った。

沼田さんは細かった。
そのころの私もかなり細かった。
健康に気をつかっている人なんだ、と勝手に思っていた。
その後、結婚されたことも知っていたから、
独身のころよりも健康には注意されている──、
これも勝手にそう思っていた。

それに数ヵ月前のインターナショナルオーディオショウで、
短い時間ではあったが話もしていた。元気そうに感じていた。

リスニングルームのソファに腰掛けてから、菅野先生が話された。