Archive for 5月, 2011

Date: 5月 16th, 2011
Cate: BBCモニター

BBCモニター考(余談・続×五 K+Hのこと)

C-AX10のデジタルディバイディングネットワークにおけるIIR型とFIR型の音を比較するためには、
だからパイオニアのスピーカーシステム、たとえばExclusive 2404を用意しなければならない。
どれだけの人が、デジタルフィルターのふたつの方式の違いを比較試聴できたかというと、わずかかもしれない。
私も聴けなかった。

だからステレオサウンド 133号に載っている井上先生と朝沼さんの対談による記事を参考にするしかない。
朝沼さんはFIR型にしたときの音をこう語られている。
     *
非常に静かなんです。それから、音像定位と音場感がもっと精密になって、明確に録音の意図が分かる。未体験ゾーンを味わったという感じですね。
     *
井上先生はというと、
     *
これは今までにない音ですよ。デジタルで初めて体験できる音。だから、どう捉えたらいいか……。
録音側も、このリニアフェイズの FIRでモニターしてくれないと、録音モニターと再生モニターの相関性がなくなってしまうんです。そこまで考えないと簡単には言いきれない、何かとてつもないものを持っているんですよ。
(中略)この音を聴くと、そういう問題を提起させながら、これからオーディオは、また面白くなりそうな感じがしますね。
     *
この記事は書き原稿ではなく対談のまとめだから、断言はしにくいけれど、
私の編集経験からすると、井上先生がこれだけのことを発言されているということは、
C-AX10の可能性、つまりFIR型のデジタルディバイディングネットワークの可能性、それがもたらしてくれる、
これから先のオーディオの楽しみ、おもしろさについて感じとっておられることは伝わってくる。

Date: 5月 16th, 2011
Cate: BBCモニター

BBCモニター考(余談・続々続々K+Hのこと)

1999年秋に、パイオニアからデジタル・コントロールアンプとして、C-AX10が登場した。
DSPとA/Dコンバーターを搭載して、内部での信号処理はすべてデジタルで行うもので、
レベルコントロール、トーンコントロールはもちろん、アナログディスクの再生においてもデジタルで処理している。
その他の機能として、16ビット信号を24ビットに再量子化するHi-Bit、
デジタルディバイディングネットワークをもつ。
C-AX10の機能を、こまかく説明していると、それだけでけっこうな分量になってしまうほどの多機能ぶりだ。

C-AX10で、使い手側(つまりオーディオ機器のユーザー)は、はじめてIIR型とFIR型、
ふたつのデジタルフィルターの音の違いを聴くことが可能になった。

メーカーの技術者ならば、IIR型とFIR型を、ほかの条件は同一のまま聴き較べることはできても、
メーカーの製品を聴く側では、そんな機会はまずない。
C-AX10の機能のひとつ、デジタルディバイディングネットワークは、IIR型とFIR型の切替えができる。

C-AX10のデジタルディバイディングネットワークの機能をみると、
IIR型とFIR型の演算処理の違いが、間接的にではあるがわかる。

クロスオーバー周波数は、IIR型では70Hzから24kHzまでの25ポイントなのに対し、
FIR型は500、650、800、1000Hzの4ポイントだけ。
スロープ特性はIIR型では0、-6、-12、-18、-24、-36、-96dB/oct.に対し、
FIR型ではローパス側は-36、ハイパス側は-12dB/oct.に固定、となっている。
演算処理が増すことにより、設定の自由が狭くなっていることがわかる。

つまりIIR型のデジタルディバイディングネットワークは汎用型として使えるが、
FIR型デジタルディバイディングネットワークは、
基本的にはパイオニアのスピーカーシステム用に限定されてしまう。

Date: 5月 15th, 2011
Cate: BBCモニター

BBCモニター考(余談・続々続K+Hのこと)

デジタル信号処理の話題が出はじめたとき、
まだそのときはステレオサウンドにいたころで、国内メーカーの技術者の人の話に、
デジタルで信号処理した際に、振幅特性と位相特性に関することがあった。

ある国内メーカーの技術者は、デジタルでは振幅特性と位相特性とをそれぞれ単独でコントロールできる。
けれど、自然現象として、振幅特性が変化すればそれにともなって位相特性も変化するものだから、
そのことを重視して、われわれは振幅特性と位相特性、互いに影響し合う関係処理していく、
つまりアナログフィルター同様にする、ということだった。

そういわれてみると納得するものの、やっぱりデジタル信号処理の強み、
つまり品ログフィルターでは不可能なことがデジタルでは可能になるわけだから、
振幅特性と位相特性は、それぞれ単独でコントロールもできるようにしてくれれば、
使い手側で選択できるのに……、と思ってもいた。

CDが登場して、わりとすぐに聞くようになったのは、
デジタルだから振幅を変化させても位相特性は変化しない、ということだった。
その2、3年経ったころだったと思うが、
今度は、いやデジタルでも振幅を変化させれば位相もそれに応じて変化するのは、
アナログと同じである、ともいわれはじめた。

どちらも正しい。
IIR型デジタルフィルターなのか、FIR型デジタルフィルターなのかによって、それは異るからだ。
IIR(Infinity Impulse Response)型では振幅特性とともに位相特性も変化していく。
FIR(Finite Impulse Response)型では、振幅のみを独立して変化できる。

いまはこんなふうに書いているけれど、私もデジタルフィルターにIIR型とFIR型とがあることを知ったのは、
1980年代の終りごろだった。
それも、どちらがより高度な処理なのかは、
振幅特性、位相特性をそれぞれコントロールできるFIR型であることはわかっていたものの、
それが実際にはどの程度の違いなのか、具体的なことまでは知らなかった。
このときになって思ったのは、あのときデジタル信号処理についての話には、
FIR型に関しては、実際に製品に導入することはあの時点では無理があったんだろうな、ということだ。

Date: 5月 15th, 2011
Cate: KEF, LS5/1A

妄想組合せの楽しみ(自作スピーカー篇・その18)

LS5/1はトゥイーターのHF1300に手を加えて搭載している。
LS5/1AのウーファーのグッドマンCB129Bも、
そのままではなく、フレームの左右は垂直にわずかとはいえ切り落している。
そうすることで、フロントバッフルの幅をぎりぎりまで狭めている。

イギリスの、それもBBCモニター系列のスピーカーシステムのエンクロージュアのプロポーションは、
横幅はわりと狭く、奥行が概して長くとられている。
高さ方向も、わりと高い方である。

アメリカのスピーカーシステムでは、どちらかといえば横幅が広く、奥行はわりと浅い傾向にある。
その極端な例のひとつが、1980年代に日本にはいってきたボストン・アコースティックスのA400だ。
ここまで奥行を浅くしたイギリスのスピーカーといえば、
ジョーダン・ワッツのモジュールユニットをおさめたものが薄型エンクロージュアだが、
これ以外では、とくにBBCモニター系列のなかにはまず見当たらない。

エンクロージュアのプロポーションは、とうぜん音の傾向に大きく関係してくる。
それにしても、なぜLS5/1Aでは、ウーファーのフレームを切り落としてまでも、
横幅を狭めているのか、と思う。
板取の関係とは思えない。

LS5/1Aはもともと市販するために開発されたものではなく、
そこで板取を優先した結果としてフロットバッフルの大きさが決り、
それに合わせるためのウーファーのフレームの加工、というふうには考えにくい。

これは、やはりエンクロージュアの横幅を狭めることの音質上のメリットを優先してのことだと思う。

Date: 5月 14th, 2011
Cate: オリジナル

オリジナルとは(その15)

蓄音器の時代、それはひとつの「器」だった。
クレデンザにしろ、HMVにしろ、その他のアクースティック蓄音器は、それひとつで完結していた。

アクースティック蓄音器は、1925年ごろから電気の力によって、いわゆる電蓄になっていく。
ライス&ケロッグによるコーン型スピーカーを搭載したパナロープや、マグナヴォックスその他から登場している。
日本での大学出の初任給が60〜70円の時代に、これらのアメリカ製の電蓄は1500〜3500円で売られている。
このころの電蓄は、アクースティック蓄音器と同じく、それひとつで完結している。

レコードがSPからLPになっていくことで、電蓄の高性能化を求められるようになり、
電蓄という器が解体されていき、プレーヤーシステム、アンプ、スピーカーシステムと独立していき、
コンポーネントという形態に変化していくことで、オーディオは大きな発展を遂げることになる。

使い手の自由度は増していくことになるとともに、
コンポーネントの難しさもその拡大とともに次第に増していくことになる。

Date: 5月 13th, 2011
Cate: 平面バッフル

「言葉」にとらわれて(その4)

「立体バッフル」という言葉が浮んできたとき、
われながら、うまい表現だな、と気持と、あぁ、いまのいままで、平面バッフルの「平面」という言葉に、
これまでの発想はどこかしらとらわれていた気持も味わっていた。

「立体バッフル」という言葉が出てくるまでは、言葉にとらわれていた、という意識はなかった。
けれど、実際には違っていたし、そのことを気づかせてくれたのも、またやはり「言葉」だった。

平面バッフルといっても、バッフル自体には厚みがある。
私が使っていたのは19mm厚の米松合板に80mmの補強棧がつくので、
トータルの厚みは99mm、約10cmあるから、この厚さの分だけ立体といなくもないわけだが、
ここでいう、「立体バッフル」とは、とうぜんそんなことからは離れているものだ。

結局、「平面」ということから解放されなければ、バッフルのサイズを縮小していくことはできない。
といって囲ってしまう方向にいけば、それはエンクロージュアにいく。

とにかく、いま私のなかには、「立体バッフル」という言葉がある。
けれど、まだ具体的にはどうするかまでには至っていない。
ただ「立体バッフル」という言葉があるだけだ。

ここから、「立体バッフル」という言葉にただとらわれてしまうだけなのか、
「立体バッフル」という言葉から、以前夢見ていたけれども、どうしても思いつかなかったことに、
今度はたどりつけるのか。

Date: 5月 12th, 2011
Cate: 平面バッフル

「言葉」にとらわれて(その3)

その他にもいくつか案を考えていた。
でも、結局、どれも試すことなく、平面バッフルからはなれて、セレッションのSL600にした。

平面バッフルに関しては、だから不完全燃焼で、いまも、また挑戦してみたいという火がくすぶりつづけている。
それに手もとにアルテック604-8Gがある。
エンクロージュアにするのか、平面バッフルにするのか、そのどちらにも興味がある。
だから、平面バッフルについて、またあれこれ思いをめぐらしていた。

そんなところに、昨夏、偶然に見つけたのが、ギャラリー白線のano(アノ)だった。
正直、目からウロコが落ちたような印象を、その写真をみたときにおぼえた。

こういう手があるのか、と思った。
ちょうど試聴会も行われるということで、阿佐谷にあるギャラリー白線で聴いてきたのが、ほぼ1年前のことだった。

昨日、anoの各辺を60%に縮小したsono(ソノ)を、
イルンゴ・オーディオの楠本さんとの公開対談で聴くことができた。
スピーカーユニットも変更され、こまかい調整も行われていて、
anoの素朴な味わいとは、また異り、個人的にはサイズも含めて、sonoに魅力を感じる。

昨夜は、このスピーカーの製作者であり、ギャラリー白線の主宰者の歸山(かえりやま)さんも来てくださった。

歸山さんの話されるのをきいていて、ある言葉が浮んできた。

私は、anoを人に紹介するとき、折曲げバッフルだと、昨夜までは言っていた。
昨日浮んできた言葉は、「立体バッフル」だった。

Date: 5月 12th, 2011
Cate: 平面バッフル

「言葉」にとらわれて(その2)

いくつか考えていた。
ちょうど、そのころアクースタットのコンデンサー型スピーカーのバリエーションのひとつとして、
Model 1というモデルが出た。

黒田先生が導入された最初のアクースタットは Model 3。
型番末尾の数字が、コンデンサーのパネルの数を表している。
Model 3は3枚の縦に長いパネルを配置してる。
Model 1は、Model 3の1/3の横幅の、細長い形状のコンデンサー型スピーカーだった。
アクースタットにはさらにModel 1+1というのがあり、
これはコンデンサー・パネル2枚を横に、ではなく、縦に積み重ねたもので、異様に細長い。

これらをみて、バッフルの横幅を、使用ユニット幅ぎりぎりまでつめて、細長くしたらどうか、と考えたり、
そのころちょうど高速道路の防音壁の上部に円筒状の物が取りつけられはじめたころでもあったことからヒントを得て、
バッフルの周囲に吸音材を配置することで、なんとかサイズを小さくできない、とも考えた。

この防音壁に取りつけられた吸音材による効果は、
防音壁をまわりこむ音を吸音することで、高速道路から周囲への騒音を減らすためのものである。
ただ高速道路の近くでは、その効果はあまりなく、距離が遠ざかるほどに騒音の減衰量は増えていくものだった。
だから同じように平面バッフルにとりつけても、比較的近距離で聴く場合には効果は望めないから、
なんらかの工夫が必要になる。

そのあとQRD(当時はRPG)の音響パネルが登場したときは、
これを裏表逆にして平面バッフルに使えないだろうか、とも考えた。

Date: 5月 12th, 2011
Cate: 平面バッフル

「言葉」にとらわれて(その1)

シーメンスのコアキシャルは平面バッフルにとりつけていたことは、すでに書いた。
このときの平面バッフルは、ウェスターン・エレクトリックのTA7396という、
18インチ・ウーファーTA4181Aを4年とりつけた大型のシステムの両側につけられていたバッフルを、
ほぼデッドコピーしたもので、サイズはW100×H190cmの、米松合板によるもので、
補強棧のいれかたもTA7396そのままである。

これを6畳もない、そんなスペースに、文字通り押し込んで鳴らしていた時期が、私にはあった。

音場感再現を重視する人の中には平面バッフルに否定的な意見をもつ方がいる。
バッフル面積が広いだけで、音場感が阻害される、ということだ。

そういうひとにとっては無限大バッフルなんて、悪夢でしかない存在になるだろうが、
平面バッブルの行きつくところは、無限大バッフルであり、
疑似的にでも無限大バッフルを実現するため、スピーカーを広い砂浜に埋め込み、
そのスピーカーの特性を測定するということが、昔は行われていた。

実際のリスニング環境では無限大バッフルは、どうやっても実現はできない。
だからか、2.1m×2.1mのバッフル・サイズがひとつの実現できる理想値のひとつのようになっている。

このサイズの平面バッフルを置いて、さらに左右のバッフルの間を開けることができる部屋となると、
そんな贅沢を空間を用意できる人はごく限られる。

だからもしすこし現実的なサイズと横幅がまず縮められる。
それでも私が使っていた平面バッフルのように高さが1.9mもあると、
それが2本、比較的近い距離にあると、そびえ立っている感が強い。
となると、高さも縮めることになり、最低限のサイズと1m×1mがある。

あらためていうまでもなく、サイズ(面積)が小さくなれば、低域のそんなに低いところまで出てこなくなる。
もうすこし低いところまで、ということになると、サイズは増していくしかない。

平面バッフルを使っていたとき、この音のまま、
それは無理なことはわかっているから、できるだけこのままで、もうすこしサイズを縮小できないものか、
いいかえれば見た目の圧迫感を減らせないものか、とあれこれ考えた。

Date: 5月 12th, 2011
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その12)

いまは黒田先生の「聴こえるものの彼方へ」の電子書籍の作業を行っている。
岩崎先生の「オーディオ彷徨」も、3月に公開している。
瀬川先生の「本」に関しても、11月と1月に公開していて、いまは最終版となるものにとりくんでいる。
それにaudio sharingというサイトをはじめて10年以上経つから、
いわゆる「紙の本」よりも、ネットや電子書籍、
つまり「紙の本」については、古いもの、と見做している、と思われるかもしれないが、
必ずしもそうではない。

新しい世界と出合うためのものとしては、書店に置かれている本(つまり「紙の本」)の役割は、
新しい世界と出合おうとしている者の年齢が若ければ、つまり知っている世界が狭い者にとっては、
インターネットよりも電子書籍よりも、重要の度合が高くなっていく。

私の田舎は、私がいたころよりも書店の数が減っているらしい。
となると、当時よりも出版点数が増えているいまでは、
オーディオ雑誌はどう取り扱われているのだろうか、と思う。

東京では寂しい気持になることが少しずつ増えてきているけれど、
これが、東京の書店だから、ならばまだいい。
東京の書店において、これである、となると……。

Date: 5月 12th, 2011
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その11)

私がオーディオに関心をもちはじめたの1976年だから、オーディオブームのころである。
ブームだったからこそ、小さな田舎町の書店でも、ステレオサウンドだけでなく、ラジオ技術、無線と実験、
初歩のラジオ、電波科学、サウンドメイト、ステレオ、オーディオピープル、FM誌などが並んでいた。

書店に並んでいたから、私はオーディオというものに出合えた、といえる。
もしいま13歳の私が、いまの田舎にいたとしたら、オーディオと出合えただろうか。

いまはインターネットがある、という人もいる。
けれど13歳の小僧が、はたしてインターネットだけで、オーディオという、
それまでまったく知らなかった世界を知ることができるのか、と思う。
それに最初に出合うものは、重要だ。

以前勤めていた会社は新宿が近かった。
新宿には、以前、青山ブックセンターが2箇所あった。
いまのファーストブックセンターがはいっているところが、以前は青山ブックセンターだった。
新宿には、紀伊國屋書店の本店がある。

書店としての規模、それに比例するだけの本の種類、数は青山ブックセンターよりもずっと多かった。
つまりなにかおもしろそうな本を探すという目的には、
青山ブックセンターよりも紀伊國屋書店のほうが適している、といえそうだが、
私は、青山ブックセンターで探すほうが圧倒的に多かった。

すでに買う本を決めているときには紀伊國屋書店のほうが確実に探し出せることが多い。
でも、なにかおもしろい本、ということになると、紀伊國屋書店の規模は大きすぎる。

たまには上の階から順繰りに、あれこれ見てまわることもあるけれど、
そんなことをしょっちゅうやっていたわけではないし、
探し出しという感覚よりも、出合う、という感覚に近い探し方ができるのは、
私にとっては青山ブックセンターだった。

2店舗あるうちのどちらか、気が向いたらどちらも店舗をもみていると、
おもしろそうな本と出合えることが、わりと多かった。

そういった本と出合うことで、こういう世界があるんだ、と知ることになる。
いままで知らなかった世界との出合いにとって、書店の役割は重要だと、いまも思っている。

Date: 5月 12th, 2011
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その10)

オーディオのブームは、ずっと以前のことであり、すでに収束してしまって久しい。
あのころのオーディオブームが、むしろ異状なことであり、いまの、この状況のほうが、
オーディオという趣味の在り方としては、あたりまえ、とか、適正規模に戻っただけ、という声があり、
たしかに、そう思うことはある。

そう思いながらも、でも、といいたい気持がある。

いま書店に行くと、オーディオマニアとしては寂しい気持になることが増えてきている。
まず書店によっては、オーディオ雑誌を置いてないところがある。
まだ、こういう書店は、私の行動範囲ではごく少数だけれども、そういう書店があるのは事実である。
さらに先月号まで並んでいた、あるオーディオ雑誌が今月から並ばなくなった、
平積みされていたのが、そうではなくなった、ということは出てきた。

昨日、四谷三丁目の喫茶茶会記でイルンゴ・オーディオの楠本さんとの公開対談を行ったが、
お見えになった方の身近の書店でもオーディオ雑誌の取扱いが、以前と較べると縮小されている、ときいた。

いま共同通信社からPCオーディオファンというムックがでているが、
いま住んでいるとこの隣駅にある大型書店では、これをオーディオ・音楽雑誌のコーナーには置かずに、
パソコン雑誌のコーナーに置いている。
PCオーディオファンのVol.1のときも、やはり別の書店で、パソコン雑誌のコーナーにしか置いてないのをみている。

いまあげた例とはすこし異る例としては、ステレオサウンドから出たマットンキッシュの別冊号が、
「マッキントッシュ」ということで、これまたパソコン雑誌のコーナーに置かれていた。
オーディオのマッキントッシュとパソコンのマッキントッシュとはスペルが違うし、
ステレオサウンドの別冊の表紙は、だれがみてもパソコンには見えないにもかかわらず、である。

東京の書店において、これである。
いま、私が生れ育った田舎の書店では、
オーディオ雑誌の取扱いはどういうことになっているのだろうか、と思ってしまう。

Date: 5月 11th, 2011
Cate: 録音

50年(その6)

プレトニョフのCDのすこしあとに、ある友人のところで、
内田光子によるベートーヴェンのピアノ・ソナタを聴かせてもらった。

いま、空気が無形のピアノ、というところまでには達していないものの、
それでも眼前に内田光子が弾いている鍵盤が、ほぼ原寸に近いイメージではっきりと浮びあがる。
そしてフォルティッシモでも、その鍵盤のイメージがくずれない。

だから、友人から感想を聴かれたときに「鍵盤がくずれない」と言った。
私が言った意味を友人も理解してくれていたようだった。

後日、その友人のところにある人が、やはり音を聴きに来たという話、その友人からきいた。
訪問者に、友人は内田光子のCDを聴かせて、「鍵盤がくずれないだろう」といったところ、
きょとんとされたそうだ。
「鍵盤がくずれない」ことの意味がまったくわからない、といった感じだったらしい。

ピアニシモでは、鍵盤がわりとイメージできる録音、それに再生音でも、
フォルティッシモにおいては、突如として鍵盤のイメージがくずれてしまうことがある。
でも、そのことに、まったく関心が無いのか、鍵盤が目の前にあることをイメージできないのか、
「鍵盤がくずれない」ことがあらわしている音の良さに関して、ひどく鈍感な人がいると感じている。

音の聴き方には、人それぞれ癖というか、個性に近いもの、というか、
得手不得手ともいえるものがある。
すべての人がまんべんなくすべての音に対して反応しているわけではない。

たとえば音のバランスにひどく敏感な人もいれば、
音場感と呼ばれるものに対して、注意をはらっている人もいる。
その音場感、音場感とよくいっている人のなかにも、左右の広がり、前後の奥行きに関してはひどく気にしても、
不思議なことに音像の高さには、まったく無関心な人もいる。

鍵盤がくずれない、ということが、どういうことなのか、
すぐに理解できる人もいれば、そうでない人もいる、ということだ。

Date: 5月 10th, 2011
Cate: 録音

50年(その5)

まだまだ調整中の段階とはいえ、いい手ごたえを感じていたわけだから、
彼は、さっそくプレトニョフのCDをかけたそうだ。

彼のところをたずねた人の中には、録音の仕事をしている人がいた、ときいている。
ほかの人もふくめ、オーディオのキャリアはみな長く、オーディオ機器につぎこんだ金額も相当なもの。

でも、彼らにはプレトニョフのCDは、ピンとこなかったらしい。
たしかにいい録音だけど、なぜ彼がそんなに、プレトニョフのCDをあつく語るのかが理解できなかったようだ。

その中のひとり、録音の仕事をやっている人が、持参したCDの中から、
彼が優秀だと思っているピアノのCDをとりだした。それを鳴らす。
プレトニョフのCDが出るまでは、優秀録音と呼ばれたであろうが、
プレトニョフの録音が捉えている、無形のピアノを再現するのに必要な情報を、
その録音が十分にとらえているかというと、けっしてそうではない。

その録音は、私も聴いたことがある。
プレトニョフのCD以前と以後では、そして菅野先生のリスニングルームでの「再現」を聴いたあとの耳では、
こんどは、彼も私も、録音の仕事をしている人が感じているほどに、いい録音とは思えない。

ピアノの音色、ダイナミックレンジの広さなどなど、そういう従来の録音の評価軸にそうならば、
たしかに優秀録音だし、録音の仕事をしている人のいうことも理解できる。
けれど、その録音では、プレトニョフの録音が可能にした、無形のピアノを鳴らしてくれるとは感じられないのだ。

Date: 5月 10th, 2011
Cate: 録音

50年(その4)

ステレオ録音を、感覚的に的確にとらえた表現は、
五味先生の「いま、空気が無形のピアノを、ヴァイオリンを、フルートを鳴らす」であり、
私にとっては、この「空気が無形の」の楽器を鳴らすことは、五味オーディオ教室を読んだときからの、
つまり13歳のときからの思いつづけてきた、オーディオの在りかたでもある。

いま、空気が無形のピアノを……」のところで書いたように、
2005年5月19日、菅野先生のリスニングルームにおいて、はっきりと、聴いた。
プレトニョフのピアノによるシューマンの「交響的練習曲」で、だ。

このプレトニョフのCDの録音は、このとき、ほかの録音とはあきらかに違っていた。
聴いていると、目の前にはっきりとプレトニョフが弾いている鍵盤が浮びあがり、
それだけでなく、ピアノという楽器の形、重さまでもが、はっきりと聴きとれた。

こんなことを書くと、お前の錯覚だろう、という人がいよう。
でも、このとき、菅野先生のリスニングルームで、プレトニョフのCDを聴いた人の何人かは、
私と同じに感じていたことを、そして驚いていたことを、あとで聞いて知っている。

ただ菅野先生の話だと、そう感じない人、このよさがわからない人が少なからずいることも事実のようだ。
これは、その人のオーディオのキャリアの長さ、とは、直接関係はないようで、
感じない人に対して、どんなに言葉を尽くして伝えたところで、ほとんど無駄になることが多い。

プレトニョフのCDを菅野先生のところで聴き、驚き、
さっそくCDを買い求めた人を知っている。
そして、少しでも、菅野先生のところで聴いた音に近づけようと調整したことで、
少なくともピアノの鍵盤に関しては、ほぼ再現できるレベルにもっていっていた。

その彼からきいた話がある。
彼のところに、数人のオーディオマニアの方たちが遊びに来たときの話である。