続・無題(その5)
フリードリヒ・グルダのモーツァルトは、ピアノ協奏曲第20番が、私にとっては最初だった。
アバド指揮のウィーン・フィルハーモニーとの1974年の録音だから、
私が「五味オーディオ教室」と出あったときには、すでにあったレコードだ。
そのころピアノ協奏曲第20番で世評の高いものは、
このグルダ/アバドの他に、
ハスキル/マルケヴィチ指揮コンセール・ラムルー(1960年)、
カーゾン/ブリテン指揮イギリス室内管弦楽団(1970年)があった。
まずハスキル盤を買った。
次にカーゾン盤、グルダ盤はその次だった。
そのころはポンポンと聴きたいレコードを次々に買えたわけではなかったから、
ハスキル盤からグルダ盤までは、わりと離れていた。
グルダ盤を聴いたのは、19か20ぐらいだったか。
そのころは私は、ハスキル盤のほうがよく思えた。
グルダ盤もよかったけれど、世評ほどではないと感じてしまったのを憶えている。
私はあまりグルダの積極的な聴き手ではなかった。
グルダを積極的に聴くようになったのは、もう30をこえていた。
そのころになってやっと、グルダ盤のよさが感じとれるようになっていた。
the GULDA MOZART tapes のころになると、もう聴いた途端に「ああ、グルダ!」と思えた。
「ああ、グルダ!」については、以前書いている。
「ああ、グルダ!」と感じさせる感情の自由が、
the GULDA MOZART tapes のいたるところにあると感じた。
そのうえで考える。
グールドがひびかせた幼児の無心さとの違いについて、である。