Archive for 4月, 2017

Date: 4月 6th, 2017
Cate: 再生音

実写映画を望む気持と再生音(その2)

明日(4月7日)、攻殻機動隊のハリウッド製作の実写版「GHOST IN THE SHELL」が公開になる。

観に行く予定である。
字幕版を、と当初は思っていた。
けれど先日、吹替え版のキャストが発表になり、
吹替え版を観たい、と思うようになっている。

どちらも観るであろう。
でも、どちらを最初に観ようか、とけっこう真剣に悩んでいる。
こんなこと、いままでの映画では考えもしなかった。

私にとって映画館で観る洋画は、字幕が当り前である。
いままで映画館で吹替え版は観たことがない。

それでも昔テレビがあった生活のころ、
日曜洋画劇場や金曜ロードショーなどでは、当然だけれど吹替え版となる。

家庭で小さいな画面では吹替え版というのが、習慣のようになっていた。

映画ではなくドラマはどうかというと、
音声多重放送などなかった時代から、テレビで海外ドラマは吹替え版で見ている。
吹替え版に馴染んでしまった、そのころの海外ドラマを、
いまHuluなどで字幕版でみると、違和感がある。

とはいえ最初から字幕版でみている海外ドラマに違和感はない。

それでも洋画を映画館で吹替え版で、とは一度も思ったことがないのに、
今回の「hGHOST IN THE SHELL」だけは、吹替え版を先に観ようか、と思う。

そのとき、なんらかの違和感があるのだろうか。

Date: 4月 6th, 2017
Cate: audio wednesday

ショールーム訪問(その3)

松田聖子の歌でいちばん聴いているのは「ボン・ボヤージュ」だ。
この曲があるのを、Kさんがaudio wednesdayでかけられるまで知らなかった。

どんな内容の歌なのかはインターネットで検索すればすぐに表示される。
恋人の初めてのお泊りの歌詞である。

喫茶茶会記でのaudio wednesdayで、何度となく「ボン・ボヤージュ」を聴いて、
どうでもいい歌詞だな、と思わないわけではなかった。

私一人だけがそう思っていたわけではなかった。

Kさんは昨日も「ボン・ボヤージュ」だった。
「ボン・ボヤージュ」でハーマンインターナショナルのショールームでの試聴ははじまり、
最後にかけたのも「ボン・ボヤージュ」だった。

電源はあらかじめ入れられていても、音を鳴られていたわけではないようで、
ウォームアップの時間は、やはり必要だった。

最初に鳴った「ボン・ボヤージュ」と最後に鳴らした「ボン・ボヤージュ」は同じ音ではない。

ハーマンインターナショナルの女性のスタッフも、
「ボン・ボヤージュ」は初めて聴かれたようだった。

最後に「ボン・ボヤージュ」の歌詞についての感想を述べられた。
ここでは書かないが、そういう受けとめ方は、我ら三人にはまったくなくて、
とても新鮮に感じた。

女性で母親という立場での「ボン・ボヤージュ」の聴き方。
今回得られたもので、いちばん大きいものといえる。

Date: 4月 6th, 2017
Cate: audio wednesday

ショールーム訪問(その2)

デジタル信号の伝送には、有線と無線とがある。
良質のケーブルを使っての有線接続が、
どんな規格の無線接続よりも音質は優れている、と一刀両断する人は、いる。

いまのところ、確かにそうであろうが、
これからは先はわからない。

同じソースを、ディスク、USB、有線接続、無線接続と試聴して、
本来ならば音の印象を述べるべきであるが、
今回はBluetoothのことなどまったく考えてもいなくて、
マークレビンソンのD/Aコンバーターを前にして、急に試してみたくなったので、
いいわけがましいが、厳密な試聴をしての印象ではない。

それでも、これだけの音で鳴るのか、というきが第一印象だった。
簡単に接続でき、iPhoneそのものが音源であると同時に、リモコン的でもある。

こんなに簡単に(安易に)、これだけの音が鳴るのか、と思うはずだ。
もちろん気になる点もあった。

これから改善されていくのかどうか、どこに問題があるのかは、
今回の試聴だけはなんともいえないが、
あなどれないな、というのが正直な感想である。

ハーマンインターナショナルのショールームの音は、まだまだと感じた。
以前知人宅で DD66000のセッティングをいくつか試した印象からすれば、
相当によくなるはずなのに……、と思うけれど、楽しい一時間半が過せた。

得るものがあった。

Date: 4月 6th, 2017
Cate: audio wednesday

ショールーム訪問(その1)

昨日のaudio wednesdayは、実は二部構成だった。
喫茶茶会記での19時からの回の前に、
常連のAさんとKさんの三人で、
六本木ミッドタウンにあるハーマンインターナショナルのショールームに行っていた。

メーカー、輸入元のショールームに行って音を聴くのはひさしぶりである。

ハーマンインターナショナルのショールームは、ハーマンストアの奥にある。
ハーマンストアが出来たばかりの頃、行っている。
ショールームには入らなかったが、意外に狭いな、とその時思っていた。

そんなこともあって、さほど期待していたわけでもなかった。
それでもJBLのフラッグシップモデルDD67000と、
マークレビンソンのフルシステムというのは、やはり聴いておきたい。

特にインターナショナルオーディオショウに、
ハーマンインターナショナルが出展しなくなっているのだから。

ショールームの予約はAさんがやってくれた。
時間は一時間。
ハーマンインターナショナルのスタッフが立ち会われる。

通常はオーディオに詳しい方なのだそうだが、昨日はたまたま休まれているとのことで、
女性のスタッフだった。

マークレビンソンのプレーヤーシステムは、各種フォーマットに対応している。
Kさんは持参されたCDを聴かれた。
AさんはCD、SACD、それからUSBを聴かれた。
私は、というと、CDは持ってきていたが、Bluetoothに対応しているとのことで、
こういうシステムで、いったいどの程度のクォリティで鳴るのか、
その興味の方がまさり、CDは聴かずに、iPhoneに入れているソースを聴いた。

iPhoneに入れているとはいえ、圧縮はしておらず、すべてAIFFでリッピングしたものだ。
マークレビンソンのD/Aコンバーターのン指揮はすんなりいった。
拍子抜けするくらい簡単である。

肝心なのは音である。

Date: 4月 6th, 2017
Cate: audio wednesday

第76回audio wednesdayのお知らせ(新アンプで鳴らす)

5月のaudio wednesdayは3日。
昨晩は喫茶茶会記のアンプ(マッキントッシュMA2275)の故障のため、
岩野氏製作のパワーアンプと、MA2275のプリアンプ部のみを使って鳴らした。

写真で見るよりもコンパクトなアンプだった。
音については、比較対象となるアンプがなかったのと、
いつもと違うセッティング(通常の喫茶茶会記のセッティング)だったため、
正確な音の把握はできていないし、
このアンプで商売をされているわけではなさそうだから、ここでそのアンプの音の詳細を書くつもりはない。

結局、MA2275は修理は行わず、新しいアンプへ入れ替えるとのこと。
MA2275は同じ個所がこれまでにも何度か故障していたらしい。
これは、MA2275に共通することなのか、
それとも喫茶茶会記にある個体だけの問題なのかははっきりとしない。

新しいアンプは、同じマッキントッシュのMA7900である。
2014年に登場しているから、新製品というわけではない。
MA2275が型番からわかるようにMC275のプリメインアンプ版といえそうなアンプに対し、
MA7900はトランジスターで、出力も二倍以上に増している。

機能面でもMCカートリッジ用のヘッドアンプ、
D/Aコンバーターも搭載している。
トーンコントロールもMA2275は2バンドだったが、5バンドになっている。
バランス入力も持ち、MA2275同様、プリ・パワーを分離できる。

デジタル入力はUSBも備えているし、
同軸・光入力では16ビット、24ビット、サンプリング周波数は32kHzから96kHzまで、
USBでは32ビット、192kHzまで対応している。

内蔵D/Aコンバーターの実力がどの程度なのかは知らないが、
audio wednesdayをやっていくうえで、これらの機能は有用である。

5月のaudio wednesdayは、まずMA7900の音とMA7900というアンプを楽しもう、と思う。

Date: 4月 5th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その3)

思いついたこととは、オーディオ評論家がオーディオ店店主だったら……である。

オーディオの専門家であるオーディオ評論家。
オーディオ店店主としての知識、経験、知恵などは持ち合わせている。

商売の腕は、人によって違うだろう。
うまくやっていけそうな人、どうにも苦手とする人……、
勝手に想像してみる。

店に客が多く集まっても、モノが売れるとは必ずしもいえないし、
客があまり来ず閑散としているようでも繁盛していることだってある。

想像するに、長岡鉄男氏はオーディオ店店主であっても、繁盛させたのではなかろうか。

私が通っていた熊本市内のオーディオ店の店主が言っていた。
1980年のころだ。

オーディオ評論家でSクラスは長岡鉄男氏ひとり、
Aクラスが菅野沖彦氏と瀬川冬樹氏のふたり、
他の人たちはBクラス、Cクラスにランクされている、と。

このランクづけを行っているのは、そのオーディオ店店主ではなく、
オーディオ業界、もっといえば国内メーカーということだった。
さらにいえば、おそらく営業関係者によるランクづけであろう。

さらにランクによってギャラの違いにまで、具体的な数字を挙げていた。
どこまで事実なのかははっきりしないが、大きくはズレていないはずだ。

そのころの私にとって瀬川先生よりも長岡鉄男氏がランクが上ということがすぐには信じられなかった。
でも、国内メーカーの売れ筋の製品にどれだけの影響力を持っているかということならば、
確かに瀬川先生、菅野先生よりも長岡鉄男氏が上にランクされるのは理解できた。

Date: 4月 5th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その2)

(その1)、(その2)……、と書き続けていくつもりはなかったけれど、
ふと思いついたことがあって、(その2)としている。

以前、オーディオ関係者と話していた。
なぜ、こんなにオーディオ界がひどくなったのか、ということになった。
その人は、まず第一にオーディオ店が挙げられる、といわれた。

仕事柄、全国のオーディオ店のかなりの数、行かれている。
ユーザーのところにも訪問されている。
オーディオ店店主とユーザーとの関係も見てこられている。
音も聴かれている。

そのうえでの発言である。
もちろんすべてのオーディオ店が……、ということではない。
けれどひどいところが多い。

そのことは多くの人が薄々感じていることかもしれない。
私もそう感じていたから、その実感のこもったことばをしっかり受けとめた。

だからといって、ここでオーディオ店批判をしていこうとは考えていない。
オーディオ界を悪くしている販売店もあれば、そうでない販売店もあるし、
良くする方向にもっていこうとしている販売店だってあるに違いない。

それからそれぞれの地域にそれぞれの事情といえることはあろう。
東京の販売店と小さな地方の販売店とでは、ずいぶんと環境は違うし、
それによって事情も違ってくるはず。
一概には語れないところがあるし、ユーザー(客側)からみた評価は、また違う。

私が熊本にいたころ、よく通っていた熊本市内のオーディオ店は、
ここでも書いているように瀬川先生を定期的に招かれていた。

私にとっては、それだけで、いいオーディオ店だった。
けれどステレオサウンドで働くようになって、
そのオーディオ店の業界内での評価(というより評判)を聞いて驚いた。
ひどい評判だったからだ。

このことはよくあることだ。
ユーザーからの評価と業界内での評価は、大きく違っていることが意外に多い、ということだ。
ここでのユーザーとは、販売店の客だけではない、
オーディオ雑誌を読んでいる人も含めてのことだ。

Date: 4月 4th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その1)

598のスピーカーについて書くことは、
長岡鉄男氏についても書くことになっていく。

昨年末にpost-truthについて、少しだけ書いた。
客観的な事実や真実が重視されない時代を意味する形容詞「ポスト真実」ということだ。

長岡鉄男氏の1980年代のやりかた、
つまりスピーカー、アンプを構成するパーツの重量をはかることは、
客観的な事実を書いているわけである。

音の表現。
長岡鉄男氏が、反応の速い音と感じたとしても、
すべての人が反応が速い音と感じると限らない。
感覚量であるからだ。

それは冷たい音、暖かい音といった音の温度感についてもいえる。
ある人が冷たい音と感じても、別の人はそうは感じないことはたびたびある。

こんな例は挙げきれないほどある。
一方、アンプのツマミの重量、ウーファーユニットのマグネットの重量は、
すべての人に対して客観的事実である。
重い、軽いは人によって違ってこようが、
ツマミの重量がこれだけ、マグネットの重量はこれだけ、というのは、
すべての人にとって同じであり、人によって500gが600gになるということは絶対にない。

オーディオにおける客観的な事実といえることといえば、
実のところ、こういったことぐらいである。

客観的な事実の提示、といえば、確かに長岡鉄男氏はそういうことになる。
その意味では、客観的な事実や真実が重視されない時代を意味する形容詞「ポスト真実」ではない。
けれど……、と考えてしまう。

ツマミやマグネットの重量、
他の個所に関しても重量が、音は無関係だとはいわない。
確かに関係はある。

しかも何度も書くが、重量は誰にとっても同じであり、客観的な事実ではある。
が、それは重視されること、それも他の要素よりも重視されることだろうか。

飛躍しているといわれそうだが、
長岡鉄男氏の、このやり方は、本人は意識されていなかったであろうが、
post-truthの先どりだったのではないだろうか。
そんな気がしている。

Date: 4月 4th, 2017
Cate: オーディオの「美」

人工知能が聴く音とは……(その2)

iPhoneにインストールしているGoogleアプリが、
「3月のライオンに興味のある方に」とカードを提示する。

すべてをクリックするわけではないが、いくつかはクリックする。
クリックした先で、また別のリンク先をクリックする。

そうやって今日、興味深い記事を見つけた。
二年前の記事だ。
タイトルは『羽生善治「コンピュータ将棋により人間が培った美意識変わる」』。
ぜひ読んでほしい。

オーディオのことはもちろん出てこないが、
オーディオの将来と聴き手の美意識について示唆的であり、考えさせられる。

後半のところだけ引用しておく。
     *
──より将棋を深められると。いいことばかりですか。
 
「いや、どうしても相容れられない部分もあると思います。人間の思考の一番の特長は、読みの省略です。無駄と思われる膨大な手を感覚的に捨てることで、短時間に最善手を見出していく。その中で死角や盲点が生まれるのは、人間が培ってきた美的センスに合わないからですが、コンピュータ的思考を取り入れていくと、その美意識が崩れていくことになる。それが本当にいいことなのかどうか。全く間違った方向に導かれてしまう危険性も孕んでいます」
 
──長い年月をかけて醸成されてきた日本人の美意識が問われている。
 
「変わっていくと思います。今まではこの形が綺麗だとか歪だと思われていた感覚が、変わっていく……」
     *
同じことはオーディオにもいえよう。

それから《人間の思考の一番の特長は、読みの省略》、
これはそのままオーディオのチューニングにおいてもそうである。

Date: 4月 4th, 2017
Cate: audio wednesday

第75回audio wednesdayのお知らせ(自作アンプを聴く)

4月5日のaudio wednesdayは「結線というテーマ」を予定していたが、
喫茶茶会記のアンプ(マッキントッシュのMA2275)が故障、
音無しでやる予定だったが、代りのアンプが届いた、とのこと。

写真だけで、詳細はあえてきかなかった。
写真には両側にヒートシンクをもつパワーアンプと、
その上にパッシヴアッテネーターらしきモノが写っていた。

岩野製アンプ、とのことだ。
製作者であろう岩野氏がどういう人なのか、まったく知らない。
あえてインターネットでも検索しなかった。

まったく情報のないままに、その岩野製アンプを聴いてみたいからだ。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 4月 3rd, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その10)

「ただの音楽愛好家にもどられた」なのか、
「真の音楽愛好家になられた」なのか、
どちらが正しいという類のことではない。

その人の立脚点が違うだけのことである。
その立脚点も、どちらが正しいとか、そういうことではない。

ただただ立脚点が違う、というだけのことだ。
それゆえの解釈の違いである。

このことはこの項のタイトル「所有と存在」にかかってくる。
ここで音は所有できない、音楽も所有できない、と書いてきている。

「音は所有できるのか」というタイトルは、まったく考えなかった。
あくまでも「所有と存在」である。

音は所有できない。
でも存在するものがある。
そう考える私は、オーディオマニアである、ということ、
そこから解釈している、ということだ。

Date: 4月 3rd, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その9)

「これで充分じゃないか」
そう心でつぶやく。

オーディオと格闘してきたながい時間をもつ者も、
まったくオーディオに理解を持たない者も、
「これでじゅうぶんじゃないか」という。

「じゅうぶん」は充分とも書くし十分とも書く。
後者のいう「これでじゅうぶんじゃないか」がどちらなのかはわからない。

音楽が好きで、好きな音楽を少しでもいい音で聴きたい──、
と思い行動するのがオーディオマニアだ、とながいこと思っていた。

でも十年ほど前から、どうも違うようだと感じつつある。
好きな音楽をいい音で聴くための、いわば行き過ぎた行為をする人を、
世間ではオーディオマニアと呼ぶ。

けれどそれだけではオーディオマニアか、どうかは判断できない。
そのことに気づいた。

システムにかけたお金の多寡でもないし、
専用のリスニングルームを建てたかどうかでもない。
そんな視覚的に捉えれることでは何も判断できない。

では出している音なのか。
いい音を出しているからといって、オーディオマニアだろうか。
音楽が好きでいい音で聴きたいと思っている人たちと、
オーディオマニアはどうも違う。

オーディオマニアでない前者の人たちの呼び方を考える時期なのかもしれない。

五味先生が病室で聴かれたシステム。
それで満足されていた、ということを読み、どうおもうかによって、
オーディオに関心と理解があっても、オーディオマニアがどうかがわかる、
いい音を出していても、オーディオマニアではないことがわかる。

むしろその方が幸せなことだと思う。
オーディオマニアではないことが幸せだろう。

この人たちは、五味先生はさいごに「ただの音楽愛好家に戻られた」というであろう。
オーディオマニアでないのだから、出てくることばである。

どうしようもなくオーディオマニアである私は、
「ただの音楽愛好家に戻られた」がひっかかる。

「ただの」がまずひっかかる。
「戻られた」にひっかかる。

オーディオマニアの私は、絶対にこうはいわない。
あえていうのであれば、「真の音楽愛好家になられた」である。

Date: 4月 3rd, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その8)

五味先生は病室で、テクニクスのSL10とSA-C02、
それにAKGのヘッドフォンで、音楽を聴かれていたことは、
当時のステレオサウンドを読んできた者は知っている。

オーディオのことに心を患わすことなく、音楽を聴かれていた──、のであろう。
この時、《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめ》ていたのか。

解釈はひとつではない。
そうともいえるし、そうでもないともいえる。

いい音をひたすら求めて、音とオーディオと格闘されたながい日々が背景にあったからこそ、
テクニクスの小型のアナログプレーヤーとレシーバー、AKGのヘッドフォンというシステムで、
音楽のみを聴かれていたのではないだろうか。

同じ、もしくは同じような体験は、ながくオーディオをやってきている人ならばあるはずだ。
マルチウェイの大型システム、
アンプはセパレートで、さらにはマルチアンプという人もいる。
おおがかりなシステムを丹念に調整してきて、満足のいく音を出せるようになる。

そんなある日、もっと簡潔なシステムで、
たとえばフルレンジと真空管アンプの組合せから鳴ってくる音、
いまではiPhoneに、ちょっと良質のヘッドフォン(イヤフォン)を組み合わせた音、
その音に、「これで充分じゃないか」と思ってしまう一瞬はあろう。

私は何度もある。
オーディオの仲間も、そんなことがあった(ある)といっていた。

でも、それは彼も私も、それまでオーディオと取り組んできた経験が背景にあるからこそ、
そういうシステムで音楽を聴いても「これで充分じゃないか」と思えるわけである。

それまでの経験がなんらかの作用をしての「これで充分じゃないか」のはずだ。
そう考えると、オーディオから離れて……、とはいえない。

私はそう考える。
いまはそう考えている。

Date: 4月 2nd, 2017
Cate: オーディオの「美」

音の悪食(その1)

音の美食家だ、と自身のことをおもっている人は、けっこういそうである。
けれど、音の悪食だ、とおもっている人は、どのくらいいるのだろうか。

かくいう私も、音の美食家とはおもっていないが、
だからといって音の悪食ともおもっていなかった。

けれど、いまごろになって、どうだったのだろうか、とふり返っている。
音の悪食といえる聴き方をしてきだろうか、とおもっている。

Date: 4月 2nd, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その7)

ステレオサウンド 39号。
瀬川先生の「天の聲」の書評が読める。
     *
「天の聲」になると、この人のオーディオ観はもはや一種の諦観の調子を帯びてくる。おそらく五味氏は、オーディオの行きつく渕を覗き込んでしまったに違いない。前半にほぼそのことは述べ尽されているが、さらに後半に読み進むにつれて、オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる。しかもこの音楽は何と思いつめた表情で鳴るのだろう。
     *
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
これはあくまでも、「天の聲」を読み進むにつれて──、のことである。

それでも……、と考える。

(その5)で引用したこととの関係だ。
     *
さて今夜はこれを聴こうかと、レコード棚から引き出してジャケットが半分ほどみえると、もう頭の中でその曲が一斉に鳴り出して、しかもその鳴りかたときたら、モーツァルトが頭の中に曲想が浮かぶとまるで一幅の絵のように曲のぜんたいが一目で見渡せる、と言っているのと同じように、一瞬のうちに、曲ぜんたいが、演奏者のくせやちょっとしたミスから──ああ、針音の出るところまで! そっくり頭の中で鳴ってしまう。
     *
そう、ここのところだ。
この時、《そっくり頭の中で鳴ってしまう》音楽は、
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽》ではないはずだ、ということをおもう。

レコード(録音物)で音楽を聴く人すべてがそうとは思っていない。
そのレコードを鳴らしたオーディオとは無関係の音で、
音楽が頭の中で鳴ってしまう人もいるだろうし、
そのレコードを鳴らしたオーディオと深く関係した音で、
音楽が頭の中で鳴ってしまう人もいよう。

後者がオーディオマニアなのだろう。