Archive for 11月, 2016

Date: 11月 8th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

額縁の存在と選択(その5)

私にとってLS3/5Aの鳴らし方は、
何度も書いているように一辺が1m程度の正三角形の頂点に、
ふたつのLS3/5Aと自分の耳を置くというセッティングを前提としている。

アナログディスクでの低域の揺すられがCDではなくなり、
かなり安定した再生が楽に可能になるとともに、
アナログディスク再生よりもCD再生のほうが音量面でも有利になっている。

アナログディスクをメインにするのであれば、
LS3/5Aに出力トランスというバンドパスフィルターをかかえる真空管アンプのほうが、
低域の安定性に関しては有利といえる。

最近ではLS3/5Aも左右の間隔を、
通常のスピーカーのように広くとって聴く人(聴かれること)も多いようである。

そうやって聴くLS3/5Aが提示する音のイメージと、
至近距離でひっそりとした音量で聴くLS3/5Aが提示する音のイメージは、
少なくとも私の中ではずいぶんと違ってくる。

ここで書くLS3/5Aの音は、瀬川先生が小人のオーケストラが現出した、と感じられる鳴らし方である。
至近距離で、音量も小さい。
そこにおける音場と、
大型スピーカーを、左右の間隔を大きくとり、
音両面での制約もなしに鳴らしたときの音場とも、同じには語れない。

しつこいくらいくり返しているが、
あくまでもそういう鳴らし方をした時のLS3/5Aのことを、
Pokémon GOのAR機能をONにしてやっていて、
この感覚、決して新しいものではない、
ずっと以前に体験したことがある──、と思い出したのだ。

そして小人のオーケストラを聴いていると錯覚しているときに、
額縁はどうだったのだろうか、と考えた。

Date: 11月 7th, 2016
Cate: イコライザー

私的イコライザー考(妄想篇・その14)

BOSEの901に関しての妄想はまだある。

レオ・L・ベラネクの「音楽と音響と建築」には、こうある。
     *
聴くことによくならされた人──たとえば眼意外の感覚によって自分のまわりの環境についてすべての手掛りを得る盲目の人は、直接音と最初の反響音との時間の長さによって部屋の寸法を測ったり、自分の後の壁までの距離を判断し得る。部屋の寸法を判定する盲目の聴き手の能力は、1795年に書かれたE. ダーウィン著のズーノミア(第2巻、487ページ)に次のように記述されている。盲目の故フィールディング判事が、初めて私の家を訪れたとき、私の部屋に歩み入り、二言三言話した後、「この部屋は奥行き約6.7m、幅5.5m、高さ3.7mありますね」と言ったが、これらはすべて耳でもって大変正確に推定されたものである。聴くことによってホールの寸法を判定するこの能力は盲人に限られていない。
 経験の深い音楽の聴き手は、その中で演奏される音楽の音によってつまり初期到達音の時間遅れの大きさで、ホールの大体の大きさを感じ取ることができるだろう。
     *
どこまで正確なのかは人によっても訓練によっても違ってくるだろうが、
反響音によって、いまいる空間の大きさはある程度は把握できる。

ならばBOSEの901のような構成のスピーカーシステムであれば、
後面のユニットから放射される音に在る一定の時間遅れを生じさせれば──と思ってしまう。

正面のユニットの音の一部も壁に反射して耳に入ってくるわけで、
ことはそう簡単にうまくいかないかもしれないが、
スピーカーの設置、ディレイのかけ方、正面と後面のレベル差、イコライゼーションなど、
複数のパラメーターをうまく調整することで、意外な効果が得られる可能性はあると思う。

901の前身といえる、BOSE最初のモデル2201が登場したが1966年。
ちょうど50年前。901は1968年に最初のモデルが登場している。
2018年で50年になるのだが、残念なことに日本では901の輸入は終ってしまっていたし、
アメリカでもその後に製造中止になっている(ようだ)。

BOSEの901はきわもののスピーカーではない。
私は幸運にも、ステレオサウンド試聴室で井上先生が鳴らされる901の音を何度も聴いている。
この経験がなかったから、901に対して間違った印象を抱えたままだったかもしれない。

それまでも、901という形態のもつ可能性には、それほど気づいていなかった。
ここ数年、901というスピーカーのおもしろさに目覚めた、といってもいい。

Date: 11月 7th, 2016
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その2)

50号の次にAXIOM 80がステレオサウンドに登場したのは、
1981年夏の別冊「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」だった。

セパレートアンプの別冊に、スピーカーユニットのAXIOM 80が、
それも大きな扱いの写真が載っている。

巻頭の瀬川先生の「いま、いい音のアンプがほしい」の中に、
AXIOM 80がある。

その理由はステレオサウンド 62号に載っている。
「音を描く詩人の死 故・瀬川冬樹氏を偲ぶ」に載っている。
     *
 この前のカラー見開きページに瀬川先生の1972(昭和47)年ごろのリスニングルームの写真がのっている。それを注意ぶかく見られた読者は、JBLのウーファーをおさめた2つのエンクロージュアのあいだに積んである段ボール箱が、アキシオム80のものであることに気づかれただろう。『ステレオサウンド』の創刊号で瀬川先生はこう書かれている。
〝そして現在、わたしのAXIOM80はもとの段ボール箱にしまい込まれ、しばらく陽の目をみていない。けれどこのスピーカーこそわたしが最も惚れた、いや、いまでも惚れ続けたスピーカーのひとつである。いま身辺に余裕ができたら、もう一度、エンクロージュアとアンプにモノーラル時代の体験を生かして、再びあの頃の音を再現したいと考えてもいる。〟
 そして昨年の春に書かれた、あの先生のエッセイでも、こう書かれているのだ。〝ディテールのどこまでも明晰に聴こえることの快さを教えてくれたアンプがJBLであれば、スピーカーは私にとってイギリス・グッドマンのアキシオム80だったかもしれない。
 そして、これは非常に大切なことだがその両者とも、ディテールをここまで繊細に再現しておきながら、全体の構築が確かであった。それだからこそ、細かな音のどこまでも鮮明に聴こえることが快かったのだと思う。細かな音を鳴らす、というだけのことであれば、これら以外にも、そしてこれら以前にも、さまざまなオーディオ機器はあった。けれど、全景を確かに形造っておいた上で、その中にどこまでも細やかさを追及してゆく、という鳴らし方をするオーディオパーツは、決して多くはない。そして、そういう形でディテールの再現される快さを一旦体験してしまうと、もう後に戻る気持にはなれないものである。〟
 現実のアキシオム80の音を先生は約20年間、聴いておられなかったはずである。すくなくとも、ご自分のアキシオム80については……。
 それでも、その原稿をいただいた時点で先生は8個のアキシオム80を大切に持っておられた。
 これは、アンブの特集だった。先生も、すくなくとも文章のうえでは、JBLのアンプのことを述べられるにあたって引きあいにだされるだけ、というかたちで、アキシオム80に触れられただけだった。
 でも……いまでも説明できないような気持につきうごかされて、編集担当者のMは、そのアキシオム80の写真を撮って大きくのせたい、と思った。
 カメラの前にセットされたアキシオム80は、この20年間鳴らされたことのないスピーカーだった。
〈先生は、どんなにか、これを鳴らしてみたいのだろうな〉と思いながら見たせいか、アキシオム80も〈鳴らしてください、ふたたびあのときのように……〉と、瀬川先生に呼びかけているように見えた。
     *
62号にもAXIOM 80の同じ写真が載っている。
62号を読んで、あのAXIOM 80が瀬川先生のモノだったことを知る。

Date: 11月 6th, 2016
Cate: デザイン
1 msg

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ヤマハのA1・その6)

ヤマハのA1が新鮮に映ったのは、ヒンジドパネルの採用にある。
1970年代後半からアンプにヒンジドパネルを採用するモデルは増えていったが、
A1登場以前は、プリメインアンプで採用しているモノはなかった、と記憶している。

セパレートアンプにはいくつかあった。
けれどヤマハのセパレートアンプCI、C2、BI、B2は採用していなかった。
ヤマハのオーディオ機器でヒンジドパネルを使ったデザインのモノは、
チューナーのCT7000だけだった。

CT7000は当時220,000円するチューナーだった。
A1は最高クラスのプリメインアンプではなかった。
けれどヤマハは、ヒンジドパネルを採用している。

CT7000とA1のヒンジドパネルは、同じではない。
CT7000では一枚のフロントパネルの一部がヒンジドパネルになっている。
A1のフロントパネルは三分割されたようにデザインされていて、
そのうちの一枚全体がヒンジドパネルとなっている。

こういうヒンジドパネルは、それまでなかったはずだ。
そこにA1のデザインの大胆さを感じたのかもしれないし、それが新鮮と映ったようである。

その時思ったのは、ヤマハはCA2000のデザインに、なぜヒンジドパネルを採用しなかったのか。
CA1000IIIとCA2000のデザインは同じといえる。
パッと見で、CA1000IIIとCA2000のデザインの区別はつかない。

CA2000にはヒンジドパネル採用のデザイン案があったのではないだろうか。
もしくはCA2000の上級機としてのCA3000というモデルが構想されていて、
そこでヒンジドパネルを採用したのだろうか。

とにかくA1には軽い昂奮をおぼえていた。
けれど実機のA1をオーディオ店で見た時には、すこしがっかりした。
広告の写真で見て感じた精度感が、そこになかったからだ。

特に三つの正方形のプッシュボタンがそう感じさせた。

Date: 11月 6th, 2016
Cate: アクセサリー

オーディオ・アクセサリーで引く補助線(その2)

シェルリード線の交換による音の変化を体験して考えたことがある。
シェルリード線を、別のところに移動したら、音の変化はどうなるのか。
例えばトーンアームの出力ケーブルの端の数cm分だけ、他の線材に換えたらどうなるのか。

もちろん音は変るのだが、その変化量は同じなのか変化するのか。
スピーカーケーブルの先でもいい、その部分数cmだけ別の線材にする。
もっともスピーカーケーブルの場合、なんらかの末端処理をすれば、
そこに数cm程度の別の素材が加わることになる。

これによる音の変化は確かにあるが、
同じ数cmであっても、シェルリード線ほどの音の変化はない。

シェルリード線とスピーカーケーブルとでは、
そこを通る信号レベルが大きく違うことも、音の変化の違いに関係しているだろうから、
トーンアームの出力ケーブルで試してみたら……、と当時考えた。

考えただけで面倒なこともあって試してみなかった。
シェルリード線とトーンアームの出力ケーブルでは、
カートリッジからの出力信号が流れている点では同じだ。

そこにおいてケーブルの順番を変えてみると、音の変化量は変化するのか。
やってないのだから推測でしかないが、
おそらく結果は違ってくるはずだ。

Date: 11月 6th, 2016
Cate: アクセサリー

オーディオ・アクセサリーで引く補助線(その1)

少し前にアクセサリーのことを補助線に例えた。
アクセサリーに限らず、音を変えていく行為は、補助線を引く行為だと考えている。

それでもケーブル以外のオーディオ・アクセサリーは、
音を出す上で必要なモノとはいえない。
インシュレーター、フィルターなどなど、
それがなくとも音は出る、というアクセサリーがいくつもある。

それらを購入して、という行為は、
たとえばカートリッジを交換したりする行為とは違う補助線を引くことではないだろうか。

補助線は的確でなければ意味はない、といえるが、
最初からそういう補助線が引けるわけではない。
まぐれで引けることもあろうが、まずは引くことである。
頭の中だけで考えていても始まらない。

とにかく音を変えることをして、補助線を引いていく。
無駄な補助線だったと気づくのは、引くからである。

私もこれまでにさまざまなアクセサリーを使ってきた。
最初に買ったアクセサリーは、シェルリード線である。
理由は、安かったからだ。

ヘッドシェル内のリード線は短い。
シェルリード線以降のケーブル、
トーンアーム・パイプ内の配線、トーンアームの出力ケーブル、
カートリッジがMC型であれば、昇圧トランスを使う。
トランスの内部は巻線だから、これもケーブルである。
その出力ケーブルがあってアンプにたどりつく。
アンプからスピーカーシステムの端子までもいくつものケーブルを通る。

スピーカーの内部にも配線材があり、ネットワークのコイルがあり、
ユニット内部にもコイルがあるわけで、そのトータルの長さからすれば、
シェルリード線の数cmという長さは、無視できる長さのようにも思える。

にも関わらず実際に交換してみると、驚くほど音は変る。
ツボとでもいおうか、あるいはウィークポイントでもいおうか。
かかる費用からすれば、大きな効果といえる。

Date: 11月 6th, 2016
Cate: 楽しみ方

オーディオの楽しみ方(つくる・その9)

話が少し前後してしまうが、

瀬川先生の「オーディオの系譜」に「私の最初のLPプレイヤー」が収められている。
     *
 このプレイヤーと前後して、2A3PPのアンプを作った。2A3は新しい真空管ではなかったが、回路をアレンジして、その頃はまだ進歩的であったNFを適度にかけ、加えて、これも新しい回路のトーンコントロールをつけた。スピーカーは三菱ダイヤトーンのP100Fという一〇インチ(二五センチ)径のフルレンジ型。これが密閉型のエンクロージャーに入っていた。アンプの回路に多少の工夫をしたつもりだったので、これを雑誌『ラジオ技術』の読者の投稿欄(「マイセット」というタイトルがついていた)に投稿してみた。すると折り返し編集部の金井稔という署名で、アンプを見にゆきたい、と葉書が来た。秋のある日、金井氏と、皆川さんという白髪のカメラマンとが、私のあばら家を訪れて、アンプを見、写真に撮ったあとで、これは「マイセット」欄ではなく、ひとつ格が上の「読者の研究」欄に載せるから、原稿を書き直してくれ、といわれた。まだ一六歳で世間知らずだった私はすっかり有頂天になって、かなり調子の高い原稿を送った。けれどその原稿は、全面的に金井氏の手で書き直されて、ともかく私のアンプは写真とともに活字になった。これが、オーディオでものを書くきっかけを作ってくれたわけで、以後、私は『ラジオ技術』の執筆者として待遇され、それが縁になってのちにこの雑誌の編集者として入社することになるが、その話はここでやめにする。
     *
1951年のある日の出来事である。
その日のことをラジオ技術の金井稔氏が、書かれている。
ラジオ技術1982年1月号掲載の追悼文で。
     *
 1人の詰襟学生服の高校生が、ラ技の受付に立っていた。「こんな実体図を画いてみたのですが……。」
 当時、この種の読者は少なくなかったのだが、見ると2A3PPのシャシ裏実体図がきちんとスミ入れされてて画かれている。丸ペン、カラス口の引き方もよい。何よりも自分で作ったパワー・アンプの実体厨だから表現手法が気がきいている。これが大村君とのわがラ技編集部での初対面であった。
     *
金井稔氏の興味を惹いた実体配線図がなかったならば、
瀬川先生(大村少年)がラジオ技術編集部で働くことはなかったかもしれない。

Date: 11月 6th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その89)

瀬川先生の原稿は、続いている。
黄金の組合せについて、触れられている。
ここまでで約5000字ほどある。

そして録音の変遷について触れられている後半といえる文章(約6000字)がある。
     *
 ここで少し、クラシック以外の音楽の録音について補足しておく必要がある。アメリカでは、かつて50年代に全盛を迎えたモダン・ジャズが、1960年、オーネット・コールマンらの登場によって前衛ジャズになり、いっときは混迷期に入り、やがてクロスオーヴァー、フュージョンという形でこんにちにいたる。また、プレスリーの登場でロックンロールが、またイギリスでのビートルズに刺激を受けて新しく誕生したポップ・ミュージックのグループが、さまざまに分裂し展開してゆくプロセスで、演奏される楽器は、その大半が電気楽器、電子楽器に置き換えられ、エレクトリック・サウンドがこんにちのポップ・ミュージックのひとつの核を形成している。シンセサイザーの性能もますます複雑化してゆく。
 ビートルズ、及びそれ以後のロックやポップのグループ・サウンズの、初期のステレオ録音を聴いてみると、明らかに、アクオンエンジニアの戸惑いが聴きとれる。ピアノ、ウッドベース、それに各種金管やギターあたりまでの、在来の楽器の録音で腕をみがいた技術者も、エレキベースをはじめとして、ドラムスもキーボードも、すべてスピーカーから相当の音量で再生される電気・電子楽器を、マイクロホンでどうとらえるか、については、ずいぶん頭を悩ませたらしい。電気・電子楽器は、スピーカーから出る音自体がナチュラルな楽器よりもはるかに音量が大きく、しかもすでに歪んでいたりする。そういう音を、マイクロホンで拾ってテープに録音してみると、音の歪はいっそう強調される。とくに低音楽器の音量が大きい。それが、トランジスター化された初期の録音機材では、録音系のダイナミックレインジで頭打ちになって、音がつぶれて、よごれて、実にきたない音になる。そうした音が、どうやらそれらしく録音されるようになってきたのもまた、70年代に入ってからのことで、ことに最近は完全に新しい録音技術が定着して、素晴らしく聴きごたえのする録音が続出している。ロックのレコードを、オーディオ機器の音質判定のプログラムソースに使うなどということは、60年代には考えられなかった。かつては音の悪いレコードの代表だったのだから。
 いまアメリカでは、アメリカン・ポップスの新しい流れ、たとえばデイヴ・グルーシンなどに代表される新しい曲が、シェフィールドなどの手で作られると、これはもう、クラシックのレコードでは全く想像のつかない音の世界だという気がする。パーカッションのダイナミックレインジの伸びのすごさ。そして、かつてのようにデッドなスタジオで演奏者を分離してマルチトラック録音した時代とは逆に、ライヴなスタジオで、十分に溶け合う音で演奏され、録音される。つまり音楽が生きている。レコードの音は、クラシックもポップスも、ほんとうに自然な姿を表現できるようになりはじめた。歌謡曲、艶歌、あるいはニューミュージックの分野でも、それを聴く人たちが良い再生装置を持つ時代に、古いままの録音技術ではいけないということで、本格的に音を採りはじめるようになっている。レコードの録音は、ほんとうに変りはじめている。そういう変化を前提として、そこではじめて、これからの再生装置のありかたが、浮かび上ってくる。
──以下次号──
     *
前半を後半をつなぐ部分が、まるでない。
そこをどう書かれようとされていたのか。

前半のおわり、黄金の組合せのところでも、
録音について触れられている。
なので、まったく想像がつかないわけではないが、それでもどう展開されていかれたのか。

明日は11月7日だ。

Date: 11月 6th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その88)

ステレオサウンド 56号の組合せ特集で、瀬川先生は組合せ例をつくられていない。
けれど、特集巻頭に
「いま、私がいちばん妥当と思うコンポーネント組合せ法、あるいはグレードアップ法」を、
15ページにわたって書かれている。

これが56号の組合せ特集の特色であり、
最後にこうある。
     *
 スピーカー選びについて、いくつかのケースを想定しながら、具体例をいくつかあげてみた。次号では、これらのスピーカーを、どう鳴らしこなすのか、について、アンプその他に話をひろげて考えてみる。
     *
57号以降、連載になるわけで、
これから先ステレオサウンドの発売が、いっそう楽しみになる、と思った。

けれど、57号に続きは載っていなかった。
58号にも、59号にも、そして60号にも……。

けれど瀬川先生は続きを書かれていた。
書き終えられてたわけではないが、書かれていた。
     *
 いまもしも、目前にJBLの4343Bと、ロジャースのPM510とを並べられて、どちらか一方だけ選べ、とせまられたら、いったいどうするだろうか。もちろん、そのどちらも持っていないと仮定して。
 少なくとも私だったら、大いに迷う。いや、それが高価なスピーカーだからという意味ではない。たとえばJBLなら4301Bでも、そしてロジャースならLS3/5Aであっても、そのどちらか一方をあきらめるなど、とうてい思いもつかないことだ。それは、この二つのスピーカーの鳴らす音楽の世界が、非常に対照的であり、しかも、そのどちらの世界もが、私にとって、欠くことのできないものであるからだ。
 前回(56号)の終りのところ(110ページ)で、仮にたったひとつだけスピーカーを選ぶとしたら、結局JBLの4343あたりしかないではないか、と書いたことと、これは矛盾するではないかと思われそうなので、急いで補足しなくてはならないが、それは次のような意味だ。
 クラシック、ポップス、ジャズ、艶歌……およそあらゆる分野の音楽を、しかも音量の大小や録音の新旧や音色の好みなどを含めて、聴き手の求める音のありかたの多様性に対して、たった一本のスピーカーで応えようとすれば、結局のところ、再生能力の可能性のできるだけ大きなスピーカーを選ぶしか方法がない。音量をどこまで上げても音がくずれず、思いきり絞り込んで聴いたときでも音がぼけない。周波数レインジは、こんにちの最新の録音に十分に対応できるほど広いこと。そして低音から高音までの音のバランスに、とくに片寄りのないこと。硬い音、尖った音、尖鋭な音も十分に鳴らすことができる反面、柔らかく溶け合う響きも鳴らせること。etc、etc……と条件を上げてゆくと、たいていのスピーカーはどこかで脱落してゆき、これが決して最上とはいえないまでも、対応力の広さという点で、結局4343あたりに落ちつくのではないか。
 しかしまた、仮に4343とロジャースPM510を聴きくらべてみれば、4343ではどうしても鳴らせない音というもののあることに気づかされる。たとえば、オーケストラの弦楽器群がユニゾンで唱うときのあの独特のハーモニクスの漂うような響きの溶け合い。そしてホールトーンの奥行きの深さ。えもいわれない雰囲気のよさ。そうした面を、なにもPM510でなくともあの小っぽけなLS3/5Aでさえ、いや、なにもここでロジャースにこだわるわけではなく、概してイギリスの新しいモニター系のスピーカーたち──たとえばハーベスやKEFやスペンドールやセレッションや──なら、いとも容易に鳴らしてくれる。そして、一旦、その上質の響きの快さを体験してみると、それがJBLではついに鳴ることのない音であることを、いや応なしに納得させられてしまう。これらイギリスのスピーカーの、いくぶんほの暗いあるいは渋い印象の、滑らかで上質で繊細な響きの美しさが、私の求める音楽にかけがえのない鳴り方であるものだから、私はどうしてもJBLの世界にだけ、安住しているわけにはゆかないのである。けれど反面、イギリスのスピーカーには、JBLのあのピンと張りつめた、新鮮で現代的な肌ざわりと、音の芯の確かさが求められないものだから、どうしてもまたJBLを欠かすわけにもゆかないという次第なのだ。
     *
この書き出しから始まる。

Date: 11月 6th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その87)

ステレオサウンド 56号の特集は組合せ。
タイトルは「スピーカーを中心とした最新コンポーネントによる組合せベスト17」。

この特集をみて、毎年暮に発売される「コンポーネントステレオの世界」はないんだな、
と思ったし、そうだった。
「コンポーネントステレオの世界 ’81」は出なかった。

一冊すべて組合せの別冊からすると、
56号の特集のボリュウムは少ない。
実際に56号の特集自体のボリュウムは、そう多くはない。

組合せをつくっているのは、
岡俊雄、井上卓也、山中敬三の三氏。

そんななかでも、「コンポーネントステレオの世界」とは違う側面を見せよう、としているのか、
岡先生と井上先生が担当されているスピーカーは、すべて国産で、
山中先生はすべて海外製品となっている。

それに井上先生の組合せでは、アクセサリー類も組合せの中に含まれるようになっている。
どんな組合せであっても、接続ケーブルは必要になるわけで、
でもこれまでのステレオサウンドの組合せのトータル価格には、
このケーブルの価格は膨れまることはなかった。

それが56号の井上先生の組合せだけは、
スタビライザーやシェルリード線、ヘッドシェル、接続ケーブルなどについても、
言及されるとともに、コンポーネントのひとつとして組合せリストに載るようになっている。

記事中でも、アクセサリーを含めた音の変化だけでなく、使いこなしについても触れられている。
明らかな変化である。

なぜ、この時期からなのか──、
そのことについて考えてみるのは、ステレオサウンドを捉える上でおもしろい。

Date: 11月 5th, 2016
Cate: 新製品

新製品(Nutube・その12)

1993年のステレオサウンド別冊「JBLのすべて」で、
井上先生がウォームアップについて書かれているところがある。
     *
 高級アンプにとり、ウォームアップによる音質、音色などの変化は、現状では必要悪として歴然と存在する事実で、これを避けて通ることは不可能なことと考えたい。
 このウォームアップ帰還の変化を、どのようにし、どのように抑えるかは、まったく無関心のメーカーもあり、今後の問題といわざるをえないが、アンプを選択する使用者側でも、どの状態で今アンプが鳴っているかについて無関心であることは、寒心にたえないことである。
     *
1993年は、アンプのウォームアップによる音の変化が問題になってから20年近く経っている。
それでも無関心なメーカー、ユーザーがいる、ということになる。

井上先生はウォームアップによる音の変化について、必ずといっていいほど書かれていた。
いまはどうだろうか。

ステレオサウンドの試聴では、ウォームアップは行っている、とある。
やっている、と思う。
だが、瀬川先生、井上先生のように、この問題に対してつねに意識的である人が、
試聴しているのだろうか、と思うこともある。

ウォームアップの問題が形式化していないといえるだろうか。
同時にクールダウンについては、どうだろうか。

これらの問題に無関心な人はずっと無関心のようである。
私はNutubeに関して、ウォームアップの点だけでなく、
Nutubeは長時間の使用において、音が弛れてくることはないのかも気になる。

アンプの自作記事には、残念ながらこの観点が欠けている。

Date: 11月 5th, 2016
Cate: 新製品

新製品(Nutube・その11)

ウォームアップの問題は、やっかいな面ももっている。
ウォームアップなんて、十分な時間電源をいれておいて、
信号を流して音を鳴らしている時間も十分ならば解消だろう──、
そう思われる人もいるだろう。

ウォームアップという言葉からは、
鳴らしていくうちに本調子になってきて、それにかかる時間は製品によって違っても、
あるレベルに達しウォームアップが終ればすむ──、そういった印象がある。

けれど実際にはあるレベルに達し、そこから先はウォームアップではないということになる。
この状態を維持できれば、話は単純なのだが、
モノによっては、長時間の使用により、むしろ音が悪い方向に変化していく。

つまりクールダウンを必要とするオーディオ機器が存在する。
おそらくすべてのオーディオ機器にあてはまることなのかもしれないが、
ウォームアップほど顕著に音に出ないようであり、
まれに顕著に音として、この問題が出てくるモノがある。

私がステレオサウンドにいた間の機種では、
アキュフェーズのD/AコンバーターDC81がそうだった。

ディスクリート構成のD/Aコンバーターということ、
アキュフェーズ初のセパレート型CDプレーヤーとしても話題になったし、
ステレオサウンドの試聴室でもリファレンス機器として使っていた。

それだけの内容と音を持っていたけれど、
DC81はかなり長時間使用していると、あきらかに音が弛れてくる。
それは音の滲みと受け取る人もいるだろうし、
音にベールがかかったように聴こえるという人もいるだろう。

ウォームアップとともに音は目覚めていくわけだが、ずっと目覚めた状態を維持できるとはかぎらない。
そのため、電源を落してクールダウンを必要としていた。

一日数時間の使用であれば、この問題は出てき難い。
もっとも使用条件・設置条件によっては、たとえ数時間でも発生するとは思う。

Date: 11月 5th, 2016
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(結婚にあてはめれば……・その3)

思い出すから書くのか、
書くから思い出すのか。
たぶん両方なのだろうが、結婚とオーディオということで思い出したことがある。

スイングジャーナル1972年1月号掲載の座談会「オーディオの道はすべてに通ず!」だ。
     *
菅野 この間、だれかさんの原稿の穴埋めに急拠「オーディオロジー」の原稿を書かされたんだよ(笑)。そこでぼくは錯覚という言葉を使った。
瀬川 イリュージョンだね。
菅野 錯覚というのは無限の飛翔というか、可能性というか、高まりをもつものだ。これがもっとも大切なものであると書いたわけです。
 つまり、恋愛というものは、精神と感情と肉体の無限の飛翔である。一方結婚は現実の生活である。その恋愛の目的を結婚に置くということは、極めて次元の高いものの目的を次元の低い現実に置くことなので、元来矛盾しているものなのだ、というように展開したわけ。その恋愛というものもやはりイリュージョンなのだよね。イリュージョンなるがゆえに、無限に心の高まりを感じるわけだ。
瀬川 そう、イリュージョンだから美しいんですよ。確かに結婚というものが現実的なものであることは事実なのだけれど、結婚の中での一つの虚構、あるいは錯覚みたいなものを持続させることもできるんだ。だから結婚の中でも結婚以外のものに、逃避であろうと、なんかの一つの理想であろうと、結婚を回避してそっちへ行こうということだけがすべてでないと思うんだ。
菅野 もちろんそうです。
瀬川 もっとそのさきの大事なことは、この世の中で現実に起ることよりも、そういう錯覚の中、あるいはフィクションの中で感じる一つの幻想、イリュージョンの方が人間にとって実感をもっている。いや実感というより人間にとって大切じゃないかと思うんだ。
菅野 そう大切なものですよ。
瀬川 現実というのは、いろんな制約の中での現実なんだよ。つまりさまざまな社会的制約の中でなり立っている。しかし、その中での錯覚というのは、現実の壁を乗り越えた強さをもっている。それが人間にとって人間を味わう、あるいは生きがいというか、ものを味わうための一番大切な何かだな。
菅野 それはあなたがいい奥さんをもっているからいえるんだよ。ぼくはそうじゃなくて、結婚はあくまで現実のものなんだよ。イリュージョンを追いかけて行くから失望するんだ。つまり結婚というものは、恋愛にもない、親子の愛でもない、友情でもない、夫婦愛というものの生まれる可能性のある一つの生活様式なんであると思っている。だからわずかの月日で築けるものではない。
 なぜ、ぼくはここまでいうかというと、つまりオーディオというような趣味のものはイリュージョンですね。そこでぼくもいったことなんだけれども現実の問題でイリュージョンというものによって解決しようとすると、オッチョコチョイにも、趣味を仕事にしようとする者が出てくるんだ。趣味と仕事を合わせるとこのイリュージョンを結婚生活の中へもち込むこともむずかしさがある。趣味というものもこれが仕事になったときには現実になる。
 それじゃわが輩のように仕事にした人間はどうなるのかと。しかしわが輩としては仕事にしたからっといって、趣味というものの次元を低めることはできない。やはり高い趣味の次元をもち続けていかなければならない。そのために、結婚しても女性嫌いにはなれずにね(笑)。つまり仕事と同時にそれを趣味としてイリュージョンの世界に遊ぶだけの余裕をもつべく、涙ぐましい努力をして行くんだ(笑)。
瀬川 前半は不足ない、途中でちょっと異論があって、結論でまた一致したんだよ。途中だけちょっと菅野さんの方法論が違っていただけで、本人がやっていることは仕事ではそれなんだ。
菅野 もちろん認めるけれど、それはたいへんなんだよ。
瀬川 そう二つの至難がある。一つは魔法をかけるに値する石ころを見つけるというむずかしさ、もう一つは手に入れた石ころに常に魔法をかけておくというむずかしさ、この二つのむずかしさを乗りこえたときの至福の喜びというものは何にもたとえられないものなのですよ。
菅野 もちろん、それは理想論としてわかるんですが、なにせ結婚の相手というのは人間ですからな(笑)。
瀬川 さっきからいっているように結婚にたとえるから話が現実的になっちゃうんで、オーディオ・パーツでもいいよ。スピーカーに限ろう。
菅野 いや、スピーカーに限ったら、話はあなたと同じだよ(笑)。
瀬川 スピーカーも女も生活なんだ。
岩崎 たいへん幸せなんでうらやましいです。スピーカーと同じような女房をもらえればこれはいいよね(笑)。
菅野 だからスピーカーにたとえるとあなたと全く同じ考え方だ。スピーカーというものは魔法がかけられるよ。
瀬川 おれはそれを私生活でもやりたいというおめでたい希望があるんだ。
菅野 それはあなたがむずかしい問題に直面していないんだよ。女性をスピーカーにたとえられるというのは幸せというか……。
瀬川 おめでたいのかな(笑)。パーツを愛情をもって使いこなせというのは、本質論で、前提があるわけ。
菅野 それは直感だよね。
瀬川 そう、それだからこそ、さっきから子供の石ころにこだわるわけよ。無心の世界に遊んでいるときの子供の純粋な行動、大人の趣味の世界、ここにあって直感を働かさなくては、人間というのはダメなのですよ。
菅野 われわれも、年の改まった今、いま一度童心を思い起して直感を冴えさせおきたいものですね。
     *
この岩崎千明、菅野沖彦、瀬川冬樹による鼎談は、
菅野先生のこんな発言で始まる。
     *
菅野 われわれのように、いわゆる道楽者が音の話をしていると、よく他の話に取違えられるんだね。この前も、こちらは音の話をしていたのに、バーの女の子がゲラゲラ笑っているんだよ。何を笑っているのかと思ったら、始めから終りまで猥談だと思っていたというんだね。まあ、その道の話というのは必ずすべての道に通じる話になるわけで、逆にそうでなければ、核心をついた話ではないよね。
     *
たしかにそうかもしれない。

Date: 11月 5th, 2016
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(結婚にあてはめれば……・その2)

瀬川先生が浮気について話されたことを、ふと思い出した。

あの話は一般論としてだったのか、それとも瀬川先生の知人にそういう人がいた、という話だったのか。
そのへんははっきりとしないが、こんなことを話された。

浮気をする人は、奥さんとはまったく違うタイプの女性を選んでいるつもりでも、
傍からみれば、奥さんと同じタイプだし、何度も浮気をする人も、また同じタイプの人と浮気している、
スピーカー選びも同じようなもので、
本人にしてみれば以前鳴らしていたスピーカーとはまるで違う音のスピーカーを選んでいるつもりでも、
傍からみれば、どこかに共通するところのある、もっといえば似ている音を選んでいる、と。

高校生のときに聞いた話しだ。
浮気とはそういうものなのか、と思いながら聞いてもいた。

実際の浮気がそういうものかどうかは知らない。
知人で何度か結婚している男をみていると、そう外れていないとは思う。
結婚・離婚のくり返しと浮気は、そもそも同じじゃないけれど、
相手を選択するということでは同じといえる。

主体性をもって、本人は選んでいるつもりである。
結婚相手、浮気相手、そしてスピーカーにしても。
でも、それは結局つもりでしかないのかもしれない。

こんなことを書いているのは、
昨夜「タンノイがふさわしい年齢」を書きながら、
タンノイが、にするか、タンノイに、するかで考え迷っていたからだ。

Date: 11月 5th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その86)

ステレオサウンド 56号の表紙はトーレンスのReferenceである。
55号の表紙とはうってかわって、秋号らしい感じだった。

トーレンスのReferenceは56号ではじめて登場するプレーヤーだが、
55号のノアの広告には、登場していた。

モノクロの広告で、TD126MKIIICといっしょの広告で、
この時点では、Referenceについてのくわしいことはわからなかった。
価格は3,580,000円とあったから、
なにやらすごそうなプレーヤーが登場するんだ、というぐらいだった。

そのトーレンスのReferenceが56号の表紙である。
Referenceの詳細は、この号から新装となった新製品紹介のページではっきりする。

56号は55号からは変ってきていることが伝わってくる。
新製品紹介のページが、まさにそうだといえよう。

55号までの新製品紹介のページは、井上先生と山中先生のふたりが担当されていた。
もっと古い号では違うが、それまで長いことステレオサウンドの新製品紹介は、
このふたりの担当であり、海外製品は山中先生、国内製品は井上先生となっていた。
注目製品に関してはふたりの対談での紹介だった。

56号からのやり方が、いまにいたっている。
私も最初は、よりよい方向に変った、と喜んだ。
とくにトーレンスのReferenceを瀬川先生が担当されていたことも、大きい。
56号ではロジャースのPM510も登場していて、これも瀬川先生の担当。

このふたつの新製品の記事だけで、私は満足していた。
ステレオサウンド編集部はわかっている、そんなふうにも思ってしまったくらいに。

56号は1980年秋号。
もうこのやり方が30年以上続いていると、
井上先生、山中先生というふたりだけのやり方のメリットも大きかったことに気づく。

どちらのやり方がいいのかは、新製品品紹介のページだけで判断できることではない。
特集の企画とそこでのやり方、それに筆者の陣容とが関係しての判断となるわけで、
その視点からすれば、いまのステレオサウンドの新製品紹介のやり方は、
むしろ欠点が目立つようになってきている、といわざるをえない。