Archive for 2月, 2011

Date: 2月 21st, 2011
Cate: KEF, LS5/1A

妄想組合せの楽しみ(自作スピーカー篇・その4)

いま入手できるスピーカーユニットは、なにも新品、現行製品に限るというわけではない。
少々の根気があれば、良好なモノが見つけられる可能性のある製造中止のユニットも含めて、のことだ。

だから、LS5/1をいまつくるとしたら、大きくふたつある。
ひとつは、あくまでも現行のスピーカーユニットのみで構成するということ。
もうひとつは、現行・製造中止に関係なく、入手できそうなユニットであれば採用するということ。

最初の現行のスピーカーユニットだけで、というのが、実はけっこう難しい。

LS5/1の良さを、なんとか再構築してみたいと思い、
各国のスピーカーユニットの製造メーカーのウェブサイトをみてまわっているけど、
なかなかセレッションのHF1300のかわりになるようなユニットは、ない。

LS5/1のウーファーとトゥイーターのクロスオーバー周波数は1.75kHz。
トゥイーターはドーム型だから、現在のスピーカーシステムの一般的な値からすると、意外に低い。

おそらくHF1300の数字は、1.3kHzから使えるということだと思う。
それでいて十分な高域まで延びていること。

いま入手できる現行製品のドーム型トゥイーターだと、比較的口径の大きなもので25mm、
たいていのユニットはさらに小さい。
といってもうすこし大きい口径のものとなると、いきなりスコーカー用となってしまい、
逆に大きくなってしまう。

HF1300は38mm口径のダイアフラムを採用している。
だから、このトゥイーターを採用した他のスピーカーシステム、
たとえばスペンドールのBCII、BCIII、B&WのDM4などは、
HF1300の上にスーパートゥイーターを追加している。

決して20kHzまで高域がきれいに延びているトゥイーターではない、が、
私の好きなイギリスのスピーカーには、たいてい、このHF1300がついている。

Date: 2月 21st, 2011
Cate: 表現する

音を表現するということ(続々・聴く、ということ)

いい音で、すこしでもいい音で、音楽を聴きたい、とオーディオをずっと続けてきてこられている人ならば、
そう思われているはず。

いい音で聴くために、いい音を出す。

この当り前のように思えていたことが、
実は、ときには、まったく関連性を無くしてしまうことがあるような気がしはじめた。

つまり、いい音を出すこと、と、いい音で聴くこと、
このふたつの行為は切り離せない関係である、と思っていた。

いい音を出せれば、それでいい音が聴ける、そう思っていたわけだ。

だが、このふたつのあいだには、ときとして、大きな隔たりがある。
つねにあるとは思っていない。
なにかの拍子に、なにかのきっかけで、そこで隔たりが生じてしまう。

いい音を出せたからといって、いい音で聴けているわけではない状況がおきる。

Date: 2月 20th, 2011
Cate: KEF, LS5/1A

妄想組合せの楽しみ(自作スピーカー篇・その3)

手応えを感じていた。

スピーカーシステム本体だけでなく、パワーアンプのほうが、さらにくたびれていた。
時間をかけて、きちんと手入れをしていけば、もっと素晴らしい、美しい音を鳴らしてくれる……。

でもその期待もしばらくして、アンプが片チャンネル、低域発振しはじめて、
さらにウーファーも片チャンネル、ボイスコイルが断線したようで、まったく鳴らなくなった。

オーディオに関心のない人にとっては、わずか数ヵ月の音のために、
40万円という出費は、馬鹿げたものでしかないだろう。

たしかに高い買い物だった。
しかも、その頃は仕事をしていなかったから。

それでもLS5/1が聴かせてくれた音、
聴かせてくれたであろう音を想像すると、
自分のモノとして鳴らしてよかった、と思えてくる。

LS5/1というスピーカーシステムを、もっともっと詰めていけば、
どこまでの音を鳴らしてくれるのか、そういう想いが、そのときからどこかにくすぶっている。
そして、いつかは、LS5/1をふたたび手にしよう、それも今度は、自分の手でつくって、だ。

LS5/1は製造されて50年以上、KEFのLS5/1Aにしても、40年以上(50年近い)経過している。
もう程度のいいモノを見つけてくるのは、とても困難だし、
使われているユニットの作りからしても、これから先、あと何年もつのかも、心もとないところがある。

ならば、いま手に入るユニットを使って、自分でつくってみるしかない。

Date: 2月 20th, 2011
Cate: KEF, LS5/1A

妄想組合せの楽しみ(自作スピーカー篇・その2)

BBCモニターのLS5/1を、無線と実験の売買欄で見つけて、
なんとかお金を工面して購入して、運び込まれた日、その外観を見て、すこし落胆した。

木目のエンクロージュアのはずなのに、目の前にあるスピーカーはグレイの塗装仕上げ。
売買欄には、はっきりとKEFのLS5/1Aとあったが、
実際に届いたのは、KEFがまだ設立される前につくられたLS5/1だった。

その分、年季の入ったモノだった(つまり、けっこうくたびれていた)。
附属の専用アンプも、EL34のプッシュプルであることは同じでも、
製造会社が、リークとラドフォードで違う。

こんな感じだったので、正直、最初の音出しはまったく期待していなかった。
それでも、ぱっと手にとったCDをかける。

ステレオサウンドで働くようになってしばらくして、
試聴室で聴いた瀬川先生のLS5/1Aを聴いたときよりも、印象がいい。

おそらく、私が手にしたLS5/1は1958年ごろ作られたものと思われる。
当時としてはワイドレンジだったLS5/1も、すでにナローレンジのスピーカーのはずだが、
鳴ってきた音は、そんなことはまったく意識させずに、美しいと思わせてくれた。

見た目のくたびれた感じは、目を閉じて聴いていればまったくない。
フレッシュな音、とはいわないけれど、ケイト・ブッシュの声を、こんなにもよく鳴らしてくれるなんて、
なんという誤算だろう、と思っていた。

しかも、この大きさのスピーカーシステムなのに、驚くほど定位がいい。
その定位の良さは、ある種快感でもある。
ふたつのスピーカーの中央に、数歩前に出て、ケイト・ブッシュがいて、歌っている。

これはそうとうにいいスピーカーだ、と確信した。

Date: 2月 19th, 2011
Cate: KEF, LS5/1A

妄想組合せの楽しみ(自作スピーカー篇・その1)

あれこれ妄想しているのは、システム全体の組合せだけではなく、
自作スピーカーに関しても、けっこう、電車の中、とか、映画館での待ち時間、とか、
そういうなんとなく、ぽっかり空いた時間に考えている。

ただ自作スピーカーといっても、私のなかでは、その大半を占めているのは、
BBCモニターのLS5/1を、どうつくるか、だ。

LS5/1は、グッドマンの38cm口径ウーファーと、セレッションのドーム型トゥイーターHF1300を2本、
やや特殊なネットワークで構成したスピーカーシステムで、
あらためていうまでもはなく瀬川先生がもっとも愛されたスピーカーシステムである。

私の、あまりコンディションのいいものではなかったけれど、LS5/1は鳴らしていた時期がある。
それに、ステレオサウンドの試聴室で、瀬川先生の愛器そのものだったKEFのLS5/1Aそのものも聴いている。

このスピーカーシステムの特質については、瀬川先生ほどではないにしても、
ある程度は知っている、と自負している。

だから、いまLS5/1を再現してみたら……、という誘惑が、消え去ることがない。

オリジナル通りのスピーカーユニットは手に入らないし、
もしコンディションのいいものが手に入ったとしても、
それではオリジナルのLS5/1を超えることは、ほぼ不可能といえる。

ならば、同じコンセプトで、他のユニットを使って、独自のLS5/1を作ってみたい、と思い続けている。

LS5/1をつくるうえで、まずぶつかるのがトゥイーターの選定の難しさである。

Date: 2月 19th, 2011
Cate: 4343, JBL

4343とB310(もうひとつの4ウェイ構想・その9)

瀬川先生の4ウェイ構想は、
各帯域を受け持つスピーカーユニットをできるだけピストニックモーションの範囲内で使いたいがため、
たいてい、こう受けとめられている。

それは誤解とまではいえないけれど、
瀬川先生の4ウェイ構想は、ピストニックモーションと同じくらい、指向特性を重要視しての結果であることが、
意外に見落されている。

私は、むしろ指向特性の方をより重視されていると受けとっている。

私が読んだ瀬川先生の4ウェイ構想は、
ステレオサウンド別冊のHIGH-TECHNIC SERIES-1に掲載されてたもので、
そこでは指向特性については、それほど触れられていない。
私も、最初読んだときは、ピストニックモーションの追求しての構想だと受けとっていたし、
その後、数年間はそう思い続けてきた。

けれど、瀬川先生の書かれたものを広く読んでいくと、
そのなかでも瀬川先生のリスニングルームの環境について書かれたものを読んでいくうちに、
スピーカーの指向特性をひじょうに重要視されていることがわかってきた。

Date: 2月 18th, 2011
Cate: 境界線

境界線(その9)

境界線がどこにあるのか、いいかえれば、それぞれのオーディオ機器の領域はどこまでなのかについて論じるときに、
音の入口側(始点)から考えていくべきなのか、それとも出口(終点)側から、なのか。

そのどちらからでもなく、あえてオーディオ系の中点から考えてみる手がある。
オーディオの系における中点は、やはりコントロールアンプである。

そのコントロールアンプ(中点)の領域はどこまでなのか、
コントロールアンプに接続される他のオーディオ機器との境界線をどうとらえるか。

結論を先に書いてしまえば、
コントロールアンプに接がるケーブルはすべて、コントロールアンプの領域に含まれる、と私は考える。

CDプレーヤー、コントロールアンプ、パワーアンプ、スピーカーシステム、という構成ならば、
CDプレーヤーの出力端子から、パワーアンプの入力端子まで、となる。
CDプレーヤーとコントロールアンプを結ぶケーブル、
コントロールアンプとパワーアンプを結ぶケーブルもコントロールアンプの領域とする。

これだけは、つよく言っておく。
コントロールアンプの領域をはっきりさせずに、コントロールアンプ像について語ることはできないはず。

Date: 2月 17th, 2011
Cate: 複雑な幼稚性

オーディオにおけるジャーナリズム(その11・余談)

この項の(その11)で、わかりやすさについて書いた。

文章において、わかりやすさは必ずしも善ではない。
これはスピーカーの音についても、言える。

他者からの「承認」がえやすい音のスピーカーがある。
これも、いわば「わかりやすい」音のスピーカーのなかに含まれることもある。

この場合も、わかりやすい音は、必ずしも善ではない。

聴き手を育てていくうえでの、ひとつのきっかけにならないからだ。

優れたスピーカーとは何か、と問われたときに、
聴き手を育てていく、ひとつの要素となるモノ、と私は答える。

Date: 2月 16th, 2011
Cate: 表現する

音を表現するということ(続・聴く、ということ)

聴きとれない音は、自分の音として表現することはできない、と書いた。

最初から多くを、人は聴きとれるわけではない。
そこで、どういう態度をとるか。

たとえばケーブルの音の違いなんて、そんなものはない、と頭から決めつけてしまっている人たちがいる。
あれこれ屁理屈をつけては、声高にヒステリックに、ケーブルが音が変る、なんていうのはオカルトだ、と。

ケーブルの違いによる音の差は、ときには微細なものであったりする。
聴きとれるものがまだ多くないときに出していた音は、そういう違いに対して感度が低かったりもする。
それを、最初は聴きとれなかったとして、なにも恥じることはない。

恥じるべきは、その後の態度である。
音の違いを聴きとれなかった、だからケーブルによって音が変るなんて、ありえない、
そんなことはいう奴らは、みんなオカルトだ、と、勝手に決めつけて、
自分の耳の悪さだけでなく、傲慢さまで棚上げしてしまう。
そして、自分を正当化したいだけの、中途半端なオーディオの知識まがいを、断片的にかき集めて、
御本人は、理論武装した、と悦に入っておられる。

そうなってしまうと、鶏卵前後論争ではないけれど、
聴きとれなかった、だから自分の音として、その違いを表現できない、
表現できないからいつまでも経っても、何度聴いても、音の違いはわからない、聴きとれない。
聴きとれないから表現の領域が広がらない、だから……、と無限ループになってしまっている。

なぜ、そうなってしまうのか。
おそらく、そうするのが、いちばん楽だからだ。そして自分の未熟さを認めなくて済むからだ。

謙虚になってひたすら聴く、という態度を忘れてしまっていては、広がりは生れない。
いつまでたっても、同じところに立っていればいい。

Date: 2月 15th, 2011
Cate: 境界線

境界線(その8)

つまりスピーカーシステムの入力端子まではパワーアンプの領域となり、
パワーアンプとスピーカーシステムの境界線は、ここにあるといえるわけだ。

コントロールアンプに関しても同じで、パワーアンプの入力端子まで、
つまりコントロールアンプ・パワーアンプ間の接続ケーブルを含めてコントロールアンプの領域であり、
コントロールアンプとパワーアンプの境界線についても同じだ。

CDプレーヤーに関しても、アナログプレーヤーに関しても同じだ。

今度はスピーカーとは反対側、つまり音の入口側から見た場合は、
そこに接がるものが負荷となるわけだから、
例えばカートリッジに関しては、その出力端子に接続されているものすべて負荷となる。
つまりシェルリード線、トーンアームのパイプ内の配線、トーンアームの出力ケーブル、
そしてMC型カートリッジならばヘッドアンプか昇圧トランスとなる。

ケーブルも負荷となるからこそ、MC型カートリッジには低抵抗のケーブル、
MM型カートリッジには低容量ケーブルが用意されてきたわけだ。

スピーカー側から見た場合とは反対に、ケーブルは、次に接がる機器(負荷)側の領域となる。
CDプレーヤーにとっての負荷は、コントロールアンプへの接続ケーブルを含めて、ということ。
コントロールアンプにとっては、ケーブルを含めてパワーアンプが負荷となり、
パワーアンプにとっては、スピーカーケーブルを含めてスピーカーシステムが負荷となる。

ようするに境界線はそれぞれのオーディオ機器の出力端子のところにある、ということになる。

音の出口となるスピーカー側から見た考えかたと、音の入口から見た考えかたでは、境界線の位置が変ってくる。
では、どちらが正しいのか、実は私のなかではまだ結論は出ていない。
ただ言えるのは、音の入口から見た場合には、ケーブルはその負荷となる機器の領域に属することになり、
音の出口から見た場合には、信号源となるオーディオ機器の領域に属する、ということである。

つまりケーブルの両端に、境界線が存在するわけではない。

そして、この境界線は、コントロールアンプを考えていくうえで、さらに重要になってくる。

Date: 2月 14th, 2011
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(続・プログラムソースについて)

1948年に、アメリカ・コロムビアがマイクログルーヴ化したディスク、つまりLPを発表したとき、
マスコミに配布した写真を、レコードの歴史に多少なりとも関心の或る方なら、
どこかでご覧になったことがあると思う。

SPが堆くつまれた山(おそらく2mはゆうに越えている高さ)のとなりに、男性がひとり立っている。
彼は20枚くらいだろうか、LPを抱えている。

SPの山が、そっくり手に持てる量にまでコンパクト化された、ということだ。

SPもLPも、形としてはどちらも円盤であることに変りはないが、その姿は変ったいえよう。
そしてCDの登場。CDも円盤という形は同じで、Compact Discの名のとおり、
LPをさらにコンパクト化した。漆黒の円盤は虹色に時として輝く銀色の円盤へと、姿を変えた。

いまの光ディスク技術からすると、16ビット、44.1kHzのCDの規格であるならば、もっとコンパクトにできる。
円盤というモノである以上、やたら小さくしたら取扱い面での不都合が出てくるから、
円盤という形をとる以上、小さくなることは無く、DVDやSACDの登場にみられるように、
大容量化へと進んでいった。

SPからLP、LPからCDへの姿の変化(コンパクト化)からいえば、
円盤という姿そのものをなくす方向に進むのは、当然のことと、私は思っている。

プログラムソースの姿と形、
プログラムソースの変化・進化・純化、と考えていったとき、
純粋なかたちとしてのプログラムソースが、見えてくる、はずだ。

Date: 2月 14th, 2011
Cate: 境界線

境界線(その7)

まずスピーカーから考えてみる。

スピーカーにとっての駆動源(信号源)はパワーアンプであり、
パワーアンプとスピーカーシステムのあいだにはスピーカーケーブルがある。
この場合、スピーカーケーブルは、パワーアンプ(信号源)に属するのか、
それともスピーカー側に属するもの、どちらなのだろうか。

ケーブルをアクセサリーとはみなさずに、アンプやスピーカーと同等のコンポーネントとみなしている人にとっては、
スピーカーケーブルは、どちら側に属するというものではなく、
パワーアンプとスピーカーシステムのあいだに存在するコンポーネント、ということになろう。

だがスピーカーシステムを細かくみていこう。

スピーカーシステムを構成する部品の中で、最終的に電気信号を音に変換するのはスピーカーユニットである。
このスピーカーユニットと信号源(パワーアンプ)との間には、
スピーカーケーブル、スピーカーシステム内のケーブル、ネットワーク、
そしてネットワークからユニットまでのケーブルが存在する。

スピーカーユニットからみれば、信号源はパワーアンプだけでなく、ネットワークも含まれることになる。
つまりパワーアンプ、スピーカーケーブル、スピーカーシステム内のケーブル、ネットワークまで含めてのものが、
スピーカーユニットからみた信号・駆動源である。

この考えかたに立てば、スピーカーシステムにとっての信号・駆動源は、
スピーカーケーブルを含めてのパワーアンプとなる。

Date: 2月 13th, 2011
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(プログラムソースについて)

この項の(その28)に、
この「純化」は、「切り離す」ことで生れてくるもののはず、と書いた。

いまプログラムソースは、パッケージメディアという形から切り離されようとしている。
なんらかの「純化」がきっと起ると確信している。

Date: 2月 12th, 2011
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その13)

ここで、また、こんな反論が来そうだ。

グールドのゴールドベルグ変奏曲がアップライトのピアノを弾いているふうに聴こえたのは、
それは、そのスピーカーが、それまでのスピーカーが出し得なかった情報まで音にすること、
そしてそれまでのスピーカーが附加してきた余分な音を徹底的に取り除いた結果としての、
録音の不備・未熟さが、はっきりとあらわれてきたのだろう、と。

ミサ・クリオージャにしても、他のスピーカーでは鳴らせなかった領域まで踏み込んだことによる結果であろう、と。

ヘブラーのピアノにしても、それほどたいしたレベルではなくて、
いままで録音の古さによって覆い隠されてきたものが、はっきりと音に出た結果であり、
日本のとある歌手の歌の下手さかげんについても、まったく同様だ、と。

スピーカーは、たしかに進歩してきている。
進歩してきているところもあれば、そうではないところも多々あるけれど、
それでも全体としては、進歩してきている、といっていい。

スピーカーの進歩によって、余分な音が減り、情報量が増え、
レコード側の、そんな微妙な・曖昧なところがはっきり描写され、
あばたがあばたとしてはっきり聴こえるようになった結果であり、
それをスピーカー側に責任・問題があるとするのはおかしい、という考え方もできる。

音が良くなっただけでなく、演奏の良否まではっきりとわかるようになった、と受けとめる人もいるかもしれない。
そして、そういったスピーカーの音を、新しい、と感じている人がいるように思えてならない。

ほんとうに、グールドのゴールドベルグ変奏曲をアップライトピアノで聴かせ、
ミサ・クリオージャを冒瀆するような歌い方で、
ヘブラーのピアノのおさらい会のレベルの聴かせるスピーカーは、「新しい」のだろうか。

じつはエキゾティシズムへの憧れではないのか。

Date: 2月 12th, 2011
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その12)

スピーカーは、その原理そのものに革新的な進化はないものの、
物理特性的には、確実に進歩してきている。

測定に正弦波だけでなく、インパルス波が導入され、コンピューターによる解析の導入・進歩によって、
周波数特性も、振幅特性だけでなく位相特性においてもあきらかに改善されてきている。
その他の項目についても同様だ。

ステレオサウンド 54号がでたのは1980年。もう30年以上も前のことだ。
この54号でも、座談会で、スピーカーの物理特性が良くなってきたことが語られている。
確実に、その意味での完成度は高くなっている、といっていいのだろうか……。

それとも大きな欠点は、ほぼなくなりつつある、といったほうがより的確だろうか。

それでも「音楽の響かせ方、歌わせ方」にあきからに問題のある(と私には感じられる)スピーカーは、
やはり存在する。しかもこれは物理特性とは関係なく存在している、とともに、価格とも関係なく存在している。

ひじょうに高価なスピーカーシステムの中に、
どう聴いても「音楽の響かせ方、歌わせ方」がおかしいんじゃないか、と思わせるモノがある。
しかも、そういうスピーカーシステムが、ステレオサウンドで受賞していたりする。

すると、お前の耳、もしくは感性がどこかおかしいのだろう、と言われるだろう。

仮にそうだとしても、この項の(その1)や、「AAとGGに通底するもの」の(その6)に書いた例は、
決して譲ることのできない、音楽がひどく変質した実例だ。