Date: 8月 12th, 2017
Cate: コントロールアンプ像, デザイン
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コントロールアンプと短歌(その6)

歌人の上田三四一(みよじ)氏は、短歌について
「活気はあるが猥雑な現代の日本語を転覆から救う、見えない力となっているのではないか」
と語られていることは、(その3)で書いている。

この上田三四一氏のことばを置き換える。
「活気はあるが猥雑な現代のオーディオを転覆から救う、見えない力となっているのではないか」
こう置き換えてみると、コントロールアンプの役割としてのバラストが、
どういうことであるのか、朧げながらではあるが少しははっきりしてくる。

ずっと以前から、優れたコントロールアンプは、ほんとうに少ない、
そういわれ続けてきている。
音だけなら……、けれどコントロールアンプとして見た時に……、
そんなこともいわれたりしてきている。

パワーアンプに優れたモノは多いし、ある意味広いともいえる。
けれどコントロールアンプとなると少ないし、狭いともいえるところがある。

ずっと以前から、そういわれているし、多くのオーディオマニア、
それにオーディオ評論家も、同じにおもってきている。

それでも、なぜなのか、についてはっきりと答えられる人はいなかった。
にも関わらず、多くの人がそう思っているということは、
コントロールアンプの役割を、ひじょうにぼんやりとではあるが、
それだけの人が認識している、ということなのかもしれない。

CDが主流となったころ、コントロールアンプは不要だ、とばかりに、
パッシヴのフェーダーを使う人も現れた。
実験、試みとしては、パッシヴ型フェーダーに関心はあったし、私もいくつか試した。

そういうことをやってみると、コントロールアンプの役割というものが、また見えてくる、
というより感じられてくる、といったほうが、より正しいか。

コントロールアンプはバラストとしての役割がある。
そのことを少なからぬ人がなんとなくではあっても感じていたから、
優れたコントロールアンプが、ほんとうに少ない、といわれ続けてきたのであろうし、
このバラストとしての役割を、作り手側がどれだけに認識しているのか、
そこがはなはだこころもとないから、優れたコントロールアンプが少ない理由とも思う。

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