Archive for category テーマ

Date: 10月 20th, 2014
Cate: 憶音

憶音という、ひとつの仮説(その4)

小学校のころ飲んでいたコカ・コーラはガラス瓶に入っていた。
それからコカ・コーラをケースで買うと、コップがついてきた。
このコップに注いで飲んでいた。

小学生だと一気に飲めない。
しかも氷を入れていた。
しばらくすると氷は溶け、炭酸も抜けてしまう。
そんなコカ・コーラをストローで吸って飲んでいた。

そうなってしまったコカ・コーラに、あまり薬っぽい味はしなかった。
そして思うのは、いまコカ・コーラを買ってきて、炭酸が抜けた状態で飲んだ味は、
実のところ、昔とそう違っていないのではないか、ということだ。

私が小学生のころは炭酸飲料はそう多くはなかった。
いまはかなりの数があり、ハタチをこえれば炭酸入りのアルコールも飲むようになる。
そうやって炭酸という刺戟になれてきてしまっている。

炭酸への耐性が、小学生のころはほとんどなく、いまはしっかりとある、といえるだろう。
とすれば、コカ・コーラの味、初めて飲んだ時のコカ・コーラの味は、
炭酸という刺戟があってこそのものではないのか。

氷点下の三ツ矢サイダーは、通常の三ツ矢サイダーよりも炭酸がきめ細かく強い。
だから、はじめて飲んだ三ツ矢サイダーの味を思い出せたのかもしれない。

菅野先生が麦茶と思って口にしたコカ・コーラの味が、初体験のコカ・コーラの味をよみがえらせたのは、
炭酸飲料ということを知らずに飲まれたからではないのか。
麦茶と思ってだったから、炭酸は予期せぬ刺戟だったわけだ。

Date: 10月 20th, 2014
Cate: ショウ雑感, ジャーナリズム

2014年ショウ雑感(ショウ関連の記事に望むこと・その2)

以前のオーディオフェアには、プロトタイプが展示されていることがあった。
製品化されるかどうかはわからないけれど、その時点での最新の技術による、独自のモノがあった。

いま、プロトタイプの展示はまずない。
製品化の一歩前の製品が展示されていることはある。
でも、それらは新製品として、いずれオーディオ雑誌の新製品紹介のページに登場してくる。

だから、このブースには、こういうアンプ、スピーカーが展示されていました、と、
写真と簡単な文章が誌面に載っていても、関心をもつ人がそれほどいるとは考えられない。

それにショウ関係の記事は、いまではメインの記事扱いではない。
特にステレオサウンドでは12月発売の号は、毎年恒例のステレオサウンド・グランプリとベストバイであり、
このふたつにページ数の多くは割かれてしまう。
他の記事に割り当てられるページ数は残り僅かである。

ショウに実際に行けば毎年実感するのだが、
くまなく取材していこうとすれば、三日でも足りない。
各ブースでは、スタッフによるデモも行なわれれば、オーディオ評論家によるデモもある。
それらをひとつひとつ取材していくのは、編集部総出で三日間来ても、十分な取材といえるかどうかである。

いまショウ関連の記事を、ベテランの人が書く、ということはまずない。
けれど昔は違っていた。
ステレオサウンド別冊のオーディオフェアのムックの巻頭は、岡先生が書かれていた。
七頁にわたる記事である。

こういう記事を読みたい、と思うが、いまの筆者で書ける人は誰がいるだろうか、と考えると、
私には思い浮ばない。
それに岡先生の記事が、いまの時代、ベストというわけでもない。

いま私がオーディオショウ関連の記事で望むのは、ショウが終った後の取材である。

Date: 10月 20th, 2014
Cate: ショウ雑感, ジャーナリズム

2014年ショウ雑感(ショウ関連の記事に望むこと・その1)

インターナショナルオーディオショウが終った。
オーディオ・ホームシアター展も、ハイエンドオーディオショウも終った。
あとは今週末のヘッドフォン祭で、秋のオーディオ関係の催し物は終る。
(大阪は11月にショウがあるけれども)

11月以降発売になるオーディオ雑誌には、これらのショウのことが記事として載る。
けれど、どのオーディオ雑誌の、ショウ関連の記事にはまったく期待していない。
この記事は、いま必要なのだろうか、と編集者は考えていないのだろうか、とも思う。

これだけインターネットが普及していると、
ショウの初日は各ブースの写真が、いくつかのサイトやブログで公開される。
個人サイトもあれば、出版社のサイトもある。主催者のサイトやfacebookにも写真が載る。

どのブースの音がどうだったとか、その他いろいろなことが、やはりサイトやブログ、掲示板にも書きこまれていく。
私だって、こうやって書いている。
これらが一段落した後に、オーディオの雑誌は出る。

そこに何を書くのか。
ほんとうに難しくなってきた。
写真にしても、インターネットにはページ数の制約がないから、載せようと思えばどれだけでも載せられる。
しかもサイズも大きくできるし、カラーである。

もちろん世の中のオーディオマニアの全員がインターネットをやっているわけではないことはわかっている。
その人のためにも、オーディオ雑誌での記事が必要、ということなのか。

けれど、それにしては記事のボリュウムが少なすぎる。

Date: 10月 20th, 2014
Cate: SP10, Technics, 名器

名器、その解釈(Technics SP10の場合・その10)

テクニクスのEPC100Cは、
1978年11月にMK2(65000円)、1980年11月にMK3(70000円)に改良されている。
MK2もMK3も聴く機会はなかったが、MK4(これが最終モデルである。70000円)は、
ステレオサウンドにいる時に登場したので、試聴室でじっくりと聴く機会があった。

もともと忠実な変換器を目指して開発され、それをかなりのレベルで具現化しているカートリッジをベースに、
細かな改良を加えていった末のMK4であるから、悪かろうはずがない。

試聴条件は、EPC100Cを聴いたときとずいぶん違っている。
その間に、さまざまなカートリッジを聴く機会があった。
EPC100Cが登場したころとは、他のカートリッジの性能も向上している。

そういう中にあっては、以前のようにEPC100Cの「毒にも薬にもならない」音は、
もう魅力的に感じられなかった。

すこしがっかりしていた。
改良を受けることで、もっと魅力的なカートリッジに仕上っているのでは、と勝手に期待していたからでもあり、
私自身も変ってきていたためでもある。

私にとって一時期までは、日本の音ということでイメージするのは、EPC100Cの音だったことがある。
EPC100Cは製造中止にならず、地道に改良されていけば、名器になったかも、という想いもあった。

EPC100 CMK4を聴いたときから、32年が経ってやっと気がついた。
テクニクスは、一般的なイメージとしての名器をつくろうとしていたのではない、と。
標準原器としてのカートリッジとしてEPC100C MK4を評価すべきだったことに気づく。

Date: 10月 19th, 2014
Cate: 情景

情報・情景・情操(8Kを観て・その2)

8Kの映像は、現状のテレビよりも4Kよりも情報量が多い。
4Kの映像を見ていると、確かに情報量が増えて、きれいになったという印象を受ける。

8Kでは情報量が増えた、ということはまず感じさせない。
とにかく、自然だということが、まず最初に感じたことだった。
そして、情報量の多さということが、どういうことなのかを感じさせた。

8Kを観ていて、はっりきと4Kや現状のテレビとは違うものを感じていた。
なぜそれを感じるのか、何がそう感じさせるのか、を考えていた。

NHKのブースでの8Kの映像は、外部コンタクトレンズのようにも思えた。
電子による外部コンタクトレンズである。

しかも電子的であることを意識させない。
8Kを観て、4Kであっても、いかにも電子的な映像であったことを意識させる。
おそらく情報量が不足しているから、そう感じるのかもしれない。

だからどこかが誇張され、どこかが欠落していることを、
無意識のうちに人は感じとっているからこそ、4Kで高精細な映像であっても、
外部コンタクトレンズという感じを得ることはなかった。

8Kはすごい、は、こういう意味においてである。

Date: 10月 19th, 2014
Cate: ラック

ラックのこと(その12)

スピーカーシステムから家具的要素が失われていき、
ラックからも家具としての要素がなくなっていった。

ケーブルが高価になっていくのと同じように、ラックも非常に高価になっていっている。

従来のラックが音に対しての配慮がほとんどなされていなかったのに、
いまのラックは音への配慮がなされているのだから、これらの変化は当然のことだ──、
と受けとめられているようだ。

わからなくはないが、それにしても……、という感じる面はある。

10数年前にきかれたことがある。
なぜ、こんなにケーブルメーカーが増えたのか、と。

ケーブルは、アンプやスピーカー、その他のオーディオ機器と違い、まず故障しない。
断線はまれにあっても、修理は簡単である。
アンプやチューナー、CDプレーヤーなどの電子機器は、
まずどこが故障しているのかを探ることから始めなければならない。

ケーブルの断線はすぐにわかることである。
それに保管しておく場所もそれほど必要としない。

スピーカーシステムは在庫を抱えてしまったら、保管としておく場所を確保するだけでも大変である。
スピーカーシステムは、半ば空気を売っているようなものだ、といわれていた。

保管の場所もとれば輸送の場所もとる。
とにかくスペースを要求するモノだけに、空気を売っているようなものだ、ということになる。
ケーブルはそういうことはない。

場所もとらない、故障もしない。
これだけでも、売る側にとって楽になる。
ラックにも、そういえる。
故障することは、まずない。
組立て式のラックならば、場所もそれほど必要としない。

Date: 10月 19th, 2014
Cate: SP10, Technics, 名器

名器、その解釈(Technics SP10の場合・その9)

菅野先生はEPC100Cについて、
ステレオサウンド 43号で「音質の聴感的コントロールは、意識的に排除されているようだが」と書かれている。

菅野先生はまたステレオサウンド別冊「テクニクス」号で、テクニクスの製品は、
「出た音が良いとか悪いとかいった感覚的な、芸術的な領域には触れようとしていないのが大きな特徴だ」
と書かれている。

つまりEPC100Cはカートリッジという、
レコードの溝による振動を電気信号に変換するモノとしての、徹底的な技術的追求から生れてきた、といえる。
いわば忠実な変換器としてのカートリッジである。

EPC100Cが登場した1976年はCD登場以前であり、
オーディオマニアは一個のカートリッジだけということはなかった。
最低でも二、三個のカートリッジは所有していた。
多い人は十個、それ以上の数のカートリッジを持っていた。

そしてかけるレコードによってカートリッジを交換する。
それは音の追求でもあり、カートリッジは嗜好品としても存在していた。

どのカートリッジメーカーも、嗜好品を作っているという意識はなかったはずだ。
それでもほぼすべてのカートリッジには嗜好品と呼びたくなる面が、このころはあった。

だからこそ、音の特徴が一言で言い表せるモノが多かった。
エラックのSTS455Eを例に挙げているが、
このカートリッジに私が感じていた良さ(特徴)は、
別の人が聴けば良さではなく、悪さにもなり得ることがある。

つまり私が感じていた良さは、私にとっては薬であったわけだが、
別の人にとっては毒になるわけで、どのカートリッジも「毒にも薬にもなる」面があった。

Date: 10月 19th, 2014
Cate: ラック

ラックのこと(その11)

ヤマハのGTR1Bはかなりの台数が売れた、と聞いている。
ヤマハのGTR1Bは製造中止になったが、後継のGTR1000がいまも売られている。

ヤマハのGTラックの成功は、他社からのラックの登場を促した。
それまでの国産メーカーから発売されていたラックは、縦型横型ともに、
レコードの収納スペースが最下段にあり、アンプ、チューナー、カセットデッキが収納でき、
天板のところにアナログプレーヤーを置く、というものだった。
そしてキャスターつきのものが多かった。

GTラック以降、登場してきたラックは、それまでの一般的なラックとは大きく違ってきた。
そしてこのころから海外製のラックも輸入されるようになってきた。
それまでの海外製のラックといえば、バーズリイ(Barzilay)、スターコンビ(Star Combi)、B&Oぐらいだった。
これらは家具としてのラックだった。

これらの海外製のラックと1980年代中頃から輸入されるようになってきたラックには、
はっきりとした違いがあった。
このことはGTラック以降登場してきたラックにも同じことがいえる。

それまではオーディオ機器とレコードの収納家具としてのラックから、
オーディオ機器の置き台としてのラックへと変化していった。
そして高価になっていった。

GTラック登場以前の国産のラックは、五万円前後のモノが大半だった。
ヤマハのマリオ・ベリーニ・デザインのラックでも、安価なモノ(BLC105T)は28000円からあったし、
最も高価なBLC203Rでも86000円だった。

BLC203Rはレコード収納がふたつあり、約100枚のLPが収納でき、
アクセサリーやカセットテープが収納できる引き出しもふたつある。
アンプやチューナーは三台収納できるように棚板があり、プレーヤーが置ける天板もかなり大きめのサイズだった。
外形寸法はW164.4×H120.0×D46.0cmだった。

2014年ショウ雑感(プロフェッショナルとは・その3)

オーディオのプロフェッショナルとはいうことでは、このことを書いておきたい。
オーディオ・ホームシアター展でのことだった。各ブースをまわっているときだった。
エレベーターホールのところで、どこかのブースの人が、別のブースの人に対して愚痴を言っているのが聞こえた。

ひどい音だ、耳が痛くなる。
そんなことをけっこう大きな声で、ほとんど一人で話しているが聞こえてきた。

私はそれほど近いところにいたわけではなかった。
それでもはっきりと聞こえてきていた。
どこのブースの人なんだろう……、こんなところで話すことではないだろう、と思っていた。

あるブースに入った。
オーディオ・ホームシアター展でも、ハイエンドオーディオショウと同じようなやり方のブースがあった。
ひとつの広めのブースを複数の出展社で使う、というものである。

そのブースは、ピストニックモーションではないスピーカーシステムが鳴っていた。
そのスピーカーの、製品としての完成度はお世辞にも高い、とはいえなかった。
それでも、面白い音だと感じていた。

いい悪いは、ほんの短い時間しか聴けなかった。
二分ほどだったろうか。

同じブースの、別の出展社の人が、腕時計を指さして、「あと一分」とにらんでいた。
この「あと一分」と言っていた人が、さきほどエレベーターホールで愚痴を言っていた人だった。

このスピーカーのことを貶していたのか、この音のことを言っていたのか、とわかった。

人の評価基準はさまざまだったりする。
だから、ある種の音を認めない人がいるのも知っている。
けれど、愚痴を言っていた人も、オーディオのプロフェッショナルであるべきだ。
嫌いな音だからといって拒絶するのではなく
そこで鳴っていた音から良さを聴き出そうとする姿勢をもってこそ、プロフェッショナルである。

そこまで求めてはいけない時代が来ているのかもしれない、と感じた。
それにしても、アマチュアのように、一般来場者に聞こえるように愚痴をいうのはやめるべきだ。
プロフェッショナルとしての最低限のマナーのはずだ。

2014年ショウ雑感(プロフェッショナルとは・その2)

誰もが最初はアマチュアである。
いまは著名なメーカーの代表者でも、創業する前はアマチュアといえよう。
けれど、生き残っている、そういった会社の代表者は、もうアマチュアではない。
プロフェッショナルになったからこそ、生き残れたのではないのか。

今日聴いた、非常に高価な国産スピーカーの代表者は、あれこれ言い訳を口にしていたが、
こういうショウで、いい環境などあまり期待できないことは、もう常識ともいえる。
それでも、インターナショナルオーディオショウでも、ハイエンドオーディオショウでも、
プロフェッショナルならば、与えられた環境でなんとかしようとするし、言い訳に終始したりしない。

それにあえて書くが、このメーカーのセッティングを裏にまわり混んでみたわけではなく、
あくまでも座ったところから見える範囲内でも、
これだけ高価なスピーカーシステムにふさわしいとはいえないセッティングであった。
むしろひどいセッティングといえた。

言い訳を口にする前に、彼はやること(やれること)が数多くあった、と私は見ている。
それをほとんどやらずに、言い訳だけでは、残念ながら彼はプロフェッショナルではない。

インターナショナルオーディオショウもハイエンドオーディオショウも、
オーディオのアマチュアの発表の場ではない。

高価なスピーカーシステムのほんとうの実力はよくわからない。
それに、これだけのモノを、よく作ったものだと感心する(それがいいモノかどうかはわからないけれど)。
それだけに、これだけのモノを扱っていくのに、彼はアマチュアすぎないか、と思った次第だ。

彼はオーディオのプロフェッショナルになれるのだろうか。

2014年ショウ雑感(プロフェッショナルとは・その1)

ハイエンドオーディオショウにも行ってきた。
あるブースにはいって、このスピーカーも出ていたのか、と気づいた。

そのスピーカーシステムとは、国産で、けれど非常に高価である。
よく桁が違う、というけれど、文字通り桁の違う価格である。

ハイエンドオーディオショウは、これまでの交通会館から、今回の会場に変更になった。
デモのやり方は基本的に同じで、ひとつのブースを複数の出展社が使うため、
デモの時間割が決っている。

その高価なスピーカーシステムが置かれていたブースは三社が使っていた。
しかも決して広くはない。
条件的にはよくないことは、音を聴かずともわかる。

とはいえ、非常に高価なスピーカーシステムのメーカーの代表者は、言い訳ばかりだった。
正直、音は到底その価格とは思えないレベルであった。
代表者は、これまで聴いた、このスピーカーのいちばんひどい音です、といっていた。

そうなのかもしれない。
だから、このスピーカーシステムの型番もメーカーも書かない。
でも、とそれでもいいたい。

少なくともオーディオ機器をつくって、誰かに売るのであれば、
その人はプロフェッショナルであるべきだ。
にも関わらず彼の言い訳は、彼がいまもアマチュアのままでいることを、
そのブースにいた人たちに白状しているのと同じである。

Date: 10月 18th, 2014
Cate: 情景

情報・情景・情操(8Kを観て・その1)

オーディオ・ホームシアター展に行ってきた。
NHKのブースがあった。
覗くと、かなり大きなサイズのスクリーンに8Kの文字が表示されている。
8Kのデモをやるのか、ぐらいの興味しか持てなかった。

いま量販店に行くと4Kテレビが展示してある。
今回のオーディオ・ホームシアター展でもシャープのブースでは4Kの液晶テレビが展示してあった。

4Kにあまり関心がもてないのは、ネイティヴのソースが揃っていないから、ではなくて、
こういうふうに展示してあるのを見ても、きれいだな、と思うだけだからである。

だから8Kに関しても、4Kの延長線上にあるものだと思い込もうとしていた。
それでもこんなところまでせっかく来たのだから(有楽町よりもずっと遠い)、ブースに入った。

簡単な説明があって、30分ほどのデモがはじまった。
スポーツの8K映像が映し出された。
サッカーのワールドカップ、ソチ・オリンピックとフィギュア・スケート。
音声は22.2チャンネルである。

4Kと8Kの違いは、想像以上に大きかった。
8Kはすごい、といいたくなる。
だが「すごい」と言ってしまうと、すごいという語感からイメージしてしまうものとは、8Kははっきりと違う。
この違いが、4Kと8Kの違いでもある。

Date: 10月 18th, 2014
Cate: SP10, Technics, 名器

名器、その解釈(Technics SP10の場合・その8)

テクニクスのEPC100Cといっしょに聴いた他のカートリッジの音は、
その特徴を一言で表そうと思えばできなくはない。
けれどEPC100Cの音は、そのカートリッジを特徴づけるであろう音のきわだった特徴、
つまりその部分において、他のカートリッジよりも秀でていると感じさせるところがないように感じる。

たとえばエラックのSTS455Eだと艶っぽさを色濃く出してくる。
これだけがSTS455Eの特徴ではないのだが、STS455Eの音を思い出そうとすると、
やはり艶ということがまず浮んでくる。

これはSTS455Eというカートリッジの特徴(音の良さ)でもある反面、悪さの裏返しでもある。
STS455Eはいいカートリッジであったし、私も買って常用していた。
けれど完璧に近いカートリッジというわけではない。

足りないところもだめなところもある。
けれど、ときとして、足りないところ、だめなところがあるから、
STS455Eの音の特徴ははっきりと浮び上ってくる。

このことは何もSTS455Eに限ったことではなかった。
他のカートリッジにもいえる。

けれどEPC100Cには当てはまらないような気がする。

Date: 10月 17th, 2014
Cate: イコライザー, 純度

私的イコライザー考(音の純度とピュアリストアプローチ・その3)

そのころブラームスの交響曲第四番をよく聴いていた。
だからワルターのデジタルリマスターのLPも、ブラームスの四番を買った。

五味先生、瀬川先生の書かれたものを読んできた私にとって、
クラシックのLP=輸入盤ということになる。
国内盤は海外盤が廃盤になっているもの以外は買わないことにしていた。
買わない、ということは、クラシックのLPとして認めていない、ということに近かった。

そのくらい国内盤の音と輸入盤の音は、当時違っていた。
楽器の音色が特に違う。ここで失われた「音色」は、ほとんどとり戻せないことはわかっているから、
輸入盤にこだわっていた。

そういえば、と、トリオの会長であった中野氏の著書「音楽・オーディオ・人びと」に出てくる話を思い出す。
     *
デュ・プレのエジンバラ・コンサートの演奏を収めた日本プレスのレコードは私を失望させた。演奏の良否を論ずる前に、デュ・プレのチェロの音が荒寥たる乾き切った音だったからである。私は第三番の冒頭、十数小節を聴いただけで針を上げ、アルバムを閉じた。
 数日後、役員のひとりがEMIの輸入盤で同じレコードを持参した。彼の目を見た途端、私は「彼はこのレコードにいかれているな」と直感した。そして私自身もこのレコードに陶酔し一気に全曲を聴き通してしまった。同じ演奏のレコードである。年甲斐もなく、私は先に手に入れたアルバムを二階の窓から庭に投げ捨てた。私はジャクリーヌ・デュ・プレ——カザルス、フルニエを継ぐべき才能を持ちながら、不治の病に冒され、永遠に引退せざるをえなくなった少女デュ・プレが可哀そうでならなかった。緑の芝生に散らばったレコードを見ながら、私は胸が張り裂ける思いであった。こんなレコードを作ってはいけない。何故デュ・プレのチェロをこんな音にしてしまったのか。日本の愛好家は、九九%までこの国内盤を通して彼女の音楽を聴くだろう。バレンボイムのピアノも——。
     *
デュ・プレの国内盤は聴いたことがない。
聴こうとも思っていない。
でも、よくわかる。

デュ・プレのエルガーの協奏曲を聴いたことがある人ならば、
EMIの英国盤できいたことがあるならば。

Date: 10月 17th, 2014
Cate: SP10, Technics, 名器

名器、その解釈(Technics SP10の場合・その7)

テクニクスのオーディオ機器で、音を聴いて「欲しい」と思ったのは、
カートリッジのEPC100Cが最初である。
1976年に登場したヘッドシェル一体のMM型カートリッジのEPC100Cは、60000円していた。
高価だった。

この当時のほかのカートリッジの価格。
たとえばEMTのTSD15は55000円、XSD15が65000円、デンオンのDL103は19000円、
エンパイアの4000D/IIIが58000円、シュアーのV15 TypeIIIが34500円だった。

輸入品のカートリッジだと60000円前後はあったけれど、
国産カートリッジで60000円というのは、価格だけでも話題になっていたようだ。

EPC100Cの評価は高かった。
     *
 振動系のミクロ化と高精度化、発電系の再検討とローインピーダンス化、交換針ブロックを単純な差し込みでなくネジ止めすること、そしてカートリッジとヘッドシェルの一体化……。テクニクス100Cが製品化したこれらは、はからずも私自身の数年来の主張でもあった。MMもここまで鳴るのか、と驚きを新たにせずにいられない磨き抜かれた美しい音。いくぶん薄味ながら素直な音質でトレーシングもすばらしく安定している。200C以来の永年の積み重ねの上に見事に花が開いたという実感が湧く。(瀬川冬樹 ステレオサウンド41号「世界の一流品」より)

 モノ時代からMMカートリッジの研究を続けてきたテクニクスが、いわば集大成の形で世に問う高精度のMM型。実に歪感の少ないクリアーな音。トレーシングも全く安定。交換針を完全にボディにネジ止めし、ヘッドシェルと一体化するという理想的な構造の実現で、従来のMMの枠を大きく超えた高品位の音質だ。(瀬川冬樹 ステレオサウンド43号「ベストバイ・コンポーネント」より)

 技術的に攻め抜いた製品でその作りの緻密さも恐ろしく手がこんでいる。HPFのヨーク一つの加工を見ても超精密加工の極みといってよい。音質の聴感的コントロールは、意識的に排除されているようだが、ここまでくると、両者の一致点らしきものが見え、従来のテクニクスのカートリッジより音楽の生命感がある。(菅野沖彦 ステレオサウンド43号「ベストバイ・コンポーネント」より)
     *
EPC100Cの音は、瀬川先生が熊本のオーディオ店の招きで定期的に行なわれていた試聴会で聴くことが出来た。
EMTやオルトフォン、エラック、エンパイア、ピカリングなどのカートリッジと聴いている。