Archive for 7月, 2015

Date: 7月 22nd, 2015
Cate: モニタースピーカー

モニタースピーカー論(APM8とAPM6・その10)

山中先生は、エスプリ(ソニー)のAPM6のどこによさを認められていたのか、
「コンポーネントステレオの世界 ’82」での組合せでは、どういう音を求められていたのか。

「コンポーネントステレオの世界 ’82」でのもうひとつき山中先生の組合せ、
QUADのESL63の組合せとAPM6の組合せには、共通する言葉が出てくる。

ESL63の組合せの最後に山中先生が語られている。
     *
 最近は室内楽のレコードをほんとうに魅力的に再生できるシステムが非常に少ない。この組合せにあたってドビュッシーのフルートとハープとヴィオラのソナタを聴きましたが、こういったドビュッシーなんかの曲で一番難しいのは、音が空間に漂うように再生するということだろうと思います。そのあたりの雰囲気が、かけがえのない味わいで出てくるわけで、ぼくは実はこうした音楽が一番好きなのです。
 それをこういう装置で聴くと、またまた狂いそうで心配です。最近の自分のシステムでいちばん再生困難なソースだったけれども……。
     *
ESL63の組合せはQUADのアンプ(44+405)に、
アナログプレーヤーはトーレンスのTD126MKIIICとトーレンスのカートリッジMCH63、
昇圧トランスはオーディオインターフェイスのCST80E40で、組合せ合計は¥1,710,000(1981年当時)。

室内楽については、APM6のところでも語られている。
     *
 この組合せのトータルの音ですが、最初に意図した、おらゆるソースにニュートラルに対応するという目的はかなり達せられたと思う。たとえば、かなり大編成のものを大きな音量で鳴らしても大丈夫ですし、楽器のソロのような再生の場合でも焦点がピシッと定まる。決して音像が大きく広がらないで、定位の点でも問題ないし、ディテールも非常によく出ると思います。
 ただ、私の好みもあって、いろいろなソースを聴いてみますと、一番よく再生できたなという感じがしたのは、クラシック系のソースです。特に小編成の室内楽とか声楽、それからピアノの再生がかなり良かったと思います。それがこのスピーカーシステムの一つの特徴なのかもしれません。楽器のイメージというか、とくにサイズの感覚が非常によく出る。たとえば、ギターのソロの場合、スピーカーによってはギターが非常に大きくなってしまって、両方のスピーカーの間隔いっぱいに広がるような、巨大なギターを聴くという雰囲気になるんですけど、そういうことは全くなくて、ピシッとセンターに焦点が合う。しかも、その楽器の大きさらしい音で実感できる。こういう点がこのシステムの一番素晴らしいところだと思います。
     *
この、再生される楽器の大きさについては、ESL63のところでも語られている。
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 人間が人間の大きさでちゃんと再現される。動きもわかる。楽器がそれぞれ大きさでちゃんと鳴る。小さな楽器は小さく、大きな楽器は大きく、ちゃんと感じられる。
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APM6とESL63、
それに鳴らされる(組み合わされる)アンプもずいぶんと傾向の違いを感じるが、
意外にもどちらの組合せでも、共通する意図が、そして音があったことがわかる。

Date: 7月 22nd, 2015
Cate: 4350, JBL, 組合せ

4350の組合せ(その10)

瀬川先生はステレオサウンド 52号で、書かれている。
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 ところで、ML6の音は良いと思い、ML2Lの音にまた感心し、両者を組合わせたときの音の素晴らしさに惚れ込みながら、しかしその音だけでは十全の満足が得られないように思われる。それは一体何だろうか。
 おそらく、音の豊かさ、それも、豊潤(あるいは芳醇)とか潤沢とか表現したいような、うるおいも艶もそして香りさえあるかのような豊かさ。光り輝くような、それも決してギラギラとまぶしい光でなく、入念に磨き込まれた上品な光沢、といった感じ。
 そんなリッチな感じが、レビンソンの音には欠けている。というよりもレビンソン自身、そういう音をアンプが持つことを望んでいない。彼と話してみてそれはわかるが、菜食主義者(ヴェジタリアン)で、完璧主義者(パーフェクショニスト)で、しかもこまかすぎるほど繊細な神経を持ったあの男に、すくなくとも何か人生上での一大転換の機会が訪れないかぎり、リッチネス、というような音は出てこないだろうと、これは確信をもっていえる。
 いわゆる豊かな音というものを、少し前までのわたくしなら、むしろ敬遠したはずだ。細身で潔癖でどこまでも切れ込んでゆく解像力の良さ、そして奥行きのある立体感、音の品位の高さと美しさ、加えて音の艶……そうした要素が揃っていれば、もうあとは豊かさや量感などむしろないほうが好ましい、などと口走っていたのが少し前までのわたくしだったのだから。たとえば菅野沖彦氏の鳴らすあのリッチな音の世界を、いいな、とは思いながらまるで他人事のように傍観していたのだから。
 それがどうしたのだろう。新しいリスニングルームの音はできるだけライヴに、そしてその中で鳴る音はできるだけ豊かにリッチに……などと思いはじめたのだから、これは年齢のせいなのだろうか。それとも、永いあいだそういう音を遠ざけてきた反動、なのだろうか。その詮索をしてみてもはじまらない。ともかく、そういう音を、いつのまにか欲しくなってしまったことは確かなのだし、そうなってみると、もちろんレビンソン抜きのオーディオなど、わたくしには考えられないのだが、それにしても、マーク・レビンソンだけでは、決して十全の満足が得られなくなってしまったこともまた確かなのだ。
     *
そして53号で、オール・レビンソンによる4343のバイアンプの音を聴かれて、書かれている。
     *
「春の祭典」のグラン・カッサの音、いや、そればかりでなくあの終章のおそるべき迫力に、冷や汗のにじむような体験をした記憶は、生々しく残っている。迫力ばかりでない。思い切り音量を落して、クラヴサンを、ヴァイオリンを、ひっそりと鳴らしたときでも、あくまでも繊細きわまりないその透明な音の美しさも、忘れがたい。ともかく、飛び切り上等の、めったに体験できない音が聴けた。
 けれど、ここまでレビンソンの音で徹底させてしまった装置の音は、いかにスピーカーにJBLを使っても、カートリッジにオルトフォンを使っても、もうマーク・レビンソンというあのピュアリストの性格が、とても色濃く聴こえてくる。いや、色濃くなどというといかにもアクの強い音のような印象になってしまう。実際はその逆で、アクがない。サラッとしすぎている。決して肉を食べない草食主義の彼の、あるいはまた、おそらくワイ談に笑いころげるというようなことをしない真面目人間の音がした。
 だが、音のゆきつくところはここひとつではない。この方向では確かにここらあたりがひとつの限界だろう。その意味で常識や想像をはるかに越えた音が鳴った。ひとつの劇的な体験をした。ただ、そのゆきついた世界は、どこか一ヵ所、私の求めていた世界とは違和感があった。何だろう。暖かさ? 豊饒さ? もっと弾力のある艶やかな色っぽさ……? たぶんそんな要素が、もうひとつものたりないのだろう。
 そう思ってみてもなお、ここで鳴った音のおそろしいほど精巧な細やかさと、ぜい肉をそぎ落として音の姿をどこまでもあらわにする分析者のような鋭い迫力とは、やはりひとつ隔絶した世界だった。
     *
サンスイのショールーム、スイングジャーナルの試聴室での4350のオール・レビンソンによる音を聴かれ、
自身のリスニングルームで自身の4343を、4350と同じラインナップで鳴らされている。
その感想を、53号に書かれている。

オール・レビンソンの音を「ひとつ隔絶した世界」と認めながらも、
そこに決定的に欠けているものを求めようとされている。

ちょうどそのころにマイケルソン&オースチンのTVA1が登場している。

Date: 7月 22nd, 2015
Cate: 4350, JBL, 組合せ

4350の組合せ(その9)

「4350の組合せ」について書こうとしたのは、
井上先生が4350Aを所有されていたこと、井上先生ならばどういうシステムで鳴らされたのか。
そのことを考えていたからである。

最初はそのことについて書く予定だったのが、書いていくうちに書きたいことが出てくる。
瀬川先生はオール・レビンソンの組合せだったわけだが、
こんな組合せもつくられたのではなかろうか……、そうおもえることがある。

「コンポーネントステレオの世界 ’80」の巻頭の冒頭を読んでほしい。
     *
 秋が深まって風が肌に染みる季節になった。暖房を入れるにはまだ少し時季が早い。灯りの暖かさが恋しくなる。そんな夜はどことなく佗びしい。底冷えのする部屋で鳴るに似つかわしい音は、やはり、何となく暖かさを感じさせる音、だろう。
 そんなある夜聴いたためによけい印象深いのかもしれないが、たった昨晩聴いたばかりの、イギリスのミカエルソン&オースチンの、管球式の200ワットアンプの音が、まだわたくしの身体を暖かく包み込んでいる。
 この200ワットアンプは、EL34/6CA7を8本、パラレルPPでドライヴするモノフォニック構成の大型パワーアンプで、まだサンプルの段階だから当分市販されないらしいが、これに先立ってすでに発売中のTVA1という、KT88・PPの70ワットのステレオ・パワーアンプの音にも、少々のめり込みかけていた。
 近ごろのТRアンプの音が、どこまでも音をこまかく分析してゆく方向に、音の切れこみ・切れ味を追求するあまりに、まるで鋭い剃刀のような切れ味で聴かせるのが多い。替刃式の、ことに刃の薄い両刃の剃刀の切れ味には、どこか神経を逆なでするようなところがあるが、同じ剃刀でも、腕の良い職人が研ぎ上げた刃の厚い日本剃刀は、当りがやわらかく肌にやさしい。ミカエルソン&オースチンTVA1の音には、どこか、そんなたとえを思いつかせるような味わいがある。
 そこにさらに200ワットのモノ・アンプである。切れ味、という点になると、このアンプの音はもはや剃刀のような小ぶりの刃物ではなく、もっと重量級の、大ぶりで分厚い刃を持っている。剃刀のような小まわりの利く切れ味ではない。力を込めれば丸太をまっ二つにできそうな底力を持っている。
 たとえば、少し前の録音だが、コリン・デイヴィスがコンセルトヘボウを振ったストラヴィンスキーの「春の祭典」(フィリップス)。その終章近く、大太鼓のシンコペーションの強打の続く部分。身体にぴりぴりと振動を感じるほどの音量に上げたとき、この、大太鼓の強打を、おそるべきリアリティで聴かせてくれたのは、先日、SS本誌53号のための取材でセッティングした、マーク・レビンソンML2L2台のBTL接続での低音、だけだった。あれほど引締った緊張感に支えられての量感は、ちょっとほかのアンプが思いつかない。ミカエルソン&オースチンB200の低音は、それとはまた別の世界だ。マーク・レビンソンBTLの音は、大太鼓の奏者の手つきがありありとみえるほどの明解さだったが、オースチンの音になると、もっと混沌として、オーケストラの音の洪水のようなマッスの中から、揺るがすような大太鼓の轟きが轟然と湧き出してくる。まるで家全体が揺らぐのではないかと思えるほどだ。
 B200の音の特徴は、もうひとつ、ピアノの打音についてもいえる。もう数年前から、本誌での試聴でも何度か使ってきた、マルタ・アルゲリチのショパンのスケルツォ第2番(グラモフォン)の打鍵音は、ふつうとても際どい音で鳴りやすい。とくに高音の打鍵ほど、やせて鋭い人工的な鳴りかたになりやすい。しかしB200では、現実のピアノで体験するように、どんな鋭い打鍵音にもそのまわりに肉づきの豊かな響きが失われない。ただ、アルゲリチ独特の──それを嫌う人も多いらしいが──癇性の強い鋭いタッチが、かなり甘くソフトになってしまう。まるで彼女の指までが肉づき豊かに太ってしまったかのように。それにしても、近ごろ聴いた数多くのアンプの中で、音の豊かさ、暖かさが、高域の鋭さまでを柔らかくくるみ込んでしまって、ピアノの高域のタッチをこれほど響きをともなって聴かせてくれるアンプは、ほかにちょっと思い浮かばない。いくら音量を上げても、刺激性の音がしない。それで、最後に、アース・ウィンド&ファイアの「黙示録」(CBSソニー)の中から、おそらくこれ以上上げられないと言う音量で二曲聴き終えたら、同席していた3人とも、耳がジーンとしびれて、いっとき放心状態になってしまった。あまり大きな音量だったので、玄関のチャイムが聴こえずに、そのとき友人が表でウロウロしていたのだが、遮音については相当の対策をしたはずのこの部屋でも、EWFのときばかりは、盛大に音が洩れていたらしい。
     *
この時は試作品だということで型番がB200となっているアンプは、マイケルソン&オースチンのM200のことだ。
EL34を八本使った出力段をもつこのアンプは200Wで、KT88プッシュプルのTVA1の約三倍の出力を持つ。

シャーシーはTVA1とM200は共通。TVA1がステレオ仕様に対してM200はモノーラル仕様。
出力トランスもM200のそれはTVA1の出力トランスのふたつ分の大きさとなっている。

瀬川先生はこのM200を低域用として、TVA1を中高域用として4350Aを鳴らされたのではないか。
そうおもえてくるのだ。

Date: 7月 21st, 2015
Cate: 4350, JBL, 組合せ

4350の組合せ(その8)

もう少し水にこだわって書けば、
マークレビンソンのML6とマッキントッシュのC29の違いには、のどごしの違いもあるように思う。
のどごしにも好みがあろう。

1995年ごろだったか、
日本にもフランスのミネラルウォーターの中で最も硬水といわれるコントレックスが輸入されるようになった。
いまではどのスーパーマーケットにも置いてあるし、
ディスカウントストアにいけば1.5ℓのペットボトルが150円を切っている。

いまから20年ほど前は扱っているところも少なかった。
そのころ祐天寺に住んでいたけれど、まわりの店にはどこにもなく、
隣の駅の学芸大学の酒屋で偶然見つけたことがある。
価格は1.5ℓで400円ほどしていた。

水の味といってもたいていは微妙な違いであるが、
コントレックスは誰が飲んでも、味がついているとわかるくらいだった。
しかもたまたま遊びに来ていた友人に出したところ、硬くてのみ込みにくい、といわれた。

コントレックスののどごしが私は好きだったけれど、友人は苦手としていた。
音にも、水ののどごしに似た違いがある。

耳あたりのいい音とは、違う。
耳(外耳)を口だとすれば、鼓膜が舌にあたるのか。
耳は、音によって振動する鼓膜の動きを耳小骨を用いて蝸牛の中へと伝えるわけだから、
咽喉にあたるのは蝸牛か。
となると喉越しではなく蝸牛越しとでもいうべきなのか。

とにかく音ののどごしは、人によって気持ちよく感じられるものに差はあるだろう。
ある人にすんなりと受け容れられる音ののどごしを、別の人はものたりないと感じることだってあろう。
コントレックスのように、気持いいのどごしと感じる人もいれば、重すぎるのどごしと感じる人もいる。

こうやって書いていると、アンプの音とは水のようなものぬたと思えてくる。
オーディオではアンプの音だけを聴くことはできない。
スピーカーが必要だし、プログラムソースも必要となって音を聴けるわけだから、
水そのものの味を聴いているわけではないが、
水の味はコーヒー、紅茶を淹れるときにも関係してくるし、
ご飯を炊くのであっても水の味は間接的に味わっている。
料理もそうだ。

水そのものを直接口にしなくとも、
口にいれるコーヒー、や紅茶、料理を通して、われわれは水の味の違いを感じとれる。
アンプの音とは、そういうものだと思う。

そして、1981年夏、レコード芸術で始まった瀬川先生の連載、
「MyAngle 良い音とは何か?」を思い出す。

この連載は一回限りだった。
一回目の副題は「蒸留水と岩清水の味わいから……」だったのを思い出していた。

Date: 7月 21st, 2015
Cate: 基本

ふたつの「型」(その3)

世の中には器用な人がいる。
はじめてやることでも、なんなくやってみせる人のことを、「あの人は器用だ」だという。

「あの人は器用だ」といってしまうと、
その人の器用さは、その人の才能のように受けとめられるかもしれない。
「あの人は器用だ」と口にしてしまった人も、
器用な人の器用さを、ある種の才能だと思ってそう言ったのかもしれない。

器用であることは、才能のような気もするし、そうでないような気もする。

器用な人であれば、けっこうな腕前でピアノを弾いてしまうだろう。
そういうのを目の当りにすれば、器用であることは才能のようにも思えてくる。

けれど器用な人のピアノと、
グレン・グールド(グールドなくとも他のピアニストでもかまわない)のピアノと、
何が違うのだろうか、と考えたときに、器用と技は違うことに気づく。

Date: 7月 20th, 2015
Cate: モニタースピーカー

モニタースピーカー論(APM8とAPM6・その9)

ステレオサウンド 59号のベストバイで、エスプリのAPM6に星をつけている人は、
APM8の六人(井上、上杉、岡、菅野、瀬川、柳沢)に対し三人(岡、菅野、山中)だった。

ここでひっかかったのは山中先生が、APM8には入れずAPM6に二星をつけられている。
これが意外だった。

山中先生といえば新製品紹介のページでも海外製品を担当されていた。
それまで書かれたものを読んできても、国産スピーカーをあまり高く評価されることはなかった。
その山中先生が、なぜだか理由はわからないけれど、APM6に二星。
しかも多くの人が評価しているスピーカーとはいえないAPM6に対して、である。

59号の約半年後に出た「コンポーネントステレオの世界 ’82」でも、
山中先生はAPM6の組合せをつくられている。
この別冊では他に二つの組合せをつくられている。
ひとつはQUADのESL63、もうひとつはエレクトロボイスのRegency IIIである。

QUADとエレクトロボイスは、すんなりわかる。
けれど、山中先生がAPM6? と思った。

それまでのステレオサウンドを読んできた者にとって、これは意外なことだ。
APM6の組合せならば、それまでのステレオサウンドならば、
岡先生、上杉先生、柳沢氏の誰かだったはずだから。

「コンポーネントステレオの世界 ’82」の半年後の63号でのベストバイ。
ここでも山中先生はAPM6を評価されている。

ここでつくられた組合せの次の通りだ。

●スピーカーシステム:エスプリ APM6 Monitor(¥500.000×2)
●コントロールアンプ:エスプリ TA-E900(¥600.000)
●パワーアンプ:ヤマハ BX1(¥33.000×2)
●カートリッジ:フィデリティ・リサーチ FR7f(¥77.000) デンオン DL305(¥65,000)
●プレーヤーシステム:パイオニア Exclusive P3(¥600.000)
組合せ合計 ¥3.002.000(価格は1981年当時)

Date: 7月 20th, 2015
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(デザインのこと・その34)

ステレオサウンド 51号の五味先生のオーディオ巡礼にも、
フィデリティ・リサーチのFR7は登場している。

51号の訪問先はH氏。
数年後にステレオサウンドの原田勲氏だと知ることになるが、
このときはまだH氏がどういう人なのかは知らなかった。
五味先生の知りあい、それもかなり親しい知りあいだということしかわからなかった。

このH氏が、EMTの927DstにFR7を取りつけられている。
スピーカーシステムはヴァイタヴォックスのCN191、アンプはマランツのModel 7と9のペア。

ここで鳴っていた音がどうでもない音であればFR7のことが気になることはなかった。
五味先生はH氏の音について、こう書かれている。
     *
〝諸君、脱帽だ〟
 ショパンを聴いてシューマンが叫んだという言葉を私は思い出した。このあと、モニク・アースなるピアニストの演奏で同じパバーヌを聴いたためかも知れない。さらにバックハウスでベートーヴェンの作品一〇九、ブタペスト・カルテットで作品一三一、魔笛をクレンペラーで、グリュミオーのヴァイオリンでヴィオッティの協奏曲、更にはヴィヴァルディのヴィオラ・ダ・モーレなど、こちらの好みを知っていて彼は私の気に入りそうなレコードばかり掛けてくれたが、たいがい口のわるい私を承知でこれだけ、こちらの聴き込んだ曲を鳴らせるのは、余程、自信があったからだろうが、それがけっして過信ではないことを私は認めた。この「オーディオ巡礼」では、奈良市南口邸の装置で、サン=サーンスの交響曲第三番の重低音を聴いて以来の興奮をおぼえたことを告白する。
     *
FR7が並のカートリッジではないことがわかる。
だから51号を読んでからというもの、瀬川先生のFR7の評価が気になっていた。
だがFR7に対して、瀬川先生は評価されていない──、というよりも無視にちかい。

なぜなのか。
いまとなっては確かめようはないが、FR7のカタチにあると私は思っている。

47号の新製品紹介のページで初めてFR7の写真を見た時もそう感じていた、
でもこの時は、まだぼんやりとした感じであった。
それからしばらくしてFR7の音を聴くことができた、ステレオサウンドの試聴室である。

音については書かない。
FR7を聴いたということは、FR7がトーンアームに取りつけられたところを見たということである。
ここで47号で感じていたものをはっきりと認識できた。
そして、やっぱりそうだったのかもしれない、ともおもっていた。

Date: 7月 20th, 2015
Cate: ロマン

ダブルウーファーはロマンといえるのか(その4)

そういえばUREIのModel 813もダブルウーファーである。
メインとなるユニットはアルテックの604-8G。

あらためて説明するまでもないが15インチ口径ウーファーとホーン型トゥイーターとの同軸型。
これに同口径のサブウーファーをつけ加えている。

このサブウーファーの特性が604-8Gのウーファー部よりも、
より低域の再生限界の拡充した設計であるのかどうか。

UREIの資料からだけは、はっきりしたことは読みとれないが、
ステレオサウンド 47号の「物理特性面から世界のモニタースピーカーの実力をさぐる」をみれば、
はっきりとしたことが実測データから読みとれる。

47号の前号の特集で取り上げられたモニタースピーカーを中心に、
三菱電機郡山製作所の協力で測定を行なっている。

アルテックの620AもあればModel 813も含まれている。
そして測定データには近接周波数特性が載っている。
これはウーファー部分の周波数特性のグラフであり、
バスレフ型ではポートの特性、パッシヴラジエーターを採用しているものはそのデータも測定している。

620AとModel 813の近接周波数特性を比較してみると、
まずウーファーのカットオフ周波数が異っていることがわかる。

620Aのクロスオーバー周波数は1.5kHzと発表されている。
近接周波数特性をみても1kHzあたりから減衰している。
下は100Hzあたりから減衰がはじまり、バスレフポートの共振周波数は40Hzあたりにある。

Model 813はクロスオーバー周波数は発表されていない。
少なくとも私が知っている範囲ではなかった。

近接周波数特性をみてわかるのは、900Hzより少し低い周波数から減衰が始まり、
その減衰カーヴも急峻であることが読みとれる。

サブウーファーの特性はどうだろうか。
これが見事なくらい604-8Gのウーファー特性と似ている。
よくこれだけ似た特性のウーファーがあったものだ(見つけてきたものだ)と感心してしまうくらいだ。

サブウーファーは200Hz以上で減衰している。
Model 813のバスレフポートは単なる開口部ではなく、
UREIが疑似密閉型と称する音響抵抗をかけたタイプである。

そのためポート出力はゆるやかな山を描いている。
共振周波数は620Aとほぼ同じ40Hzあたりにある。

620AとModel 813の低域の周波数特性を比較すると、
後者のほうがより低いところまでフラットではある。
けれどこれはダブルウーファー仕様だからというよりも、
疑似密閉型のバスレフポートの設計のうまさとみるべきだ。

Date: 7月 20th, 2015
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(デザインのこと・その33)

カートリッジにはヘッドシェルと一体になったモノがある。
EMTのTSD(XSD)15がそうだし、テクニクスのEPC100Cもそうである。

オルトフォンのSPUも、Gシェル、Aシェルどちらも本体をカートリッジ本体取り外して、
アダプターを介すれば他のヘッドシェルに取りつけられるといっても、
ヘッドシェル一体型のカートリッジということになる。

カートリッジ本体だけであれば、ヘッドシェルを選択できる。
音のよいヘッドシェルを選ぶ、ということになるのだろうが、
ヘッドシェルの選択においては指かけのつくりはひじょうに重要なポイントになってくるし、
なによりもカートリッジを取りつけて、さらにトーンアームに取りつける。
そしてカートリッジをレコード盤面上におろしてトレースしていく姿もまた重要となる。

一体型カートリッジでは、だから単体のカートリッジ、単体のヘッドシェル以上に、
デザインが優れたモノであってほしい。
なにしろ変更できないのだから。

フィデリティ・リサーチからFR7というカートリッジが登場した。
ステレオサウンド 47号での新製品紹介のページでの取り上げ方も力がはいっていた。
それまでのフィデリティ・リサーチのカートリッジFR1とは、
大きく違う発電構造、それにFR7はヘッドシェル一体型で、
音もデザインも大きく変貌を遂げた、といえた。

FR7の発電構造図を見ていると、確かにユニークなカートリッジではあるし、
ぜひ聴いてみたいという気持になるけれど、
FR7の写真を見ていると、うーん、どうなのだろう……、という気持になっていた。

内部構造が FR1とは大きく異っているためああいう形状になるのは理解できても、
あのデザインが好きにはなれなかった。

47号の特集はベストバイだった。
FR7は、井上卓也、上杉佳郎、菅野沖彦、長島達夫、山中敬三の五人が三星をつけている。
FR7に星をつけていないのは岡俊雄、瀬川冬樹のふたりだけだった。

岡先生は59号のベストバイで、FR7、FR7fの両方に三星をつけられているから、
47号のベストバイにおいては、試聴が間に合わなかったのが理由だったのだろう。

けれど瀬川先生は、やはり星をつけられていない。

Date: 7月 19th, 2015
Cate: 4350, JBL, 組合せ

4350の組合せ(その7)

井上先生が4350Aの組合せをつくられている「コンポーネントステレオの世界 ’80」、
その前年の’79年版で、瀬川先生はこう語られている。
     *
ぼく自身がレコード再生に望んでいることは、もう少しシビアなものです。それをうまく説明できるか自信はあまりないんだけれども、つまり、レコード音楽を再生するには、まず音が美しくなければならない。これがぼくきゼタ以上件なんですね。
 音が美しいというと、ちょっと誤解をまねくかしれませんが、もちろん音楽のなかには、不協和音をもつもの、あるいはもっと極端にノイズ的な音を出すもの、また一部のロックやクロスオーバーのように音源側ですでに音が歪んでいるもの、そういうものがあるわけだけれど、それを再生した場合に、音楽のイメージをそこなわない範囲で、しかし美しく再生したい、ということです。このことは、よくしゃべったり書いたりしているんだけど、ぼくは再生というものは虚構のなかの美学だという意識をもっています。だから、出てくる音をより美しく磨き上げて出すということが、ぼくにとっては絶対の条件なんですね。
 それを第一とすると、第二の条件としては、虚構であるからこそ、本物よりもっと本物らしくあってほしい、本物らしさを意識したい、という気持がぼくにはある。つまり作りものだから、いっそう本物らしくあってほしい、ということですね。このことについて、かつて菅野沖彦さんがうまいたとえを使われたから、それを借用すると、プラモデルの正確な縮尺モデルというものは、ビスの頭ひとつとっても正確な縮尺で作られているべきなのかもしれないが、現実にそう作ったらビスなどは見えなくなる。だから、実物らしくみせるには、ときには正確さをゆがめることも必要なんだ、ということですね。
 オーディオ再生というのは、それと同じで、縮尺の作業だと思う。つまり6畳とか8畳の空間に百人をこすオーケストラが、入りこめるはずはないんです。そのオーケストラを縮小して、ぼくらは聴いているわけでしょう。そしてそういう狭い空間でも、コンサートホールで聴いているような雰囲気を再現することができるのは、縮尺しているからです。しかし、たとえば25分の1とか50分の1といった形で、物理的に正確な縮尺をとったら、さっきのビスの頭と同じで、聴こえなくなる音がいっぱい出てきます。そこでそれを、部分的に強調してやる。強調するという言葉に抵抗があるんだったら、レトリックといってもいいてしょう。レトリックの作業を行うわけです。いいかえると、オーディオ再生には、より生々しく感じさせるための最少限のレトリックが必要なんだ、と思う。そしてそれを十全に表現してくれるスピーカーが、ぼくにとって望ましいんです。
 したがって、いわゆる〈生〉と、物理的にイコールかどうかと測定の数値ばかりを追いかけたり、物理的に比較したりすることだけが、製作の最良の方法だと考えて作られたスピーカーは、ぼくには不満がのこります。音の美学といいたいところのものを、十分に理解したうえで作られたスピーカーでないと、ぼくは共感がもてないんです。
 そのことをさらに押しすすめていうと、これもぼくが口ぐせみたいにいっていることですが、音が鳴り出すと同時に、演奏している場と自分の部屋とか直結したような感じ、それがあるかどうかということです。それを臨場感とか音場感といった言葉でいっているわけだけれど、要するに、そこに楽器の音があるだけではなく、音の周辺にひろがっている空間までもが、自分の部屋で感じられるかどうか、それからより濃密に感じられるかどうか、ということですね。
     *
井上先生と瀬川先生がレコード音楽再生において望まれているものは、基本的には同じでありながらも、
細部において違いがある。

それはプラモデルの正確な縮尺モデルで、どの部分の正確さを歪めるかの違いではないだろうか。
最少限のレトリックが必要ではある。
その最少限のレトリックを、どの部分にもってくるのか──、
これによってコントロールアンプの選択がマークレビンソンのML6かマッキントッシュのC29か、
わかれてしまうのではないだろうか。

井上先生の組合せには400万円という予算の制約があり、
瀬川先生の組合せには予算の制約がないということも忘れてはならないことにしてもだ。

Date: 7月 18th, 2015
Cate: 世代

世代とオーディオ(あるキャンペーンを知って・その5)

その1)で書いたように、あるキャンペーンとは、
ユキムが始めた学割キャンペーンのことである。

この学割を他社はどう見ているのか。

ドイツのウルトラゾーンの輸入元であるタイムロードも、学割キャンペーンを始めた。

ユキムはエラックとオーラオーディオが対象ブランドだった。
タイムロードはウルトラゾーンが対象ブランドである。

facebookにあるウルトラゾーンのページには、
《君たちの年頃に聴いた音楽は後々までずうっとこころに残るもの。だから、始めました。》
とある。

これには、少なからぬ人が頷かれるだろう。
10代のころに聴いた音楽が後々までずうっとこころに残るのであれば、
同じころにきいた「音」も後々までずうっとこころに残る──、
であれば、ユキム、タイムロードの学割キャンペーンは、ずうっと先を見てのキャンペーンなのかもしれない。

Date: 7月 18th, 2015
Cate: 世代

世代とオーディオ(ジーンズとオーディオ)

別項のためにステレオサウンド 52号の瀬川先生の文章を読み返して、
あのころは特にひっかかる箇所ではなかったところに、いまはひっかかる。

この箇所である。
     *
 70年代に入ってもしばらくは、実り少ない時代が続いたが、そのうちいつともなしに、アメリカで、ヴェトナム戦争後の新しい若い世代たちが、新しい感覚でオーディオ機器開発の意欲を燃やしはじめたことが、いろいろの形で日本にも伝わってきた。ただその新しい世代は、ロックロールからヒッピー文化をくぐり抜けた、いわゆるジーンズ族のカジュアルな世代であるだけに、彼らの作り出す新しい文化は、それがオーディオ製品であっても、かつてのたとえばマランツ7のパネル構成やその仕上げの、どこか抜き差しならない厳格な美しさといったものがほとんど感じられず、そういう製品で育ったわたくしのような世代の人間の目には、どこか粗野にさえ映って、そのまま受け入れる気持にはなりにくい。
     *
ステレオサウンド 45号にマーク・レヴィンソンのインタヴュー記事が載っている。
レヴィンソンはジーンズ姿だった。
スレッショルド、パスラボを設立したネルソン・パスもジーンズをはいているものばかり見ている。
彼らふたりだけではない、ジェームズ・ボンジョルノも当時はジーンズだった。

彼らは、確かに瀬川先生が指摘されているジーンズ族の世代にあたるし、
彼らより上の世代、マランツのソウル・B・マランツ、シドニー・スミス、
マッキントッシュのフランク・マッキントッシュ、ゴードン・ガウ、
この人たちの写真はいずれもスーツ姿だった。

彼らもジーンズは着用していたかもしれないが、
少なくとも取材で写真を撮られるときにはスーツである。

KEFのレイモンド・クックの印象は、つねにスーツである。
彼のジーンズ姿は浮んでこない。

いまの若い世代はジーンズをあまりはかない、とも聞く。
これが日本だけのことなのか、アメリカ、ヨーロッパの若い世代もそうなのか、
確かなことなのかどうかははっりきとしないけれど、
なんとなくそういう傾向があるのかな、という印象はある。

オーディオとジーンズ。これ以上のことは、いまのところ何も書けないけれど、
これからこのことに注意して見ていけば、もう少しなにか興味深いことが見つかるような気もする。

Date: 7月 18th, 2015
Cate: きく

舌読という言葉を知り、「きく」についておもう(その12)

舌読は、舌で書物を読むこと、つまり舌による読書である。

読書とは本(書物)を読むことなのだが、
読書は読(み)書(き)であるとも読めないことはない。

舌読という言葉を知って思ったのはそのことだ。
読書とは、書物を読み、なにかを己の裡(心)に書くことである、と。

書くとは掻くであり、傷つけてしるす意だということも知った。

読書とオーディオを介してレコード(録音物)を聴く行為はまったく同じとはいえないまでも、
非常に似ているともいえる。

ならばオーディオを介してレコード(録音物)を聴く行為は、
書物を読むのが読書であるから、録音物を聴くは、聴録となるのだろうか。

あまりいい造語ではないのはわかっている。
それでも、聴録という言葉を使うのは、
オーディオを介してレコード(録音物)を聴く行為は、聴(き)録(る)であるからだ。

Date: 7月 17th, 2015
Cate: モニタースピーカー

モニタースピーカー論(APM8とAPM6・その8)

エスプリ(ソニー)のAPM6が登場したころの私には、
このスピーカーシステムを、聴感上のS/N比に注目して捉えることはまだできなかった。
だから、気がつかなかったことがいくつもある。

聴感上のS/N比という視点でAPM6をじっくりみていくと、
日本のスピーカーシステムで、
いくつかの共通点を見出せるスピーカーシステムが存在していたことにも気づくことになる。

ダイヤトーンの2S305である。
NHKの放送技術研究所と三菱電機とが共同開発した、このスピーカーシステムは、
はっきりとモニタースピーカーである。

なぜAPM8にはMonitorの文字がつかず、APM6にはついているのか。
そのことを考えても、ダイヤトーンの2S305の存在が浮んでくる。

APM6の設計者の前田敬二郎氏は、
APM6の開発において2S305の存在を意識されていたのだろうか。
勝手な推測にすぎないけれど、まったく意識していなかった、ということはなかったように思える。

2S305の開発において、聴感上のS/N比が開発テーマになっていたとは思えない。
NHKがモニタースピーカーに求める性能を実現した結果として、
2S305は、あの当時として、かなり優秀な聴感上のS/N比の高さを実現したのではなかろうか。

おそらく、いまでも現代の優秀なパワーアンプで鳴らせば、
2S305は多少ナロウレンジでありながらも、
聴感上のS/N比のよい音とは、こういう音だという見本という手本のような音を聴かせてくれるはずだ。

2S305は、日本を代表するスピーカー(音)といわれていた。
それは海外製のスピーカーシステムとくらべると、パッシヴな性格のスピーカーシステムであり音である。

そのため聴き手(使い手、鳴らし手)がより積極的に能動的でなければ、
海外製のアクティヴな性格のスピーカーシステム(音)を聴いた後では、
ものたりなさを感じてしまうような音でもある。

APM6の音を、私は聴くことがなかった。
どんな音なのかは、だから正確にはわからない。
それでも2S305に通じる、パッシヴな性格をもったスピーカーシステムであるはずだ。

APM6を、いまじっくりとみつめていると、
1976年当時のオーレックスの広告にあったコピーが思い出される。

「趣味も洗練されてくると大がかりを嫌います。」
「趣味も洗練されてくると万人向けを嫌います。」

APM6の広告にもそのまま使えるのではないだろうか。

Date: 7月 17th, 2015
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(その10)

ステレオサウンド 56号の特集で、瀬川先生が書かれていたことを思い出す。
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 いまもしも、ふつうに音楽が好きで、レコードが好きで、好きなレコードが、程々の良い音で鳴ってくれればいい。というのであれば、ちょっと注意深くパーツを選び、組合わせれば、せいぜい二~三十万円で、十二分に美しい音が聴ける。最新の録音のレコードから、旧い名盤レコードまでを、歪の少ない澄んだ音質で満喫できる。たとえば、プレーヤーにパイオニアPL30L、カートリッジは(一例として)デンオンDL103D、アンプはサンスイAU-D607(Fのほうではない)、スピーカーはKEF303。これで、定価で計算しても288600円。この組合せで、きちんとセッティング・調整してごらんなさい。最近のオーディオ製品が、手頃な価格でいかに本格的な音を鳴らすかがわかる。
 なまじ中途半端に投資するよりも、こういうシンプルな組合せのほうが、よっぽど、音楽の本質をとらえた本筋の音がする。こういう装置で、レコードを聴き、心から満足感を味わうことのできる人は、何と幸福な人だろう。私自身が、ときたま、こういう簡素な装置で音楽を聴いて、何となくホッとすることがある。ただ、こういう音にいつまでも安住することができないというのが、私の悲しいところだ。この音で毎日心安らかにレコードを聴き続けるのは、ほんの少しものたりない。もう少し、音のひろがりや、オーケストラのスケール感が欲しい。あとほんの少し、キメ細かい音が聴こえて欲しい。それに、ピアノや打楽器の音に、もうちょっと鋭い切れ味があったらなおいいのに……。
     *
KEFのModel 303に、サンスイのAU-D607、
パイオニアのアナログプレーヤーにデンオンのカートリッジ。

56号は1980年の秋に出ている。
これを読んで、いい組合せだな、と思い、
これらの製品がもう少し早く市場に登場していれば、このままの通りのシステムにしただろうな……、と思っていた。

《音楽の本質をとらえた本筋の音》、
いいなぁ、と心底思ったことを、いまも憶えている。

このシステムならば、故障しない限りずいぶんと長く使い続けられただろう。
これにチューナーを買い足し、カセットデッキも揃える。
この組合せの二年後にはCDプレーヤーが登場した。

すぐさま、このシステムにぴったりくるようなCDプレーヤーはなかったけれど、
さらに二年ほど待てば、手頃なCDプレーヤーもあらわれてきた。

なまじグレードアップをはかるよりも、この組合せのまま聴き続けたほうがいいようにも思うし、
それが幸せな、家庭での音楽鑑賞だろう、とも思う。

この組合せは、音楽を聴くのは好きだけれども、
オーディオには凝りたくないという人に、まさにぴったりである。

ならば、この組合せは、オーディオの入門用として最適の組合せともいえるだろうか。