Archive for 4月, 2017

Date: 4月 23rd, 2017
Cate: 再生音

実写映画を望む気持と再生音(ゴーストとレヴェリー)

「GHOST IN THE SHELL」と同時期にHuluで「ウエストワールド」の配信が始まった。
「ウエストワールド(Westworld)という映画があった。

1973年公開、マイケル・クライトン監督による作品。
映画館では観ていないが、テレビで放送された時に見ている。
ユル・ブリンナーという役者を知ったのもこの映画だったし、
顔が外れるシーンは強烈だった。

ドラマ版の「ウエストワールド」も映画をベースにした。
タイトルにもなっているウエストワールドは、体験型テーマパークであり、
マイケル・クライトンの「ジュラシック・パーク」と同じといえる。

後者は恐竜で、前者は人と見分けがつかないほど精巧なアンドロイドにるテーマパークである。

ドラマ版「ウエストワールド」の中に、レヴェリーという単語が出てくる。
字幕では「レヴェリー(夢幻)」と訳されている。

「GHOST IN THE SHELL」には、ゴーストという単語が出てくる。
ゴーストとレヴェリーは、近い。

ただしゴーストは義体であっても、脳は生身のままの脳であるから宿る。
レヴェリーは人工頭脳に宿る。

これから先、再生装置が高度になればなるほど、
そこに宿るものが生れてくるとしたら、どちらなのだろうか。

それともすでに、どちらかはあると感じているのだろうか。

Date: 4月 23rd, 2017
Cate: 再生音

実写映画を望む気持と再生音(GHOST IN THE SHELL)

昨晩、友人のAさんと食事をしていた。
「GHOST IN THE SHELL」の話もした。

Aさんはまだ観ていない、とのこと。
ならば、ぜひIMAXで観てほしい、と力説した。

Aさんと別れた後、電車の中でふと気になって調べてみたら、
東京でのIMAX上映はすでに終了している。
3Dでの上映はやっていても、IMAXではないのだ。
神奈川でも、もうやっていない。

他の地区まで調べはしなかったけれど、
「GHOST IN THE SHELL」のIMAXでの鑑賞はできないのかもしれない。

オーディオマニアにこそ、IMAXでの鑑賞をしてほしかっただけに残念だ。

Date: 4月 23rd, 2017
Cate: オーディオ評論, 選択

B&W 800シリーズとオーディオ評論家(その1)

数ある現行スピーカーシステムの中で、
もっとも欠点の少ないモノとして挙げるならば、B&Wの800シリーズとなろう。

800シリーズの新製品が出るとなると、オーディオ雑誌はページを割く。
モノクロ1ページではなく,カラーで数ページは割かれる。

オーディオ雑誌のウェブサイトでも、800シリーズの取り上げ方は力が入っている。

ユーザーの注目度も高い、と毎回感じる。
800シリーズの新製品の音に触れるたびに、興奮気味に語る人がいる。

それだけに800シリーズの新製品が、
オーディオ雑誌の賞に漏れることはない。必ず選ばれる、といえる。

けれど800シリーズを自宅で鳴らしているオーディオ評論家はいない──、
このことを指摘するオーディオマニアは、以前からいる。

「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」
事実を語っているだけであっても、言外にほのめかすのは、
人によっては違っているところもあるようだ。

ステレオサウンドの試聴室では、昔はJBLがリファレンススピーカーとして使われていた。
私が働き始めたころは4343から4344に切り替るタイミングで、
私がいた七年間の大半は4344が使われていた。

4344は上杉先生が使われていたし、
4343は瀬川先生、黒田先生がそうだった。

4341から始まったJBLの4ウェイ・スタジオモニターの年数と、
B&Wの800シリーズの年数は、もうB&Wの方が長い。

けれど誰も使っていない。

「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」には、
リファレンスとして頻繁に聴く機会があるから、も含まれているわけだが、
それでも、ほんとうに惚れ込んだスピーカーならば、買ってしまうわけだ。

Date: 4月 22nd, 2017
Cate: デザイン

「貌」としてのスピーカーのデザイン(その4)

DD66000のウーファーの下側には、レベルコントロールがあり、
通常はカバーで覆われている。

このカバーは簡単に外すことが出来る。
サランネットを外した音、さらにはこのカバーを外した音。
ここからDD66000の音が始まる、といえるかもしれない。

レベルコントロールのカバーを外した音と装着したままの音の違いは、
それほど大きいわけではないが、それでも一度その違いを聴いてしまうと、
カバー装着の音は聴きたいとは思わないし、無視できない違いであることは確かだ。

DD66000全体が、ひとつの大きな顔に見えてしまう理由のひとつが、
このカバーにもある。

カバー装着時の音は、鼻をつまんでいる話しているようにすら、
外した音を聴いてしまうと、そう感じてしまう。
つまりはカバーが、鼻の穴的にも思えてくる。

そうなると、二基のウーファーの中心には、バッフルが角度をもって接合されているため線がある。
この中心線が鼻筋に相当するかのように見えてしまう。
エンクロージュア下部(台座)の凹んだところが口、
一度そういうふうに捉えてしまうと、このイメージを払拭できないでいる。

だからといって、スピーカーシステムのデザインは、
フロントがフラットであるべき、などとは考えていない。

それでも……、と、DD66000を見ているとおもう。
デザイン、ネーミングの難しさである。

Date: 4月 21st, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その13)

虚構の「虚」とは、くぼんで、中があいているさま、と辞書にはある。
虚構とは、辞書には、
事実でないことを事実らしく作り上げること、また,作り上げられたもの、作りごと、とある。

虚構の世界には、何も満ちていいないのだろうか。
そうだとしたら、虚構世界であるオーディオに、感動することがあるのか。

──そんなことを考えていたら、上村一夫の「同棲時代」が浮んだ。
「同棲時代」の、もっとも知られているであろうシーンである。

男と女が向いあっている。
ふたりの横顔のあいだに、独白がある。
どちらかのセリフというわけではない。
     *
愛はいつも

いくつかの過ちに
満たされている

もしも愛が
美しいものなら

それは男と女が犯す
この過ちの美しさに
ほかならぬであろう
     *
虚構世界も、もしかすると過ちに満たされているのか──、
そう思いたくなる。

過ちの美しさがあるからこそ、なのかもしれない。

Date: 4月 20th, 2017
Cate: ケーブル

ケーブルはいつごろから、なぜ太くなっていったのか(その19)

ケーブルによる音の違いについて語られるときに、
電流密度というキーワードが出てくることがある。

身近な例でいえば、ホースと水量の関係である。
径の太いホースにちょろちょろと水を通す。
ケーブルで、同じ状態を電流密度が低い、という。

径の細いホースに大量の水を通す。
ケーブルでは、電流密度が高い、ということになる。

低能率で低インピーダンスのスピーカーで、
しかも大音量で聴くのであれば、太いケーブルでも電流密度が低くなることは、
まずないだろう。

反対に高能率でインピーダンスが16Ωと高いスピーカーであれば、
太いケーブルを使うと電流密度は低くなる。

電流密度と音との関係は、測定できる性質のものではないだろう。
電流密度が低いよりも高いほうが、いい結果が得られるという感覚的なものがある。

ラインケーブルであれば電流密度を高くしたければ、
受け側のインピーダンスを低くすればいい。

パワーアンプの入力インピーダンスを1/10にすれば、
ラインケーブルを流れる電流値は10倍になる。
電流密度は高くなる。

確かに昔から、受けのインピーダンスは高いよりも、
過負荷にならない程度に下げたほうがいい、という人は少なくなかった。

その一方で、受けのインピーダンスを1MΩまで高めたほうがいい、という人もいる。
ジェームズ・ボンジョルノもSUMOのパワーアンプでは、
アンバランス入力のインピーダンスは1MΩにしていた。

マークレビンソンが1MΩにする十年ほど前のことである。

Date: 4月 19th, 2017
Cate: ディスク/ブック

チャイコフスキー ピアノ協奏曲(アルゲリッチ/コンドラシン)

チャイコフスキーのピアノ協奏曲は、よく知られている曲だが、俗曲である──、
そんなイメージを中学生のころから持っていた。

だからというわけではないが、チャイコフスキーのディスクはあまり持っていない。
そんな私でも、アルゲリッチがコンドラシンと協演したディスクは、
発売後まもなくして買った。

ライヴ録音ということもあって、話題になっていた。
火を噴く演奏だ、という評判だった。
当時はまだCDは登場していなかったから、LPだった。
白いジャケットだったはずだ。

実は、これが最初に買ったチャイコフスキーのレコードだった。
それから30数年経っても、チャイコフスキーのディスクは、あまり増えてない。

このLPもずっと以前、手離してしまっている。
それから聴くことはなかった。
なのに、急に聴きたい、と思うようになった。

きっかけは特に思いあたらないのだが、
アルゲリッチとコンドラシンのチャイコフスキーが聴きたい、と強く思うようになっていった。

廉価盤のCDで出ている。
LPではチャイコフスキーだけだったが、
CDではシャイーとのラフマニノフの三番もカップリングされている。

チャイコフスキーのピアノ協奏曲は、多くの録音がある。
有名な曲だけに、そして売れる曲だけに名演も少なくないのだろう。

グレン・グールドも、チャイコフスキーを録音する予定があった。
CBSソニーの小冊子に、そのいきさつが書いてあった。
流れてしまった企画だが、もしグールドが録音していたら、
そうとう売れたことだろう。グールドのレコードで一番の売行きになったかもしれない。

アルゲリッチとコンドラシンの演奏は、もう二十年以上聴いていない。
ひさしぶりに聴いて、当時の印象が、ほぼそのままよみがえってきた。

この演奏に厳しい評価を下す人もいるようだが、
私には、チャイコフスキーのピアノ協奏曲はこ演奏だけでいい。
あれこれ聴き比べをしたいとは思わない。

次回のaudio wednesdayでは、このディスクをかけようか。

Date: 4月 19th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その6)

漢文学者・ 東洋学者の白川静氏によれば、
【くるう】という言葉は「くるくる回る」という場合の【くる】ね、
「くるくる」と同じ語源だそうで、
獣が自分の尻尾を追いかけてくるくる回ったりする、理解できない動作をする、
それが【くるう】ということ、だそうだ。

自分の尻尾を追いかけまわす、
こんな馬鹿げていて、無駄な行為はないだろう。
でも、それが狂っている、ということなのだ、ともおもう。

その意味からすると、確かに長岡鉄男氏は狂っていなかった。
常識人である。
だからこそ、長岡鉄男氏はあれほどコスト・パフォーマンスについて語られたのではないのか。

長岡鉄男氏は1926年1月5日生れである。
ぎりぎり大正生れである。

岩崎先生が1928年、井上先生が1931年、菅野先生、山中先生、長島先生が1932年、
瀬川先生が1935年生れだから、
長岡鉄男氏もラジオやアンプの自作の経験があるはずである。

以前、国産メーカーに勤務されていた方からきいたことがある。
昔の秋葉原は、テープデッキのヘッドも売っていた店があったそうで、
長岡鉄男氏はアンペックスのヘッドをその店から購入し、テープデッキを自作された、とのこと。

スピーカーの自作で知られていただけに、この話をきいたときは、
意外な感じもしたが、この時代の人だから、自作は当然のことだとも思った。

Date: 4月 19th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その5)

長岡鉄男氏は常識人──、ということに同意する人はどのくらいなのだろうか。

長岡鉄男氏の熱心なファンであった人たち(いまもそうである人たち)は、
果して長岡鉄男氏を常識人としてみているのだろうか。

書き手には熱心な読み手が、たいていはいる。
オーディオ評論家も同じで、長岡鉄男氏には、信者とよばれるほどの熱心な読み手がいた。

私も瀬川先生、五味先生の熱心な読み手であるが、
だからといって瀬川教の信者、五味教の信者とは思っていない。

けれど長岡鉄男氏の熱心な読み手は、そうでないようだ。
自他共に認める長岡教の信者であったりする。

私は、このことが長年不思議に思えていた。
なぜ、信者と呼ばれることに喜びを感じるほどの読み手がいるのか。

長岡鉄男氏がなくなられて20年近くが経つ。
いまだに中古市場で、長岡鉄男氏が絶賛されたオーディオ機器は人気がある、ときく。
長岡鉄男氏の本もいまだ人気がある、ともきいている。

これらのことも、私にとっては、なぜ? だった。

私の中での、このことについての結論は、
長岡鉄男氏は常識人だったから、である。

表現をかえれば、長岡鉄男氏は狂っていなかった、からだ。
狂っていない、という意味での、長岡鉄男氏は常識人なのである。

Date: 4月 19th, 2017
Cate: ディスク/ブック

A DAY IN THE LIFE

「A DAY IN THE LIFE」

ステレオサウンド 16号にディレクター論の二回目が載っている。
菅野先生と岩崎先生による「クリード・テイラーを語る」である。

この中に「A DAY IN THE LIFE」のことが出てくる。
     *
岩崎 ちょっと恥ずかしいんですが、ぼくは少し前までは「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」を聴かないと一日が終わったという気がしなかったものです。それくらいこの人のレコードは好きなんですね。あのレコードを毎日毎日聴いていた。まるで麻薬、音楽の麻薬みたいなものですよ。あの企画は、時代の感覚を鮮明に盛りこんだ音というのは、まちがいなくクリード・テイラーの音だと思うのです。
     *
「クリード・テイラーを語る」の記事の前半を読めば、
「A DAY IN THE LIFE」が、
クリード・テイラーがA&Mにスカウトされて最初に出したアルバムということが、
ジャズに明るくない私にもわかる。
ウェス・モンゴメリーのアルバムだ、ともわかる。

16号を読んだ時から、いつか買おう、と思っていたけれど、
クラシックばかり聴いていると、つい後回しにしてしまう。
後回しにしているうちに、買おうという気持とともに、
「A DAY IN THE LIFE」のことも記憶の片隅に追い払っていたようだ。

でも、なにかの拍子に、突然思い出す。
そうだそうだ、「A DAY IN THE LIFE」を買わなくては、と気づく。

気づくまでにけっこうな月日が経っている。
悠長な買い方をしているわけだ。

聴いていて、曲の展開に少し驚いた。
こういう曲だったのか、と思うとともに、
16号で、岩崎先生が「ちょっと恥ずかしい」といわれている理由が、わかったような気もした。

「A DAY IN THE LIFE」を1960年代のおわりごろに、
岩崎先生は毎日聴かれていた。

Date: 4月 18th, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その12)

私は、音も音楽も所有できない、と何度も書いてきている。
他の人が、そんなことはない、現実に所有できる、と思われていようと、
それはそれでいい、と思っている。

人は人である。

といいながらも、やはり気になる人がいる。
瀬川先生は、どうだったのだろうか、
五味先生は……、と考えてしまう。

ステレオサウンド 24号「良い音とは、良いスピーカーとは?」で、こんなことを書かれている。
     *
 レコードにはしかし、読書よりもさらに呪術的な要素がある。それは、レコードから音を抽出する再生装置の介在である。レコードは、それが再生装置によって《音》に変換されないかぎり、何の値打もない一枚のビニール平円盤にすぎないのである。それが、個人個人の再生装置を通って音になり、その結果、レコードの主体の側への転位はさらに完璧なものとなる。再生音は即原音であり、一方、それは観念の中に抽象化された《原音のイメージ》と比較され調整される。こうしたプロセスで、《原音を聴いたと同じ感覚》を、わたくしたちは現実にわがものとする。
 言いかえるなら、レコードに《原音》は、もともと実在せず、再生音という虚像のみが実在するのである。つまり、レコードの音は、仮構の、虚構の世界のものなのだ。映画も同じ、小説もまた同じである。
     *
瀬川先生は、著書の「虚構世界の狩人」というタイトルを気に入られていた、ときいている。
上の文章にも、レコードには、再生音という虚構のみが実在する、と書かれている。

はっきりと、どこかに音は所有できない、音楽は所有できない、と書かれているわけではない。
少なくとも私がこれまで読んできた中には、なかった。

けれど、少なくとも音は所有できない、と思われていたのではないだろうか。

Date: 4月 17th, 2017
Cate: デザイン

「貌」としてのスピーカーのデザイン(その3)

4350とDD66000は、同口径のダブルウーファーとはいえ、
ユニット構成で違うところがある。

4350は4ウェイで、12インチ口径のミッドバスがあり、
中高域のホーンも音響レンズ付きで、大きさもそれほどではない。
DD66000にはミッドバスはなく、中域ホーンも大きく横に長い。

だからDD66000全体が、何かの顔に見えてくるわけではない。
DD66000と同じといえるユニット構成のスピーカーは、昔からあった。

横にウーファーを二基並べ、その上に大型のホーンという構成は、
むしろ以前のほうが多かった、といえる。

それらのスピーカーシステムをすべて聴いているわけではないが、
いくつかは音を聴いているし、大半は実物を見えてもいる。

つまりDD66000以前、それらのスピーカーシステムを見ても、
何かの顔をイメージすることは一度もなかった。

なのに、なぜDD66000は違うのか。

ユニット構成、ユニット配置に起因することではなく、
デザインに起因する。

DD66000以前の同種のスピーカーシステムは、
フラットなフロントバッフルにスピーカーユニットが取り付けられていた。

ウーファーだけがエンクロージュアにおさめられ、
ホーンはエンクロージュア上部に置かれているシステムでも、
フロントバッフルはフラットである。

DD66000の二基のウーファーが取り付けられているバッフルは、
一枚のフラットな板ではない。

それぞれのウーファーを取り付けた板が、角度をもって接合されている。
それだけでなく、DD66000のフロントは、全体的にフラットとはいえない。

中高域のホーンも、ホーン単体で構成されているのではなく、
ホーンの左右は、エンクロージュアの一部でもある。

エンクロージュア下部は、中央が奥に曲線を描いて引っ込んでいる。
ウーファーバッフルの中央が、同一線上にあり、前に出ているのと対照的である。

DD66000のデザインをわかりやすくいうなら、
凹凸のあるデザインであり、私には成功しているとは到底思えないのだ。

Date: 4月 17th, 2017
Cate: デザイン

「貌」としてのスピーカーのデザイン(その2)

私が小学生のころ、テレビではゲゲゲの鬼太郎のアニメが放送されていた。
その影響もあるのかもしれない……、と自分でも思っているのだが、
DD66000は、ゲゲゲの鬼太郎に登場するぬりかべに近い、別種のいきもののように見えてくる。

ぬりかべの顔は、ほぼ全身といえるし、
目は小さい、鼻も口もない。
ぬりかべは丈夫で大きな体を活かして活躍する妖怪で、
手足は短く、のそのそとある。

その歩くイメージがDD66000に重なってくる。

つまりDD66000の15インチ口径のウーファー二基が、
目として認識してしまう。
ウーファーの上にある中域ホーンは、左右が一本につながってしまった眉、
もしくは深く太い皺のようにも見えてしまう。

巨大な顔が、目の前にある。
それも左右で二基のDD66000だから、至近距離にふたつの、得体の知れないいきものの大きな顔がある。

それがこちらに向って、のそのそと近づいてくる──。

言葉にする上で、省略しているところもあるが、
そんな感じを受けてしまい、聴いていて気持悪くなってきた。

これまでにも15インチ口径のダブルウーファーのスピーカーシステムは、
いくつも聴いてきている。

DD66000と同じJBLの4350、4355は何度も聴いているし、
サランネットを外して、かなり長時間聴いてもいる。
それでも、そんな印象はまったく受けなかった。

DD66000の写真をみた時から、何か顔みたいだな、とは薄々感じていた。
でも、すぐにはなぜ、そう感じるのかはつかめなかった。
実際に目の前にDD66000が二基ある状態で音を聴いて、つかめたといいえるところがある。

Date: 4月 16th, 2017
Cate: デザイン

鍵盤のデザイン(その1)

インターネットで検索、
検索結果のURLをクリック。
そのウェブサイトで、またリンク先をクリック……。

こんなふうに書かなくともネットサーフィンと書けばすむのはわかっていても、
死語ともいえそうな言葉を使うのは、ちょっと抵抗がある。

つまりはネットサーフィンをしていたわけだ。
それで見つけたのが、「ピアノ300年の歴史を変える──未来鍵盤が音もデザインする」。

こういうタイトルの記事は、読むとたいてはがっかりする。
記事の冒頭には、こうある。
     *
ピアノの鍵盤は、白鍵と黒鍵が互い違いに組み合わさったものだ。だが、ひとりの天才ピアニストがその常識に真っ向から挑み、新しい鍵盤を生み出した。白鍵と黒鍵が段差なく一直線に並ぶ、その新しい鍵盤は、究極の音を求めた結果だ。
     *
天才ピアニスト、いったい誰だよ? という感じで読みはじめた。
新しい鍵盤の写真が、まず目に入る。

見慣れたピアノの鍵盤とは、違う。
ただ段差がなくなっているだけではない。
記事を読んでいくと、天才ピアニストが誰なのかが、わかる。
菅野邦彦氏だった。

もうこれだけで十分なはずだ。
GQ JAPANの元記事を読んでいただきたい。

聴いてみたい、と思う。
それも菅野先生の録音によって聴いてみたい、とおもう。

Date: 4月 16th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その4)

私が長岡鉄男という名前を知ったのは、電波科学でだった。
1976年ごろ、長岡鉄男氏は電波科学に二ページのコラムを連載されていた。

肩の凝らない、漫談的内容だった、と記憶している。
まだ中学生だった私は、けっこう楽しく読んでいた。
そのころは、まだ長岡鉄男氏のオーディオ機器の試聴記事、評論は読んでいなかった。

FM誌のはずだ、最初に長岡鉄男氏の試聴記事を読んだのは。
正直、あまり面白く感じなかった。
電波科学の連載コラムの面白さは、感じなかった、というか、
そこには微塵もなかった。

コラムと試聴記事という違いはあっても、
その落差にがっかりしたのかもしれない。

一本や二本くらいの試聴記事でそう感じたわけではなかった。
FM誌は、ほぼ毎号買っていたから、そこそこ読むことになる。
その他に、ステレオサウンドをはじめオーディオ雑誌はそこそこ講読していたから、
長岡鉄男氏の書かれたものは、読んでいた。

小遣いをやりくりして買った雑誌だから、すみずみまで読んでいた。
それでも長岡鉄男氏の書かれたものは、必ず読むというわけではなくなってきた。

ラジオ技術の1997年1月号では、
長岡鉄男氏は、自身のことを「常識人」と書かれている。

この「常識人」をどう受け取るかは、人によって違うのだろうか。
私は、すんなりそうだな、と受けとめた。

私が長岡鉄男氏の書かれたものを読まなくなってきたのは、
結局のところ、長岡鉄男氏は常識人だったから、といえる。