Archive for 9月, 2015

Date: 9月 23rd, 2015
Cate: James Bongiorno

GASとSUMO、GODZiLLAとTHE POWER(その8)

ジェームズ・ボンジョルノはマランツ時代にModel 15を手がけている。
AMPZiLLAが取り上げられたステレオサウンド 35号では、
ボンジョルノはマランツでModel 500を手がけたとあるが、これは間違いである。
Model 15といっても、若い人ではどんなモノなのかまったく知らないだろう。

Model 15はパワーアンプで、
モノーラルアンプを二台左右にならべてフロントパネルで結合したコンストラクションをもつ。
つまり、いまでいうところのデュアルモノーラルコンストラクションである。

AMPZILLA 2000の登場を知って、ボンジョルノの復活を嬉しく思うとともに、
AMPZILLA 2000のスタイル、二台左右に並べての写真をみて、Model 15のことを思い出していた。
このことは、AMPZILLA 2000について考えていく上で無視できない。

GASのGODZiLLAもまたデュアルモノーラルコンストラクションをとっている。
フロントパネルのすぐ裏に二基の電源トランス(EI型)が配されている。

それはボンジョルノのアイディアだったのかは、
それともただ単にAMPZiLLAをブリッジ接続したともいえる規模からくるコンストラクションだったのか。

どちらなのかははっきりしない。
ただフロントパネルには電源スイッチが左右で独立してふたつあるところをみると、
そうなのかなぁ……、ともおもえる。

このGOFDZiLLAのコンストラクションは、予想のつくコンストラクションともいえる。
それに対して同時期に登場したSUMOのTHE POWERのコンストラクションは、
それまでのボンジョルノが手がけたアンプどれとも似ていない。

ここにボンジョルノの飛躍ともいえるものを感じるし、
ボンジョルノが奇才と呼ばれるのは、なにも奇を衒ったようなデザインとネーミングとロゴではなく、
こういうところにあるのだという具体的なモノとしての存在である。

Date: 9月 23rd, 2015
Cate: ケーブル

ケーブル考(その5)

ケーブルは関節だということに気づいてみると、
そういえは関節は英語では jointであり、
Jointには、関節の他に、接合個所[点、線、面]、継ぎ目、継ぎ手、という意味がある。

ジョイントケーブルという言い方があるのも思い出す。
ジョイントケーブルといっても関節ケーブルという意味ではなく、接続ケーブルという使われ方ではあるわけだが、
ケーブルをオーディオ機器同士の関節として捉えることは、
あながちおかしなことでもないし、目新しいことでもないのかもしれない。

たまたま私が読んできたオーディオ関係の本に、そういったことが書かれていなかっただけだったのか。

人間の身体に関節はいくつもある。
指にもあるし、手首(足首)にもあり、肘(膝)、肩(股)などがある。
これらの中では膝の関節が複雑だと聞いたことがあるが、
だからといって膝の関節がもっとも優れた関節であり、
他の関節も膝と同じ構造の関節になれば、身体能力が向上する、というものではないはず。

それぞれに箇所に適した関節であるからこそ、バランスが成り立っているのかもしれない。

オーディオ機器に使われるケーブルにも、いくつか種類がある。
もっとも短くて、だから価格も安く手軽に交換できる箇所としてシェルリード線、
トーンアームからの出力ケーブル(低容量と低抵抗タイプとに以前はわけられていた)、
チューナー、CDプレーヤーなどをアンプに接続するラインケーブル、
スピーカーに接続されるスピーカーケーブル、
それからそれぞれのオーディオ機器に電源を供給する電源コードがある。

スピーカーケーブルに求められる条件とシェルリード線に求められる条件とは違ってくる。
スピーカーケーブルではさほど重量が問題となることはないが、
シェルリード線では、あの狭いスペースであり、トーンアームの先端部分に位置するのだから、
太さと重さには制限がある。

ただし、この制約は高価な素材を使ううえでは有利ともなってくる。

Date: 9月 23rd, 2015
Cate: 進歩・進化

拡張と集中(その7)

発熱の問題はオーディオにとっては、けっこうやっかいな問題である。
なにもアンプに限った話ではない。
スピーカーにとっても熱を発することは問題であり、
その熱をどう処理するかはスピーカーの基本的な性能に関わってくる。

いうまでもなくスピーカーユニットのボイスコイルは金属である。
アルミニウムか銅が使われている。

電流が多く流れれば、どんな金属であれ熱をもつ。
熱をもてば金属の内部抵抗は大きくなる。
内部抵抗が大きくなれば、発熱もまた増えていく。つまり悪循環に陥る。

そうなってくると音量を上げようとして、
スピーカーにどれだけパワーを送ったとしても熱へと変換されていくパワーが増えていくだけで、
リニアリティが悪くなっていく。

つまりボイスコイルがもつ熱をどう処理していくのか。
この部分がうまく設計されていないユニットだと、
どんなに耐入力が高くとも最大音圧レベルは理屈どおりにはいかない。

JBLを離れたバート・ロカンシーを中心として1970年代終りに設立されたガウス。
当時、ウェストレックス(ウェストレークではない)のシステムに採用されたユニットでもあった。
無線と実験の記事で、このことを知って、
JBLよりもすごいユニットが登場したのか、と思ったほどだ。

ガウスのフルレンジ、ウーファーといったコーン型ユニット、
ホーン型トゥイーターは、ユニット後部がヒートシンク状になっていた。

それからイギリスのPMCの独特の形状のウーファー。
通常フレームはユニットの後部(裏側)にあるものが、
振動板の前面(ユニットの前面)にフレームをもっている。

見た目も独特なこの形状は、フレームを放熱器としてとらえれば、
エンクロージュア内に置くよりもエンクロージュアの外にもってきたほうが、
とうぜん放熱効果は高くなるというメリットがある(もちろんデメリットもあるけれど)。

それにボイスコイルの熱はボイスコイルだけではなく、マグネットにも影響を与えてる。
ネオジウムマグネットを採用したJBLのS9500のウーファー1400Ndでは、
熱による悪影響から逃れるために磁気回路の一部を削りとるという、独自の放熱機構をもっている。

ボイスコイルの抵抗を完全に0にできて、しかもどんな状況下でも0を維持できるのであれば、
変換効率の低さは、パワーアンプの出力の増大によって、かなりの部分補えるとしても、
現実にはそういう素材は登場していない。

ガウス、PMC、JBLのそれぞれの手法にしても、完全な解決法とはいえない。
パワーアンプの場合、発熱体である出力トランジスターはヒートシンクに取りつけられている。
けれどスピーカーの発熱体であるボイスコイルは、つねに動いているため、そういうわけにはいかないからだ。

Date: 9月 22nd, 2015
Cate: background...

background…(ポール・モーリアとDitton 66・その2)

岡先生のDitton 66の評価は、かなり厳しいものと読めなくもない。
     *
 このモデルも37号のテストに登場している。そのときもハイエンドが目立つというような書いたのだが、今回もそういう印象は、オーケストラ曲における弦楽器の目立つこと、声にかなり一種のつややかさがあること、とかくバックにある高音楽器をうまくひきだしてくれる一種のおもしろ味をもっているという店では、印象はあまりかわらなかった。倍音の出方がなかなかおもしろいのである。16Hzまでの再現性があるのかどうかはちょっとわからないが、低域の量感もかなりある。しかし、その低音の量感のわりに抑えが利かないところが出てくる。ABRの反応がおそくそのダンピングがあまいせいではないかと思われた。前回のテストでヴォーカルがよいというようなことを書いたが、このジャンルの音楽のききやすさというようなものはたしかにあるのだけれど、いまひとつ切れがあまくなるようで、一体にどの音にも余韻みたいなものがつきまとう。イギリスのスピーカーのなかでは、ほかにあまりきかれない一種の華やかさといったものもあるようだ。定位感がぴしっと出てこないところがあるが、ごく上等なイージーリスニング・システムといった感じである。
     *
瀬川先生が「テストの結果から私の推すスピーカー」の筆頭にDitton 66を挙げられているのと対照的に、
岡先生、黒田先生はDitton 66については、そこではまったくふれられていない。

瀬川先生と岡先生の評価がここまで違うのは、
どちらかの耳が信用できないから、ということではまったくない。

短絡的な読み手は、ここで「だからオーディオ評論家なんて信用できない」と口にしてしまうだろう。
けれど、ここでの例はそんな低いレベルのことではない。

ふたりの聴き方の違いが、そのまま試聴記に顕れているだけである。
Ditton 66は瀬川先生が書かれているように「永く聴いていても少しも人を疲れさせない」。
けれど、その性質が、
岡先生にとっては「ごく上等なイージーリスニング・システムといった感じ」になってしまうのだろう。

岡先生にとってはイージーリスニング・システムであるDitton 66が、
瀬川先生にとっては「本ものの音楽のエッセンスをたっぷりと響かせる」スピーカーである。

Date: 9月 22nd, 2015
Cate: background...

background…(ポール・モーリアとDitton 66・その1)

ポール・モーリアの音楽はイージーリスニングとして捉えられることがもっぱらだ。
だからといってポール・モーリアの音楽が、
常に、誰にとってもイージーリスニングな音楽であるわけではない。

たとえばセレッションのDitton 66というスピーカーシステムがある。
トールボーイのフロアー型で、30cm口径のウーファーに同口径のABR(パッシヴラジエーター)、
スコーカーは5cm口径、トゥイーターは2.5cm口径のドーム型の3ウェイである。

瀬川先生は、このスピーカーシステムを高く評価されていた。
ステレオサウンド 43号(ベストバイ)では、こう書かれている。
     *
 仕事先に常備してあるので聴く機会が多いが、聴けば聴くほど惚れ込んでいる。はじめのうちはオペラやシンフォニーのスケール感や響きの自然さに最も長所を発揮すると感じていたが、最近ではポピュラーやロックまでも含めて、本来の性格である穏やかで素直な響きが好みに合いさえすれば、音楽の種類を限定する必要なく、くつろいだ気分で楽しませてくれる優秀なスピーカーだという実感を次第に強めている。
     *
Ditton 66は44号の「フロアー型中心の最新スピーカーシステム」にも登場している。
ここでも瀬川先生の評価はそうとうに高い。
     *
 柔らかく暖かい、適度に重厚で渋い気品のある上質の肌ざわりが素晴らしい。今回用意したレコードの中でも再生の難しいブラームス(P協)でも、いかにも良いホールでよく響き溶け合う斉奏(トゥッティ)の音のバランスも厚みも雰囲気も、これほどみごとに聴かせたスピーカーは今回の30機種中の第一位(ベストワン)だ。ベートーヴェンのセプテットでは、たとえばクラリネットに明らかに生きた人間の暖かく湿った息が吹き込まれるのが聴きとれる、というよりは演奏者たちの弾みのついた気持までがこちらに伝わってくるようだ。F=ディスカウのシューマンでも、声の裏にかすかに尾を引いてゆくホールトーンの微妙な色あいさえ聴きとれ、歌い手のエクスプレッション、というよりもエモーションが伝わってくる。バルバラのシャンソンでも、このレコードのしっとりした雰囲気(プレゼンス)をここまで聴かせたスピーカーはほかにない。こうした柔らかさを持ちながら〝SIDE BY SIDE〟でのベーゼンドルファーの重厚な艶や高域のタッチも、決してふやけずに出てくるし、何よりも奏者のスウィンギングな心持ちが再現されて聴き手を楽しい気持に誘う。シェフィールドのパーカッションも、カートリッジを4000DIIIにすると、鮮烈さこそないが決して力の弱くない、しかしメカニックでない人間の作り出す音楽がきこえてくる。床にじかに、背面を壁に近づけ気味に、左右に広く拡げる置き方がよかった。
     *
Ditton 66は1977年当時、一本178000円のスピーカーシステムであり、
瀬川先生の評価はある程度価格を考慮してのものであるにしても、
非常に好ましいスピーカーであることが読みとれる。

43号、44号の瀬川先生の文章を読んで数年後、Ditton 66の音を聴いた。
たしかに、そのとおりの音だった。
私はいいスピーカーだと思う。
いまも程度のいいモノがあれば、それに置き場所が確保できれば手もとにおきたいスピーカーである。

けれどDitton 66は聴き手側の聴き方が変れば、その評価もかなり変ってくる。
44号では岡先生も試聴に参加されている。

Date: 9月 22nd, 2015
Cate: James Bongiorno

GASとSUMO、GODZiLLAとTHE POWER(その7)

ステレオパワーアンプを二台、モノーラルパワーアンプならば四台用意してブリッジ接続にする。
この場合の出力は8Ω負荷時の四倍の出力が得られる──、のが理屈である。

50W+50Wのステレオパワーアンプをブリッジ接続すれば、だから200Wのモノーラルパワーアンプとなる。
けれど実際にブリッジ接続してみても理論通りに四倍の出力が得られるモノはごくわずかである。

ほとんどの場合、出力の増加は二倍程度であった。

1977年に登場したマークレビンソンのML2は、8Ω負荷時で25W。
にも関わらず消費電力はA級動作のため400W。
無駄飯喰いのパワーアンプだが、4Ω負荷時では理論通りに50Wになり、
2Ω負荷時には、ここでもまた理論通りに100Wになる。

なのでML2Lをブリッジ接続すれば8Ω負荷時で100W、4Ω負荷時で200Wが得られる。
それだけML2は電源の余裕度が大きかったといえる。

ML2の登場によって、
電源の余裕度を4Ω負荷時の出力、ブリッジ接続時の出力から推し量ろうとするようにもなった。
4Ω負荷時の出力が8Ω負荷時の出力の二倍になっているかどうか、
ブリッジ接続時に四倍になっているかどうかである。

ただしこれを逆手にとって、
4Ω負荷時の出力の半分の値を8Ω負荷時の出力として表示するアンプも登場したようだ。
8Ω負荷時には実際はもっと出力が得られるのだが、正直にその値を発表すると電源の容量が不足している、
そんなふうに受けとめられることを避けるためでもあった。

ML2にしても8Ω負荷時で実のところ50Wの出力が出せていたようでもある。
それが初期のロットからそうだったのか、途中からそうなっていったのかは不明なのだが。

GASのAMPZiLLAは8Ω負荷時の出力は200W+200W、
GODZiLLA ABの出力は350W+350Wと約二倍である。

AMPZiLLAの外形寸法はW44.5×H17.8×D22.9cm(AMPZiLLA IIAのカタログ発表値は若干大きい)、
GODZiLLAはW48.0×H18.0×D49.0cm、
重量はAMPZiLLAが22.7kg、GODZiLLAが45.0kg。

GODZiLLAはAMPziLLAを奥行き方向に二台並べた外形寸法と重量である。
出力もAMPZiLLAをブリッジ接続した値に近い。

このことだけでは断言できないものの、
やはりGODZiLLAはAMPZiLLAのブリッジ接続がベースになっているパワーアンプなのだろう。

Date: 9月 21st, 2015
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その14)

バックハウスの「最後の演奏会」と呼ばれるディスクを聴く。
LPで出た。CDが登場し、何度か発売されている。
どちらで聴いてもいい。

とにかくバックハウスの「最後の演奏会」のディスクを聴く。
ここで「聴く」という行為は、いうまでもなくオーディオを介して聴くことになる。
つまりスピーカーからの音を聴くわけだ。

バックハウスの「最後の演奏会」は、そのタイトルが示しているように、
バックハウスの最後の演奏会のライヴ録音である。

ここのところが、このディスクの微妙なところと深く関係してくる。

録音にはスタジオ録音とライヴ録音とがある。
ライヴ録音のすべてが、いわば音楽のドキュメンタリーであるとはいわないまでも、
どこか音楽のドキュメンタリーとしての性格を少なからず内包する。

特にバックハウスの「最後の演奏会」は、その日の音楽だけが収められているわけではない。
バックハウスがベートーヴェンのピアノソナタ第十八番の第三楽章をひいている途中で心臓発作を起す。
そのため演奏は一時中断される。
そして再開される。中断されたところからではなく、プログラムが変更されての再開であり、
そのことをアナウンスする声も、「最後の演奏会」には収められている。

このアナウンスが、
「最後の演奏会」という録音のもつドキュメンタリーとしての性格を濃くしている。

Date: 9月 21st, 2015
Cate: オーディオ評論, 五味康祐, 瀬川冬樹

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(続々続・おもい、について)

日本のオーディオ界を毒する方向へともってゆく人は、
おそらく自分自身が、そういう方向へともってゆこうとしているとは気づいていないのかもしれない。
それだけではなく、自分自身が毒されたということを自覚していないのかもしれない。

そういう人たちでさえ、オーディオ界で仕事をするようになったときから、
日本のオーディオ界を毒する方向へともってゆこうと考えたり、行動していたわけではなかったはずだ。

なのにいつしか毒されてしまう。
いつのまにかであるから、なかなか毒されたことに自覚がなく、
自覚がないままだから、日本のオーディオ界を毒する方向へともってゆこうとしている──。

そんな人たちばかりでないことはわかっている。
わかっていても、そんな人たちの方が目立っている。
ゆえにそんな人たちの周囲にいる人は、どうしても毒されてしまう環境にいるといえよう。

それで毒される人、毒されない人がいる。
そんな人も、自分が周囲の人を毒する方向へともってゆこうとしているとは、
露ほどにも思っていないのではないだろうか。

こういうことを書いている私自身は、どうなのだろうか……。

Date: 9月 20th, 2015
Cate: オーディオ評論, 五味康祐, 瀬川冬樹

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(続々・おもい、について)

ステレオサウンド 16号(1970年9月発売)、
巻頭には五味オーディオ巡礼がある。
副題として、オーディオ評論家の音、とついている。

山中敬三、菅野沖彦、瀬川冬樹、三氏の音を聴かれての「オーディオ巡礼」である。

瀬川先生のところに、五味先生は書かれている。
     *
 でも、私はこの訪問でいよいよ瀬川氏が好きになった。この人をオーディオ界で育てねばならないと思った。日本のオーディオを彼なら毒する方向へはもってゆかないだろう。貴重な人材の一人だろう。
     *
「毒する方向へはもってゆかない」。
これは、日本のオーディオを毒する方向へともってゆく人が現実にいる、ということのはずだ。

「貴重な人材の一人だろう」。
日本のオーディオ界を毒する方向へともってゆかない人よりも、
日本のオーディオ界を毒する方向へともってゆく人の数が多いということなのだろう。

Date: 9月 20th, 2015
Cate: 対称性

対称性(その5)

別項でも書いたようにEMT930st、927Dstのメインプラッターは車のホイールのようである。

ではB&OのBeogramシリーズのプラッターは? というと、
私の場合、頭に浮ぶのは時計である。

若い人は知らないだろうが、
アナログディスク全盛時代、オーディオ店にB&Oの時計が壁にかかっているところがいくつかあった。
広告にも出ていたはずだ。

Beogramシリーズのターンテーブルプラッター、
放射状にラインが入っている、あのプラッターを文字盤とした壁掛け時計が、当時はあった。
私にとって、欲しい、と思った最初の時計だった。

時計で回転するのは長針と短針であり、文字盤が回転するわけではない。
文字盤は動かない。
一方ターンテーブルプラッターは回転するからこそ、ターンテーブルであり、その仕事を果す。
動かないターンテーブルプラッターは機能していない。

だからEMTのターンテーブルプラッターで車のホイールをイメージするのであれば、
Beogramのターンテーブルプラッターでイメージすべきは、
別の回転体であるべきなのかもしれないと思っていても、
Beogramのプラッターと時計とを、どうしても切り離すことはできないでいる。

Date: 9月 19th, 2015
Cate: 対称性

対称性(その4)

EMTの927DstとB&OのBeogram 4002。

EMTのアナログプレーヤーは、スタジオでの使用を考えてのアナログプレーヤーである。
もっといえばスタジオでの使用のみを考えて設計されたアナログプレーヤーである。

ここでいうスタジオとは放送局のスタジオでもあるし、
レコード会社の録音スタジオでもある。
そういう場で使われるEMTのプレーヤーは扱うのは、それぞれのプロフェッショナルであり、
その意味でもEMTのプレーヤーは、プロフェッショナル用である。

B&Oは、まるで違う。
そういったスタジオでの使用はまったく想定されていない。
家庭で使うアナログプレーヤーであり、
Beogram 4002のデザイナーのヤコブ・イエンセンは、
「モダン・テクノロジーは、人間の幸せのために奉仕すべきものだ」という。
(ステレオサウンド 49号「デンマークB&O社を訪ねて」より)

さらに「オーディオ機器は、トータル・ライフの中で、音楽を楽しむという目的で存在しているはずだ」ともいう。

Beogram 4002だけではない、
レシーバーのBeocenterシリーズも、まさしくイエンセンのことば(主張)が、
それに振れることではっきりと理解できる。

B&Oのアナログプレーヤー(他の製品も含めて)、完全なコンシューマー用である。

EMTのアナログプレーヤー(930st、927Dst)には、モダン・テクノロジーはそこからは感じとれない。
人間の幸せのために奉仕すべき機器として開発されたモノとも思えない。
ましてトータル・ライフの中で音楽を楽しむという目的で存在しているわけではない。

そういうふたつのアナログプレーヤーが、
瀬川先生の著書「続コンポーネントステレオのすすめ」の221ページでは上下に並べて掲載されている。

編集部にどういう意図があったのは不明だが、実に示唆に富む一ページだと思う。

Date: 9月 19th, 2015
Cate: James Bongiorno

ボンジョルノとレヴィンソン(その8)

目の前に、スタインウェイのピアノがあったとする。
スタインウェイでなくともよい、ベーゼンドルファーのピアノでもいいし、
ストラディヴァリウスのヴァイオリンでもかまわない。
とにかく目の前に、よい音を奏でてくれるであろう楽器がある。

でも、これだけではその楽器から音は一音たりとも鳴ってこない。
弾き手がいて、はじめて、その素晴らしい楽器から音が鳴ってくる。
素晴らしい楽器になればなるほど、素晴らしい弾き手を求める。

楽器はそれ単体では音を鳴らさない。
弾き手(つまり人間)の肉体運動の結果として、楽器から音が鳴ってきて、
音楽が奏でられる。

それはどんな音楽であってもそうだ。
クラシックであれジャズであれロック・ポップスであれ、
人間の肉体運動によって音は発せられる。

このことを実感できる再生音とそうでない再生音とがある。
ジェームズ・ボンジョルノのアンプとマーク・レヴィンソンのアンプ。
両者のアンプの違いは、こういうところにもはっきりと出てくる。
そして、音の鮮度の高さに関しても、ボンジョルノのアンプとレヴィンソンのアンプとは同じわけではない。

念のため書いておくが、ここでのマーク・レヴィンソンのアンプとは、
ジョン・カールがいた時代、関与したアンプ、つまりJC2(ML1)、LNP2、ML2などのことである。

ステレオサウンド 52号のSUMOのTHE POWERの新製品紹介の記事。
ここでコントロールアンプをLNP2からTHAEDRAにすると、
途端に音の鮮度や躍動感が出てきた、とある。

音の鮮度。
THE POWERが登場した1979年、
GASのTHAEDRAよりも鮮度感の高さ、透明度の高さを誇るコントロールアンプはあった。
ふつうに考えれば、そういったコントロールアンプの方が、より鮮度のある音が得られるように思う。

私はそう思っていた。
THE GOLDを手に入れて、THAEDRAを遅れて手に入れるまでは。

Date: 9月 18th, 2015
Cate: James Bongiorno

THE GOLDなワケ

SUMOからTHE GOLDが登場したとき、
なぜTHE GOLDなワケについて深く考えはしなかった。

AB級のTHE POWERがブラックパネル、
A級のTHE GOLDはゴールド(塗装)パネル。

フロントパネルの色でいえば、THE POWERはTHE BLACKという型番でもいいはず。
だが実際は、THE POWERとTHE GOLDである。

1985年12月、偶然にもTHE GOLDの中古を見つけた。
ちょうどステレオサウンドの冬号が店頭に並んで、ぽっかりヒマな時間ができたというので、
会社を抜け出して秋葉原に行っていた。

なんとなくTHE GOLDがありそうな予感だけがあったからだ。
そして実際に、そこにTHE GOLDがあり、衝動買いだった。

そうやって自分のモノとして、なぜこのアンプはTHE GOLDなのか、と考えた。
THE POWERの半分の出力をもつ弟分にあたるアンプはTHE HALFだった。
わかりやすいネーミングだ。

THE GOLDは純A級アンプなのだから、THE PUREという型番でもいいではないか。
いうまでもなくフロントパネルがゴールドだからTHE GOLDではないはず。
THE GOLDだからフロントパネルをゴールドにしたものと思われる。

そんなことをぼんやりと考えて思いついたのは、
AMPZiLLAがアンプのゴジラなのだから、
THE GOLDはゴジラの強敵といえるキングギドラなのではないか。
キングギドラは金色に輝く。

だからTHE GOLDなのか、と思った。
もちろん、何の根拠も確証もない単なる憶測にすぎない。
けれど、他にこれ! といった理由がいまだに思いつかないでいる。

Date: 9月 18th, 2015
Cate: James Bongiorno

ボンジョルノとレヴィンソン(その7)

神経質とこまやかな神経とは決して同じではない。

こまやかを細やかと書くか濃やかと書くか。
これもけっして同じとはいえない。

マーク・レヴィンソンとジェームズ・ボンジョルノについて書いているが、
ふたりの違いを端的に書けば、神経質か濃やかな神経かということになる。

もちろん神経質なのはマーク・レヴィンソンであり、
濃やかな神経なのはジェームズ・ボンジョルノである。

マーク・レヴィンソンが神経質であることに認める人でも、
ジェームズ・ボンジョルノが濃やかな神経の人であると思う人は多くないかもしれない。

GASやSUMOといったネーミングにしても、
GASのデビュー作であるAMPZiLLAのネーミングとそのデザイン、
どこかふざけているように受けとめてしまう人はいるはずだ。

ボンジョルノが濃やかな人だとは、私はすぐには気づかなかった。
ステレオサウンドに載っているGASの一連のアンプの評価を読んでいるだけでは、
そのことに気づくことはなかった。

結局、ボンジョルノのアンプの音を聴いてみるしかなかった。
だからといって聴けばすぐにわかることもあればそうでないこともある。

GASのアンプにしろSUMOのアンプにしろ、聴いてすぐにわかる良さはある。
けれど、ボンジョルノを濃やかな人と気づくようになるには、
私の場合、しばらくの期間を聴き込むことが必要だった。

つまり自分のモノとしてつきあうことが必要だった。
そうやって気づく良さがあり、
そのことに気づいた上で、もう一度、GAS、SUMOのアンプの評価を読むと、
特に井上先生、山中先生の新製品紹介のページを読みなおすと、また気づくことがある。

Date: 9月 17th, 2015
Cate: James Bongiorno

ボンジョルノとレヴィンソン(と五味康祐氏)

ステレオサウンドの原田勲氏が、五味先生が亡くなられた直後、
藝術新潮に書かれた「五味先生を偲んで」に、こう書いてある。
     *
 シャイな先生は、ご自分の根本のところでの真面目さをひたかくしにされていた。ひたかくしに、かくしたいからこその〝奇行〟にも真面目にはげまれてしまうのであった。
     *
いくつかのことを思っていた。
そのひとつがジェームズ・ボンジョルノのことだった。

ボンジョルノのGAS、SUMOと行った会社のネーミング、
AMPZiLLA、THAEDRA、THE POWER、THE GOLD、その他のアンプのネーミング、
このことが五味先生の〝奇行〟と重なってきた。

根本のところでの真面目さをかくしたいからこそのネーミングなのかもしれない。

ほんとうのところはわからない。
ただ「五味先生を偲ぶ」を呼んで、そう感じたことがある。