598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その1)
598のスピーカーについて書くことは、
長岡鉄男氏についても書くことになっていく。
昨年末にpost-truthについて、少しだけ書いた。
客観的な事実や真実が重視されない時代を意味する形容詞「ポスト真実」ということだ。
長岡鉄男氏の1980年代のやりかた、
つまりスピーカー、アンプを構成するパーツの重量をはかることは、
客観的な事実を書いているわけである。
音の表現。
長岡鉄男氏が、反応の速い音と感じたとしても、
すべての人が反応が速い音と感じると限らない。
感覚量であるからだ。
それは冷たい音、暖かい音といった音の温度感についてもいえる。
ある人が冷たい音と感じても、別の人はそうは感じないことはたびたびある。
こんな例は挙げきれないほどある。
一方、アンプのツマミの重量、ウーファーユニットのマグネットの重量は、
すべての人に対して客観的事実である。
重い、軽いは人によって違ってこようが、
ツマミの重量がこれだけ、マグネットの重量はこれだけ、というのは、
すべての人にとって同じであり、人によって500gが600gになるということは絶対にない。
オーディオにおける客観的な事実といえることといえば、
実のところ、こういったことぐらいである。
客観的な事実の提示、といえば、確かに長岡鉄男氏はそういうことになる。
その意味では、客観的な事実や真実が重視されない時代を意味する形容詞「ポスト真実」ではない。
けれど……、と考えてしまう。
ツマミやマグネットの重量、
他の個所に関しても重量が、音は無関係だとはいわない。
確かに関係はある。
しかも何度も書くが、重量は誰にとっても同じであり、客観的な事実ではある。
が、それは重視されること、それも他の要素よりも重視されることだろうか。
飛躍しているといわれそうだが、
長岡鉄男氏の、このやり方は、本人は意識されていなかったであろうが、
post-truthの先どりだったのではないだろうか。
そんな気がしている。