Archive for 7月, 2016

Date: 7月 24th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

額縁の存在と選択(その1)

7月22日に日本でも配信が開始されたPokémon GO(ポケモンGO)。
いい年した大人が……、といわれようと、早速ダウンロードして遊んでみた。

すでに遊んでいる人ならばわかるように、AR(Augmented Reality、拡張現実)のON/OFFができる。
ARをONにしたiPhoneの画面にポケットモンスターが表れる。
この表示を見た瞬間、これがARならば、この感覚は以前にも体験している、と思い出した。

Google翻訳というアプリケーションである。
何度目かのヴァージョンアップのときに、カメラで捉えたものを翻訳する機能が搭載された。
新機能は日本語には対応していなかったけれど、
例えば印刷物のドイツ語にiPhoneのカメラを向けると、
瞬時のうちに英語に翻訳されて表示される。
しかも似たようなフォントで表示されるため、目の錯覚か、と思ったことがある。

目で直接見るのと、iPhoneのカメラと画面を通して見るのとで、
書かれている文字が翻訳されて、似ているけれど違うものになる。

Pokémon GOのAR機能をONにしてやっていて、
あのGoogle翻訳の機能もARの一種といえるのか、と思った。

Augmented Realityの専門家からすれば、拡張現実とはそういうものではない、といわれそうだが、
専門家でないわれわれが体験できる、現時点での拡張現実には、
枠というかフレームというか、そういうものがある。

Pokémon GOにしてもGoogle翻訳にしても、
自分の手のひらにあるiPhoneの画面でのことであり、
そこにはiPhoneという枠(額縁)があるわけだ。

このことがオーディオと関係して、いくつかのことを考えるヒントを与えてくれる。

Date: 7月 24th, 2016
Cate: アナログディスク再生

ダイレクトドライヴへの疑問(その21)

数ヵ月前だった、facebookでダイレクトドライヴについての議論のようなものが目に留った。
肯定派、否定派による議論であれば読んで得られるものがあるが、
そこでは議論にはならずに議論のようなものの段階で留っていた。

ダイレクトドライヴはダメだ、と主張する人も、
ダイレクトドライヴは優れていると主張する人も、
なぜ、そこだけしか見ていない? と思えるほど微視的な視点での、
それも相手の言い分を聞かずに(読まずに)、一方的に主張するだけに終始していた。

アナログプレーヤーがLPをのせて回転するだけで事足りるモノであれば、
そこでの議論のようなものも議論にもう少し近くなろうが、
アナログプレーヤーはそういうモノではない。

回転機器として十分な性能を持っていたとしても、
オーディオ機器として充分かというと、そうではない。

テクニクスの新しいダイレクトドライヴを見ていると、
まさにそうである。回転機器としては、あのつくりでも問題はないであろうが、
オーディオ機器として見た場合には、問題が残ってしまう。

ああいうつくりにしてしまうのは、大量生産と安定した品質を得るためであることはわかるが、
それではオーディオ機器とはいえないのである。

オーディオエンジニアリングの不在が、SL1200の最新モデルからみてとれる。
何もSL1200の最新モデルだけがそうだというわけではない。

だがダイレクトドライヴを生み出したのは、テクニクスである。
だから、つい厳しいことを書きたくなる。

Date: 7月 24th, 2016
Cate: 世代

世代とオーディオ(JBL SE408S・附録)

JBLのSG520、SE400S、SA600は当時どのくらい高価だったのか。
ステレオサウンド 3号を開いてみると、
SA600は200,100円とある。ラックスのSQ38Dsが54,500円のころである。

SG520は248,000円。マッキントッシュのC22は172,000円、マランツのModei 7Tが160,000円、
QUADの22が44,000円、ラックスのPL45が72,000円だった。

SE400Sは143,500円。マッキントッシュのMC275が274,000円、マランツのModei 15が195,000円、
QUADのIIが41,000円(一台)、ラックスのMQ36が128,000円だ。

ステレオサウンド 38号「クラフツマンシップの粋(2)」の中でもSG520の価格について出ている。
アメリカで450ドルで、日本で25万円とあり、いま(1976年)のマークレビンソンみたいなものでしょう、とも。

輸入元・山水電気の1967年の広告を見ると、
SE400Sは156,800円、SE408Sが148,500円とある。他のモデルはステレオサウンド 3号掲載の価格のまま。

1968年の広告では、SG520以外は多少高くなっている。
SA600が247,500円、SE400Sが173,000円、SE408Sが159,500円である。

ステレオサウンド 3号は580円だ。

Date: 7月 24th, 2016
Cate: アクセサリー, 四季

夏の終りに(その4)

2016年のツール・ド・フランスも日曜日に最終ステージである。
今年のツール・ド・フランスに合せたかのように、映画「疑惑のチャンピオン」が上映されている。

癌から生還し、ツール・ド・フランスを七連覇しながらも、
ドーピングの発覚ですべての優勝が取り消されたランス・アームストロングの映画である。

薬物によるドーピングが絶対的悪だとは私は考えていない。
最近では自転車のフレームの中に電動モーターを内蔵した機材ドーピングもある。
こちらは、もう自転車競技ではなくなってしまうから、絶対に認められないドーピングではあるが、
薬物ドーピングに関しては、あれこれ考えさせられるところがある。

そのひとつにオーディオ関係のアクセサリーとドーピングは、
実のところ同じ性質を持っているとも思える。

全体的な傾向としてとして、日本のケーブルメーカーは、
ケーブルそのものが存在しないのを理想としてそこに近づけようとしている。
導体の純度の追求がまさにそうだし、ケーブルの存在(固有の音)をできるだけなくそうとしている。
もちろんそうでないケーブルもあるから、あくまでも全体的な傾向として、ではあるが。

海外の、特にアメリカのケーブルメーカーとなると、
ケーブルもオーディオコンポーネントのひとつとしての存在理由を、
その音づくりにこめているように思える。

日本のケーブルが主張しない方向とすれば、主張する方向とでもいおうか、
ケーブルの存在をなくすことはできないのだから、
ならば発想を転換して積極的に……、とでもいおうか、そういう傾向がある。

そういうケーブルは、どこか薬物ドーピングのように感じてしまう。
ケーブルに限らない、オーディオ・アクセサリーの中には、いわゆる主張するモノがけっこうある。
そして新しいとアピールするアクセサリーが、登場してくる。
そういうのを見ていると、どこが薬物ドーピングと違うのか、と思うのだ。

オーディオのアクセサリーではなく、装飾物としてのアクセサリーを、
これでもかと身に纏っている人もいる。
なぜ、そこまで……、と思うこともあるが、これもドーピングとして捉えれば、
そういうことなのかも……、と思えてくる。

Date: 7月 23rd, 2016
Cate: 世代

世代とオーディオ(ロゴはかわる・その2)

マークレビンソンのロゴも、いつのまにかかわっていた。
いまのロゴにかえた理由は、わからないわけではない。
おそらくレビンソン(Levinson)のLを、目立たせたいからであろう。

1989年ごろ、リッスン・ヴュー(Listen View)というオーディオ雑誌が創刊された。
ステレオサウンドと同じで季刊誌で、途中でサウンドステージという誌名に変更された。

リッスン・ヴューのロゴは上下二段だった。
ListenのLを大きくし下段にまで及んでいた。
そのせいなのだが「L」をアルファベットではなく括弧として捉えられることがあったそうだ。
Listen Viewがisten Viewと認識される。
リッスン・ヴューではなく、イステン・ヴューと読む人が少なからずいた、と聞いている。

Listen Viewのロゴが優れたデザインであったとはいわないが、
Listen Viewときちんと読めた。これを「L」なしのisten Viewと読む人がいるとは信じられなかった。

けれどマークレビンソンのロゴが変更されて、
これも同じ理由(似た理由)なのだろう、と思うとともに、
そういう人がいるということも認識を新たにした。

マークレビンソン(mark levinson)のロゴは基本的にはすべて小文字で、
Lのみが大文字で、上下二段になっている。
つまり最初のmの左端とLがつながっている。
mとLで上下を挟まれるようなかっこうでeがある。
そのため、Lが、ここでも括弧として認識されたのだろう。
そうなるとマークレビンソン(mark levinson)がマークエビンソン(mark evinson)になってしまう。

それでLとeの位置関係が大きく変更され、
下段のLevinsonの横幅が、以前よりも長くなっている。
これに伴い、もうひとつの変更が加えられている。
上段のmarkのあとに続く記号である。

Date: 7月 23rd, 2016
Cate: 五味康祐

続・無題(その7)

迷走していくかもしれないとわかっていても、
パブロ・カザルスのことが頭に浮んでくるし、追い払えないでいる。

ここでのカザルスの演奏とは、チェリストとしての演奏ではなく、
指揮者としてのカザルスの演奏のことである。

ベートーヴェン、シューベルト、ハイドン、バッハ、モーツァルトなどの録音が、
CBSに残されている。
いずれもライヴ録音である。

ベートーヴェンの交響曲第七番で、指揮者カザルスを知った。
驚いた。
フルトヴェングラーの演奏はすでに聴いていた。
カルロス・クライバー、カラヤン(ベルリンフィルハーモニーとフィルハーモニー)、
その他にも聴いていた。
そのころ、ベートーヴェンの交響曲の中で、頻繁に聴いていたのが七番だっただけに、
よく聴いていた方だと思う。

そこにカザルス/マールボロ音楽祭管弦楽団の七番だった。
こういう演奏が聴けるとは思っていなかったという驚きだけでなく、
その演奏の凄さに心底驚いていた。

A面、B面を聴いたあと、もう一度レコードを裏返してA面に針を降ろしていた。
こういう聴き方は、あまりすすめられたものではないことはわかっていても、
そうせざるをえなかった──、そんな衝動があってのものだった。

立て続けの二回目であっても、いささかも感動は損なわれたり、薄くなったりはしなかった。
むしろ驚きは増していた。

そこで聴いたのはCBSソニーから出ていた国内盤のLPだった。
解説は宇野功芳氏だった。

こんなことが書かれていたと記憶している。
カザルスは作曲家によってスタイルを変えることはない。
そのためバッハではカザルスの演奏スタイルは行き過ぎのように感じられることもあるし、
ベートーヴェンではもの足りなさにつながる。
バッハとベートーヴェンの中間にいるモーツァルトには、
カザルスの変らぬスタイルがぴったりくる、と。

その時点ではベートーヴェンの第七番しか聴いていないのだから、
書かれてあったことに賛同はすることはできなかったものの、
カザルス指揮のモーツァルトは聴かねば……、と思っていた。

そのカザルスのモーツァルトの交響曲が、頭から離れないのだ。

Date: 7月 23rd, 2016
Cate: アナログディスク再生

ダイレクトドライヴへの疑問(その20)

メーカーに余裕があった時代は、カットモデルが各社から発表されていた。
スピーカーシステムふアナログプレーヤーの内部をわかりやすく提示するために、
完成品を文字通りカットしたモノである。

中学生、高校生だったころ、カットモデルをつくるのに必要な完成品は一台だけだと思っていた。
完成品をなんらかの方法でうまくカットすれば、カットモデルはできあがるものだと思っていたのだ。

実際にはそう簡単につくれるモノではない、と知った。
複数台をカットして組み合わせて、一台のカットモデルができるそうだ。
お金も手間もかかることを、あのころのメーカーはやってくれていた。

ダイレクトドライヴ型のプレーヤーのカットモデルもけっこう多かった。
各社のカタログ、広告にはカットモデルのカラー写真が大きな扱いで使われていた。
カットモデルを一方向から見ただけで、構造のすべてが把握できるわけではないが、
カットモデルを、内部はこうなっていたのか、と感心しながら見ていた。

数年もすれば、見方は変化していく。
構造体としてカットモデルを見た場合に、気になることが目につくようになった。
どこのメーカーのカットモデルも見ても、
ダイレクトドライヴ型プレーヤーのほとんどに共通していえることがある。

これではいい音が出せるはずがない、といえる構造的な問題である。
デンオンのDP100Mは、その点に気づいてたのではないかと思う。
具体的なことはここでは書かないが、DP100Mの構造をすぐに思い浮べられる人ならば、
私が問題点と考えていることはすぐにわかるはずだ。

意外にもこの問題点は、いまのダイレクトドライヴ型プレーヤーには残ったままである。
テクニクスが昨年発表したプロトタイプのターンテーブルの内部を見ても、
この問題点にはまったく気づいていないとしか思えないつくりだった。

この問題が解消されていないつくりはそのままSL1200の最新モデルにも受け継がれている。

Date: 7月 22nd, 2016
Cate: 世代

世代とオーディオ(JBL SE408S・その11)

JBLの一連のアンプの音といえば、私にとっては、瀬川先生の文章が浮ばないことは絶対にない。
1981年のステレオサウンド別冊の巻頭「いま、いい音のアンプがほしい」に書かれていること、
そのことがそのままJBLの音と直結している、といってもいい。
     *
 昭和41年の暮に本誌第一号が創刊され、そのほんの少しあとに、前記のプリメインSA600を、サンスイの新宿ショールーム(伊勢丹の裏、いまダイナミックオーディオの店になっている)の当時の所長だった伊藤瞭介氏のご厚意で、たぶん一週間足らず、自宅に借りたのだった。そのときの驚きは、本誌第9号にも書いたが、なにしろ、聴き馴れたレコードの世界がオーバーに言えば一変して、いままで聴こえたことのなかったこまかな音のひと粒ひと粒が、くっきりと、確かにしかし繊細に、浮かび上り、しかもそれが、はじめのところにも書いたようにおそろしく鮮度の高い感じで蘇り息づいて、ぐいぐいと引込まれるような感じで私は昂奮の極に投げ込まれた。全く誇張でなしに、三日三晩というもの、仕事を放り出し、寝食も切りつめて、思いつくレコードを片端から聴き耽った。マランツ♯7にはじめて驚かされたときでも、これほど夢中にレコードを聴きはしなかったし、それからあと、すでに十五年を経たこんにちまで、およそあれほど無我の境地でレコードを続けざまに聴かせてくれたオーディオ機器は、ほかに思い浮かばない。今になってそのことに思い当ってみると、いままで気がつかなかったが、どうやら私にとって最大のオーディオ体験は、意外なことに、JBLのSA600ということになるのかもしれない。
 たしかに、永い時間をかけて、じわりと本ものに接した満足感を味わったという実感を与えてくれた製品は、ほかにもっとあるし、本ものという意味では、たとえばJBLのスピーカーは言うに及ばず、BBCのモニタースピーカーや、EMTのプレーヤーシステムなどのほうが、本格派であるだろう。そして、SA600に遭遇したのが、たまたまオーディオに火がついたまっ最中であったために、印象が強かったのかもしれないが、少なくとも、そのときまでスピーカー第一義で来た私のオーディオ体験の中で、アンプにもまたここまでスピーカーに働きかける力のあることを驚きと共に教えてくれたのが、SA600であったということになる。
     *
本誌第9号にも書いた、とある。
ステレオサウンド 9号(1968年12月発売)は創刊3周年記念号で、
特集は「現代オーディオ人群像」で、16人の読者が登場されている。
続いて「再生装置拝見」で、
瀬川冬樹、菅野沖彦、上杉佳郎、山中敬三、四氏のリスニングルームが紹介されている。

ここでも瀬川先生はJBLのアンプ(SA600)について書かれている。
一部重なるところはあるものの、こちらもぜひ読んでほしい。
     *
 JBLのアンプが大変優れたものらしいとは、外誌などで承知していたが、むろんまだ聴かない音の真価が想像できるものではない。ひょんなことから、サンスイのショールームにサンプルで置いてあったSA600を借りられることになった。
 あのときの音の驚きは決して忘れない。大げさに云えば驚天動地だった。突然、スピーカーの音が一変したのだったから。接続を終えて音が出たのは深夜だった。小さな音量なのに、聴き馴れたレコードが様相を一変して、まるで、精密にピントの合った写真を拡大鏡でなめるようにのぞいて行くみたいに、楽器のディテールが、オーケストラのパートパートが、演奏家の息づかいが、気配が、眼前に展開しはじめたのだ。いったいこれはどういうことなのだろう。いままでのアンプがどうかしていたのだろうか。我を忘れて、思いつくレコードを息つく間もなくかけかえて、耳を澄ました。
 わたくしは緊張してものを言っているのだろうか。決してそうではない。あの驚きは、どんな書き方をしたところで、とうてい言い尽くせるものではない。まる三日というもの、ほとんどスピーカーの前に坐りこんだまま、そしてそば狗奴驚きの命ずるままに、あとからあとからレコードを聴き続けた。明らかに、わたくしの中でひとつの価値感が変って行ったのだった。
     *
まだまだ書き写していきたいが、このへんにしておく。
《明らかに、わたくしの中でひとつの価値感が変って行ったのだった》
まことそうだったのだと思う。

SA600はSE408Sをベースに、コントロールアンプ機能を取り付け、プリメインアンプ化したモノ。
SA600のリアパネルは、SE408Sのダイキャストフレームがそのまま使われている。
そのため入力端子はリアパネルには取り付けられず、アンプ底部にまとめられている。

このSA600の存在があるから、私にとってのJBLのパワーアンプといえば、
SE401ではなく、SE408S(SE400S)ということになる。

Date: 7月 22nd, 2016
Cate: 世代

世代とオーディオ(JBL SE408S・その10)

最初、この項のタイトルは「世代とオーディオ(JBL SE408S)」ではなく、
「世代とオーディオ(JBL SE401)」だった。
公開して一時間ほどして、SE401をSE408Sに変えた。

一度公開したタイトルを変えるのはあまり気がすすまないから、
そのままにしておこうかと思ったが、
SE401の音を私は聴いたことがないし、
私にとって、この時代のJBLのアンプの音は、SE408Sになってからのものであるから、
SE408Sに変えてしまった。

SE401の音はどんなだったのだろうか。
ステレオサウンド 38号「クラフツマンシップの粋(2)」の中で、
岩崎先生は次のように語られている。
     *
 僕が最初にSG520を入手した時に一緒だったのがトランス付きのSE401だったのですよ。いまにして思うと残念だったのだけれども、その頃にすれば、入力トランスが付いているということだけで、割と古い設計の暗譜なんだなと思って、かなり抵抗があったわけですよ。その上、二、三回トラブルをおこしたものだから、手離してしまったわけですけれども、非常におとなしい音だった記憶があるのです。わりとおっとりした音でしたね。低音の感じも高音の感じも、SG520にみられるように、いわゆるワイドレンジという雰囲気ではなくて、相当ナロウレンジだという意識をいまだに持っているのですよ。
     *
山中先生も《音の感じは全くその通りでしょうね》と語られている。
おもしろいのは、SG520も、最初はSE401の音に近かったということだ。
このことも「クラフツマンシップの粋(2)」の中に出てくる。
     *
山中 しかし一番最初の頃のSG520はあまり広帯域な感じではなかったでしょう。
岩崎 そうですね。いわゆるウォームトーンという感じ、高い方がダラ下りになっているような音でしたね。
山中 それが、実際に製品が売られるようになってからすぐに、ワイドレンジで非常にフラットな感じの音に変わりましたね。
岩崎 おそらく、使っているトランジスターが少し変わったのだと思いますよ。
     *
ということはごく初期のSG520とSE401のペアが聴かせる音と、
その後のSG520とSE408Sのペアが聴かせる音は、ずいぶん違っていたことになる。

Date: 7月 21st, 2016
Cate: 五味康祐

続・無題(その6)

こうやって書いている今も迷っていることがある。
フリードリヒ・グルダのモーツァルトのピアノソナタを、
グレン・グールドのモーツァルトと同じように《幼児の無心さ》といっていいのだろうかと。

五味先生は書かれている。
《凡百のピアニストのモーツァルトが如何にきたなくきこえることか》と。
グルダのモーツァルトは、そんなふうには決してひびかない。
凡百のピアニストとははっきりと違う。

the GULDA MOZART tapes のI集とII集に聴き惚れていながらも、
迷っているのが正直なところだ。

グールドもグルダも幼児の無心さをひびかせてくれている、としたら、
どうして、ふたりのモーツァルトはこうも違うのか。

ここでまた五味先生の書かれたものに戻っていく──
     *
 よく私は、レコードをききながら小説の構想を練るといわれるが、これは嘘だ。文学は音楽に影響されるものではない。逆もそうだろう。ただ、作家として世に出る機縁となった芥川賞受賞作『喪神』の結構を、ドビュッシーの〝西風の見たもの〟からヒントを得てまとめたのは事実なので、そのことにふれておきたい。
『喪神』のモチーフになったのは、西田幾太郎氏の哲学用語を借りれば、純粋経験ということになるだろうか。ピアニストが楽譜を見た瞬間にキイを叩く、この間の速度というのは非常に早いはずである。習練すればするほどこの速度は増してゆき、ついには楽譜を見るのとキイを叩くのが同時になってしまう。経験が積み重なってゆくと、こういう状態になる。それを純粋経験という。
 ルビンスティンもグールドも純粋経験でピアノを叩いている。それでいて、あんなに演奏がちがうのはなぜか。そこに前々から疑問を抱いていた。純粋経験というのは、意志が働く以前のところで処理されているはずなのに、と。そのときふと思ったのは、これは戦場で考えつづけていたことだが、人を斬ったらどういう感じがするだろうか、ということだった。
(「オーディオと人生」より)
     *
ここでの「純粋経験」が、幼児の無心さということなのか。
グールドにとっても、グルダにとってもモーツァルトのピアノソナタは暗譜していても不思議ではない。
テクニックとしても負担のある曲ではないはず。
そういうモーツァルトのピアノソナタだから、グールドとグルダの違いは、
演奏の違いとして(音楽の違いとして)、これほどはっきりと表出してくるのか。

幼児の無心さとは、意志が働く以前のところで処理されているはずのものなのか。

これで納得しようと思えば納得できるけれど、
感情の自由ということが、ひっかかっているのに気づく。

Date: 7月 21st, 2016
Cate: 五味康祐

続・無題(その5)

フリードリヒ・グルダのモーツァルトは、ピアノ協奏曲第20番が、私にとっては最初だった。
アバド指揮のウィーン・フィルハーモニーとの1974年の録音だから、
私が「五味オーディオ教室」と出あったときには、すでにあったレコードだ。

そのころピアノ協奏曲第20番で世評の高いものは、
このグルダ/アバドの他に、
ハスキル/マルケヴィチ指揮コンセール・ラムルー(1960年)、
カーゾン/ブリテン指揮イギリス室内管弦楽団(1970年)があった。

まずハスキル盤を買った。
次にカーゾン盤、グルダ盤はその次だった。
そのころはポンポンと聴きたいレコードを次々に買えたわけではなかったから、
ハスキル盤からグルダ盤までは、わりと離れていた。

グルダ盤を聴いたのは、19か20ぐらいだったか。
そのころは私は、ハスキル盤のほうがよく思えた。
グルダ盤もよかったけれど、世評ほどではないと感じてしまったのを憶えている。

私はあまりグルダの積極的な聴き手ではなかった。
グルダを積極的に聴くようになったのは、もう30をこえていた。
そのころになってやっと、グルダ盤のよさが感じとれるようになっていた。

the GULDA MOZART tapes のころになると、もう聴いた途端に「ああ、グルダ!」と思えた。
「ああ、グルダ!」については、以前書いている

「ああ、グルダ!」と感じさせる感情の自由が、
the GULDA MOZART tapes のいたるところにあると感じた。
そのうえで考える。
グールドがひびかせた幼児の無心さとの違いについて、である。

Date: 7月 20th, 2016
Cate: 世代

世代とオーディオ(JBL SE408S・その9)

「JBL 60th Anniversary」の192ページに、それは記してある。
少々長くなるが、引用しておこう。
     *
 1960年に、アルテック・ランシングのマーケティング組織に重大な変革が加えられた。それまでアルテック製品の国内向けのディストリビューターは、グレイバー社という1社のみで、プロ用サウンド関連会社へのセールスもすべてグレイバー社を通していた。
 ところが、この年にアルテックは、国内向けのディストリビューター網を自社で立ち上げることを決定した。その結果、グレイバー社の製品カタログには大きな穴があいてしまった。そこで、グレイバー社の代理人たちがJBL社と接触し、グレイバー社がこれから取り扱うべき新たなプロ用機器のフルラインナップの開発と、それに関する契約についての提案をしたのである。
 JBL社は、広範囲にわたる製品ラインナップの開発という今回の提案について、ゴーサインを出した。このラインナップには、一連のアンプをはじめ、トランス、ミキサー、さらにはJBLスピーカーユニットのプロ用ヴァージョン化も含まれていた。そのため、家庭用のスピーカーユニットと、そのプロ用ヴァージョンが明確に区別できるよう、すべての新しいプロ用ユニットに使用するための新規鋳造による壺型ヨークも作られた。しかしながら、家庭用製品もプロ用製品も、機械的・電気的に同一であったことは明記しておくべきだろう。
 製品開発は順調に進み、JBLが一般に向けて公式発表を行ったとき、信じ難いことが起きた。理由はいまだに明確ではないが、グレイバー社とJBL社との合意が破棄されたのである。その結果、生産ラインは破棄され、製品は1機種たりとも市場には出なかった。
     *
こういうことがあったのを、「JBL 60th Anniversary」が出るまでまったく知らなかった。
JBLが一般に向けて公式発表を行った、とあるが、これはいつなのだろうか。
1960年以降であることは確かだが、’61年なのか’62年なのか。
そして、ここでの公式発表の内容はどういうものだったのかも、わからない。

けれど思うのは、SE401に採用されたダイキャストフレームは、
この時点でその原型が作られていたのではないだろうか。
だとすれば、私がSE401、SE408Sに感じた、SG520、SA600とは違う血のようなものは説明がつく。

違うのかもしれない、ほんとうのところはわからないけれど、
少なくとも私のなかでは納得がいく。

「JBL 60th Anniversary」の190ページには、
アーノルド・ウォルフが介入し、
ダイキャストフレームに《外観上の美的中心とすべく意匠デザインのメスが入れられた》とある。

Date: 7月 20th, 2016
Cate: 世代

世代とオーディオ(JBL SE408S・その8)

JBLのSG520はハタチのころ、使っていた。
極上美品といえるほど程度のいい個体ではなかったけれど、
程度はいいモノで、付いていた価格も安く感じられたから、衝動買いに近い感じで自分のモノとした。

SA600は、いまも欲しいと思っているプリメインアンプのひとつであり、
もっとも欲しいプリメインアンプでもある。

SE400S、SE408Sは、この二機種ほど欲しい、と思ったことがこれまではなかった。
特にSE408Sは、まったく欲しいとは思っていなかった。
買うのであれば、中身は同じでもSE400Sだ、と思っていた。

けれどつい先日SE408Sを聴いて、このへんの気持が大きく変ってしまった。

SE401、SE408Sに、あまり興味を持てなかったのは、そのアピアランスにある。
エナジャイザーとしてのアピアランスだから、それでいいのは理解できても、
自分のモノとするのであれば、外装パーツつきのSE400Sということになる。

同時に、JBLのパワーアンプには、SG520、SA600とは少し血が違うようにも感じていた。
SG520、SA600はコンシューマー用としてのアンプである。
それに対して、SE401、SE408Sはどこか業務用機器的なところを感じさせるところが、
なぜか気になっていて、それほど欲しいとは思わせない理由になっていた。

もともとSE401はコンシューマー用アンプとしてではなく、
プロフェッショナル用アンプとして開発が始まったものではないのか──、
そう感じるところがあった。
ただそう感じるだけで、なにか根拠があるわけではなかったが、
ステレオサウンド別冊「JBL 60th Anniversary」に非常に興味深いことが書かれている。

Date: 7月 20th, 2016
Cate: 五味康祐

続・無題(その4)

《いっそ無心であるに如かない》、
だからこそグレン・グールドはコンサート・ドロップアウトをしたのではないか。
そうも思えてくる。

そういうグレン・グールドのモーツァルトである。

CBSソニーから、グレン・グールドのCDが出はじめたときのことだ。
モーツァルトのピアノソナタ全集もCDになったのを機に、
一枚目から一気に聴き通したことがある。
20代前半のころだった。
聴きはじめて、そうとうにしんどいことだと感じていた。

そのしんどさがどこからくるのか、その時はまったくわからなかった。
しんどさに耐えながら聴き続けるものではないかもしれない──、
そう思いつつも聴き続けていた。

その日から30数年経ったころ、
フリードリヒ・グルダthe GULDA MOZART tapes のI集が出た。続けてII集も出た。
録音状態はよいとはいえないCDだったけれど、これは夢中になって聴いていた。

I集とII集、五枚のCDを続けて聴いても、
グレン・グールドのモーツァルトを続けて聴いたときのしんどさはみじんもなかった。
このことは以前書いている

いろんなことが変化している。
そのうえで、五味先生の文章を読み返したわけだ。

Date: 7月 19th, 2016
Cate: 五味康祐

続・無題(その3)

五味先生は音楽評論家ではない、
オーディオ評論家でもない。

中にはオーディオ評論家と思いこんでいる読み手がいるが、
どうしてそう思えるかが不思議に思う。

五味先生は小説家であり、オーディオ、音楽について書かれているのは、
小説ではないから(そこには小説的要素が含まれていようとも)、物書きであるわけだが、
けれどグレン・グールドのモーツァルトについて書かれたものを読んでいると、
これに匹敵する音楽評論を読んだ記憶が私にはない。

グレン・グールドに関するものはかなりの数読んできた。
レコード評を含めて読んできた。

モーツァルトのピアノソナタに関しても、そうやって読んできたが、
五味先生によって書かれたもの以上には、いまのところ出合っていない。
あるのかもしれない、私が単に読んでいないだけ、という可能性はあるけれど、
それでもなお、これ以上のものが今後読めるだろうか……、と思ってしまう。

冒頭に、五味先生は評論家ではない、と書いておきながら、
これこそが評論だ、と思うわけだ。
いわゆる職業評論家による評論(表論)ではない「評論」が、ここにある。