Archive for 4月, 2015

Date: 4月 23rd, 2015
Cate: 4345, JBL

JBL 4345(4347という妄想・その1)

ステレオサウンド 60号の特集記事の座談会、
JBLの4345のところで、次のように瀬川先生が語られている。
     *
 この前、あるアマチュアでおもしろい指摘をした人がいまして、4345の音を聴いた後、ウーンと得なって、「なるほどいいところはある。けれども、4341が4343になって完成したと同じく、これはもしかしたら4347ぐらいが出ると、もっと完成後が高まるんじゃないか」と言った人がいました。
     *
4345の後継機としての4347。
4343の後継機として4348は登場したけれど、4347というモデルナンバーのスピーカーは登場しなかった。
18インチ口径のウーファー搭載の4300シリーズは、4345だけで終ってしまった。

4345の後継機はなぜ登場しなかったのか。
その理由はいくつか考えられるけれど、はっりきとしたことはよくわからない。

瀬川先生が生きておられたら……、4347なるモデルが登場したかもしれない。
私はそうおもってしまう人間である。

いまも4347がもし登場したら、どんなスピーカーだったっのか、とあれこれ妄想してしまう時間がある。

4347、
やはりウーファーは4345と同じ18インチ口径であってほしい。
それから4341が4343になって洗練されたように、4347も絶対そうであってほしい。
となるとミッドバスが4345と同じ2122ではどうしてもうまくいかないような気がする。

18インチ口径ウーファー搭載で、システムとしてのサイズはどうしても大きくなってしまう。
ならばいっそのことミッドバスも10インチではなく12インチにしたほうが、
全体のバランス、プロポーションは整ってくるはずだ。

このことは昔からそう思っていた。
それが確信に変ったのは、タンノイのKingdomの登場があったからだ。

現在のKingdom Royalではなく、最初のKingdom。
18インチ口径ウーファーに、12インチ口径同軸型ユニット、そしてスーパートゥイーターの4ウェイ構成。
この大型のシステムは、威風堂々としていて、4345のようなずんぐりしたイメージはまったくない。

つまりミッドバスには、4350、4355に搭載されている2202となる。
そうなればミッドハイのドライバーは2420(2421)から2441にしても、
エネルギー的にバランスがとれるようになる。
スーパートゥイーターは2405のまま。

こんな4347を想像している。

Date: 4月 23rd, 2015
Cate: 4343, JBL

40年目の4343(なぜ、ここまでこだわるのか)

ブログを書いていて、われながら、なぜここまで4343にこだわるのか、と思わないわけでもない。
このブログで、オーディオ機器に関しては4343のことをもっとも多く書いている。

読まれる方の中には、「また4343か」という人がいるのはわかる。
それでも、こうやって4343について書いているのは、
オーディオ界を見渡すためにも必要なことのように感じているからでもある。

もちろん個人的な理由の方が大きいとはいっても、
4343という、いわばスタジオモニター、それも高価なスピーカーシステムが、
驚異的な本数が売れたということは、なにか象徴的な現象のように思える。

そういえば……、と思いだす。
菅野先生が、ステレオサウンド別冊「JBLモニター研究」で、次のように書かれている。
     *
 そしてその後、中高域にホーンドライバーを持つ4ウェイという大がかりなシステムでありながら、JBL4343というスピーカーシステムが、プロのモニターシステムとしてではなく、日本のコンシューマー市場で空前のベストセラーとなった現象は、わが国の20世紀後半のオーディオ文化を分析する、歴史的、文化的、そして商業的に重要な材料だと思っている。ここでは本論から外れるから詳しくは触れないが、この問題を多面的に正確に把握することは、現在から近未来にかけてのオーディオ界の分析と展望に大いに役立つはずである。
     *
1998年に書かれている。
4343に憧れてきたひとりとして、そのとおりだと思うとともに、
残念に思うのは、いまのステレオサウンドには4343という材料(問題)を、
多面的に正確に把握することは期待できない、ということだ。

「名作4343を現代に甦らせる」という記事が、強く裏付けている。

Date: 4月 22nd, 2015
Cate: モニタースピーカー

モニタースピーカー論(その1)

「正しい音はなにか?」を書いていて、モニタースピーカー論が書けるような気がしてきた。

ステレオサウンド 44号、45号はスピーカーシステムの特集だった。
46号もスピーカーの特集号だったが、44号、45号が基本的にコンシューマー用スピーカー中心だったのに対し、
46号では「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質をさぐる」と題して、
世界各国のモニタースピーカーの特集だった。

特集の冒頭には、
岡先生による「モニタースピーカー私論」、
菅野先生による「レコーディング・ミキサー側からみたモニタースピーカー」、
瀬川先生による「モニタースピーカーと私」が載っていた。

世の中にはMonitor Speaker、もしくはStudio Monitorと呼ばれるスピーカーシステムがある。
これらはプロ用スピーカーとも呼ばれることもある。
録音スタジオ、放送局などで使われるスピーカーシステムのことをモニタースピーカー、
もしくはスタジオモニターという。

では「モニタースピーカーとは何か?」となると、
ステレオサウンド 46号の三氏の文章をどれだけ読もうとも、
明解な答が得られたと思えない。

モニタースピーカーだからといって、
コンシューマー用スピーカーと違う方式のユニットが採用されているわけではない。
むしろコンシューマー用スピーカーのほうが、さまざまなユニットが使われているともいえる。
それでもモニタースピーカーもそうでないスピーカーも、基本的に同じといえる。

にもかかわらず、モニタースピーカーとそうでないスピーカーとの間には境界線がある。
はっきりとその境界線を見定めようとすればするほど、
その境界は曖昧なものであることに気づかされる。

それでもモニタースピーカーの定義を考えている。

いままでモニタースピーカー論は避けてきたテーマである。
まだどこまで書けるのか自信がないようなところもある。
それでも「正しい音とはなにか?」を書いてきて、
なんとなくではあるが「モニタースピーカーとは何か?」について答が得られそうな気がしている。

Date: 4月 22nd, 2015
Cate: audio wednesday

第52回audio sharing例会のお知らせ(続・五味康祐氏のこと、五味オーディオ教室のこと)

5月のaudio sharing例会は、6日(水曜日)です。

「五味オーディオ教室」をくり返し読んでは、
五味先生のオートグラフの音を想像していた。

ステレオサウンド 47号から、続オーディオ巡礼が始まった。
五味先生がオーディオマニアのところに行かれる。
けれど、誰かかが五味先生のところにうかがう記事はないのか、と思っていた。

ステレオサウンド 50号、旧製品のState of the Artで、
タンノイ・オートグラフが選定されている。
岡先生がオートグラフについて書かれている。
     *
 オートグラフを有名にしたのは、すくなくとも日本では五味康祐さんであろう。「西方の音」によれば五味さんのお宅にオートグラフが納まったのは六四年七月二十五日だという。それからのことは「西方の音」にくわしく書かれている。筆者がオートグラフに脱帽したのは、その五味さんのお宅できいたときだった。バランスのよさとか音の品位のたかさとか、いろいろあるが、一ばんびっくりしたのはローエンドに支えられた音楽のプレゼンスのよさとあざやかなパースペクティヴをもった見事な定位感だった。デュアル・コンセントリックと複雑で巨大なホーンシステムの生みだした見事な成果であろう。指向性の最適ポイントは一ヵ所しかない。その証拠に五味さんのお宅のソファはここが指定席ですというように一点だけ凹んでいた。そうまでしてきかせるオートグラフはたしかに名品であった。スペック云々などアホらしくなるような。
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岡先生の、この文章を読んで何度もうんうんと首肯いていた。
やっぱり、そういう音で五味先生のリスニングルームではオートグラフが鳴っているんだ、と。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 4月 22nd, 2015
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(その3)

ステレオサウンドを読みはじめたころは、記事だけでなく広告も丹念に読んでいた。
すべての広告がそうだったとはいわないけれど、少なからぬ広告には記事的な要素もあったように感じていた。
だから記事も広告もじっくり読んでいた。

なので広告のこともけっこういまでも記憶している。
そんな広告の中で、不思議と目に留ったのがスペックスだった。
MC型カートリッジSD909の広告で、毎号広告の内容は変っていっても、必ず共通するコピーがあった。

このころのステレオサウンドを読んでいた人ならば、
あぁ、あれね、とすぐに思い出されるだろう。
スペックスのSD909の広告には、必ず「日産21個」とあった。

SD909は当時30000円のカートリッジだった。
日産21個ということは、63万円になる。
カートリッジの製造原価がどの程度なのか当時は中学生だったからまったく知らなかった。

正直、日産21個が、MC型カートリッジの生産量として多いのか少ないのかはわからなかった。
けれど、こうやって毎号広告に出しているくらいだから、それは少ない数なのだろう、ということは察しがつく。

それにスペックスの会社の規模についても、ほとんど知らなかった。
規模の大きい会社ならば21個は非常に少ないことになるけれど、
規模が小さい会社ならばそれほどでもなくなる。

1975年発行のステレオサウンド別冊HI-FI STEREO GUIDEによれば、スペックスのカートリッジは六機種。
MM型のSM100MKII、MC型のSD801 EXCEL、SD900SP、SD700 TYPEII/E、SD901、SD900。
まだ、日産21個のSD909は登場していない。

SD909登場のころは、SM100MKIIとSD900SPだけが残っている。
SD909以外のカートリッジの生産量は広告で謳っていないことからも、
やはり日産21個は少ない数といっていいだろう。

Date: 4月 21st, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その15)

(その14)で引用した五味先生の文章には、「あらためてこのことに私は気づいた。」とある。
何をあらためて気づかれたのか。
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 そもそも女房がおれば外に女を囲う必要はない、そういう不経済は性に合わぬと申せるご仁なら知らず、女房の有無にかかわりなく美女を見初めれば食指の動くのが男心である。十ヘルツから三万ヘルツまでゆがみなく鳴るカートリッジが発売されたと聞けば、少々、無理をしてでも、やっぱり一度は使ってみたい。オーディオの専門書でみると、ピアノのもっとも高い音で四千ヘルツ、これに倍音が伴うが、それでも一万五千ヘルツぐらいまでだろう。楽器でもっとも高音を出すのはピッコロやヴァイオリンではなく、じつはこのピアノなので、ピッコロやオーボエ、ヴァイオリンの場合はただ倍音が二万四千ヘルツくらいまでのびる。
 一番高い鍵を敲かねばならぬピアノ曲が果たして幾つあるだろう。そこばかり敲いている曲でも一万五千ヘルツのレンジがあれば鑑賞するには十分なわけで、かつ、人間の耳というのがせいぜい一万四、五千ヘルツ程度の音しか聴きとれないとなれば、三万ヘルツまでフラットに鳴る部分品がどうして必要か——と、したり顔に反駁した男がいたが、なにごとも理論的に割切れると思い込む一人である。
 世の中には男と女しかいない、その男と女が寝室でやることはしょせんきまっているのだから、汝は相手が女でさえあれば誰でもよいのか? そう私は言ってやった。女も畢竟楽器の一つという譬え通り、扱い方によってさまざまなネ色を出す。その微妙なネ色の違いを引き出したくてつぎつぎと別な女性を男は求める。同じことだ。たしかに四千ヘルツのピアノの音がAのカートリッジとBのとでは違うのだから、どうしようもない。
     *
実は、ここのところは引用するつもりは最初はなかった。
けれど(その14)を書いていて気づいたことがあった。

世の中には男と女しかいない、その男と女が寝室でやることはしょせんきまっている、とある。
寝室は、いわば密室である。
リスニングルームも、また密室であることが多い。

リビングルームで家族とともに音楽を聴くのが楽しみという人もいるけれど、
私にとってのリスニングルームとは、そういう意味での「密室」である。

この密室であることが、
オーディオを介して音楽を聴くという行為は密室での行為であるがゆえに、問題となってくるからだ。

Date: 4月 21st, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その14)

五味先生の「五味オーディオ教室」からも思い出す文章がある。
     *
 EMTのプレーヤーで再生する音を聴いて、あらためてこのことに私は気づいた。以前にもEMTのカートリッジを、オルトフォンやサテンや、ノイマンのトランスに接続して聴いた。同じカートリッジが、そのたびに異なる音の響かせ方をした。国産品の悪口を言いたくはないが、トランス一つでも国産の“音づくり”は未だしだった。
 ところが、EMTのプレーヤーに内蔵されたイクォライザーによる音を聴いてアッと思ったわけだ。わかりやすく言うなら、昔の蓄音機の音がしたのである。最新のステレオ盤が。
 いわゆるレンジ(周波数特性)ののびている意味では、シュアーV15のニュータイプやエンパイアははるかに秀逸で、EMTの内蔵イクォライザーの場合は、RIAA、NABともフラットだそうだが、その高音域、低音とも周波数特性は劣化したように感じられ、セパレーションもシュアーに及ばない。そのシュアーで、たとえばコーラスのレコードをかけると三十人の合唱が、EMTでは五十人にきこえるのである。
 私の家のスピーカー・エンクロージァやアンプのせいもあろうかとは思うが、とにかく同じアンプ、同じスピーカーで鳴らしても人数は増す。フラットというのは、ディスクの溝に刻まれたどんな音も斉しなみに再生するのを意味するのだろうが、レンジはのびていないのだ。近ごろオーディオ批評家の言う意味ではハイ・ファイ的でないし、ダイナミック・レンジもシュアーのニュータイプに及ばない。したがって最新録音の、オーディオ・マニア向けレコードをかけたおもしろさはシュアーに劣る。
 そのかわり、どんな古い録音のレコードもそこに刻まれた音は、驚嘆すべき誠実さで鳴らす、「音楽として」「美しく」である。あまりそれがあざやかなのでチクオンキ的と私は言ったのだが、つまりは、「音楽として美しく」鳴らすのこそは、オーディオの唯一無二のあり方ではなかったか? そう反省して、あらためてEMTに私は感心した。
 極言すれば、レンジなどくそくらえ!
     *
ここで書かれているシュアーV15のニュータイプとは、V15 TypeIIのことだろう。
V15 TypeIIの評価は、かなり高かったようだ。
私が聴いているシュアーのV15シリーズはTypeIII以降で、残念ながらV15 TypeIIは聴く機会がなかった。

ステレオサウンド 50号の巻頭座談会でも、V15 TypeIIのことが語られている。
     *
菅野 シュアーのV15のタイプIIが出はじめたころで、たまたまぼくは少し前に、渡米した父親に買ってきてもらって、すでに使っていたのです。そして、たしかオルトフォンのS15MTと比較して、V15/IIの方が断然優れていると書いたりしていた。そのV15/IIを、瀬川さんが手に入れた日に、たまたまぼくは瀬川さんの家に行ったんですよ。それで、ふたりして、もうMCカートリッジはいらないんじゃあないか、と話したことを覚えている(笑い)。
瀬川 そんなことがありましたか(笑い)。
菅野 あったんですよ。つまりね、ぼくたちはそのとき、カートリッジはこれで到着すべきところまできた、ひとつの完成をみたのであって、もうこれ以上はどうなるものでもないのではないか、ということを話しこんだわけです。たしかにそのときは、そういう実感があったんですね。
     *
当時におけるシュアーのV15 TypeIIの優秀性が伝わってくる。
五味先生もEMTのTSD15よりも「レンジ(周波数特性)ののびている」意味では優秀と書かれている。
そうだと思う。
おそらくトラッキングアビリティもシュアーの方が良かったであろう。
セパレーションも、EMTはシュアーに及ばない、とある。

ならば、あくまでも、この時点ということに限っては、
EMTのTSD15よりもシュアーのV15 TypeIIが「正しい音」を出している、
より「正しい音」といえるのか。

私はそうは思わない。

Date: 4月 21st, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(デザインのこと・その1)

「正しいデザイン」と、前に書いた。
書いておきながら、「正しい音はなにか?」を書いていると、
「正しいデザイン」と書いていることのおかしさのようなものに気づく。

デザインとデコレーションは違う。
デザインとアートも、また違う。
その区別をはっきりとさせようとしていくと、
本来、デザインとは正しいモノ・コトであることに気づいたからである。

正しいモノ・コトの頭に、「正しい」とつけることのおかしさがある。
にもかかわず「正しいデザイン」と書いていかなければならないとも感じている。

あまりにも「間違っているデザイン」(それはもはやデザインとは呼べないけれど)、
「正しくないデザイン」も「正しいデザイン」と一緒くたに語られている。

デザインは正しいモノ・コトなのだから、あえて「正しい」とつける必要はないはずなのだ。
けれど、現実・現状としてはつけざるをえない。

デザインを好き嫌いで語ることが氾濫している。
これがなくならないかぎり、「正しいデザイン」といっていかなければならないのだろうか。

そしておもう、「正しい音」も、じつのところ同じだ、と。

Date: 4月 20th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(映画「セッション」)

一月に、WHIPLASHという映画のことを知った。
凄い映画という評判を知った。
アメリカでは既に公開されていて、AppleのMovie Trailersで予告編をさっそく見た。

当り前だが日本語の字幕はないので、予告編を見たといっても、
こまかなところまでわかったわけではないけれど、
凄いというウワサがどうも本当のようだ、ということは伝わってきた。

とにかく、これが今年もっとも観たい映画の一本となった。
WHIPLASHとは、鞭紐、鞭打ちという意味である。

邦題は「セッション」となっている。
原題のWHIPLASHでは、何の映画なのか伝わりにくいところがある。
だから、「セッション」としたのは理解できなくはないが、
セッション(session)としたことで、この映画を観ようとする人に対して、
やや違う方向に誘導してしまうところがないわけでもない、とも思う。

4月17日から公開になっている。
まだ観ていない。
にも関わらず、ここで「セッション」について書いているのは、
原題のWHIPLASHが意味するところが、「正しい音」と深く関係してくるような予感があるからだ。

Date: 4月 20th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その13)

《仲間達と聴く。そのときはいい音に聴こえる。
しかし、それは趣味そのものではなくて、趣味の周辺だと思うのです。趣味の世界は常に孤独なのです。》

この瀬川先生が語られたことに対して、趣味の周辺ではなく、
それも趣味そのものだとしている人もきっといる。

どちらが多数なのかは私は知らないし、どちらでもいいことである。
どちらが多数であろうと、私は瀬川先生と同じである。

趣味そのものと趣味の周辺、
その境界は曖昧になりがちなのはわかっている。
それでもはっきりとさせたい。

趣味なのだから、そんなにムキにならずとも楽しめればいいじゃないか、
楽しければ趣味の周辺とあなたが思っていることでも、趣味そのものと思えてくるのではないか。

こう誰かにいわれたとしても、
オーディオに関しては、私は違う、とはっきりと返す。

Date: 4月 19th, 2015
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その1)

毎日書くことで、何かが目覚めていくような感覚がある。

これまで読んできたこと、みてきたこと、きいてきたこと、
それらを脳のどこかに記憶されているのだろうけど、思い出せないことは無数にある、ともいえる。

思い出せないことは、つまりは眠っているのかもしれない。
そういった眠っている部分が、書くことによって目覚めていく、
そんな感じがある(つねにとは限らないけれど)。

そして書いたことにコメントをいただくこともある。
ブログではあまりコメントをいただくことはないけれど、
facebookのaudio sharingでは、コメントがある。

コメントを読んで、また別の、眠っていた一部が目覚める。
昨夜もそうだった。
ふたつのコメントを読んで、そうだった、そうだったのか、と思いながら、
何かが目覚めているような感覚があった。

目覚めている感覚とは、つまりは「戻っていく感覚」でもある。

Date: 4月 19th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(録音のこと・その3)

市販されているプログラムソース(録音物)に懐疑的なのは、メーカー側の人たちの中にもいる。
たとえばマーク・レヴィンソンがそうだった。

ステレオサウンド 45号に「HQDシステムを完成させたマーク・レビンソン氏に聞く」という記事がある。
その中で、レヴィンソンはこう語っている。
     *
今日において、われわれの有するステレオ・コンポーネントの数々は、その再生能力において普通手に入るソース・マテリアルの持つフィデリティーをはるかに凌駕するものがあると思います。実際に、私達の製品の持っている本当の能力を正しく評価するためには、音の差について判断を下すことを可能にするような、特製のレコードやテープを用いることなしに不可能です。
     *
このころマーク・レヴィンソンはMLA(Mark Levinson Acoustic Recording)社をつくって、
スチューダーのマスターレコーダーA80のトランスポートと
自社製のエレクトロニクスによるML5による録音を行っていて、
レコード、ミュージックテープを販売していた。

一般的に市販されているレコード(録音物)は、
録音、マスタリング、カッティングなどの過程で音がいじられることがある。
グラフィックイコライザーや、その他の信号処理の機器が使われることも多い。

それは、いわば加工された音楽である、という見方をする人もいる。
日本では、無線と実験誌にDCアンプを早い時期から発表されている金田明彦氏も、
そういう考えで、1980年代はマイクロフォンアンプ、テープデッキの録音・再生アンプを自作され、
自分で満足・納得のいく録音を目指され、
そうやって録音されたものでアンプを開発されていた。

レヴィンソンはメーカーの人間、金田氏はアマチュアの立場という違いはあるものの、
市販されている録音物に懐疑的なところは共通していたからこそ、
自分の手で録音するという行動に出た──、そう受けとめていいと思う。

このことは正論のようにも聞こえる。
けれど、どこまでいっても正論のように聞こえるだけである。

Date: 4月 18th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その12)

この項は、こんなに長く書く予定ではなかった。
けれど書いていると思い出すことが出てくる。

今日も瀬川先生がスイングジャーナルの座談会で語られていたことを思い出した。
(スイングジャーナルの1972年1月号の座談会から)
     *
人との関係なくして生きられないけれども、しかしまた、同時に常に他人と一緒では生きられない。ここに趣味の世界が位置しているんだ。逃避ではない自分をみつめるための時間。趣味を逃避にするのは一番堕落させる悪い方向だと思う。

仲間達と聴く。そのときはいい音に聴こえる。しかし、それは趣味そのものではなくて、趣味の周辺だと思うのです。趣味の世界は常に孤独なのです。
     *
瀬川先生が語られていることが、「正しい音とはなにか?」にどう関係するのか、
これについて説明しようという気はあまりない。
読めばわかることがあり、感じることであり、
人から説明を受けて納得するようなことではないからだ。

Mark Levinsonというブランドの特異性(その53)

私は精神科の専門家でもないし、精神科に関する知識はほとんど持っていない。
精神科の権威のオーディオマニアが「あの男、このまま行ったら、いつか発狂して自殺しかねませんな」、
と口にされたころの、つまり若いころのマーク・レヴィンソンには会ったことはない。

そんな私だから、間違っている可能性の方が高いだろうけど、
それでも思うのは、LNP2、JC2を世に送り出したばかりのレヴィンソンが、
周りの人にそういうふうに映ってしまったのは、ジョン・カールと出あったからなのではないか、
つまりジョン・カールと出あわずにいたら、おそらく発狂し自殺しかねないとは思われなかったのではないか。

もともとマーク・レヴィンソンはそういう男ではなかった。
LNP2の最初のモデルはよく知られているようにバウエン製のモジュールである。
レヴィンソンがバウエン製のモジュールをずっと使い続けていたら、
精神科の権威のオーディオマニアも、
「あの男、このまま行ったら、いつか発狂して自殺しかねませんな」とは思わなかったよう気がしてならない。

この項ですでに書いたように、
JC1、JC2、LNP2、ML2までのマークレビンソンのアンプの音と、
ML3、ML7以降のアンプの音には共通性も感じながらも、決定的に違う性質があるように感じている。

その違いは、結局は回路の設計者の違いのような気がする。
つまりはジョン・カールとトム・コランジェロの違いである。

どちらがアンプの設計者として優秀かということではなく、
ふたりの気質の違いのようなものが、たとえマーク・レヴィンソンがプロデュースしていたとはいえ、
音の本質的な部分として現れていて、
その音に、誰よりも長い時間接していたマーク・レヴィンソンだからこそ、
あの時期、会った人に発狂しかねないという印象を与えた──、としか思えない。

ジョン・カールとトム・コランジェロ、それぞれが設計したマークレビンソン時代のアンプ、
その後のアンプ、
ジョン・カールはディネッセンのJC80、トム・コランジェロはチェロの一連のアンプ、
これらのアンプを聴いてきて、私はそう思う、
マーク・レヴィンソンはもともと狂うタイプの男ではなかった、と。

Date: 4月 18th, 2015
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(その2)

私がオーディオに関心・興味をもちはじめた1976年は、すでにMC型カートリッジのブームのはじまりだった。
オルトフォンからはSPUに代るモノとして成功したといえるMC20が登場していた。

けれどそれ以前のMC型カートリッジはどんなモノがあったのかというと、
オルトフォンでは、この会社の代名詞といえるSPUの他は、
決して成功とはいえなかったSLシリーズがあったくらい。

瀬川先生がいわれたことがあった。
いまのMC型カートリッジのブームは、日本ではMC型が作られ続いていたことが大きい、と。
いわれてみると、たしかにそうである。

有名なデンオンのDL103シリーズの他に、
フィデリティ・リサーチのFR1、スペックスのカートリッジ、サテンの独特な発電構造によるカートリッジ、
ダイナベクターもあったし、武蔵野音響研究所の光悦もあった。

もしこれらの日本のMC型カートリッジが存在していなかったら、
MC型カートリッジのブームは起らなかったであろう。

MC型カートリッジのブームは、日本だけの現象ではなかった、ともきいている。
むしろ海外において日本のMC型カートリッジが見直されて起ってきた、という話もある。

MC型カートリッジのブームについて話された時に、
瀬川先生はこんな話もされた。

カートリッジの製造原価はそんなに高くはない。
なのにMM型よりもMC型は高価になってしまうのは、おもに人件費がかかるから。
MM型と違い、MC型カートリッジはほとんど手づくりゆえに、つくれる人が限られるし、
製造できる個数も少なくなる──、そんな内容だった。

手先が器用だとはいわれる日本人にとって、MC型カートリッジは向いていた、
そういってもいいかもしれない。

とにかくMC型カートリッジは日本のメーカーによって続いてきたことは事実である。