オーディオの想像力の欠如が生むもの(その12)
オーディオの想像力の欠如がしたままでは、おもしろいオーディオ雑誌はつくれない。
それはたがやされていないからだ。
オーディオの想像力の欠如がしたままでは、おもしろいオーディオ雑誌はつくれない。
それはたがやされていないからだ。
CHORDのHUGOに接ぐのがソナス・ファベールのMinima Amatorではなく、
ロジャースのLS3/5Aだったら……、と想像してしまう。
見た目はMinima AmatorもLS3/5Aもそう大きくは違わない。
サイズも、ユニット構成も近い。
けれどネットワークは大きく違う。
LS3/5Aの特に15Ωのネットワークは、
6dB/oct.のネットワークからすれば、部品点数も多いし、
スロープ特性も、それからロス(損失)に関しても違う。
Minima Amatorのように、LS3/5Aは鳴ってくれるだろうか。
LS3/5Aを、昔GASのコントロールアンプThaedraで鳴らしたことは書いている。
精緻で緻密な音がした。
私にとって忘れられないLS3/5Aの音である。
Thaedraのラインアンプの終段は、
パワーアンプのドライバー段に相当するといえるもので、発熱量もかなりある。
電源も十分ゆとりのある構成だったからこそ、
LS3/5Aから、あの音が聴こえてきた、ともいえるところがある。
Thaedraのラインアンプと電源部と比較すれば、HUGOはスマートすぎる。
それに規模も小さい。
ネットワークが複雑なLS3/5Aをうまく鳴らせるのか、とどうしてもおもう。
うまく鳴るのかもしれない。
インピーダンス的には15Ωという値は、負荷としては軽くなる。
けれど……、という部分がどうしてもつきまとう。
オーディオは鳴らしてみなければわからないところがある。
LS3/5Aの15Ω版も、HUGOはうまく鳴らしてくれる可能性はある。
けれどMinima Amatorとのシステムほどにミニマルといえるだろうか。
(その16)にコメントをいただいている。
ソナース・ファベールのMinima Amatorを、
CHORDのHUGOで、直接鳴らされている方からのコメントである。
いい音が鳴っている、とある。
そうだろうと思う。
Minima Amatorは大きなスピーカーではない。
小口径ウーファーとドーム型トゥイーターの小型2ウェイ。
このころのソナス・ファベールのスピーカーシステムのネットワークは、
6dB/oct.のシンプルなものだったはずだ。
6dB/oct.のネットワークはシンプルといえるし、
部品点数からいってミニマルな構成のネットワークでもある。
同じ小型スピーカーで、Minima Amatorと同じ程度の能率のスピーカーであっても、
ネットワークが複雑な構成であったならば、
HUGOで直接鳴らしての結果は、少し違ったものになる可能性がある。
HUGO + Minima Amatorhは、ミニマルなシステムといえる。
もちろん制約もある。
Minima Amatorの能率はさほど高くない。
パワーアンプなしなのだから、音量を望むことはできない。
その意味で、音量面でのミニマルといえる。
それだけに、深夜ひとりでしんみりと、
ひっそりとした雰囲気を漂わせる音楽に聴き耽るのであれば、
これで充分ではないか、と思わせてくれるだけでなく、
これ以上はむしろ邪魔なのでは、と思わせてくれるのかもしれない。
DL103が登場する前に、モノーラルのMC型カートリッジDL102がある。
DLナンバーになったのは、DL102の方が先である。
facebookでのコメントには、DLのLは、
DL102になり、それまでのPUCシリーズよりも針圧が軽くなっていて(それでも3g)、
当時としては軽量針圧カートリッジということで、
ライト(light)ではないだろうか、とあった。
なるほど、そういう考えもあるな、と思った。
Lから始まる単語は多い。
知っている単語よりも知らない単語の方が多いのだから、
何が正解なのかは、当時のデンオンの人以外わからない。
だからこそ、こうやって考える楽しみがある、ともいえる。
デンオンの型番では、オープンリールデッキのそれもはっきりとしない。
DHから始まる型番なのだが、
DはDENONの頭文字だろうが、Hがまったく見当がつかない。
ちなみにカセットデッキはDRで始まる型番で、
こちらはおそらくDENON Recorderであろう。
ダイヤトーンのDS1000は、レスポンスに優れたという意味では優秀なスピーカーといえる。
クセのまったくないスピーカーとはいわないが、
特に目立った大きなクセはない。
これはレスポンスの良さを追求した結果であろう。
その意味で、DS1000はスピーカーを鳴らす基本を身につけるための道具としては、
相当に優秀といえる。
オーディオマニアとしての腕。
それを身につけ磨くためには、何が必要なのか。
まず道具が要る。
オーディオのシステムである。
特にスピーカーシステムは重要といえる。
そしてひたすら鳴らして込んでいくわけだが、
オーディオはどうしても、いわば独学となってしまうことが多い。
リスニングルームという個室で、ひとりで音を追求していく。
誰かのリスニングルームに行き音を聴き、
自分のリスニングルームに来てもらい音を聴かせる──、
ということをやっても、実際の音の追求はひとりでの作業であり、
その作業において、誰からに見られているわけでもないし、
誰かのその作業をつぶさに見ているわけでもない。
私は使いこなしについてきかれると、
セックスにたとえる。
たとえが悪いと眉をしかめる人もけっこういるが、
どちらも密室での行為である。
誰かのセックスという行為を、
最初から終りまで傍らでじっと見ていたという経験を持っている人は、ごくわずかだろう。
他人のセックスという行為を見る機会はまずない。
アダルトビデオがあるとはいえ、あれは一種の見せ物としての行為であり、
あそこでの行為のすべてを、実際の行為への参考とするわけにはいかない。
結局相手の反応をみながら、身につけていくというところは、
オーディオの使いこなしもセックスも同じ行為と考えている。
つまり、どちらもひとりよがりになる、という点も共通している。
オーディオ雑誌の編集者は、何をわかっているべきなのだろうか。
そのことを考えることが多くなった。
ステレオサウンドをはじめ、オーディオ雑誌がつまらなくなった、
もっといえばダメになっているからだ。
ダメになったオーディオ雑誌に何を期待する?
と言われようが、私はやはりおもしろいオーディオ雑誌を読みたい。
オーディオには読む楽しみが確実にある。
その楽しみを満たしてほしい、と思いながら、ブログを書いているところがある。
おもしろいオーディオ雑誌に、いまあるオーディオ雑誌がなってくれたら、
ブログを書くのは終りにしてもいい、と思っている。
残念ながら、その傾向は感じられないから、書いている。
今日も書いている。
書き手には書き手の気持がある。
読み手には読み手の気持がある。
時として、書き手と読み手の気持が重なるところに発する光がある、
私はそう感じている。
その光を感じたいのだ、オーディオ雑誌に、オーディオ評論に。
型番とは、そのオーディオ機器のいわば名前である。
名前をおろそかにつける親はいないのとと同じで、
きちんとしたメーカーであれば、自社製品の型番をおろそかにはしない。
そして型番にはそれぞれのメーカーにつけ方のルールがあろう。
アルファベットと数字の組合せからなるのが、大半の型番だけに、
アルファベットが示す意味と、数字が示す意味とは分れる。
ラックスの型番にもルールがあった。
あえて過去形で書いている。
前回(その6)で書いているように、
最初のアルファベットが二文字のときは数字との間にハイフンは入らない、
一文字の場合は数字との間にハイフンがはいる、というルールがあった。
どういう意図で、この型番のつけ方が決ったのかはわからない。
これは知りたいと思っていることのひとつである。
歴史の長いメーカーだと、そのルールをつくった人がすでにいないことも多い。
明文化されていないルールなのかもしれない。
だからいまのラックスはアルファベットが二文字でもハイフンを入れている。
ルールは時代によって変っていってもいい、と考えている。
でも、ラックスの型番に関しては、アルファベット二文字でもハイフンが入るのには、
わずかとはいえ違和感を感じてしまう。
ラックスらしさが消えてしまったかのようにも感じるのだ。
ささいなことといえば、確かにそうだ。
でも、そのささいなルールを変えたのか、破ってしまったのか、
それともルールがあったことすら知らないのか。
ならば型番自体も大きく変えてしまえばいいと思うのだ。
以前からある型番を受け継ぎながらつけていくのであれば、
そこにあったルールを守るべきだ、と私は思う人間だ。
しかも、同じことがラックスの場合、
アンプのパネルフェイスに関してもいえるのが、深刻なように感じてしまう。
LX380を見て、伝統のデザインといえるだろうか。
カートリッジと書いているけれど、
正確にはピックアップカートリッジ、フォノカートリッジであり、
カートリッジ(cartridge)には、薬莢、弾丸という意味がある。
デンオンのカートリッジの型番DLのLが何をさすのか。
ロード(load)と思ったのは、このことと関係する。
loadにはいくつかの意味があり、そのひとつに、
〈銃砲に〉弾丸を込める、装填する、がある。
ピックアップカートリッジ(そういえば、DL以前はPUCという型番だった)を、
トーンアームに装着する意味をこめてのロード(load)かもしれない。
さらにloadには、読み込むという意味もある。
〔ディスクなどから〕 〈プログラムなどを〉(本体の主記憶に)ロードする、読み込む、である。
アナログディスクから情報を読み込むのもloadである。
このふたつの意味からDLのLをロード(load) と考えたわけだ。
これが正しいのかはわからない。
他の意味があるのは、それとも意味などなかったのかもしれない。
さらにロードには、lordもある。
映画「ロード・オブ・ザ・リング」のロードであり、
イギリスのドラマ「Doctor Who」に登場するタイムロードのロードも、lordのロードである。
(オーディオの輸入商社のタイムロードは、ここからとられている。)
lordは主君、支配者のことである。
ディスクの主君のDL。これもあるのかもしれない。
沖縄でのオスプレイの不時着。
このニュースで放送された海中の写真。
オスプレイの残骸のひとつに、計測用のマークがあった。
円を四等分して黒と黄色で塗り分けたマークである。
このマークを放射性物質のマークと捉えた人がいて、
SNSでオスプレイには放射性物質が積まれていた、
そのことを多くの人に知ってもらうために拡散してほしい、と書いている人がいた。
「オスプレイ 放射性物質」で検索すれば、
その後、その人がどういう訂正(とはいえない手直し)を行ったかもわかる。
計測用のマークと放射性物質を表すマークは色だけが共通しているだけで、
図そのものは大きく違う。
にも関わらず、その人は計測用のマークを放射物質のマークと捉えた。
これも願望に基づく理解である。
その人にとっての願望とは沖縄からの米軍の徹底であろうし、
そのためにオスプレイを貶めることでもあろう。
そういう願望のもとに、計測用のマークを見れば、
放射性物質のマークという理解になるのかもしれない。
オーディオの想像力の欠如によってたがやせないのは情報だけではない。
技術もである。
オーディオの想像力の欠如が生むのものひとつに、「たがやすことのできない人」がいる。
三年前に「毎日書くということ(たがやす)」を書いた。
三年の間に、どれだけたがやしてきただろうか。
audio sharing例会で音を鳴らしてきたことは、たがやす行為といえるのだろうか。
たがやすは、cultivateである。
cultivateには、
〈才能·品性·習慣などを〉養う、磨く、洗練する、
〈印象を〉築く、創り出す、
という意味もある。
三年前に書いたことの一部を、くり返し書いているのは、
わかる、わかっているつもりの違いは、
その人が持っている情報・知識の量ではなく、
たがやしているか、たがやしていないか、と思うからだ。
前回(その11)を四年前。
書くのを忘れていたわけではないが、
書きたいことが他にも多々あって先延ばしにしていたら、いつのまにか四年が経っていた。
2016年はaudio sharing例会で、できるだけを音を鳴らすようにしてきた。
計九回、音を鳴らしてきた。
会場となる喫茶茶会記はジャズ喫茶である。
店主の福地さんは、熱心なジャズの聴き手である。
喫茶茶会記のスピーカーは、
以前渋谷にあったジャズ喫茶・音楽館で使われていたアルテックそのものである。
エンクロージュアはガタがきてしまい、2015年秋(11月ごろ)に別のエンクロージュアに替った。
つまり2016年は、新しくなった喫茶茶会記のスピーカーを鳴らすことでもあった。
ジャズ喫茶である喫茶茶会記で、
ジャズ喫茶・音楽館で長年鳴らされてきたスピーカーを鳴らすことは、
一年を通して、この項のテーマである、
ジャズにとってのワイドレンジ、クラシックにとってのワイドレンジについて考える場でもあった。
スピーカーの構成上、私が考えているワイドレンジ再生とは違うところがある。
いまはあれこれ試みている最中でもあり、8月にはJBLの2405を接いでもいる。
まだまだ十全なワイドレンジ再生が行えているわけではないが、
なんとなくつかめてきていることもある。
(その1)で書いている、
「いろ(ジャズ)」のワイドレンジと、
「かたち(クラシック)」のワイドレンジとがつかめてきている感じがしている。
アナログプレーヤーはターンテーブルを持つ。
ターンテーブル(turntable)の名の通り、回転する、直径約30cmの円盤である。
円盤の材質は金属が多いが、最近では金属以外の材質も増えている。
重量も数十kgを超えるモノもあれば、軽量級のモノもある。
それぞれに能書きがある。
円盤といってもすべてがフラットな形状ではない。
ここにも各社さまざまな工夫がみてとれる。
ターンテーブルの駆動方式も、ダイレクトドライヴ、ベルトドライヴ、リムドライヴがあり、
それぞれに特徴がある。
アナログプレーヤーのターンテーブルに関することは、
あのサイズの円盤を回転させることによって生じているといえ、
それゆえの難しさと、からくりが成立している。
ここにアナログディスク再生のおもしろさがある。
とはいえ、この時代にもういちどアナログディスク再生を考えてみるときに、
ターンテーブルの存在に縛られすぎてはいないだろうか、というおもいがある。
ターンテーブルの存在について考えていくのもおもしろいし、
別項「ダイレクトドライヴへの疑問」で書いているわけだ。
だがそれとは別の視点でのアナログプレーヤーの発想も必要だと思う。
ソニーのCDP5000がディスクを移動させたのと同じようなことを、
アナログプレーヤーで考えると、それは自走式ということになる。
自走式であればターンテーブルはいらない。
回転しないターンテーブルだから、円盤状のテーブルである。
サウンドワゴン(レコードランナー)にしても、
類似のモデルにしても、そのままではオモチャに属する。
類似の方はブルートゥースで信号を送ることが可能で、
外部スピーカーを鳴らせるというものの、本格的なオーディオシステムを組むモノではない。
サウンドワゴンそのものをオーディオマニア的視点で捉えたいわけではなく、
自走式プレーヤーをオーディオマニアとして捉えてみたい。
アナログディスク関連の自走式といえば、レコードクリーナーもあった。
オーレックスのDC30(4,500円)、
Lo-DのAD093(4,500円)、AD095(8,900円)、
マクセルのAE320(4,500円)、AE341(5,600円)などが、1980年代前半にあった。
同じ自走式といっても、サウンドワゴンの自走と、
レコードクリーナーの自走とは違う。
リンクしているAE320の広告を見ればわかるように、
自走式レコードクリーナーはアナログプレーヤーを必要とする。
正確に言えばセンタースピンドルを必要とする。
サウンドワゴンも類似のモノも、センタースピンドルは必要としない。
だからサウンドワゴンはどんな場所でも、アナログディスクを再生できる。
私が考えているのはセンタースピンドルを必要とする自走式プレーヤーである。
つまり形状としては、サウンドワゴンではなく、AE320に近いモノとなる。
あくまでもアナログディスクを置く台(センタースピンドルも含んで)とのセットでの考えである。