所有と存在(その7)
ステレオサウンド 39号。
瀬川先生の「天の聲」の書評が読める。
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「天の聲」になると、この人のオーディオ観はもはや一種の諦観の調子を帯びてくる。おそらく五味氏は、オーディオの行きつく渕を覗き込んでしまったに違いない。前半にほぼそのことは述べ尽されているが、さらに後半に読み進むにつれて、オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる。しかもこの音楽は何と思いつめた表情で鳴るのだろう。
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《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる》
これはあくまでも、「天の聲」を読み進むにつれて──、のことである。
それでも……、と考える。
(その5)で引用したこととの関係だ。
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さて今夜はこれを聴こうかと、レコード棚から引き出してジャケットが半分ほどみえると、もう頭の中でその曲が一斉に鳴り出して、しかもその鳴りかたときたら、モーツァルトが頭の中に曲想が浮かぶとまるで一幅の絵のように曲のぜんたいが一目で見渡せる、と言っているのと同じように、一瞬のうちに、曲ぜんたいが、演奏者のくせやちょっとしたミスから──ああ、針音の出るところまで! そっくり頭の中で鳴ってしまう。
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そう、ここのところだ。
この時、《そっくり頭の中で鳴ってしまう》音楽は、
《オーディオはすでに消えてただ裸の音楽》ではないはずだ、ということをおもう。
レコード(録音物)で音楽を聴く人すべてがそうとは思っていない。
そのレコードを鳴らしたオーディオとは無関係の音で、
音楽が頭の中で鳴ってしまう人もいるだろうし、
そのレコードを鳴らしたオーディオと深く関係した音で、
音楽が頭の中で鳴ってしまう人もいよう。
後者がオーディオマニアなのだろう。