所有と存在(その8)
五味先生は病室で、テクニクスのSL10とSA-C02、
それにAKGのヘッドフォンで、音楽を聴かれていたことは、
当時のステレオサウンドを読んできた者は知っている。
オーディオのことに心を患わすことなく、音楽を聴かれていた──、のであろう。
この時、《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめ》ていたのか。
解釈はひとつではない。
そうともいえるし、そうでもないともいえる。
いい音をひたすら求めて、音とオーディオと格闘されたながい日々が背景にあったからこそ、
テクニクスの小型のアナログプレーヤーとレシーバー、AKGのヘッドフォンというシステムで、
音楽のみを聴かれていたのではないだろうか。
同じ、もしくは同じような体験は、ながくオーディオをやってきている人ならばあるはずだ。
マルチウェイの大型システム、
アンプはセパレートで、さらにはマルチアンプという人もいる。
おおがかりなシステムを丹念に調整してきて、満足のいく音を出せるようになる。
そんなある日、もっと簡潔なシステムで、
たとえばフルレンジと真空管アンプの組合せから鳴ってくる音、
いまではiPhoneに、ちょっと良質のヘッドフォン(イヤフォン)を組み合わせた音、
その音に、「これで充分じゃないか」と思ってしまう一瞬はあろう。
私は何度もある。
オーディオの仲間も、そんなことがあった(ある)といっていた。
でも、それは彼も私も、それまでオーディオと取り組んできた経験が背景にあるからこそ、
そういうシステムで音楽を聴いても「これで充分じゃないか」と思えるわけである。
それまでの経験がなんらかの作用をしての「これで充分じゃないか」のはずだ。
そう考えると、オーディオから離れて……、とはいえない。
私はそう考える。
いまはそう考えている。