Archive for category テーマ

Date: 10月 6th, 2014
Cate: iPod

ある写真とおもったこと(その10)

録音された音楽の聴かれ方は、じつにさまざまであり、しかもみな違う音で鳴っている。

ずいぶん以前のこと、ある有名人の部屋の写真が、なにかの雑誌に載っていた。
音楽関係では多くの人が知る、その人は、左右のスピーカーを二段重ねにしていた。

上段のスピーカーが左チャンネルなのか右チャンネルなのか、
写真では知りようがなかったが、この写真を見て、オーディオに関心のない人は、
ステレオのスピーカーは、こんなふう(二段重ね)にしていいんだ、と思っても不思議ではない。

あるオーディオ店では、スピーカーが左右反対に接続されていたことがあった。
高価なオーディオ機器を売ることで有名なところでも、そんな状況である。

ステレオ再生のいちばんの基本である左チャンネルのスピーカーは左側に、
右チャンネルのスピーカーは右側に設置する、ということすら守られていないことがある。
しかもシステムが違ってくるわけである。

どんなディスク(録音)であれ、同じ音に鳴ることを期待するのが無理というものである。
録音された音楽の共通体験ということを考える時、このことをどう扱うべきなのか。
けれどiPodはそうではない。

iPodの登場の前にAppleはiTunesというアプリケーションを用意していた。
このiTunesがiPodを管理することになり、共通体験を可能にしているといえるし、
iTunes Storeの開始もそうである。

Date: 10月 6th, 2014
Cate: SP10, Technics, 名器

名器、その解釈(Technics SP10の場合・その6)

テクニクスは、SU-A2でコントロールアンプの標準原器といえるモノを開発しようとした──。
いまでは、私はそう考えている。

パワーアンプはメインアンプと呼ぶこともある。
いまではそう呼ぶ人は経てきているようだが、メイン(main)アンプ、主要なアンプということであり、
その前に存在するアンプをプリ(pre)アンプとも呼ぶ。
プリとは、前置の意味である。

コントロールアンプなのか、プリアンプなのか。
音質向上を謳い、各種コントロール機能を省略する傾向が広まってきた時期から問われていることである。

音量調整と入力切替えしか機能がなくとも、
それでもコントロール機能がふたつは残っているのだから、コントロールアンプと呼べないわけではないが、
それでもこういうアンプ(マークレビンソンのML6)は、もうコントロールアンプとは呼べず、
プリアンプということになる。

ではコントロールアンプとプリアンプの境界線はどこらあたりにあるのか。
トーンコントロールがついていたら、プリアンプではなくコントロールアンプと呼べるのか。
それとももっと多くの機能をもつアンプがコントロールアンプなのなのだろうか。

この問いに、テクニクスが出した答がSU-A2といえないだろうか。
ここから先がコントロールアンプ、そんな曖昧な境界線ではなく、
コントロールアンプとして最大限の機能を搭載しておけば、誰もがSU-A2をコントロールアンプとして認める。

SU-A2を目の前にして、これはプリアンプ、という人はいない。
絶対にプリアンプとはいわせない。
それがSU-A2なのだ、と思う。

Date: 10月 6th, 2014
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

音の聴き方(マンガの読み方・その2)

マンガの読み方がわからない、というのは、世代によるものではない、と思う。
私の親も(数は少ないけど)マンガは読んでいた。ふつうに読んでいた。

だいたい私が夢中になってマンガを読みはじめたころ、
マンガを描いていたのは、親と同じ世代かそれより上の世代なのだから、
世代によってマンガの読み方がわからない、ということはありえない、と断言できる。

数日前までマンガをどう読んでいるのか、について特に意識したことはなかった。
それでも今回、私はどうマンガを読んでいるのだろうか──、と意識してみた。

いまはiPad、iPhoneなどでもマンガを読める。パソコンでも読める。
けれど私が最初に読んだマンガは紙の本に印刷されたマンガである。
正確にいえば、新聞の四コマ・マンガかもしれない。

新聞の四コマ・マンガといえば、マンガの読み方がわからないという人でも新聞は読んでいたはずである。
四コマ・マンガは読んでいなかったのだろうか。

四コマ・マンガは読んでいても、複数頁にわたるマンガとなると、読み方がわからなくなる、ということなのか。

Date: 10月 5th, 2014
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

音の聴き方(マンガの読み方・その1)

先日、twitterで非常に興味深いツイートがあった。

石ノ森章太郎が「マンガ日本の歴史」を描いていたころの話だった。
この「マンガ日本の歴史」を生れてはじめてマンガを読むという年配の人から、
「マンガって、文字から先に読むんですか、それとも絵から先に見るんですか」
という質問が来た、というものだった。

これは意外だった。
これまで意識したことがなかったことだから、である。

マンガは幼いころから読んできている。
誰かに読み方を教わったわけではない。
苦労して読み方をおぼえたわけでもない。

自然と読んでいた。
マンガとはそういうものだと、だからずっと思ってきていた。
これは何も私だけではない。
小学生、中学生だったころ、同級生もマンガは読んでいた。
誰も「マンガの読み方がわからない」といってはいなかった。

誰かが誰かにマンガの読み方を教わっていた、ということはなかったはずだ。
これまでに、どれだけのマンガを読んできたのか、数えられないくらい読んできている。
けれど、ただの一度も、
文字から先に読んだらいいのか、絵を先に見たらいいのか、といったことは考えたことがない。

Date: 10月 5th, 2014
Cate: 組合せ

石積み(その1)

石積みには、練積みと空積み、ふたつの施工法がある。
練積みとは石と石とのあいだにモルタルやコンクリートを流し込んですきまを埋めていくやり方で、
空積みとはモルタルやコンクリートも使わずに、
大小さまざまな形の石をうまく組み合わせてすきまを埋めて積み上げていくやり方。

いま空積みができる職人が減っている、と建築関係の人から先日聞いたばかりである。
そうだろう、と思って聞いていた。

空積みはやり方を習ったからといって、誰にでもできるわけではないはず。

ここでの石とは、いくつかのことに例えられる。

石は、その人にとってこれまでの体験でもある。
大きな体験もあれば、日常的といえる小さな体験もある。
ひとつとして同じ大きさ、同じ形の石が存在しないように、
体験もひとつとして同じであるわけがない。

石は人でもある。
生きていれば、それだけ多くの人と接する。
家族が、もっとも身近にいる。
学校に通うようになれば、先生と接するようになる。
友人も、それまでよりも多くできるようになるし、多くの同級生だけでなく先輩、後輩もできる。
人も、ひとりとして同じ人はいない。皆違う。

音も石として例えられるだろう。
世の中にひとつとしてまったく同じ音は存在しない。
すべて違う。
同じシステムであっても、鳴らす人が違えば同じ音はしない。
同じシステムで、鳴らす人が同じであっても、昨日の音と今日の音はまったく同じわけではない。
なにひとついじっていない、変えていなくとも、音は変っていくものだから。

体験という石、人という石、それだけではない知識という石、知恵という石、
さまざまな「石」を積み上げていく。
大きな石だけでは、安定して積み上げることはできない。

それは練積みなのか、空積みなのか。

Date: 10月 5th, 2014
Cate: ロングラン(ロングライフ)

ロングランであるために(JBL 4311というスピーカー・その5)

JBLの4311の前身モデルとして4310がある。
ステレオサウンド別冊「JBL 60th Anniversary」によれば、4310は1968年に登場していることがわかる。

この時は、まだJBLのスタジオモニターであることを表す「4300」のモデルナンバーはつけられていなかった。
同時に登場した4320が、その前身であるD50の型番で発表され、4310はJBL Control Monitorと、型番なしに近い。
どちらも正式に4300シリーズとしての型番が与えられたのは、1971年だ。

4310を担当したエンジニアはエド・メイ。
エド・メイに求められていたのは、
当時スタジオモニターとして標準スピーカーシステムとなっていたアルテックの604の音を模倣することだった、
と「JBL 60th Anniversary」に書いてある。
しかも小さなサイズで、である。

ここでいうアルテックの604とは、いわゆる銀箱のことである。
612と呼ばれた、このスピーカーシステムは、「JBL 60th Anniversary」には、
「少しも正確な(accurate)ではなかったことである。
中域には明らかにピークがあり、高域のレスポンスは著しくロールオフしているからである。」とまで書かれている。

つまり、こういうスピーカーの音を模倣するということは、
4310というスタジオモニターは、正確さを目指したスピーカーシステムではなかった、ということになる。

そして、このスピーカーシステムがJBLのスピーカーの中で、いちばんのロングランモデルとなり、
現在も4312Eが作られ続けれられている。

いわば異端児として生まれた4310だからこそ、生き残っている、ということになるのではないか。

Date: 10月 4th, 2014
Cate: ジャーナリズム, 川崎和男

Mac Peopleの休刊(その5)

この日、感じていた「遠さ」は、
「プラトンのオルゴール」展の直後に、講演をきいたということもある。

ステレオサウンドを辞めてから五年以上が経っていた。
この日だけは、ステレオサウンド編集部にまだ勤めていたら、この人に会えるのに……、
と正直にいえば、そうおもった。

デザインを勉強してこなかった私に、壇上にいる人に会える日はくるのだろうか。
そう思うと、ますます遠く感じていた。

ステレオサウンドにいれば、記事を依頼するという形で、すぐにでも会えたであろう。
それでも、「ステレオサウンドの」という看板なしに会いたい気持が強かった。

人は生れた時代、生れた場所によって、会えない人がいる。
これはどうすることもできないことである。
私は、五味康祐、岩崎千明のふたりに会うことは出来なかった。
1977年は中学生だったし、1980年は高校生だった。東京ははるか遠いところであった。

この「遠さ」はどうすることもできなかった。
受け入れるしかない。

けれど、この日感じた「遠さ」は、自分でなんとかしなければならない遠さであることはわかっていた。
だからといって、その日から、何かを始めたわけではなかった。

Date: 10月 3rd, 2014
Cate: イコライザー

私的イコライザー考(音の純度・その2)

グラフィックイコライザーもパラメトリックイコライザーも積極的に調整する器材である。
それをまったく調整せずに、ただそれまでのシステムに挿入する。
それでは、イコライザーも、イコライザーを接続するために必要なケーブルも、余分なものということになる。

余分なものがあれば、電気的な音の純度は低下する。
そんな当り前すぎることを指摘して「イコライザーは……」といわれても、私は納得しない。
けれど、世の中にはそれで納得してしまう人がいる。おしかな話だ。

これは比較試聴とはいえない。
イコライザーに関しては、きっちりと調整した状態で、
イコライザーを挿入した音と、外した音を聴き比べることが、正しい比較試聴ということになる。

イコライザーの適正な調整は容易いことではない。
集中的に調整していくことが必要だし、長い時間をかけてじっくりと調整していくことも求められる。

そうやって調整されたイコライザーは、音の純度を低下させるどころか、向上させることがある。
ある、というよりも、向上させるまで調整すべきもの、ともいえる。

つまりイコライザーは、スピーカーが置かれた環境による影響をうまく抑えることで、音の純度を高めてくれる。
電気的・電子的な音の純度は、わずかとはいえ低下する。
けれど、音はスピーカーから聴き手の耳に到達するまでに距離がある。
その間に、さまざまな影響を受け、音響的な音の純度は低下する。

よほど理想的なリスニングルームでないかぎり、そうである。
ヘッドフォンでのみ聴くのであれば、イコライザーは余分なモノということになろう。
けれど、多くのオーディオマニアはヘッドフォンを使うことはあっても、メインはあくまでもスピーカーである。

ならば、音の純度とは、いったいどういうことなのかを、いまいちど考え直してみる必要がある。

Date: 10月 3rd, 2014
Cate: ロングラン(ロングライフ)

ロングランであるために(JBL 4311というスピーカー・その4)

4311というスピーカーシステムに、どちらかといえば無関心だったには、理由ともいえない理由がある。
どこで見たのかすらはっきりと憶えていないが、
4311のサイドに、”JBL”のステッカー(それも大きなサイズ)が貼られているのを見ている。

それも一度ではなく、何度か目にした記憶がある。

木目仕上げではなく、サテングレーの塗装仕上げだけに、
ステッカーが似合うといえばそういえなくもないスピーカーである。

あれは広告だったのか、それともオーディオ雑誌に載ったユーザーのリスニングルームの写真だったのか。
もうそれすら定かではないが、4311とステッカーの印象だけは、いまもはっきりと残っている。

とにかく、このステッカーが、4311は、そういうスピーカーなんだ、という印象を私に植えつけた。
むしろ、いまの方が、JBLのステッカーがもっとも似合うスピーカーシステムだと受けとめているけれど、
理由もなく粋がりたい10代のころは、それだけで拒絶する理由になりえた。

1982年に4311は4311A、4311Bを経て、4312へと変更された。
ここではじめてユニット配置がウーファーが下、スコーカー、トゥイーターが上になっただけでなく、
左右対称となる。
そして仕上げもサテングレーはなくなり、ウォールナット仕上げのみとなってしまう。
4312のサイドに、JBLのステッカーを貼る人はいなかったであろう。

現在発売されている4312Eはサテングレーではない、ウォールナット仕上げでもない。
ハーマンインターナショナルの4312Eのページによれば、
ブラックアッシュ調仕上げのキャビネットとブラック・ヘアライン調バッフル、ということになる。

そして4312Eの側面には、4311で昔見かけたのと同じように、”JBL”のロゴが大きく入っている。
4312Eを担当した人は、4310、4311がどういうスピーカーであったのかを理解している、と勝手に思っている。

Date: 10月 2nd, 2014
Cate: 素材

羽二重(HUBTAE)とオーディオ(その6)

羽二重=HUBTAEの発表会の会場には、七枚の羽二重=HUBTAEが展示してあった。

くばられた資料には、オノマトペによる「七つ」布感性評価を求める、とある。
続けて、こう書いてある。
     *
・「織物」と「人間」の関係は、「布」と「肌」との関係です。それは互いに呼吸をする界面・インターフェイスそのものです。布は、麻、綿、絹が文明をつくり、それぞれの肌感覚を求めて文化になりました。とりわけ絹には最も高級感があり、人肌を包み込む品格が、織物技術に「智恵」を込める最大のポイントでした

・生糸が「羽二重」になったとき、絹の品格は「七つの要素」で決定されました。「しなやかさ」は絹のつつましくも品性としての高級感になり、それは織物を人工化し人絹になっていく技術進化でした。

・ポリエステルは人間が到達した最高のモノになりましたが、これまでは大きな欠点がありました。それは呼吸をしない布でしたが、現代の呼吸するポリエステルは、布の理想をさらに追求しています。

・私たちが追い求めてきたのは、「七つの要素」を、オノマトペ=擬音語による共通感覚で布特性を「基準化」し、オノマトペの運用による評価によって、さらに未来の布開発目標を明確にしました。

・さらに私たちが求めたのは、子どもたち、それも5最の幼児たちの感覚で新たなオノマトペで布の感性評価を進展させる試みです。

・まず、私たちは「羽二重=HUBTAE」に七つの表現を基準化。この基準で、これからの布見本帳を体系化していきます。そうした未来を織り込む感性評価は、人と布とのインターラクション(人とモノとの総合性)づくりです。
     *
七つの要素、七つの表現とは、
こし:もちもち・しこしこ
はり:バリバリ・パリパリ
ぬめり:ぬるぬる・べとべと
ふくらみ:ふかふか・ふわふわ
しゃり:しゃりしゃり・しょりしょり
きしみ:きしきし・きゅっきゅっ
しなやかさ:しなしな・たらたら
である。

展示してあった七枚の羽二重=HUBTAEは、
こしの羽二重=HUBTAE、はりの羽二重=HUBTAE、ぬめりの羽二重=HUBTAE、ふくらみの羽二重=HUBTAE、
しゃりの羽二重=HUBTAE、きしみの羽二重=HUBTAE、しなやかさの羽二重=HUBTAEであった。

Date: 10月 2nd, 2014
Cate: イコライザー

私的イコライザー考(音の純度・その1)

周波数特性を電気的に変化させるイコライザーの類を毛嫌いする人は、いまも昔もいる。
その理由として、必ず出てくるのが「音の純度が低下する」ということだ。

グラフィックイコライザーにしろパラメトリックイコライザーにしろ、
システムに追加することで、信号はそれまでなかった回路を通過することになる。

音の純度、それに鮮度も低下するから、余分(ほんとうにそうだろうか)なモノは挿入しない、
そういう考え方は、絶対的に正しいように思える。

どんなに電子回路技術が進歩しようと、イコライザーのために必要な回路がシステムに挿入されれば、
まったく音が変化しない、ということはありえない。

ずっと以前のイコライザーよりも、いまのイコライザーは進歩しているといえ、
イコライザーをシステムに追加するにはケーブルも余分に必要になる。
接点も増える。
そういったことも含めて音の純度・鮮度は、(わずかとはいえ)確かに低下する。

とはいえ、これはあくまでも電気的・電子的な音の純度である。
スピーカーから出てくる音としての純度とは、必ずしも同じとはいえない。

でも、イコライザーは追加すれば音は変化する。
出てくる音としての純度も同じことではないか──。

そうではない。
こういう比較試聴の時に、イコライザーのツマミは0のところにある。
つまり周波数特性はフラットのまま。
機能的に未使用の状態で、音の純度が低下する、という。

Date: 10月 2nd, 2014
Cate: ロングラン(ロングライフ)

ロングランであるために(JBL 4311というスピーカー・その3)

4311が売れていたであろう時代のことを思い出してみると、
オーディオ店に行けば、4311はほとんどのところに展示してあったように記憶している。

ブックシェルフ型スピーカーは、各社のいくつものスピーカーが重ねられていることが多かった。
その中に4311はたいていあった。

国産のブックシェルフ型スピーカーの中にあっても、4311は目立っていた。
サテングレーの塗装仕上げで、木目ではないことも大きな理由であった。
ウーファーのコーン紙が白いことも、目立っていた理由のひとつである。

それに3ウェイなのだが、ウーファーがいちばん上にあり、
トゥイーターとスコーカーが下側にある、という4311独自のユニット配置も目立っていた。

これだけ目立つスピーカーシステムなのに、不思議と国産メーカーがマネしなかったのは、
いま考えると不思議でもある。
やはり一般的なユニット配置と反対なところがネックとなっていたのだろうか。

4311の音。
これが思い出せない。
記憶をたどってみても、聴いていないようなのだ。
4312になってからは何度か聴いている。

知人が購入して、オーラのプリメインアンプVA40と組み合わせていたのは、素直にいいな、と思えたし、
4312のころになると、クラシックを苦手とするスピーカーというイメージはほとんとなくなっていた。

Date: 10月 1st, 2014
Cate: ショウ雑感

2014年ショウ雑感(その8)

私が勤めていたころのステレオサウンドは社員の数は20名くらいだったか。
社員の数だけで判断すれば、小さな会社ということになる。

輸入商社もそんなに大きな会社ではなかった。
同じくらいだろうか。

国内メーカーは、ほとんどが大きな会社といえる。
資本金、社員数からして、桁が違う。

そんな大きな会社の中でも、さらに大きな会社というのは存在する。
さらに大きな会社は、大きな会社よりも桁が違う。

私がステレオサウンドにつとめていた七年間で、
「やはり大会社の人たちは違う」と感じたことが、二回あった。

キヤノンの人たちとテクニクス(松下電器産業)の人たちである。

私はこれまで大きな会社で働いた経験はない。
誰もが会社名を知っている一部上場企業で働くということが、
どういうものなのかは勝手に想像することしかできない。

キヤノンや松下電器産業といった規模の会社で働くということが、
20人くらいの規模の会社で働くということと、何が同じで何が決定的に違うのか。
それについて、はっきりしたことは何も書けなくとも、はっきりと違うものを感じていた。

最近、このことを思い出させることに出会すことが増えてきている──、そんな気がしているし、
今年のインターナショナルオーディオショウでも、そんなふうに感じてしまうことがあった。

Date: 9月 30th, 2014
Cate: デザイン

TDK MA-Rというデザイン(その7)

TDKのMA-Rのデザインには、二度驚いている。
一度目は登場した時であり、二度目はCDが登場してしばらくしてからだった。

MA-R以前のカセットテープの色は、黒っぽいものばかりだった。
明るい色のカセットテープはなかった、と記憶している。

MA-R以前は、カセットテープの色について考えることはなかった。
MA-Rが登場し、CDが登場してから、やっと考えるようになった。

MA-Rの透明のケースと、一見するとアルミと思える亜鉛ダイキャストの採用は、
CDを象徴しているともいえる組合せである。
CDのピット面はレザー光を反射するためにアルミが使われている。
その上にポリカーボネイトの保護層がある。
ここは当然ながら、透明である。

そこに気づけば、MA-R以前のカセットテープの色は、LPの色を元にしているのだろう、と思えてくる。

CDが成功したのは、LPとまったく違う見た目だったこともあるはずだ。
誰が見ても、LPとCDははっきりと違うことがわかる。
ところがSACDにしてもDVD Audioにしても、ディスクの見た目はCDとどれだけ違うだろうか。
SACDにはSACDのマークが、DVD AudioにはDVD Audioのマークが入っている。
それで見分けはつく、というのだろうが、
そんなところまで見ている人は、オーディオに関心のある人たちであり、
CDのようにオーディオに関心のない人でもひと目でわかるものではなかった。

マークに頼らなくとも、誰が見てもCDとは違う新しいメディアということを示すことができていたら、
SACDの存在は、ずいぶん違っていたはずだ。

SACDにはデザイナーは関与していなかったのだろう。

Date: 9月 30th, 2014
Cate: ショウ雑感

2014年ショウ雑感(その7)

以前はオーディオ評論家に依頼していたところも、昨年あたりから、
自社スタッフによるデモ(プレゼンテーション)を行うところが増えてきている。

それをもの足りなく感じる人もいれば、むしろ好ましいと感じる人もいる。
どちらか一方になってしまうよりも、いろいろあったほうがいいと思う。

ただひとつ気になるのは、自社スタッフの場合、試聴ディスクをかけかえる。
その時に、いったい、この人は誰に向って話しているんだろうか、といいたくなる人が何人かいた。

限られた時間内でできるだけ試聴ディスクを多くかけたい、という気持からなのかもしれないが、
CDをジャケットにおさめながら(取り出しながら)、次にかけるディスクの紹介をする。
これは何も問題ではない。
その時に、椅子に坐っている来場者と同じ方向を見ながら話している。
なぜ、来場者の方に顔を向けて話さないのだろうか。

なにか不思議な光景でもあった。
顔を来場者に向けて話すだけでいいのに、
そういう意識がまったくないのか、ディスクのかけかえの度に、顔の向きは違っていた。

インターナショナルオーディオショウはもともとは輸入オーディオショウから始まっている。
オーディオフェアとは、だから違う側面がある。

輸入オーディオショウ以前のオーディオフェアにも輸入商社は出展していたが、
やはりオーディオフェアの主役といえるのは国内オーディオメーカーといえた。