Archive for 11月, 2012

Date: 11月 10th, 2012
Cate: 平面バッフル

「言葉」にとらわれて(その15)

ホーン型と呼ばれていても低音ホーンに関しては、いくつかの種類がある。
フロントロードホーン、バックロードホーン、クリプシュホーンなど、といったように。

これらのホーンも大きくふたつに分けられる。
ひとつはフロントロードホーンであり、
もうひとつはバックロードホーン、クリップシュホーンなどの折曲げ型、とにである。

このふたつのウーファーから放射された音がフロントロードホーンではそのまま聴き手を目指して直進してくる。
折曲げホーンの場合には、ホーン内部での折返しが生じる。

このふたつのホーンの違いは、
エレクトロボイスの30Wを、正面を向けて鳴らすのと、
壁に向けて(後向きにして)鳴らすのと、共通する違いかある。

フロントロードホーンではウーファーがピストニックモーションによってつくり出した疎密波は、
いわばそのまま出てくる。ピストニックモーションのままである。

一方クリプシュホーン、バックロードホーンでは、そうはいかない。
ホーンの構造からして、ウーファーがどれだけ正確にピストニックモーションをしていようと、
ホーンの開口部から放射される音はピストニックモーションとは呼べない状態になっているはずだ。

低音ホーンの採用は、低音の能率をすこしでも向上させるためである、というふうにいわれてきた。
たしかにモノーラル時代の、これらの大型スピーカーシステムが生れてきたときのアンプの出力は少なかった。
それでも十分な低音での音響出力を得るにはホーンの力を借りる必要があった。

それは理解できた。でもその理解だけに、そのときはとどまってしまった。
それ以上の理由を考えることはしなかった。

でもいま改めて考えてみると、あえて非ピストニックモーションの低音を得るためではなかったのか、
そんな気がしてならない。

Date: 11月 10th, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その3)

バックハウスの演奏の再生に必要なこととはなんだろうか、と具体的に考えてみると、
骨格のしっかりした音、という結論になってしまう。

骨格のしっかりした音、とは、どういう音なのか、というと、
これが説明しにくい。

骨格のしっかりした音、ということで、音をイメージできる人もいれば、
まったくできない人もいる、と思っている。

イメージできる人でも、私がイメージしている骨格のしっかりした音とは、
違う骨格のしっかりした音である可能性もあるわけだが、
それでもイメージできる人は、音の骨格ということに対して、なんらかの意識が働いていることになる。

でもまったくイメージできない人は、
スピーカーからの音を聴いているとき、音の骨格ということを意識していない、ということだと思う。

音の聴き方はさまざまである。
なにを重要視するのかは人によって異ってくるし、
ひとりの人間がすべての音を、すべての音の要素を聴き取っているわけではない。

ある人にとって重要な音の要素が、別のひとによってはそれほどでもなかったりするし、
それは聴く音楽によって変ってくることでもあるし、
同じ音楽を聴いていても、人によって違う。

人の耳には、その人なりのクセ、と呼びたくなる性質がある。
ある音には敏感である人が、別の音には鈍感であったりする。
これは歳を重ねるごとに、自分の音の聴き方のクセに気がつき、ある程度は克服できることでもある。

これは人に指摘されて気がついて、どうにかなるものではない。
自分で気がついて、どうにかしていくものである。
そこに気がつくかどうか。

自分の耳が完全な球体のような鋭敏さを持っている、と信じ込める人は、ある意味、シアワセだろう。
でも、オーディオを介して音楽を聴くという行為は、それでいいとは思っていない。
やはり、厳しさが自ずともとめられるし、
その厳しさのないところにはバックハウスはやってこない、といっていい。

Date: 11月 9th, 2012
Cate: 正しいもの

正しいもの(その14)

バックボーンはひとりひとり違う。
同じ時代を同じ長さだけ生きてきたふたりがいたとしても、その人なりのバックボーンがあって、
同時に共通するバックボーンもそこには生れているはず、と思う。

1ヵ月ほど前だったか、Twitterで、
オーディオ評論家は60すぎても若手と呼ばれる特殊な世界、
といった書込みがあった。
そういうところはたしかにある。

けれど、ふりかえってみれば、これはやはりおかしなことであって、
瀬川先生は46で、岩崎先生は48で、
オーディオ評論家ではないけれど五味先生は58で亡くなられている。

瀬川先生も岩崎先生も、私がステレオサウンドを読みはじめた1970年代後半、
若手のオーディオ評論家ではなかった。

オーディオの世界には、岩崎先生、瀬川先生よりも上の世代の方々はおられた。
オーディオ評論家と呼んでいいのかは措いとくとして、
伊藤先生、池田圭氏、淺野勇氏、青木周三氏、加藤秀夫氏、今西嶺三郎氏、岡原勝氏といった、
オーディオの専門家の方々の存在があったし、この人たちからみれば、
岩崎先生も瀬川先生も若手ということになる。

けれど、もう一度書いておくが、岩崎先生も瀬川先生も、
このふたりだけに限らず菅野先生、山中先生たちも若手とは呼ばれていなかった。
読み手であった私も、そういう意識はまったくなく読んでいた。

なのに、なぜいまのオーディオ評論家と呼ばれている人たちは、
すでに岩崎先生、瀬川先生の年齢をこえ、さらには五味先生の年齢をこえている方も多いのに、
若手という認識から離れられないのだろうか、と考えたとき、
バックボーンの違いから、そういうことになっているのだと思っている。

Date: 11月 9th, 2012
Cate: ショウ雑感

2012年ショウ雑感

2002年からわずかな時間ではあって、インターナショナルオーディオショウには行くようにしていたけれど、
今年は風邪気味(というよりも風邪気味っぽい、と軽い症状)だったので、
行こうかどうしようかと迷って、結局行かずに終ってしまった。

これまでは特に聴きたいモノがあって、それを聴くために行く、というよりも、
とにかく行って時間の許すかぎり、いくつものブースをまわって、
目を引く(耳を引く)モノと出合えたらいいな、という感じで行っていた。

今年はぜひ聴いておきたいモノがあった。
エレクトリが輸入しているファーストワットのSIT1である。

風邪気味っぽいくらいだったので出かけるのが苦になるというわけではなかった。
でも、すこし冷静に考えてみたら、ファーストワットのSIT1の音が聴ける可能性は低いように思えた。

SIT1の出力は、わずか10W。
エレクトリのブースは広い方で、スピーカーはおそらくマジコ。
マジコの、どのスピーカーが使われるのかはわからないけれど、
仮にQ3だとして出力音圧レベルは90dB、カタログには推奨パワー30Wとある。

SIT1のパワーで、人が大勢集まっているエレクトリのブースという環境では、
十分な音量が確保できない可能性が非常に高い。
だから、展示のみで鳴らさないのではないか、と考えたら、急に億劫になってしまった。

ショウに行った数人の方に話をきいてみたところ、やはりSIT1は鳴っていなかったようである。

行かなかったから、数人の人の話を興味深くきいた。
ひとりの人はAというスピーカーの音を褒め、Bというスピーカーの音にはまったく関心を示さなかった。
でも、別の人は反対でBのスピーカーを高く評価し、Aのスピーカーの評価はまったく低かった。

スピーカーにかぎらず、ブースの音に関しても、同じだった。
こうも違うんだな、と改めて思う。

音だけではない、ショウのお目当てがなにかということも違う。
それはオーディオ機器が対象の話ではなく、
ある人はオーディオ評論家の講演が目的、という人、
オーディオ評論家の講演よりも海外のメーカーのエンジニアの話がききたいから、という人もいる。

便宜上、オーディオ評論家の講演、と書いているけれど、
菅野先生不在の今、オーディオ評論家という言葉を使うことに抵抗を感じるようになっているし、
講演という言葉を使うのは、さらに抵抗を感じる。

とにかくショウに何を求めていくのかは、人によってさまざまであり、
ショウに実際に行ける人たちよりも行けない人たちのほうが圧倒的に多い。

だからオーディオ雑誌がショウの記事を掲載するのを毎年読んでいると、
ページ数の少なさも大きな制約になっていることはわかっているうえで、
行った人にも行けなかった人にも、読んで面白いという感じさせる記事づくりは充分可能なはず。

でも今年も、代り映えのしない記事を読むことになるのだろう……。

Date: 11月 8th, 2012
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(その8)

手塚治虫の「雨のコンダクター」は、苦労することなく読むことができる。
けれど、ほかの作品となると、
図書館に行きFMレコパルのバックナンバーをひとつひとつ見ていくしかないのではなかろうか。
しかもFMレコパルのバックナンバーを揃えている図書館はそう多くないだろう。

バーンスタインの「戦時のミサ」はCDで聴ける。
これがおさめられている12枚組のボックスは、安いところでは2000円ちょっとで購入できる。
CDの値段が、そこにおさめられている音楽の価値とは直接な関係はないとはいえ、
安いことはありがたいことではあるけれど、ここまで安くしなくても……という気持もある。

廃盤になっていた時期があったとはいえ、いまはこうして聴ける。
やはり、これはデジタル化の恩恵でもあろう。
CDが登場して30年。

30年前のCDの価格は1枚4000円こえるものもあった。
しばらくして3800円、3500円と安くなり、さらに3200円へと推移していった。
再発ものの値段は、この10年は、バーンスタインのハイドン集にかぎらず、あってないような感じも受ける。

書籍のデジタル化が電子書籍なのだから、
いつかは10年後とか、もっと先には、いまのCDのような感じになるのかもしれない。

ただ音楽ディスクのフォーマットは、CDひとつに絞られたけれど、
電子書籍に関しては、そうではないから、
10年後、20年後、CDと同じような推移をするのかどうかは読めないところがあるのも確かだ。

それでも電子書籍が普及すれば、
FMレコパル・ライブ・コミックが全作品読めるようになるのではないかと思う。

1作品ずつの販売、筆者ごとの販売、全作品まとめの販売、
どういう販売方法でもかまわないから、
とにかくFMレコパル・ライブ・コミックがもういちど読める日がはやく来てほしい、と思っている。

Date: 11月 8th, 2012
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(その7)

小学館が発行していたFMレコパルは1974年の創刊。
共同通信社のFMfan、音楽之友社の週刊FMがすでに創刊されていて、FMレコパルは後発だった。

それゆえに独自色を出すために、小学館は約2年の準備期間を設けていた、という話を、
昨夜、西川さんからきいたばかりである。

先行する共同通社、音楽之友社にはなく小学館にある強みのひとつが少年マンガ誌(少年サンデー)であり、
この当時の少年マンガ誌を読んでこられた方ならば記憶にあるはずだが、
ページの欄外に一口情報的な文章が載っていた。

小学館は少年サンデーの、この一口情報を活用する手を考え、
オーディオ一口メモということをやっていたそうだ。
しかも執筆されていたのは岩崎先生だったそうだ。
(なんと贅沢なんだろう、と思ってしまう。ほかの出版社だったら編集者が書いていたと思う。)

岩崎先生も仕事が忙しくて、
途中から西川さんが代理で書いて、岩崎先生がチェックするというふうに変っていったそうだが、
とにかくこういう地味なことを続けて、読者アンケートの結果から、
FMレコパルでは、他のFM情報誌よりもオーディオに力を入れていくように編集方針が決った、とのこと。

そしてもうひとつのFMレコパルの独自色だったのが、FMレコパル・ライブ・コミックであった。
マンガ家との強いコネクションをもつ小学館だけに、手塚治虫だけでなく、
石森章太郎(石ノ森と書くべきだろうが、私が夢中になって読んでいたころは石森だったのでこう書いてしまう)、
さいとうたかを、望月三起也、松本零士、ジョージ秋山、黒鉄ヒロシほか、大勢の方が描かれていた。

1976年の終りごろからは掲載時に読んでいたけれど、記憶に残っているもの、
ほとんど記憶に残っていないもの、
えっ、この人が描いていたの? というぐらいまったく記憶にないものがある。

FMレコパル・ライブ・コミックにどういう作品が掲載されたのかは、
図書の家というサイトにある芸術・芸能漫画アーカイブに詳しい掲載リストが公開されている。

このリストを見ていると、読みたい! と思う。

Date: 11月 8th, 2012
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(その6)

手塚治虫のマンガのなかで、音楽についての作品はいくつかあって、
たぶん有名なのが「雨のコンダクター」であろう。

FMレコパルに1974年に掲載されているので、
内容までは憶えていないけれど、読んだ記憶はある、という方はいらっしゃるだろう。

「雨のコンダクター」にはふたりの実在の指揮者が登場する。
ひとりはオーマンディ、もうひとりはバーンスタインであり、
「雨のコンダクター」ではオーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団によるチャイコフスキーの1812年、
バーンスタイン指揮ニューヨークフィルハーモニーによるハイドンのミサ曲第九番「戦時のミサ」が描かれている。

オーマンディの演奏はケネディセンターホールで、
バーンスタインの「戦時のミサ」はワシントン大聖堂で行われ、
オーマンディによるコンサートは、ニクソンの大統領就任記念のためのもので、
バーンスタインによる「戦時のミサ」はベトナム反戦コンサートのためのものである。

「雨のコンダクター」は、このふたつの対比的なコンサートの模様を描いている。

クラシックについてほとんど知らない人が読んでしまったら、
オーマンディのレコードを聴きたいと思う人はいなくなるんじゃないか、と思えてしまうほど、
手塚治虫によるバーンスタインは、かっこよかった。
音楽を演る男のかっこよさがあった。

1974年の掲載だから、私が読んだのは何かの単行本に収められたものであった。
それでも10代のうちに読んでいる、と記憶している。

この日のバーンスタインの演奏は録音されていないようだが、
翌日の録音によって「戦時のミサ」は聴くことができる。

しばらく廃盤だったようだが、今年前半に発売になったバーンスタインのハイドン集(12枚組)に収められている。

Date: 11月 8th, 2012
Cate: audio wednesday, 瀬川冬樹

第22回audio sharing例会のお知らせ(11月7日のこと)

もうこんな時間(1時40分)なので、すでに昨夜のことになってしまったが、
毎月第一水曜日に四谷三丁目にある喫茶茶会記で行っているaudio sharing例会、
今回は11月7日、瀬川先生の命日ということだったので、前回お知らせしたように、
「瀬川冬樹を語る」がテーマだった。

途中からではあったが、サンスイに当時に勤務されていて、
瀬川先生とも親しくされていた西川さんが来てくださった。

始まりは7時、終ったのは11時をすこしまわっていた。

いろんな話が出た。
そして、ひとつ確認できたことがあった。
やっぱりそうだったんだ、と。

別項「岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと」の(その7)で、
瀬川先生と岩崎先生はライバル同士であり、お互いに意識されていたはず、だと、
瀬川先生の文章を読んでも、岩崎先生の文章を読んでも、そう感じるようになっていた、ということを書いているが、
西川さんの話で、瀬川先生は岩崎先生のことを、岩崎先生は瀬川先生のことを、
もっとも手強いライバルであり、オーディオの仲間同士として意識されていたことを確認できた。

間違いのないことだとは思っていたことが、確認できた。
私にとって、そういう11月7日だった。

来年の11月7日は、33回忌になる。

Date: 11月 7th, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その2)

バックハウスの「最後の演奏会」におさめられているのは、
1969年6月25日、28日のオーストリア・オシアッハにある修道院教会の再建記念コンサートの演奏である。

デッカがステレオ録音で残していてくれている。
最新のスタジオ録音のピアノの音を聴きなれている耳には、
これといって特色のない録音に聴こえるだろう。

バックハウスの、このCDをもち歩くことは少ない。
そういうディスクではないからだ。
誰かのシステムで聴いたことは、だからほんの数えるほどしかない。

そのわずかな体験だけでいえば、ときとして、つまらないディスクにしか思えない音で鳴ることがある。
バックハウスの最後の演奏会のライヴ録音だとか、
6月28日のコンサートでのベートーヴェンのピアノソナタ第18番の演奏途中において心臓発作を起し、
いちどステージ裏にひきさがったあと、プログラムを変更してステージに戻っている。

この日の録音には、そのことをつげる男性のアナウンスもはいっている。

バックハウスが最後に弾いているのはシューベルトである。
即興曲D935第2曲。

岡先生が書かれているように、
ここでの演奏でもバックハウスは「解釈と技巧をふりかざしてきき手を説得しよう」とはしていない。
だからなのか、「解釈と技巧をふりかざしてきき手を説得しよう」としている音で鳴らされたとき、
バックハウスの演奏は、ひどく変質してしまうような気がしてならない。

バックハウスの演奏を聴くことにって感じているのは、
バックハウスの演奏を聴くということは、聴き手にも厳しさが求められている、ということである。

バックハウスの演奏がつまらなく聴こえるのであれば、
その装置の音には、そういう厳しさが稀薄なのか、まったく存在していないのかもしれない。

オーディオという世界は、あらゆるところに、聴き手がよりかかれる要素がある。
聴き手は知らず知らずのうちに、どこかによりかかっていることがある。

それは人によって違うところでもあるし、自分では気がつくにくい。
誰かに聴いてもらったとしても、指摘してもらえるとはかぎらない。

それでもひとつたしかにいえるのは、
バックハウスの演奏がつまらなくきこえたり、どうでもいいとしかきこえなかったら、
どこかによりかかったところで音楽が鳴っている、と思っていい。

Date: 11月 6th, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その1)

CDではブレンデルとグルダが揃っているし、LPではアシュケナージ、バレンボイムと、現役のトップクラスの全集はそれぞれいいのだが、バックハウスの描きだしたベートーヴェンの世界は、これら四人とはまったくちがうもので、演奏家が解釈と技巧をふりかざしてきき手を説得しようという姿勢はまったく見られない。バックハウスは鍵盤の獅子王という異名を与えられてずいぶん損をした人ではないかと思う。豪毅なピアニズムはそういう一面をもっているが、彼はあくまでも音楽そのものに語らせる。したがって、きき手はそこから何を読みとるかということで彼の解釈・表現の評価がわかれるのではあるまいか。後期の作品においてはとくにその感をふかくする。
     *
岡先生がステレオサウンドで連載されていたクラシック・ベストレコードで、
バックハウスのベートーヴェン・ピアノソナタ全集がCD化されたときに書かれたものである。
1986年6月に発行されたステレオサウンド 79号で読める。

ちょうど、このころ、岡先生のクラシック・ベストレコードは私が担当していた。
いまみたいにメールで原稿が送られている時代ではない、
手書きの原稿を鵠沼の岡先生の自宅に取りにうかがったことも何度もある。

岡先生の原稿は読みにくかった。
最初のうちは朱を入れる(文字を読みやすく書き直す)だけでもかなりの時間を要した。
馴れてきてからも、苦労する文字が必ずあった。

岡先生は、アシュケナージとショルティを高く評価されることが多かった。
私は、というと、1986年といえば23だった、若造だった。

ショルティもアシュケナージも、岡先生がいわれるほどいいとは思えなかった。
そんなところが私にはあったけれど、岡先生の原稿は楽しみだった。

このバックハウスのベートーヴェンについて書かれた原稿を読んだ時も、
ふかく頷いてしまった。

とはいっても、岡先生のようにバックハウスを聴きえていたわけではない。
それでも、岡先生の音楽の聴き方を、さすがだ、と思い、
バックハウスの音楽を、いかに聴き得ていなかったことに気づいての頷きであった。

「彼はあくまでも音楽そのものに語らせる」
いまは、ほんとうにそう思えて、頷いている。

12月にバックハウスのCDがユニバーサルミュージックから発売になる。
その中に「最後の演奏会」が含まれている。

この「最後の演奏会」のCDはいつも限定盤で発売される。
数年に一回の割合で、廉価盤としての値段がついての発売である。
市場からなくなって数年たつと、また思い出したように限定盤で出してくれる。

海外盤は手に入らないから、こういう発売のやり方でも、待てば買えるわけで有難いことではある。

バックハウスの「最後の演奏会」は文字通りの内容である。
そこでのバックハウスの演奏を、感傷的に聴くことだってできる。

けれど、そういう聴き方をしてしまったら、
バックハウスの演奏から「何を読みとるか」ということが、あやふやになってしまわないだろうか。

Date: 11月 6th, 2012
Cate: Bösendorfer/Brodmann Acoustics, VC7

Bösendorfer VC7というスピーカー(その28)

VC7のウーファーはエンクロージュアの両側面にとりつけられている。
フロントバッフルにはとりつけられているのはトゥイーターのみ。

VC7と同じユニット配置のスピーカーシステムは他にもいくつか存在しているが、
そういったスピーカーシステムとVC7がはっきりと違う点は、
エンクロージュアの両側面に響板と呼べるものがとりつけてあることだ。

エンクロージュア両側面にとりつけられているウーファーに近接するかたちで、この響板がある。
ウーファーと響板との距離は狭い。

VC7におけるウーファーと響板の位置的関係をみていると、
別項「言葉にとらわれて」の(その7)で書いてる
エレクトロボイスの大口径ウーファー30Wの使い方と共通するところがあるのに気づく。

ここにVC7のもつ音響的バイアスの秘密があるのではなかろうか。

Date: 11月 5th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その23)

私は、グールド的リスナーとして、
ゴールドベルグ変奏曲を聴く、ということは、どういうことなのかを考えたい。

それは13万円をこえる金額を出して石英CDを買い、後生大事に聴くこととは、
遠く離れた行為のようにも思えてくる。

たった1枚のディスクのために、お金を出す。
それもふつうの人には理解できない金額のお金を出す。
オーディオマニアは、これをやってきている。

愛聴盤の数は、所有しているディスクの枚数とは必ずしも比例しない。
1万枚をこえるディスクを所有していても、愛聴盤は10枚しかない、という人もいるだろうし、
100枚しかディスクは所有していないけれど、100枚すべて愛聴盤という人もきっといる。

その愛聴盤のためにオーディオは存在している。
10枚の愛聴盤のために、100枚の愛聴盤のために、1000枚の愛聴盤のために……。

そして、オーディオは、1枚の愛聴盤のために、が、その始まりである。

グールドのゴールドベルグ変奏曲は私にとって愛聴盤である。
大切な愛聴盤である。

その愛聴盤を、グールド的リスナーとして聴く、ということを考えて、
私は、いまの私の答として、必要なのは石英CDではなくダイヤトーンの2S305という古いスピーカーシステムを、
ソニーのTA-NR10というパワーアンプで鳴らすシステムであり、
このシステムから何を聴き取りたいか、というと、
グールドがヤマハのCFを選んだことと、
ゴールドベルグ変奏曲で、デビュー盤のゴールドベルグ変奏曲の旧録ではすべて省略した反復指定を、
1981年の録音では反復指定の前半は行っていて、しかもテンポもゆっくりであることの関係性を、であって、
そのことに狙いを定めたシステムで聴いて、徹底的に探りたい。

Date: 11月 5th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その22)

地理的ギャップというものもある。東へ行くほど、レコードは録音によるコンサート効果をねらっていることがわかる。もちろんさらに遠く日本にでも行けば、西欧化されたコンサート・ホールの伝統による禁忌などはとりたててないから、レコーディングはレコーディング独特の音楽経験として理解されている。
     *
グレン・グールドが語ったことである。

私は、その日本にいて、オーディオマニアである。
20年前に、「ぼくはグレン・グールド的リスナーになりたい」という文も書いたことがある。

だから、このグールドの語ったことをおもいだす。

13万円以上する石英CDで、グールドのゴールドベルグ変奏曲を聴くのが、
はたしてグールド的リスナーなのだろうか。

少しでもいい音で聴けるのであれば、大金を惜しまない、
そういう態度はマニアとして、ほんとうに正しいのだろうか。
そう考えていた時期は私にもある。20代のころ、30代のころは特にそうだった。
少しでも音が良くなるのであれば、金も手間も惜しまない。
それこそがマニアの姿である、みたいな、そんな底の浅いものだった。

いまでも私はオーディオマニアであり、死ぬまで、おそらくそうであろう。
だから、いい音のためには手間は惜しまない、金だって余裕がなくなりつつあっても、惜しもうとは思っていない。
そういう意味では変っていないけれど、
昔は、手間も金も惜しまない、そんな自分に酔っていたところがなかった、とはいえない。

どこかに、そういう気持があった。
手間も金も惜しまない、ということは、自分に酔いしれるためではない、
あくまでも音楽のため、いい音のためであってこそ、オーディオマニアといえる。

1枚13万円をこえる石英CDは、枚数限定である。
マニアの心のなかのどこかにひそむ自分に酔いしれたい、という気持や虚栄心を、
これらのフレーズが煽らない、と言い切れるマニアがどれだけいようか。

Date: 11月 5th, 2012
Cate: 井上卓也

井上卓也氏のこと(その37)

ボリュウムのツマミや入力セレクターのツマミを廻したときの感触なんて、どうでもいい。
大事なのは音であって、音がよければ感触がざらざらしていようと、ガタついていようと関係ない。

こんなことをいう人もいる。
音さえ良ければ、それでいい、という考えであれば、そうなるのかもしれない。
けれど、私のこれまでの経験からいえば、ボリュウムのツマミを廻したときの感触に、
いやなものを感じたとき、そういうものは必ず音となって現れてくる。

もっといえば、コントロールアンプ、プリメインアンプのボリュウムの感触はひじょうに重要な要素であって、
おおまかにはボリュウムの感触と音の感触は、ほぼ一致する。
井上先生も、このことは指摘されていた。

滑らかな感触がツマミを通して感じられるアンプの音は、滑らかである。
ざらついた感触があるアンプの音は、どこかにそういうところが感じられる。
滑らかな感触のものでもツマミによって、その感触、質感は変化していくように、
ツマミの存在も、この感触には大きな要素となっている。

試しにツマミを外して音を聴いてみると、いい。

こんなことを書いていくと、ここでも、そんなことで音は変らない、
そんなことで音が変ると感じるのはプラシーボだとか、オカルトだとか、いいだす人がいる。

そういう人たちに、私はききたい。
水を飲むとき、同じ蛇口から汲んできた水であるならば、
紙カップで飲もうと、プラスチックのコップで飲もうと、
陶器のグラスで飲もうと、ガラスの素敵なコップで飲もうと、
どれも同じ味だと感じるのか、ということだ。

それぞれのコップ、グラスにはいっている水は同じ水、水温もまったく同じ。
異るのは容器だけである。

私は容器によって、水の味は変って感じられる、そういう人間である。

どんな容器で飲もうと、中にはいっている水が同じならば、水の味は同じである。
そういう人には、音の微妙な違いは、一生わからない。
わからない人にとって、わかる人が聴き取っている世界は理解できないものだ。

自分に理解できない世界のことを、プラシーボとかオカルトとか、と否定していてなんになろう。
なぜ、より精進して、自分の聴く能力を鍛えようとしないのか、と思う。

結局、どうでもいい理屈をひっぱり出して、そんなことでは音は変らない、というのは、
精進することを拒否している、あきらめている自分を認めたくないからではないだろうか。

Date: 11月 5th, 2012
Cate: オリジナル

オリジナルとは(続×十七・チャートウェルのLS3/5A)

私がマッキントッシュのC22、MC275のことを知ったのは、
「五味オーディオ教室」によってであり、
私にとってC22とMC275の愛用者の代表的存在が五味先生である。

その五味先生が、こんなことを書かれている。
ステレオサウンド 52号「続・オーディオ巡礼」で岩竹義人氏を訪問されている。
     *
拙宅のマッキントッシュMC275の調子がおかしくなったとき、岩竹さんがアンプ内の配線もすべて銀線に替えられたアンプを所持されると聞き、試みに拝借した。それをつなぎ替えて鳴らしていたら娘が自分の部屋からやって来て、「どうしたの?……どうしてこんなに音がいいの?」オーディオに無関心な娘にもわかったのである。それほど、既製品のままの私のMC275より格段、高低域とも音が伸び、冴え冴えと美しかった。私は岩竹さんをふしぎな人だと思った。これほどうまくアンプを改良できる人がどうしてあんな悪い音を平気で聴いていられるのか、と。その後、こんどはプリのC22も、経年にともなうコンデンサーの劣化を考慮し新しいのに取替えたという岩竹氏のをかりて聴いてみたら、拙宅のよりいい。私ならこんなアンプは大恩人に頼まれても手離さないだろうに、いよいよ不思議な人だとおもい、もう一ぺん、岩竹家の音を聴きなおしてみる気になった。
     *
C22のコンデンサーを○○に交換したら音がよくなった、とか、
配線材を○○にしたら、音の抜けが良くなった、とか、
そんなことを誰かがいったところで、私はまったく信用していない。

でも五味先生が、こう書かれていると、素直に信じる。
五味先生の文章からはC22のコンデンサーを、新品のBlack Beautyに交換されたのか、
それともほかの銘柄のコンデンサーに交換されたのかまではわからない。

でも、五味先生はこういう人である。
     *
もちろん、真空管にも泣き所はある。寿命の短いことなどその筆頭だろうと思う。さらに悪いことに、一度、真空管を挿し替えればかならず音は変わるものだ。出力管の場合、とくにこの憾みは深い。どんなに、真空管を替えることで私は泣いてきたか。いま聴いているMC二七五にしても、茄子と私たちが呼んでいるあの真空管——KT88を新品と挿し替えるたびに音は変わっている。したがって、より満足な音を取戻すため——あるいは新しい魅力を引出すために——スペアの茄子を十六本、つぎつぎ挿し替えたことがあった。ヒアリング・テストの場合と同じで、ペアで挿し替えては数枚のレコードをかけなおし、試聴するわけになる。大変な手間である。愚妻など、しまいには呆れ果てて笑っているが、音の美はこういう手間と夥しい時間を私たちから奪うのだ。ついでに無駄も要求する。
挿し替えてようやく気に入った四本を決定したとき、残る十二本の茄子は新品とはいえ、スペアとは名のみのもので二度と使う気にはならない。したがって納屋にほうり込んだままとなる。KT88、今一本、いくらするだろう。
思えば、馬鹿にならない無駄遣いで、恐らくトランジスターならこういうことはない。挿し替えても別に音は変わらないじゃありませんか、などと愚妻はホザいていたが、変わらないのを誰よりも願っているのは当の私だ。
だが違う。
倍音のふくらみが違う。どうかすれば低音がまるで違う。少々神経過敏とは自分でも思いながら、そういう茄子をつぎつぎ挿し替えて耳を澄まし、オーディオの醍醐味とは、ついにこうした倍音の微妙な差異を聴き分ける瞬間にあるのではなかろうかと想い到った。数年前のことである。
以来、そのとき替えた茄子はそのままで鳴っているが、真空管の寿命がおよそどれぐらいか、正確には知らないし、現在使用中のテープデッキやカートリッジが変わればまた、納屋でホコリをかぶっている真空管が必要になるかもしれない。これはわからない。だが、いずれにせよ真空管のよさを愛したことのない人にオーディオの何たるかを語ろうとは、私は思わぬだろう。
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こういう五味先生が、岩竹氏の手によって改良されたC22とMC275を、
「大恩人に頼まれても手離さないだろうに」と褒められている。
そのことを考えてしまう。