Archive for 8月, 2017

Date: 8月 18th, 2017
Cate:
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日本の歌、日本語の歌(アルテックで聴く・その22)

この項を書くにあたって、
輪島祐介氏の『創られた「日本の心」神話』を読んでいる。

昭和初期について、こんなことが書いてある。
     *
 流通・消費について言えば、この時期は蓄音機やレコードは高級品であり、流行のレコードを頻繁に買って自宅で聴くような聴き方は一般的ではありませんでした。
 この時期のレコード歌謡の流行において、何より重要だったのは映画というメディアです。レコード歌謡と映画の内在的な結びつきは、国産ヒット第一号《君恋し》の直後にヒットした《東京行進曲》の例から明らかです。
(中略)
 その後、多くのヒット曲が映画から生まれ、また、大ヒット曲はほとんど例外なく映画化されることになります。多くの人々にとって、流行歌・歌謡曲とは、映画の中で歌われ、あるいは映画館の幕間に流される音楽として聞かれていたと想像されます。
 当時の新メディアということでいえば、ラジオとレコード歌謡の相性は必ずしも良好ではありませんでした。
     *
輪島祐介氏の、この想像がそのとおりならば、
昭和初期の人びとは、映画館で流行歌・歌謡曲を聴いていたわけで、
それはウェスターン・エレクトリックのシステムで聴いていた、ということになる。

流行歌・歌謡曲といった日本語の歌を、
昭和初期の人たちは、映画館でウェスターン・エレクトリックの音で聴いていた。
この事実は、いまアルテックで日本語の歌を聴いていること、
それから井上先生がJBLで島倉千代子の歌に、
瀬川先生がアルテックで美空ひばりの歌に圧倒されたということとも関係してこよう。

Date: 8月 17th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(昭和は遠くになりにけり……か・その10)

物分りのいい人ぶっている知人も、チャールス・ミンガスを聴いている。
チャールス・ミンガスは素晴らしい、
チャールス・ミンガスの音楽は人類の宝だ、ともいっている。

黒田先生はチャールス・ミンガスの音楽は、
「怒る勇気を思い出し、怒るという感情の輝きを再確認」する音楽であった。

物分りのいい人ぶっている知人が聴いている、というチャールス・ミンガスと、
黒田先生が聴いてきたチャールス・ミンガスとは同じ人物なのに、
まるで違う音楽の人のようにも感じる。

「怒る勇気を思い出し、怒るという感情の輝きを再確認」する音楽を、
どういう音で、物分りのいい人ぶっている知人は、きいているのだろうか。

Date: 8月 16th, 2017
Cate: よもやま

8月16日

audio sharingは2000年8月16日に公開した。
今日で丸17年。

17歳。
私は17歳のときにオーディオの道に進もうと決めた。
オーディオを仕事にする、と決めた。

それから37年経つ。

Date: 8月 16th, 2017
Cate: 広告

とんかつと昭和とオーディオ(LOUIS VUITTONの広告)

「とんかつと昭和とオーディオ」というタイトルで何か書こうと思ったのは、
BRUTUS 852号を読んだからなのだが、
とんかつのことだけを書いても、ここは音、音楽、オーディオのブログだから、
なんとかオーディオと結びつけるには……、と思い出したのが、
伊藤先生がステレオサウンド 42号で書かれていた文章だった。

そのことについては、「とんかつと昭和とオーディオ」で書いていくが、
BRUTUS 852号で、びっくりしたのは表紙をめくってすぐにあるLOUIS VUITTONの広告だった。

二ページ見開きの広告、
その写真の左側にあるスツールの上に乗っているのは、テクニクスのSL1200である。
しかもSL1200がそのまま置いてあるのではなく、
LOUIS VUITTONのバッグにおさめられている。

どんなふうにおさめられているのかは、BRUTUS 852号を手にとって確かめてほしい。

Date: 8月 15th, 2017
Cate: 書く

毎日書くということ(引用することの意味)

私が、ここで引用する文章のほとんどは、昔の文章ばかりといっていい。
最近のオーディオ雑誌に載っている文章を引用することは、ほとんどない。

昔の文章、それもかなり以前の文章を引用することもある。
今日も40年前の、伊藤先生の文章を引用していた。

このブログを読まれている人で、20代、10代の人は少数だろう。
30代の人だって、どのくらいいるのだろうか。

この世代の人たちにとっては、生れる前に書かれた文章ということになる。
どれだけの人が、古い文章に興味をもつのかはわからない。

またか、と思う人もいるのはわかっている。
あいつは、古いことにしか興味がないのか、と思われていることだろう。
それはそれでいい。
人によって受け取り方は違うのだから。

毎日書いていて、最近になって感じているのは、
私にとって、毎日書くという行為は、ひとつの確認作業である、と。
特に、私が影響を強く受けた人の文章を引用するときは、そうである。

私自身の音の判断を形づくっているのは何なのか、
それを確認していることは確かだ。

その確認作業に、古いも新しいもない、と考えている。

音は好き嫌いなのだから、感性だよ、と自信たっぷりにいえる人は、
そういう聴き方をしていればいい。
私はそれがイヤなだけだ。

聴くために、判断のために、こうやって書いている。

Date: 8月 15th, 2017
Cate: カタチ

カタチの違いと音の違い

マッキントッシュのパワーアンプには、
ブルーアイズと呼ばれる大型のパワーメーターが特徴として付いている。

けれど以前(1970年代後半くらいまで)は、メーターなしのモデルもあった。
MC50、MC250、MC2100、MC2120、MC2200などである。

MC2120とMC2200は、
それぞれMC2125、MC2205からパワーメーターを取りさり、
フロントパネルもガラスパネルではなく、割りと素っ気ないアルミパネルにしたもので、
価格も十万円以上廉くなっていた。

MC2120、MC2200は、フロントパネルとメーターの違いだけで、
コンストラクションはMC2125、MC2205は同じである。

MC2120とMC2125、MC2200とMC2205を比較試聴すれば、
メーターの有無、フロントパネルの違いによって生ずる音の違いはあるはずだが、
それほど大きな違いではない、と思う。

私が、いまごろ1970年代後半のマッキントッシュのパワーアンプについて書いているのは、
MC250、MC2100の存在を思い出したからである。

真空管アンプ時代のマッキントッシュのパワーアンプは、
MC275、MC240を思い出してほしいが、
入出力端子類が取り付けられているパネル部が傾斜してシャーシーを採用していた。

そのシャーシーをトランジスターアンプ時代に、
マッキントッシュはMC50、MC250、MC2100に採用していた。

MC50は50W出力のモノーラルアンプ、
MC250は出力50W×2のステレオアンプで、MC2505からフロントパネルとメーターを除き、
シャーシーは、MC275と同じ形状となっている。
MC2100も同様で、MC2125をベースにしたモデル。

写真でみるかぎり基本的なコンストラクションに変化はない。
けれどメーターとフロントパネルがなく、シャーシーの形状まで違うと、
比較試聴すれば、音の違いは微妙とは言い難いのではないだろうか。

アンプにおける筐体構造が音に与える影響は、いまでは常識になっているが、
そのはじまり(というか気づき)は、もしかするとこのあたりにあったのかもしれない。

Date: 8月 15th, 2017
Cate: 世代

とんかつと昭和とオーディオ(その1)

BRUTUS 852号の特集、
「とんかつ好き。」を読んでいると、思い出すことがいくつかあった。

ステレオサウンド 42号(私にとって二冊目のステレオサウンド)に、
伊藤先生の真贋物語が載っていた。連載の一回目である。

食べものについて書かれている。
くらえども、という見出しから始まる。
     *
 美食家だの通人だのという人に会ってみると、「あんな廉いものは食えませんな。」とか「お値段が張るだけあって甚だ美味です。」と、自分の口のいい加減なことをその口で説明して金を費っていることをひけらかしているのが多い。未だ未だ修業の段階である。
 食い倒れといって散散食うために贅沢をしつくして貧乏してしまった者でないと味なんてわかるものではない。
 頂上まで辿りついて、ほっとしたときは高みにいることの実感は沸かないが、下って来て翻ってみて、高かったことを沁沁思うものだ。それはどんな事情にしろ別れた女に会いたくなるのと似ている。
(中略)
 当節食品衛生法とかいうものがあって腐敗することを極度に恐れて薬品を用い、黴の生えない味噌醤油などが珍重されたり、幾日店頭に並べて置いても変質しないバターなどが販売されている。その為か腐ったものに対する恐怖も防御も喪失してしまい、動物の最も大切な感覚をなくした植物のような人種が増えて来た。こうした嗅覚の鈍くなった者に味のわかるわけがない。
「食らへどもその味わいを知らず。」というのは勿体ない話だが、「耳、聞けどその音色を知らず」に相似ている。
    *
書き写しながら、ここ数年いわれている草食系の元は、
意外にもこのあたりにあるのかもしれない、と思っていた。

腐ったものに対して恐怖も防御も喪失してしまうという鈍感状態が、
現在の草食系といわれるところにつながっているのかもしれない。

42号は1977年春号である。
40年のあいだに、コンビニエンスストアがものすごく増えた。
いまも増えている。

そこで売られている食べものは、腐敗ということを心配することなく、いつでも買える。

Date: 8月 14th, 2017
Cate: ジャーナリズム

オーディオ雑誌に望むこと(その2)

別項「日本のオーディオ、これから(AT-ART1000・その5)」で、余韻が短くなってきた、と書いた。

アサヒグラフ、毎日グラフといった写真誌が、
特別なイベント(たとえばオリンピック)を扱ったときには、
書店のよく目立つところに置いてあった──、
そういう時代は、まだ家庭用ビデオデッキが普及していなかったころである。

それにテレビの走査線は525本。
実際に画面表示に使われていたのは480本で、これが有効走査線だった。

ハイビジョンでは走査線数は1080本になり、
4Kテレビでは2160本、8Kテレビでは4320本。

昔のテレビは、粗かった。
オリンピックの結果を伝える新聞の写真は、もっと粗かったし、モノクロの時代でもあった。
当時リアルタイムで見ることのできたのは、いまの基準からすればずいぶんと粗いクォリティだった。

オリンピックが終り、興奮も薄れてきたころに、
アサヒグラフや毎日グラフが書店に並ぶ。
そこに掲載されている写真は、クォリティの高いものだった。

写真だから動きはしないものの、鮮明さにおいては、
新聞の写真はもちろんテレビよりもずっと鮮明に、
そこでの出来事を鮮明なまま切り取った状態で伝えてくれていた。

書店に並ぶまで時間はかかるが、それだけのクォリティがあった。
周りが低かった、ということもあるが、
薄れてきた記憶、興奮を甦らせるだけのクォリティがあった。
だから余韻がその分持続していた。

だからこそ売れていたのだと思う。

いまは違う。
4Kテレビの普及、
2020年の東京オリンピックまでには8Kの本放送も始まる。

リアルタイムで、当時では考えられなかったクォリティで見ることができる。
しかも録画もでき、くり返し見ることまても可能になっている時代だ。

Date: 8月 13th, 2017
Cate: きく

音を聴くということ(グルジェフの言葉・その1)

ゲオルギー・グルジェフがいっていた。

人間は眠っている人形のようなものだ、と。
正確な引用ではないが、意味としてはこういうことだ。

人間の通常の意識の状態は睡眠のようなもので、
人間としてのほとんどの活動はすべて機械的なものである、と。

眠っている人形から、目覚めている人間になるには、
それこそ山のような意志力が必要になり用いなければならない、と。

グルジェフは作曲家でもある。
ECMからグルジェフ作曲のCDが出ている。
思想家でもある。舞踏作家でも、神秘主義者ととらえる人もいる。

グルジェフには賛否両論がある。
信じるも信じないも、その人の自由である。

1990年に「ベルゼバブの孫への話」の日本語訳が出た。
ほんとうに分厚い本だった。安くはなかった。

仕事をしていない時期だったから買うのを見合わせた。
買っても読破するのに、そうとうてこずりそうだった。

「ベルゼバブの孫への話」も読んでいない私も、
グルジェフがいうところの、眠っている人形のような存在かもしれない。

だからといっていいのか、音楽を、その意味で聴くことの難しさは感じている。

睡眠から目覚めるために聴いているのか、
目覚めた状態で聴いているのか、
それとも眠った状態で機械的に聴いているだけなのか。

Date: 8月 13th, 2017
Cate: ジャーナリズム

オーディオ雑誌に望むこと(その1)

岩崎千明という「点」があった。
瀬川冬樹という「点」があった。

人を点として捉えれば、点の大きさ、重さは違ってくる。

岩崎千明という「点」が書き残してきたものも、やはり「点」である。
瀬川冬樹という「点」が書き残してきたものも、同じく「点」である。

他の人たちが書いてきたものも点であり、これまでにオーディオの世界には無数といえる点がある。

点はどれだけ無数にあろうともそのままでは点でしかない。
点と点がつながって線になる。

このときの点と点は、なにも自分が書いてきた、残してきた点でなくともよい。
誰かが残してきた点と自分の点とをつなげてもいい。

点を線にしていくことは、書き手だけに求められるのではない。
編集者にも強く求められることであり、むしろ編集者のほうに強く求められることでもある。

点を線にしていく作業、
その先には線を面へとしていく作業がある。
さらにその先には、面と面とを組み合わせていく。

面と面とをどう組み合わせていくのか。
ただ平面に並べていくだけなのか、それとも立体へと構築していくのか。

なにか、ある事柄(オーディオ、音楽)について継続して書いていくとは、
こういうことだと私はおもっている。
編集という仕事はこういうことだと私はおもっている。
     *
四年前に「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(はっきり書いておこう)」をそのままコピーした。
点を線にしていく、
線を面へとしていく、
面と面を、どう並べるのか。

雑誌は、面だと思う、本来は。
そうでないと感じる雑誌も多いけれど。

雑誌は定期的に出版される。
創刊号から最新号までの「面」をどう並べるのか。

ただただ順番に横一列に並べているだけにしか感じられない雑誌もある。
本来雑誌は、それまで出してきたバックナンバーという面によって、
立体を構築していくものではないのか。

Date: 8月 13th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

コンポーネントの経済考(その1)

瀬川先生の「コンポーネントステレオのすすめ」には、
「コンポーネントステレオの経済学」という文章がある。

そこには「標準的な価格をしらべる」という見出しがあり、
ブックシェルフ型に限定したスピーカーシステムの標準的な価格、
フロアー型まで含めた標準的な価格、プリメインアンプ、チューナー、レコードプレーヤー、
セパレートアンプについての標準的な価格が挙げられている。

この標準的な価格とは、
たとえばスピーカーなら市場にある最低価格と最高価格の籍の平方根(√)である。

これを、瀬川先生は瀬川平方根理論といわれていた。
もっとも瀬川先生自身、《多分に遊びと冗談がまじっている》と書かれているが、
《意外にこれが役に立つ》ともいわれている。

この瀬川平方根理論は、
熊本のオーディオ店の招きが定期的に来られていた時にも話されていた。
そしてそれぞれのジャンルの標準的な価格あたりが、製品が揃っている価格帯でもある、と。

当時(1970年代後半からの数年)は、瀬川平方根理論は当てはまっていた、といえる。
でも、いまはどうだろうか。
価格差のダイナミックレンジは、当時よりもいまのほうが大きくなっている。

この価格で、よく作れるな、とへんな感心のしかたができる低価格帯のモノが増えている。
一方で、一千万円を超えるモノも珍しくなくなってきている。

それに当時は各価格帯に製品がうまいこと揃っていた、ともいえる。
でも、いまはどうだろうか。
歯抜けのような印象を受ける。

それがいいとか悪いとかではなく、価格というレンジにおける製品の分布のありように、
小さからぬ変化が見られる、ということだ。

Date: 8月 12th, 2017
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(誰かに調整してもらうこととインプロヴィゼーション・その2)

ジャズのレコード(録音物)をオーディオによって再生する。
そのことをジャズオーディオというのであれば、
誰かに調整してもらって、そこでいい音になってくれれば、
自分で調整することなく、その音でジャズのレコードを聴く(楽しむ)。

運転手付きの車のことをシェーファードリブンカーという。
さしずめシェーファードリブンオーディオである。

それでもジャズがうまいこと鳴ってくれれば、ジャズオーディオといえよう。
けれどジャズスピリットオーディオかといえば、そうではない。

ジャズオーディオとジャズスピリットオーディオ。
わざわざ区別しなくとも……、という人もいようが、
私にとって、ジャズとオーディオのあいだにスピリットという単語がはいるかはいらないかは、
はい、そうですか、と引き下がるわけにはいかない。

ジャズスピリットオーディオを標榜するのであれば、
なにがなんでも己で調整しなければならない。

その1)で書いているが、
最初は誰かに調整してもらうのはいい。
そのことで自分のシステムの可能性を、自分の耳で確認できるからだ。

でもそのまま聴いていてはだめだし、
そこをスタート点にして、自分で調整していっても、
ジャズスピリットオーディオとはいえない。

その場合は、一度システムをバラして、自分でセッティングし直すところから始めなければならない。

ジャズにおけるインプロヴィゼーション、とことわらなくとも、
インプロヴィゼーションとは、本来不特定多数の人間を相手にしてのものではなく、
あくまでも特定少数を相手にしたときにこそ、
なんら規制を受けることなく発揮されるのではないのか。

こここそがジャズスピリットオーディオのはずだ。

Date: 8月 12th, 2017
Cate: 真空管アンプ

五極管シングルアンプ製作は初心者向きなのか(その15)

ここで書きたいのは、
先日別項『オーディオと「ネットワーク」(post-truth・その2)』で書いたこととかぶってくる。

何を求めて、真空管アンプを自作するのか。
結果という、いわば答だけを求めての自作をやる人が増えているのか。
少なくとも、そういう人は、伊藤先生がいわれたように最初から300Bで、ということになる。

最良の結果(答)のみが欲しいのであれば、
ラジオ球などのプッシュプルアンプを最初に、
それからステップアップしていく過程など、時間と手間と、費用の無駄ということになるだろう。

その過程をいやというほと経験しているからこそ、
300Bの優秀さ、それだけでなく有難味が心底わかるというものである。

昔はお金を出せば300Bが手に入るというわけではなかった。
ウェスターン・エレクトリックの製品、部品を手に入れたくとも、
入手困難というか無理という時代があった。

お金さえ出せば……、というふうになってきたのは、ここ二十年くらいではなかろうか。

なぜ自作をするのか。
その問いが理由といえよう。

問いを求めての行為だと、私はおもう。
もちろんそこには音という結果(答)もついてくる。

ついてくるからこそ、見極めてほしい。

Date: 8月 12th, 2017
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(AT-ART1000・その5)

余韻が短くなってきたな、と感じるのは、
オーディオのことではなく、社会全般のことだ。

小学生のころ、正月は長かった。
田舎町ということもあってだろうが、
大半の店が初売りは5日ぐらいだった、と記憶している。
店によっては7日に開けるというところもあった。

熊本にはポレエルというおもちゃ専門店があった。
ここだけが元日から営業していた。
それが珍しい存在だった。

それからオリンピック。
あのころは、オリンピックが終りしばらくして、
新聞社が出す写真誌(アサヒグラフ、毎日グラフ)が、
オリンピックの特別号を出していた(と記憶している)。

当時と今とでは、印刷のスピードが違う。
編集作業にかかる時間も、いまでは短縮されている。

オリンピックのような大きなイベントが終って、
すぐにでも特別号的なものを出版できるが、あのころは遅かった。

遅かったからこそ、
そこまでオリンピックという四年に一度の大きなイベントの余韻が持続していた、ともいえる。

こんなことを書いているのは、
オーディオでも同じことを感じはじめたからである。

オーディオテクニカのカートリッジAT-ART1000が、
ドイツのオーディオショウで発表された時、これは話題になる、と思った。

話題にはなった。
でも、私が思っていた話題になる、は、もう少し長く持続しての話題になる、だった。

けれど話題の余韻は、短かった。
AT-ART1000という製品の性格上・構造上、もっと持続してほしかった、と思う。

AT-ART1000を絶賛はしないが、このカートリッジは、
カートリッジを愛でる、という感覚からも、持続して取り上げられるモノだと思う。

Date: 8月 12th, 2017
Cate: コントロールアンプ像, デザイン

コントロールアンプと短歌(その6)

歌人の上田三四一(みよじ)氏は、短歌について
「活気はあるが猥雑な現代の日本語を転覆から救う、見えない力となっているのではないか」
と語られていることは、(その3)で書いている。

この上田三四一氏のことばを置き換える。
「活気はあるが猥雑な現代のオーディオを転覆から救う、見えない力となっているのではないか」
こう置き換えてみると、コントロールアンプの役割としてのバラストが、
どういうことであるのか、朧げながらではあるが少しははっきりしてくる。

ずっと以前から、優れたコントロールアンプは、ほんとうに少ない、
そういわれ続けてきている。
音だけなら……、けれどコントロールアンプとして見た時に……、
そんなこともいわれたりしてきている。

パワーアンプに優れたモノは多いし、ある意味広いともいえる。
けれどコントロールアンプとなると少ないし、狭いともいえるところがある。

ずっと以前から、そういわれているし、多くのオーディオマニア、
それにオーディオ評論家も、同じにおもってきている。

それでも、なぜなのか、についてはっきりと答えられる人はいなかった。
にも関わらず、多くの人がそう思っているということは、
コントロールアンプの役割を、ひじょうにぼんやりとではあるが、
それだけの人が認識している、ということなのかもしれない。

CDが主流となったころ、コントロールアンプは不要だ、とばかりに、
パッシヴのフェーダーを使う人も現れた。
実験、試みとしては、パッシヴ型フェーダーに関心はあったし、私もいくつか試した。

そういうことをやってみると、コントロールアンプの役割というものが、また見えてくる、
というより感じられてくる、といったほうが、より正しいか。

コントロールアンプはバラストとしての役割がある。
そのことを少なからぬ人がなんとなくではあっても感じていたから、
優れたコントロールアンプが、ほんとうに少ない、といわれ続けてきたのであろうし、
このバラストとしての役割を、作り手側がどれだけに認識しているのか、
そこがはなはだこころもとないから、優れたコントロールアンプが少ない理由とも思う。