所有と存在(その9)
「これで充分じゃないか」
そう心でつぶやく。
オーディオと格闘してきたながい時間をもつ者も、
まったくオーディオに理解を持たない者も、
「これでじゅうぶんじゃないか」という。
「じゅうぶん」は充分とも書くし十分とも書く。
後者のいう「これでじゅうぶんじゃないか」がどちらなのかはわからない。
音楽が好きで、好きな音楽を少しでもいい音で聴きたい──、
と思い行動するのがオーディオマニアだ、とながいこと思っていた。
でも十年ほど前から、どうも違うようだと感じつつある。
好きな音楽をいい音で聴くための、いわば行き過ぎた行為をする人を、
世間ではオーディオマニアと呼ぶ。
けれどそれだけではオーディオマニアか、どうかは判断できない。
そのことに気づいた。
システムにかけたお金の多寡でもないし、
専用のリスニングルームを建てたかどうかでもない。
そんな視覚的に捉えれることでは何も判断できない。
では出している音なのか。
いい音を出しているからといって、オーディオマニアだろうか。
音楽が好きでいい音で聴きたいと思っている人たちと、
オーディオマニアはどうも違う。
オーディオマニアでない前者の人たちの呼び方を考える時期なのかもしれない。
五味先生が病室で聴かれたシステム。
それで満足されていた、ということを読み、どうおもうかによって、
オーディオに関心と理解があっても、オーディオマニアがどうかがわかる、
いい音を出していても、オーディオマニアではないことがわかる。
むしろその方が幸せなことだと思う。
オーディオマニアではないことが幸せだろう。
この人たちは、五味先生はさいごに「ただの音楽愛好家に戻られた」というであろう。
オーディオマニアでないのだから、出てくることばである。
どうしようもなくオーディオマニアである私は、
「ただの音楽愛好家に戻られた」がひっかかる。
「ただの」がまずひっかかる。
「戻られた」にひっかかる。
オーディオマニアの私は、絶対にこうはいわない。
あえていうのであれば、「真の音楽愛好家になられた」である。