Archive for 9月, 2014

Date: 9月 13th, 2014
Cate: デザイン

TDK MA-Rというデザイン(その1)

ステレオサウンド 51号に東京電気化学工業の広告が載っている。
東京電気化学工業のブランドはTDKで、同社初のメタルテープ、MA-Rの広告だった。

MA-Rの広告を初めて見たのは51号だったのか、
そのころはFM誌も他のオーディオ雑誌(月刊)も買っていたから、ステレオサウンドではなかったかもしれない。

とにかくMA-Rの広告に載っていた写真を見て、どきっ、としたことはいまでもはっきりと憶えている。

トランスルーセントに、亜鉛ダイキャストのハーフ。
それまで見慣れていたカセットテープの印象とはまったく違っていた。
クリアーだった。

メタルテープの登場は少し前からオーディオ雑誌でも話題になっていた。
カセットテープの枠をさらに拡げただけでなく、
おそらくメタルテープの登場がエルカセットにとどめをさしたともいえる。

TDKはメタルテープの発売にあたって、まずMA-Rを、それからMA(通常のプラスチック製ハーフ)を出した。
他のメーカーであれば、逆だっただろう。
まずMAを出して、その上位版としてMA-Rを華々しく登場させる。

だがTDKは違っていた。
だからこそMA-Rは、いまでもその登場が印象に残っている。
こんなカセットテープはTDKのADくらいである。

Date: 9月 12th, 2014
Cate: SP10, Technics, 名器

名器、その解釈(Technics SP10の場合・その3)

復活した現在のテクニクスではなく、以前のテクニクスはどんなオーディオメーカーだったのか。

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」テクニクス号で、菅野先生は書かれている。
     *
 こうしたブランド名としての成功とともに、テクニクスに対して見のがすことのできないのは、テクニクスがオーディオ技術の進展に真剣に取り組んで、この世界をリードしてきたということだ。テクニクスというメーカーがなければ、オーディオ技術の進展はもっと遅いものだったかもしれない。それだけにテクニクスは技術色の強いメーカーだし、自他ともに、技術集団であることを認めている。
 こうした環境のなかで生まれるテクニクス製品は、その結果、出た音が良いとか悪いとかといった感覚的な、芸術的な領域には、触れようとしていないのが大きな特徴だ。これは私のオーディオ観からすれば、少々異論をとなえたいところでもある。オーディオという人間の感性を満足させるものにあっては、技術はその手段であり、その目的を見ないで手段だけを追求するのは、中途半端であり片手落ちでもあると思う。しかし、これはあくまでも私の持論であって、テクニクスのとり続けてきた姿勢は、メーカーとして立派に評価できるものだと思う。手段を生半可にしたまま、あいまいに感覚や芸術の領域に首を突っ込んで、いいかげんな技術で製品を作る、虚勢をはったメーカーと比較すれば、テクニクスはオーディオメーカーとして非常に高い水準をもっているといえよう。
     *
この文章をはじめて読んだ時、確かにテクニクスはそういうメーカーかもしれない、と思った。
テクニクス号は1978年に出ている。
その前に、私はステレオサウンド 43号を読んでいた。43号は1977年6月に出ている。

ベストバイの特集号で、テクニクスのMM型カートリッジEPC100Cが選ばれている。
このカートリッジに対する菅野先生の文章も、またテクニクスというメーカーをよく表している、といえる。
これを読んでいたから、テクニクス号、読む人によっては少々意外に思える内容かもしれないが、
すんなりと受け入れることが出来た。

43号のEPC100Cについての文章だ。
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 技術的に攻め抜いた製品でその作りの緻密さも恐ろしく手がこんでいる。HPFのヨーク一つの加工を見ても超精密加工の極みといってよい。音質の聴感的コントロールは、意識的に排除されているようだが、ここまでくると、両者の一致点らしきものが見え、従来のテクニクスのカートリッジより音楽の生命感がある。
     *
ここに、「音質の聴感的コントロールは、意識的に排除されているようだが」とある。

SP10は名器ではなく原器としての存在だということに気づいた後に、菅野先生の文章を読めば、
すでにテクニクスがそういうメーカーであることが書かれていることに気づく。

Date: 9月 12th, 2014
Cate: SP10, Technics, 名器

名器、その解釈(Technics SP10の場合・その2)

State of the Artの意味については、別項「賞からの離脱」で触れている。
日本語にするのが難しい。
いまだ端的な日本語に置き換えることはできないでいる。

State of the Art──、
artがつくから、State of the Art賞に選ばれたオーディオ機器はすべて名器といえるのか、となると、
これも即答するのが難しい。

State of the Art賞が始まったステレオサウンド 49号を読むかぎり、
State of the Art賞に選ばれたオーディオ機器すべてが名器ということではない、というのは伝わってくる。

結局、テクニクスのSP10MK2が選ばれたのは、State of the Art賞だったから、ともいえよう。
誰もが、その性能の高さは認めている。
単体のターンテーブルとして、SP10MK2の性能は、標準原器と呼ばれるにふさわしいレベルであった。

ようするにSP10MK2がState of the Art賞に選ばれたのは、標準原器であったからではないのか。
名器ではなく、原器としてのSP10MK2に、State of the Art賞が与えられた、ともいえる。

原器とは、測定の基準として用いる標準器で,基本単位の大きさを具体的に表すもの、
同種類の物の標準として作られた基本的な器、と辞書には書いてある。

SP10はターンテーブルである。
ターンテーブルは正確な回転の実現が求められるオーディオ機器である。
アンプやスピーカー、他のオーディオ機器よりも、原器としての機器のあり方がはっきりとしている、ともいえる。

Date: 9月 11th, 2014
Cate: 真空管アンプ

真空管の美(その3)

Edのことは、別項ですでに書いている。
他の人が作ったアンプなら、そのアンプの出来が……、といえても、
伊藤先生が作られたアンプそのものを聴いているわけだから、
Edという真空管のもつ特質が、どういうものであるのかは掴めたといえよう。

その後で聴いた300Bのシングルアンプの音には、心底びっくりした。
こういう体験をしてしまうと、それまで古くさい形に思えていた300Bが、
実にいい形をしている、というふうに思えてくる。

誰がなんといおうと、真空管は見た目通りの音がしてくる。
Edからは300Bの音はしてこないし、300BからEdの音は鳴ってこない。

美という漢字は、羊+大である。
形のよい大きな羊を表している。

ということはEdよりも、他のどんな真空管よりも300Bの形は、まさしく「美」、
つまり形のよい大きな羊そのものに見えてくる。

300Bこそ、美という漢字を真空管という造形で表現した唯一のモノ。
いまはそうおもっている。

Date: 9月 11th, 2014
Cate: 真空管アンプ

真空管の美(その2)

真空管アンプを作る、Edのアンプを作る──、
そう決めていた私は、ステレオサウンドで働くようになってから、
無線と実験に発表された記事から回路図とEdの規格表、アンプの部品表、シャーシーの図面をコピーして、
それぞれを切り貼りしてレイアウトし、もう一度コピーをとったものを、
机の天板とガラス板のあいだに挿んでいた。

伊藤先生は、その後サウンドボーイにて、Edのシングルアンプを発表される。
無線と実験の記事はモノクロだった。
サウンドボーイの記事はカラーだった。

Edの美しさに、ますます惚れ込んでいた。

ただ気になることもいわれていた。
伊藤先生の一番弟子で、当時サウンドボーイの編集長だったOさんから、「Edは音がねぇ……」と。

Oさんの言葉を信じていなかったわけではないけれど、Oさんは300Bの人だった。
だから話半分できいていた。

Edのシングルアンプは、伊藤先生の仕事場で聴くことができた。
そこで伊藤先生の口から、Oさんとほぼ同じことを聞いた。
たしかにその通りだった。

そして伊藤先生の300Bシングルアンプの音を聴く。

Date: 9月 11th, 2014
Cate: 真空管アンプ

真空管の美(その1)

「五味オーディオ教室」から始まった私のオーディオは、
真空管への興味も同時に始まった。

最初に憶えた真空管はKT88。
五味先生愛用のマッキントッシュMC275の出力管だからだ。
その次に憶えたのはF2a-11。
ただしこれに関しては型番だけであり、いったいどんな真空管なのか、
1976年当時、私は知ることができなかった。

それからいろいろな真空管の型番と形と特徴を憶えていく。
その過程で、まさに一目惚れした真空管はシーメンスの直熱三極管Edである。

無線と実験に伊藤先生が発表されたトランス結合・固定バイアスのプッシュプルアンプで、
Edの存在を知り、こんなに美しい真空管は他にない、と思ったほどである。

Edの存在を知る前に、アメリカに300Bという真空管があるのは知っていた。
熊本では、当時300Bの実物を見ることはできなかった。
写真ではよく見ていた。

アメリカの直熱三極管300Bとドイツの直熱三極管Ed。
見た目だけで判断すれば、圧倒的にEdの方が、いい音がしそうに思えた。

それにST管と呼ばれる真空管の形状が、
懐古趣味的真空管の形のようにも思えて、Edの形はそういう要素が感じられない、ということも、
私には大きかった。

Date: 9月 11th, 2014
Cate: ジャーナリズム, 書く

毎日書くということ(続・実感しているのは……)

自分が属している業界の色に染まってしまったのかどうか、ということは、
なかなか本人にはわからない。
誰かに指摘されたとしても、本人は納得がいかないのではなかろうか。

結局のところ、自分で気づくしかない。
ではどうすれば、気づくのか。

各軸なことは、いまのところなにひとついえない。
ただいえることが、ひとつある。

その人は毎年11月には瀬川先生の墓参に行く。
オーディオ業界に長くいる人であり、きいたところによると身内の墓参にはあまり行かない人らしい。
そういう人が、毎年11月に瀬川先生の墓参には行くという。

墓の前に立てば自然と手を合せて目をつむる。
その時の気持は、その人だけのものである。

なぜ、その人は行くのか。
理由は知らない。あえて聞こうとも思っていない。

私が、だから勝手に思うのは、
瀬川先生の墓参に行くという行為は、自分で気づく行為のはずだ、ということである。

Date: 9月 10th, 2014
Cate: 表現する

音を表現するということ(その13)

菅野先生の「レコード演奏家」論がある。
私は「レコード演奏家」論に賛同しているが、
すべてのオーディオマニアがそうでないことは知っている。

ただ「レコード演奏家」論に異をとなえる人の中には、
誤解以外のなにものではないだろう、といいたくなることもある。

菅野先生の「レコード演奏家」論は、ステレオサウンドから出ている。
audio sharinngでも、2002年版を公開している。

私が公開しているところに以前リンクがはられていた。
そこで「レコード演奏家」論がどう語られているのか、見てみた。

そこには料理人が差し出した料理に、味見もせずに塩コショウをふりかけるのと同じ行為だ、
音楽の聴き手として許せない行為だ、とあった。

どこをどう読めば、そう受けとれるのか、逆に訊ねたくなったくらいである。
そんな読み方で「レコード演奏家」論を誤解している人がいる。

賛同していない人のすべてがこういう人ではない。
人それぞれであって、「レコード演奏家」論を認めていない人もいる。

その一方で「レコード演奏家」論に賛同しながらも、曲解されているのでは? と思える人もいるように感じている。

Date: 9月 9th, 2014
Cate: Technics

シマノとテクニクス

テクニクスのことを集中的に書いていて、
テクニクスとシマノには共通するところがあることに気がつく。

ふたつの会社の体質が似ている(偶然にもどちらも関西の会社)、というよりも、
ふたつの会社に対するオーディオマニア、自転車マニアの態度に共通するところがある。

テクニクスがなければ生れなかった技術がある。ひとつだけではない。
テクニクスがなくても生れてきたであろう技術にしても、
テクニクスがあったからこそ登場する時期が早くなった、といえる。

シマノがなければ生れなかった技術がある。
シマノの存在があるからこそ、カンパニョーロのコンポーネントも良くなっている。

テクニクスにもシマノにも、アンチと呼べる人たちがいる。
アンチまではいかなくとも、どちらかといえは否定的な立場の人が少なくない。
つまりシマノもテクニクスも、なぜか嫌われることがある。

私は自転車に興味をもつようになって、
シマノが日本のメーカーであることを嬉しく思っている。

私がテクニクスというブランド(テクニクスだけに限らない、日本のオーディオ)をふり返れるようになったのは、
シマノのというブランドがあったからだ、ともいえる。

Date: 9月 8th, 2014
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(その6)

高校生の時から星新一の小説にはまった。
いわゆるショートショートである。
数年間はまっていた。

書店に行き、星新一の文庫本を見つけたら即買って帰宅しては一気に読んでいた。
ほとんどすべての星新一の作品は読んでいる。
何本のショートショートを読んだのだろうか。

星新一のショートショートの中で「岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代」に関係して思い出す一篇がある。
こんな話だった。

ある男のもとに天使のような者がやってくる。
願いをかなえる、という。
ただしライバルには、その願いの二倍のものを与える、という条件つきで。

男はいう、「○○のところへ行ってくれ」と。
○○とは男がライバルと思っている存在である。

天使のような者は、だから○○のところへ向う。
男は、自分のところへ大きな幸運がやってくるものだと期待して待っていた。
けれど、そんなものはやって来なかった。

男は○○をライバルだと思っていた。
○○は男をライバルだとは思っていなかった。

そんなショートショートだった。
読後、ライバル同士といわれていても、実のところはそういうものかもしれない、と思った。

だが岩崎千明と瀬川冬樹は、そうではなかった。
ふたりは、互いにもっとも手強いライバルだと意識し合っていた。

Date: 9月 8th, 2014
Cate: Technics, 「ネットワーク」
1 msg

オーディオと「ネットワーク」(テクニクスの場合)

9月3日に、テクニクス・ブランドの復活が正式に発表され、新製品も登場した。
その時から、毎日のようにテクニクスの新製品に対する書き込みを目にする。
その大半がfacebookで、なのだが、他のところを検索しては見てみた。

発表された写真を見た時から、
こんな意見が出るだろうな、というのが多い。
私が目にしたものの大半は、否定的なことばかりである。

これは私のfacebookでのつながりゆえなのかもしれないが、
それにしても……、と少々思う。

あれこれいいたくなる気持は私にだってある。
否定的なことを書き始めれば、どれだけでも書ける。
それでも、いまのところは書かないでいる。

まだ実物を目にしていないし、音を聴いていないからだ。
こう書くと、写真をみればおおよその見当はつくよ、と返ってきそうだ。

それでも、音を聴いていないのだから、と私は思っている。

松下電器産業の創業者の松下幸之助氏が、かつて言っていた、らしい。
「会議で七割が賛成する意見はもう古い。七割の人に反対されるくらいの意見がちょうどよい」と。

会議とインターネットでの意見の交換を完全に同一視できないのはわかっていても、
インターネットというネットワークは、ひとつの会議とみなせる。
ならば、それこそちょうどいいのかもしれない。

私が目にしたテクニクスの復活に関しての意見・感想は七割くらいの人が否定的だったからだ。
ちょうどよいからといって成功する保証はどこにもないけれど、
音を聴くまで、もうすこし待ちたい。

Date: 9月 7th, 2014
Cate: 程々の音

程々の音(その24)

この項の(その1)を書いたのは、
それほど深い意図があってではなく、とにかくタンノイ・コーネッタについて何かを書きたかったから、であり、
コーネッタの最終的な組合せをイメージしてのタイトルとして「程々の音」をつけた。

(その1)を書いたのが2013年12月、半年以上かけて書いているわけだが、
書いている途中で、ワーズワースの有名な詩句 “plain living, high thinking” を何度か思い出していた。

“plain living, high thinking” どう訳すか。
Googleで検索すれば、いくつかの訳が見つかる。
plain livingをシンプルな生活と訳してあるのは、ちょっとひっかかる。

程々の音を直訳的な英語にすれば、moderate soundになるが、
私のなかでは(中途半端な英語だが) “plain living, high thinking” なsound ということに落ち着く。

これではあまりにも中途半端すぎるから、もう少し考えれば、
“plain sounding, high thinking” というところか。
決して “high sounding, high thinking” ではない。

“high sounding, high thinking” があり得ない、といっているのではない。もちろん、ある。
“high sounding, low thinking” があることをいいたいのだ。

Date: 9月 7th, 2014
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

音の聴き方(その2)

一緒に音を聴いていて、後からであっても、どういう音の聴き方をしているのか聞いてくる人もいれば、
まったくそんなことに関心のない人もいる。

オーディオは趣味だから、好きなように聴いて好きな音を出すものでしょう、という人を知っている。
別にひとりではない。
そういう人が多数なのかどうなのかははっきりとしないけれど、私の感覚では意外に多い、と受けとめている。

オーディオが趣味であっても、そういうものではない、と私は考えているわけだが、
このことは音の聴き方に関係してくることだし、
その結果がインターネットの普及とともに目にすることが増えてきている。

好きなように聴く──、それがその人のオーディオの楽しみ方、やり方、
さらには音楽の聴き方であるのなら、第三者である私がとやかくいうことではないのはわかっている。
それでも、あえてこんなことを書いているのは、
好きなように聴いていては、どこまでいっても、その人にいえることは好きか嫌いかの範疇にとどまる。

このことに気づいている人に対しては、私は何もいわない。
そうであれば、その人の楽しみ方であるのだから。

だが、中には好きなように聴いてきているだけなのに、良し悪しについて語る人が少なくない。
これは別項「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」で、これから書いていくことと関係しているが、
好きなように聴いていて、良し悪しは語れない、ということをはっきりとさせておきたい。

好きな音は、その人にとって良い、嫌いな音が悪い──、
これはあくまでもその人の中にあってのみかろうじて成り立つことであって、
ひとたび言葉にして誰かに語った時点で、
どんなに言葉をつらねても、好き嫌いはどこまでいっても好き嫌いでしかなく、
決して良し悪しにはならない。

にも関わらず、あれは良いとか、悪いとか、といい、
しかもそういう人に限って、誰かのことばを聞こうともしない。

Date: 9月 7th, 2014
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(その5)

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代よりも、
岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代が長くなった。
かなり長くなった。

私がオーディオマニアとして生きてきた時代は、ほぼ岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代である。
当り前のことだが、これからも「いない時代」は続いていく。

岩崎先生は1977年に48歳で、瀬川先生は1981年に46歳で亡くなられた。
それまでふたりの書かれたものを熱心に読んできた人たちは、
とっくにふたりの享年よりも長く生きている。

私だってそうである。ふたりを年齢だけは追い越している。
あと数年したら五味先生に対しても、そうなる。

私は、このことを意識している。
そうやってオーディオをやってきているのは、私だけでないことは知っている。
名前は出さないけれど、あの人もあの人も、とそう多くはないけれど数人の人の顔が浮ぶ。

もうそういう人は少数なのかもしれない、とつくづく感じさせるのがSNSだ。
特にfacebookにおいて、強く感じている。

Date: 9月 6th, 2014
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

音の聴き方(その1)

一緒に音を聴いたことのある人から、ときどき受ける質問が、
「どこに注意して音を聴いているのか」である。
いわゆる音のチェックポイントはどこなのか、についての質問だ。

こういうところに注意して聴いている、と答えられるようでいて、
実はそうでない。

自分の愛聴盤を持ってきての試聴でも、
いわゆる聴きどころを決めているわけではない。
まして、その場で聴かされたディスクでは、聴きどころなど最初からない。

意識せずとも聴感上のS/N比、音のひろがり方はチェックポイントといえばそうだが、
これに関しては、いまはほとんどの人がそうしているはず。

その他には、というと、五年以上前に書いたことを、もう一度書くことになる。
井上卓也氏のこと(その11)」を読んでいただければいいことだが、
リンクをはったところで読んでくれる人はそう多くないことはわかっているので、
もう一度書いておこう。

ここ(チェックポイント)を聴いてやろう、という意気込みをまず捨てることである。
前のめりに構えてしまうことが、音を聴くとき、いちばんやっかいである。