Archive for 7月, 2010

Date: 7月 9th, 2010
Cate: 表現する

音を表現するということ(その6)

アナログディスクにしろ、CD、SACDにしろ、
それからこれから大きく普及するであろう配信によるソースにしろ、
これから先、どれだけ「器」が多くなり、高密度化されようと、
そこにおさめられているのが相似形、近似値であることにかわりはない。

そして、スピーカーシステムにかぎらず、オーディオ機器すべて完璧なモノが存在しない以上、
再生側でもなんらか取零しが発生し、そのままでは同時に不要と思われるものがついてくることになる。

聴き手側は、あくまでプログラムソースに納められている相似形、近似値の、
ようするに「原型」をもとに、本来の姿に近づけるべく修正していく。
ときに余分なものをとりさり、必要と思われるものを肉付けしたり(リモデリング)、
色調や肌理を整えたり、陰影を付けより立体的にみせたり(リレンダリング)する。

聴き手側で、ゼロからのモデリング、レンダリングは要求されることはない。

そして、ここに “High Fidelity(高忠実度)”が関係してくる。

Date: 7月 8th, 2010
Cate: D44000 Paragon, JBL, 表現する

パラゴンの形態(音を表現するということ)

パラゴンの形態は、どうみても現代スピーカーとは呼べない。

けれど、パラゴンは、パラゴンならではの手法で、
プログラムソースの相似形、近似値のデータにリモデリング、リレンダリングを行っている。
その結果が、パラゴン独得の形態へとつながっている。

Date: 7月 7th, 2010
Cate: イコライザー

私的イコライザー考(その12)

なぜかオーディオの世界では、振幅特性のみを周波数特性といってきた。
けれど周波数特性には、振幅項(amplitude)と位相項(phase)があり、
それぞれを自乗して加算した値の平方根が周波数特性となる。

数学に詳しいひとにきくと、このことはオイラーの公式からわりと簡単に導き出せることだそうだ。

大事なのは、周波数特性は振幅特性だけでもなく、位相特性だけでもないということ。
振幅特性が変化すれば位相特性も変化するということ。
このことを頭に入れておけば、この項の(その11)で書いたようにグラフィックイコライザーの試聴をやるとして、
その出力(つまり振幅特性)を測定し、他の機種も同じ振幅特性にしたところで、
それぞれの回路構成が違うことにより、位相特性まで同じになるわけではない。

つまり「周波数特性」は微妙に異っていることになり、
その異っている周波数特性に調整したグラフィックイコライザーを比較試聴したところで、
グラフィックイコライザーの何を聴いているのか、そのことをはっきりと指摘できる人はいないはずだ。

おそらく一台ごとに帯域バランスが変化すると思われる。

これと同じことは、マルチアンプに必要なエレクトロニッククロスオーバーネットワークにもいえることだ。
エレクトロニッククロスオーバーネットワーク(チャンネルデバイダー)の比較試聴をやろうとして、
グラフィックイコライザーと同じように出力をどんなに正確に測定し、同じ値になるように調整したところで、
周波数特性が振幅特性と位相特性から成り立っている以上、
実際の試聴では音を聴きながら帯域バランスを微調整して、ということが要求される。

Date: 7月 7th, 2010
Cate: 604-8G, ALTEC, ワイドレンジ

同軸型ユニットの選択(その22)

タンノイの創始者、ガイ・R・ファウンテンと、
チーフエンジニアのロナルド・H・ラッカムのふたりが音楽再生においてめざしたものは、調和だった気がする。
それも有機的な調和なのではなかろうか。

Date: 7月 7th, 2010
Cate: High Fidelity, 五味康祐

ハイ・フィデリティ再考(その3)

「肉体」という単語は、ほかにも出てくる。
略してしまうと誤解を招くとも思うので、引用はすこし長くなる。
     *
そこで鳴っているのはモニターの鋭敏な聴覚がたえず検討しつづける音であって、音楽ではない。音楽の情緒をむしろ拒否した、楽器の明確な響き、バランス、調和といったものだけを微視的に聴き分ける、そういう内帑に適合する音であった。むろん、各楽器が明確な音色で、バランスよく、ハーモニィを醸すなら当然、そこに音楽的情緒とよぶべきものはうまれるはず、と人は言うだろう。
だが理屈はそうでも、聴いている私の耳には、各楽器のそのニュアンスだけを鳴らして、音楽を響かせようとはしていない。そんなふうにきこえる。たとえて言えば、ステージがないのである。演奏会へ行ったとき、われわれはステージに並ぶ各楽器の響かせる音を聴くので、その音は当然、会場のムードの中できこえてくる。いい演奏者ほど、音そのもののほかに独特のムードを聴かせる。それが演奏である。
ところがモニターは、楽器が鳴れば当然演奏者のキャラクターはその音ににじんでいるという、まことに理論的に正しい立場で音を捉えるばかりだ。──結果、演奏者の肉体、フィーリングともいうべきものは消え、楽器そのものが勝手に音を出すような面妖な印象をぼくらに与えかねない。つまりメロディはきこえてくるのにステージがない。
電気で音をとらえ、ふたたび電気を音にして鳴らすなら、厳密には肉体の介在する余地はない。ステージが消えて当然である。しかしそういう電気エネルギーを、スピーカーの紙の振動で音にして聴き馴れたわれわれは、音に肉体の復活を錯覚できる。少なくともステージ上の演奏者を虚像としてではなく、実像として想像できる。これがレコードで音楽を聴くという行為だろう。かんたんにいうなら、そして会場の雰囲気を音そのものと同時に再現しやすい装置ほど、それは、いい再生装置ということになる。
     *
この文章が読みはじめすぐに出てくる。
「音」と「音楽」の違いを、ここに書かれている。
当時、中学生の私は、「音楽」に不可欠な要素としての「肉体」の重要性を感じていた。

Date: 7月 7th, 2010
Cate: High Fidelity, 五味康祐

ハイ・フィデリティ再考(その2)

ハイ・ファイということばを知ったのは、これも「五味オーディオ教室」であった。

「五味オーディオ教室」には簡単な用語解説もあって、そこでは次のように書いてあった。
     *
《ハイ・ファイ》
HiFi = High Fidelity の略で高忠実度の意。何に忠実なのかということだが、いちおう「原音に忠実に」ということにしておこう。     *
本文では、こう書かれている。
     *
レコード音楽を家庭で聴くとき、音の歪ない再生を追求するあまり、しばしば無機的な音しかきこえないのは、この肉体のフィーリングを忘れるからなので、少なくとも私は、そういうステージを持たぬ音をいいとは思わない。そしておもしろいことに、肉体が消えてゆくほど装置そのものはハイ・ファイ的に、つまりいい装置のように思えてくる。
     *
だから、オーディオに関心をもちはじめたときから、
じつはハイ・ファイということばに関しては懐疑的だったわけだ。

そして中学生の頭で考えついたのが、High Fidelity ではなくHigh Reality だった。
もちろん「五味オーディオ教室」を読んだから、であることはいうまでもない。

Date: 7月 6th, 2010
Cate: 4343, JBL

4343における52μFの存在(その37)

4343、4341においてひとつ、どうしても想像してしまうのは、ウーファーが2231Aではなく、
4350に搭載された白いコーンの2230だったら、
52μFのコンデンサーの挿入位置は変っていた、つまり通常の位置になっていたかもしれないということ。

この項の(その23)(その24)で述べたことのくり返しになるが、
2231は2230よりも汎用性の高さを狙った設計となっている。
だから2ウェイの4331、3ウェイの4333でも使われているわけだが、
ウーファーのカットオフ周波数が、4331、4333よりも1オクターブ以上低い4ウェイの4341、4343においては、
2231の汎用性の高さはそれほど必要としないし、2230の問題が生じはじめる周波数帯域は避けられるだろう。

2230は、JBLのユニットのなかでは、なぜか短命で終っている。
4341開発時点では、いちおうカタログ上では残っていたようだが、
おそらく製造中止が決定されていたのではなかろうか。

質量制御リングありの2231、なしの2230。
汎用性ウーファーとしての完成度の高さは、ありの2231の方が上だと思う。
それでも4ウェイであれば、そういう汎用性の高さは、必ずしもメリットとはなりにくい。

もっと低い周波数帯域で使うウーファーとしての設計ということになると、2230にも魅力を感じる。
4343に表面が白のウーファーが似合うかといえば、まぁ似合わないだろう。

似合わなくとも、2230にすることで低音の鳴り方は大きく変化するはずだ。
そうなれば52μFのコンデンサーに、
上3つの帯域の信号をすべて通して、という音づくりの必要性はなくなった可能性がある。

バイアンプ駆動でなくとも、低音の響きの透明感は増したかもしれない。そう思えるからだ。

Date: 7月 6th, 2010
Cate: 理由

「理由」(その22)

短絡的な誤解をされる方は居られないと思うが、
なにもカラヤンの全否定しろ、とか、カラヤンの演奏にはまったく価値がない、とか、
そんなことを言いたいわけではない。

フルトヴェングラーの演奏が唯一無二のものだ、といいたいわけでもない。

カラヤンの演奏に聴き惚れていてもいい、
フルトヴェングラーの演奏に価値が見いだせない、好きになれないでもいい、
それは人それぞれの問題だから。

だが、五味康祐にとっての「浄化」を語るのであれば……といいたいだけである。

Date: 7月 6th, 2010
Cate: 理由

「理由」(その21)

ここで大事なのはカラヤンの音楽に感情があるかないか、ではなく、
感情が立ち止まったまま動かない、という表現である。

動かない感情こそ、黒(青)く、どろどろしたものではなかろうか。

立ち止まることなく動いていけば、感情は感性へと昇華されるかは、いまのところよくわからないし、
はっきりそうだとはいえないけれど、なにかつながっている予感ははっきりとある。

なぜ五味先生がカラヤンの演奏を毛嫌いされ(初期の演奏をのぞいて)、
フルトヴェングラーの演奏を聴き続けてこられたのか、
その答えのヒントとなるものが、このあたりにあるのではなかろうか。

五味先生は、カラヤンの音楽では浄化されなかった。
このことを徹底的に考えないで、音楽における「浄化」について、なにが語れるというのか。

Date: 7月 5th, 2010
Cate: 理由

「理由」(その20)

私のTwitterをご覧になっている方はお気づきだろうが、
(その17)で「浄化」について、6月15日のTwitterでも書いている。

そのとき川崎先生からの返事は次のことだった。
     *
音楽は「感性的」なものであり、決して「感情的」ではないと思うのです。
なぜなら、感情の「情」とは古代中国においてこころの中に黒=青、
どろどろしたものが流れ込んでくることを原意だったからでしょう。
     *
これに対する私の返事は下記のとおりだ。

音楽は「感性的」なもの。オーディオを通して、その「感性的な」音楽を聴くときに、
スピーカーには「感情」を、私は、いまは求めようとしています。

スピーカーに「感情」を求めることが正しいことなのかどうかは、
いまのところはっきりした答えは出せないでいる。
それでも、とにかくいまは、はっきり感情を表す鳴らし方が、私には必要だと感じているからだ。

そして今日、あることばと出合った。
「音楽において一番大切なのは、感情を表現することです。感情のない音楽は、音楽ではない。カラヤンの音楽では、感情は立ち止まったまま動かない」
(「証言・フルトヴェングラーかカラヤンか」 川口マーン惠美・著 新潮選書より)

ベルリン・フィルの元ティンパニー奏者だったヴェルナー・テーリヒェン氏が、そう語っている。

Date: 7月 4th, 2010
Cate: ステレオサウンド特集

「いい音を身近に」(その12)

まわりにいる人にきかれたくないとき、声をひそめて話す。
きく側は、聞き耳をたてる。
話す二人の距離は、他の人に聞かれてもいいときにくらべて近くなる。

距離が縮まることによって、ある種の親密感みたいなものがそこに生れてきはしないか。

QUADのESLでは、パワーアンプを慎重に選んだとしても、得られる音量には限りがある。
どんなパワーアンプをもってこようと、どれほどパワーアンプに贅沢をしたとしても、
ダイナミック型のスピーカー(とくにホーン型)のような音圧を得ることは無理である。

二段スタック、三段スタックと、ESLの数を増やしていくのであれば話は違ってくるが、
ESLを片チャンネルあたり1本で鳴らすのであれば、音量の制限をなくすことはできない。

それにESLの音の鳴り方も、声をひそめて話すような性質がある。
きき耳をたてる聴き方を、自然とESLは聴き手に求めている。

だから、ときにESLとでの音楽とのつき合いでは、近づくこともおこる。
そんな気がする。だから把手があるのかもしれない。

黒田先生は、コンサイス・コンポとスピーカーシステムを、キャスター付の白い台に置かれていた。
キャスターの存在のおかげで、
片手で簡単にスピーカーシステム(オーディオシステム)との距離を変えられる。

Date: 7月 3rd, 2010
Cate: High Fidelity, 五味康祐

ハイ・フィデリティ再考(その1)

「誠実」を和英で引いたら、good faith; sincerity; reliability; 《文》 fidelity とあった。
fidelityもなの? と思った。

fidelityを引くと、①〔人·主義などへの〕忠実, 忠誠 ②原物そっくり, 真に迫っていること, 迫真性、とある。
オーディオでながいあいだ使われてきたHigh-Fidelityは、
②の意味で、いうまでもなく「高忠実」とされてきた。

何に対して「高忠実」であるかも、同時に議論されてきているが、
いちおう「原音」に対してということでおさまっているといえよう。

もっとも「原音」とはなにを指すのか、が、また議論の対象となるけれども、
ハイ・ファイ(ハイ・フィデリティ)ということばのなかに、
原音再生の意味合いも含まれている、といっても特に大きな問題はなかろう。

原音とは、聴き手の元に届けられるアナログディスクやCDなどのパッケージメディアにおさめられたもの、
マスターテープにおさめられたもの、マイクロフォンがとらえたもの、
録音の場で鳴り響いたもの、などであろうが、いずれにしても「音」について問われている。

だが、fidelityに、誠実や忠誠という意味があるわけだから、はたしてそれだけでいいのだろうか。
High-Fidelityを、高い忠実度→原音再生、と捉えるよりも、
より誠実であるもの、より忠誠的であるもの、とするなら、何に対して誠実で忠誠なのかは、
「音」ではなく、やはり「音楽」に、より誠実である、と解釈すべきではなかろうか。

音楽に対する高い誠実度ということになると、
これまでハイ・フィデリティということからは無視されてきたスピーカーシステムやオーディオ機器に、
光が当ってくる。

Date: 7月 2nd, 2010
Cate: オーディオ評論, 五味康祐, 瀬川冬樹

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その15)

瀬川先生は五味先生のことを、どう想われていたのか。
ステレオサウンド 39号に載った「天の聲」の書評を読んでおきたい。
     *
 五味康祐氏の「天の聲」が新潮杜から発行された。言うまでもなくこれは「西方の音」の続編にあたる。《西方の音》は、おそらく五味氏のライフワークとして、いまも『芸術新潮』に連載中だから、まだ続編が出ることであろうし、そうあることを期待している。実をいえば私は『芸術新潮』の方は、たまに店頭で立読みするだけで、それだからなおのこと、こうして一冊にまとまった形でじっくり読みたいのである。
 五味康祐氏とお会いしたのは数えるほどに少ない。ずっと以前、本誌11号(69年夏号)のチューナーの取材で、本誌の試聴室で同席させて預いたが、殆んど口を利かず、部屋の隅で憮然とひとりだけ坐っておられた姿が印象的で、次は同じく16号(70年秋号)で六畳住まいの拙宅にお越し頂いたとき、わずかに言素をかわした、その程度である。どこか気難しい、というより怖い人、という印象が強くて、こちらから気楽に話しかけられない雰囲気になってしまう。しかしそれでいて私自身は、個人的には非常な親近感を抱いている。それはおそらく「西方の音」の中のレコードや音楽の話の書かれてある時代(LP初期)に、偶然のことにS氏という音楽評論家を通じて、ここに書かれてあるレコードの中の大半を、私も同じように貧しい暮しをしながら一心に聴いていたという共通の音楽体験を持っているからだと思う。ちなみにこのS氏というのは、「西方の音」にしばしば登場するS氏とは別人だがしかし「西方の音」のS氏や五味氏はよくご存知の筈だ。この人から私は、ティボー、コルトオ、ランドフスカを教えられ、あるいはLP初期のガザドウシュやフランチェスカフティを、マルセル・メイエルやモーリス・エヴィットを、ローラ・ボベスコやジャック・ジャンティを教えられた。これ以外にも「西方の音」に出てくるレコードの大半を私は一応は耳にしているし、その何枚かは持っている。そういう共通の体験が、会えば怖い五味氏に親近感を抱かせる。
 しかし内容についてそういう親近感を抱かせながら「西方の音」は私にとってひどく気の重くなる本であった。ひと言でいえばそれはオーディオに関してこういう書き方があったのかという驚きであると同時に、しかし俺にはとてもこうは書けないという絶望に近い気持であった。オーディオについていくらかは自分の世界を築いてきたというつもりが実は錯覚であって、自分の世界など無きに等しい小さな存在であることを思い知らされたような、まるで打ちのめされた気持であった。ごく最近に至るまで、オーディオについて何か書こうとするたびに、「西方の音」が重くのしかかっていたことを白状しなくてはならない。
 とてもこうは書けないという気持は、ひとつは文章のすごさであり、もうひとつは書かれている内容の深さである。文章については、文学畑の人の文章修業のすさまじさを知れば知るほど、半ばあきらめの心境でこちらはしょせん素人だと、むろん劣等感半分で開き直ってしまえばよいが、オーディオの、ひいては音楽の内容の深さについてはもう頭が上がらない。
 ひとつの観念をできるかぎり正確で簡明なしかも格調の高い言葉に置きかえるという仕事を、近代以降の日本では小林秀雄がなしとげている。その名著「モオツァルト」について、文章のうまいというのは得ですね、と下らないやきもちを焼いた音楽評論家の話はもはや語り草だが、「西方の音」や「天の聲」も、オーディオでものを書く人間には、一種の嫉妬心さえ煽り立てる。それくらい、この行間には美しい音が、ちりばめられ、まさに天の聲のような音楽が絶え間なく鳴ってくる。まさしく五味康祐氏の音が鳴ってくる。
 先に上梓された「西方の音」には、しかしオーディオへの積年のうらみが込められていたように私には思える。それは決して巷間言われるコンクリートホーンを作った技術者へのうらみではなく、筆者をそれほどまで狂おしい気持にさせ、そこまでのめり込ませずにおかないレコードとオーディオへのうらみであった。したがってそこには、オーディオ機器を接ぎかえとりかえ調節しては聴きふける筆者の生々しい体臭があった。
「天の聲」になると、この人のオーディオ観はもはや一種の諦観の調子を帯びてくる。おそらく五味氏は、オーディオの行きつく渕を覗き込んでしまったに違いない。前半にほぼそのことは述べ尽されているが、さらに後半に読み進むにつれて、オーディオはすでに消えてただ裸の音楽が鳴りはじめる。しかもこの音楽は何と思いつめた表情で鳴るのだろう。ずっと昔、まだモノーラルのころ、ヴァンガード/バッハギルドのレコードで、レオンハルトのチェンバロによる「フーガの技法」を聴いたとき、音楽が進むにつれて次第に高くそびえる氷山のすき間を進むような恐ろしいほどの緊迫感を感じたことがあった。むろんこのレコードを今聴いたら違った印象を持つかもしれないが、何か聴き進むのが息苦しくなるような感覚があった。「天の聲」の後半にも、行間のところどころに一瞬息のつまるような表現があって、私は何度も立ちどまり、考え込まされた。
     *
ここにでてくるふたりのS氏──、ひとりは新潮社の齋藤十一氏、
もうひとりの、瀬川先生にとってのS氏、音楽評論家のS氏は西条卓夫氏のことだ。

Date: 7月 2nd, 2010
Cate: ステレオサウンド特集

「いい音を身近に」(その11)

QUADのESLの把手は、なぜついているのだろうか。

当時のカタログでも、ESLの設置のしかたとして、後方に十分なスペースをとるように指示されている。
その指示どおりの設置をしたら、その部屋においてはESLが中心となってしまうだろう。

ESLが登場した当時、このスピーカーシステム、そしてQUADのシステム一式で家庭内で音楽を楽しむ人たちが、
スピーカーシステムだけのために、こういう設置をとるとは、なかなか思えない。

たとえば日本にはちゃぶ台がある。使わないときには脚を折り畳み壁にタテかける。
ESLの把手も、こういうことのためにつけられているのではなかろうか。

聴かないときに部屋の片隅に置いておく、レコードを楽しみたいときには手前に持ってきて設置する。
ESLは軽い。片手で持てる。

満足できる音量が得られなければスピーカーシステムに近づいて聴く、と書いたが、
正しくはスピーカーとリスニングポイントの距離を近づける、である。

1人がけの比較的軽い椅子ならば、文字通りスピーカーシステムに近づいて聴くことは簡単だろう。
でも3人だけのソファーだったり、椅子とスピーカーシステムのあいだには、たいていテーブルがある。

そうなると重いソファーを移動して、さらにテーブルも移動してまで、
スピーカーシステムとの距離を近づけることは、まずやらない(やれない)。

実際には、それほど重くなければスピーカーシステムを近づけるほうが、現実的ともいえる。

Date: 7月 1st, 2010
Cate: ステレオサウンド特集

「いい音を身近に」(その10)

黒田先生が、当時のラジオに耳を近づけて聴かれた理由は、音量に限りがあったからで、
同じ理由で近づいて聴くことが時として必要になるスピーカーシステムとしてQUADのESLがあろう。

旧型のESLは能率もそれほど高くはないし、
1970年代までのアンプでは満足にドライブできるモノが少ないこともあって、
十分な音量が得ることは難しいされていた。

私の経験では、SUMOのThe Gold級のパワーアンプをもってくれば、
それほど広くない部屋ではかなり満足感のある音量で再生は可能になるけれど、
それ以前のパワーアンプでは、高域でのインピーダンスが低下するコンデンサー型スピーカーに対して、
安定動作を求めることは厳しいことがあったのも、音量が得にくかったことに関係しているだろう。

当時のオーディオ雑誌を読めば、ESLである程度の音量感を得たいのならば、近づいて聴くといい、という記述がある。
岩崎先生も、このことを書かれている。

近づくことで音量感は増す。
それだけでなくスピーカーとの関係は、より緊密、密接になっていくのではなかろうか。

QUADのESLの裏側上部には、指をかけられるようになっている。片手でひょいと持ち上げられる。
なぜ、このようになっているのか。
頻繁に、というほどではないにせよ、ある程度の移動を考慮してのためであろう。