598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その5)
長岡鉄男氏は常識人──、ということに同意する人はどのくらいなのだろうか。
長岡鉄男氏の熱心なファンであった人たち(いまもそうである人たち)は、
果して長岡鉄男氏を常識人としてみているのだろうか。
書き手には熱心な読み手が、たいていはいる。
オーディオ評論家も同じで、長岡鉄男氏には、信者とよばれるほどの熱心な読み手がいた。
私も瀬川先生、五味先生の熱心な読み手であるが、
だからといって瀬川教の信者、五味教の信者とは思っていない。
けれど長岡鉄男氏の熱心な読み手は、そうでないようだ。
自他共に認める長岡教の信者であったりする。
私は、このことが長年不思議に思えていた。
なぜ、信者と呼ばれることに喜びを感じるほどの読み手がいるのか。
長岡鉄男氏がなくなられて20年近くが経つ。
いまだに中古市場で、長岡鉄男氏が絶賛されたオーディオ機器は人気がある、ときく。
長岡鉄男氏の本もいまだ人気がある、ともきいている。
これらのことも、私にとっては、なぜ? だった。
私の中での、このことについての結論は、
長岡鉄男氏は常識人だったから、である。
表現をかえれば、長岡鉄男氏は狂っていなかった、からだ。
狂っていない、という意味での、長岡鉄男氏は常識人なのである。