Archive for category テーマ

Date: 5月 17th, 2015
Cate: 組合せ

4343の組合せ(その1)

4343の組合せ。
これだけで私の頭の中にはあれこれ浮んでくる。

最初に浮ぶのはステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’77」での、
ふたつの組合せである。
ひとつは井上先生によるもの、もうひとつは瀬川先生によるもの。

井上先生の組合せは、コントロールアンプがAGIの511、パワーアンプがマランツのModel 510M、
カートリッジはピカリングのXSV/3000、ターンテーブルはビクターのTT101、トーンアームはビクターのUA7045。

この組合せはオペラ好きの架空の読者からの手紙に応えて、というもの。
この記事を読んだときは気づかなかった。
この井上先生の組合せは、おぶざーとして参加された黒田先生に対する、
いわばプレゼンテーションである。

ここでの架空の読者、金井康雄氏はヨーロッパのおぺハウスで毎年オペラをきかれてるという設定。
記事は井上先生と金井さんとの対話を中心にまとめられている。

この記事を読んだ中学二年のとき、
まだ架空の読者だということは知らなかったから、
ステレオサウンドの読者はレベルが高いなんだなぁ、と感心するとともに、
少しばかり驚いてもいた。

スピーカーは4343に固定で、まずパワーアンプを複数機種聴いていく。
そこでの金井さんの音についての印象の的確なこと、
それにはオペラのレコードに対する聴き方の心得方も感心しながら読んでいた。

Date: 5月 16th, 2015
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(オーディオと黒・その1)

岩崎先生の「私のサンスイ観」を読んでいて、サンスイのプリメインアンプAU111から、
アンプのブラックパネルが始まっている可能性に気づいた。
     *
 三題ばなしのテーマではないけれど、どうも「サンスイ」というと「トランス」「黒(ブラック)パネルのアンプ」というイメージが、オーディオ・ファンの脳裏に浮かぶ。それから続いて連鎖反応的に出てくるのが、米国のマッキントッシュの名だ。
 同じように黒いパネルの、重厚きわまりないアンプは一流中の一流ブランドとして知られ、個性的な風格は世界中のオーディオ製品中にあっても、もっとも強烈なるオリジナリティをもって受け止められているはずだ。このマッキントッシュの前にあってはさすがにサンスイの名もかすみそうに誰しもが感じるだろう。
 ところがである。なんと「黒(ブラック)パネル」はサンスイ・ブランドの方が早いのだ! アンプにおける個性的なブラックパネルは、サンスイのAU111において一九六五年に日本市場に製品として出た。
 マッキントッシュは上半分が黒、下半分がゴールドのパネルのC24に変え、一九六八年になって初めて真黒なパネルのC26が米国でデビューするから、先がけること3年である。マッキントッシュはモノーラル時代はゴールドパネルであった。
     *
AU111は1965年8月発売である。
同じ年の3月にJBLと総代理店契約を結び、輸入を開始している。

JBLのプリメインアンプSA600もこの年に登場している。
このSA600のパワーアップヴァージョンのSA660は、1968年の登場。
ここでフロントパネルがブラックに変更される。
マッキントッシュのC26とほぼ同時期である。

記憶をたどってもAU111以前にブラックパネルのアンプがあったとは思い出せない。
日本だけではない、アメリカのアンプでもC26、SA660以前に、
何かあっただろうかと思い出そうとしているが思い浮ばない。

AU111が、ブラックパネルの元祖だと謳っていたことは知っていた。
でも日本においてのことだと、勝手に思い込んでいた。

AU111以前にアメリカ、ヨーロッパでブラックパネルのアンプは存在していたのだろうか。

Date: 5月 15th, 2015
Cate: モノ

モノと「モノ」(主従の契り・その1)

用いずば器は美しくならない。器は用いられて美しく、美しくなるが故に人は更にそれを用いる。
人と器と、そこには主従の契りがある。器は、仕えることによって美を増し、主は使うことによって愛を増すのである。
人はそれらのものなくして毎日を過すことができぬ。器具というものは日々の伴侶である。私達の生活を補佐する忠実な友達である。誰もそれに頼りつつ一日を送る。その姿には誠実な美があるのではないか。謙譲な徳が現れているのではないか。
     *
柳宗悦氏の「美学論集」からの引用だ。

《人と器と、そこには主従の契りがある》とある。
人が主であり、器が従である。
器をオーディオに置き換えたとしても、人が主であることに変りはないし、
そのままオーディオを語っているといえる。

それでも言いたいのは、ごく短い期間でいい、
一年とか半年、人が従で器(オーディオ)が主という時間を持ってほしいということ。
できれば若いうちがいい、と思う。

私にはそんな時があった。

Date: 5月 15th, 2015
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その4)

私がステレオサウンドで働いていたとき、
細谷信二、傅信幸、小林貢、朝沼予史宏の四氏に対しては、さん付けで呼んでいた。
細谷さん、傅さん、小林さん、朝沼さんの場合は本名の沼田さん、と呼んでいた。

なぜなのか、といまごろ考えている。
この方たちとは約12ほど年が違う。
このときこの方たちは30代だった。
若手のオーディオ評論家と呼ばれていた。

若手だからという理由だけで、先生ではなく、さん付けで呼んでいたとは思わない。

私はデザイナーの川崎和男氏を、川崎先生と呼んでいる。
川崎先生は1949年生れだから、14歳違う。
川崎先生と、細谷さん、傅さん、小林さん、朝沼さんは同世代といえる。
傅さんは1951年、細谷さんは1949年生れだったと記憶している。

年齢的なことで先生と呼ばなかったわけではない。
では、なぜなのか。
2008年からブログを書きながら、つねに思っていたことだった。

デザイナーでありオーディオマニアである田中一光氏を先生と呼べなかった理由と、
デザイナーでありオーディオマニアである川崎和男氏を川崎先生と呼ぶ理由となんなのか。

田中一光氏と川崎先生における違い、
川崎先生と同世代のオーディオ評論家と川崎先生における違い、
このふたつの違いは、まったく別の性格の違いなのか、それとも同じ、もしくは近いといえる違いなのか。

いまははっきりと答が出ている。

人は人から学ぶ。
そうやって学んだことを自分のあとに続く世代・人たちにつたえられるか。
結局は、そういうことである。

私は先生と呼んでいる人たちから少なからぬことを、大切なことを学んできた。
いまも学んでいる、といえる。
そうやって学んできたもの・ことのすべてを、ということは無理にしても、
いくつかは私のあとに続いてくれる人たちに伝えていきたいし、伝えていくことはできる。

五味先生の文章から学んできたことを、
そしていまも読み返して学んでいることを、私は誰かにきっと伝えていく、
私から学んでいけるだけのもの・ことは提供していこうと心掛けている。

五味先生だけではない、瀬川先生、岩崎先生、
他にも私が先生と呼んでいる人たちから学んできたもの・ことを、
自分だけのものに留めておかずに、出し惜しみなどせずに伝えていく。

つまり、私が先生と特定の人たちをそう呼ぶのは、
そのことをやっていく(できる)という自負の表明なのだ。

私が田中一光氏、吉田秀和氏、手塚治虫氏を先生と呼ばない(呼べない)理由は、ここにある。
影響を受け、学んできた、といえる。
けれど、オーディオのことのように、そのことをうまく伝えていける自信のなさが、
先生と呼べないことにつながっている。

Date: 5月 15th, 2015
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その3)

小学校低学年のころ、夢中になってテレビ放送をみていたウルトラマン、仮面ライダー。
そういった空想上のヒーロー、それも超人としてのヒーローではなく、
生身の人間としてのヒーローとして夢中になったのは、ブラック・ジャックだった。

手塚治虫による無免許医ブラック・ジャックには憧れていた。
少年チャンピオンに連載がはじまったブラック・ジャックは初回から読んでいた。
1973年だから10歳だった。

ブラック・ジャックがどういう男なのか、
そのころはまだ表面的には捉えていなかったのかもしれないが、
子供心にブラック・ジャックはかっこいい存在だった。

大人になったら、ブラック・ジャックのように生きたい、と思ってもいた。
医者になりたいと思っていたわけではない。
ただブラック・ジャックという生き方を大人になったらできたらいいなぁ、という憧れからだったのか。

ブラック・ジャック以前にも手塚治虫のマンガはよく読んでいた。
いまも昔ほどではないが、読み返している。

つまり、オーディオに興味を持ちはじめる以前の私にとって、
もっとも強い影響を与えていたのは手塚治虫といえた。

その手塚治虫を、手塚治虫氏と書くわけでもないし、先生と呼ぶわけでもない。
手塚治虫と呼び捨てにしている。なぜだろう、と自分でも不思議に思ったことがある。

先生と呼ぶ人、氏をつける人、呼び捨てにする人、
私の中でどういう基準、理由があって、そうしているのか。
このブログを書くようになって゛そのことを考えていた。

Date: 5月 14th, 2015
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その2)

五味先生、岩崎先生、瀬川先生、菅野先生と呼んでいながらも、
音楽評論家となると私が先生と呼ぶのは、黒田恭一氏だけである。

音楽評論家はオーディオ評論家よりも多くの人がいる。
黒田先生と呼ぶのであれば、吉田秀和氏も吉田先生と呼ぶべきなのかも……、と何度も思った。
けれど、文章では吉田秀和氏と書くし、親しい人と話していて吉田秀和氏の話題になったとき、
どう呼んでいるかといえば、吉田秀和と敬称はつけない。

おそらく、というか間違いなく吉田秀和氏は音楽評論で仕事をしている人たちからは、
吉田先生と呼ばれることが多いはずである。

吉田秀和氏の功績の大きさ、書かれたものの多さと質の高さ。
吉田先生と呼ぶことに異を唱える人はごく少数であろう。
それでもなぜか素直に吉田先生と書けない、呼べない。

吉田秀和氏と面識がないのは理由にはならない。
私は五味先生と岩崎先生とも会ったことがない。けれど素直に先生と書いているし呼んでいる。

デザイナーの田中一光氏も同じである。
先生と呼びたい、書きたい気持はもっているけれど、
やはり先生とは書けずに、田中一光氏と書いてしまう。
ここが吉田秀和氏と違うところである。

だから田中一光氏を、田中先生と呼べる人が羨ましく思える。
田中一光氏はステレオサウンドのロゴをデザインされているし、
ステレオサウンドのデザインにも関係されている。
それにオーディオマニアである。

田中先生と呼びたい気持は強いけれど、
デザインについて専門的なことを学んでこなかった私が、先生と呼んでいいのか、と思ってしまうからだ。
だからいまも田中一光氏と書いている。

Date: 5月 14th, 2015
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(原音→げんおん→減音・「夜のラジオ」を読んで)

谷川俊太郎氏の「夜のラジオ」を読んだ。
どきっ、としたところがある。
     *
どうして耳は自分の能力以上に聞こうとするのだろう
でも今は何もかも聞こえ過ぎるような気がするから
ぼくには壊れたラジオの沈黙が懐かしい声のようだ
     *
どきっ、としないオーディオマニアがいるだろうか。

Date: 5月 14th, 2015
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その50)

ステレオサウンド 49号からはじまったState of the Art賞は、
Components of the yearとなり、
いまはStereo Sound Grand Prix(ステレオサウンド・グランプリ)となっている。

この賞の名称の変化と、
昨日から書き始めた「ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか」でとりあげていく、
オーディオ評論家の敬称として「先生」とつけることは、
別のことではなく、根っこは同じことだと私は見ている。

ここにステレオサウンド編集部の狡さが、はっきりとある。
狡さ、と書いた。
実は他の表現もいくつか思いついていた。
それらをすべて書くのは気が引けたから、ひとつだけ「狡さ」を選んだ。

この狡さに、ステレオサウンド編集部は気がついているのだろうか。
意識して、賞の名称を変え、オーディオ評論家を先生とつけて呼んでいるのであれば、
ステレオサウンドはいつかは変っていけるかもしれないと、淡い期待ももてないわけではない。

けれど「狡さ」を無意識のうちにやっているのであれば、
ステレオサウンドは終ってしまった、といわざるをえなくなる。

この「狡さ」については、
「ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか」の中で書いていく。

Date: 5月 14th, 2015
Cate: オーディオの科学

オーディオにとって真の科学とは(その1)

世の中にはいろんな人がいることはわかっていても、
こうやってブログを書いていると、そのことを強く実感することがある。
ほんとうにいろんな人がいる……。

何度も書いていることだが、
オーディオはどこかを変えれば、音は変る。
ほんのわずかな違いのときもあれば、大きな違いとなってあらわれることもある。
小さな違いの時には、人によっては気がつかないこともあるだろう。

その場合、違いに気がつかなかった人にとっては音は変らなかった、ということになる。
気がついた人には音が変った、ということになる。
この時、わずかな違いに気がつかなかった人も、誰かの指摘を受けたり、
経験を積むこと、耳の訓練を積むことで、
その時はわからなかった音の違いをしばらくしたらわかるようになることだってある。

とにかく音はささいなことで変っていく。
こんなことで変ってくれるな、と思うようなことでも変化する。

ケーブルを替えれば音は変る。
接点が汚れていたのをクリーニングしても変るし、
RCAコネクターの嵌合具合を変えてみても音は変化する。

ラック(置き台、置き場所)をかえても変る。
ラックの天板の上でアンプやCDプレーヤー、アナログプレーヤーの位置をずらしても変る。

音が変る要素をひとつひとつ書いていったらキリがないくらいに、
つまり無数にあるといっていい。

けれど、世の中にはケーブルでは音は変らない、
ましてラックなどで音が変ってたまるか、と頑なに主張する人がいる。
それはそれでいい。
その人は、音の変化を聴きとれていないからなのだ。
耳の音の変化に対する閾値の違いであり、
何もこまかな音の違いを聴き分けているから、オーディオでいい音が出せるとは限らないし、
そうでないからといっていい音が出せないわけでもない。

だから私には違いがわからなかった、といわれた上で、
だから私にとっては音は変らなかったと同じこと、といわれるであれば、
それに対しては私は何も言うことはない。

けれど世の中にはいろんな人がいるのだから、
変らないという人の中にもいろんな人がいる。
やっかいなのは「オーディオは科学だ」という、
彼らにとっては水戸黄門の印籠ともいえる、このセリフを口にする。

Date: 5月 13th, 2015
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その1)

[味噌も糞も一緒]
善悪・優劣などの区別をせず、何もかもごたまぜに同一視する。
辞書をひくと、こう書いてある。

タイトルにそのまま「味噌も糞も一緒」とはしたくなかった。
それでカタカナ表記にした。

こんなタイトルをつけて何がいいたいのか。
それはオーディオ評論家と呼ばれている人たちにつけられる敬称についてである。

私は、五味先生をはじめ、何人かの方たちに先生という敬称をつけて書いている。
先生とは辞書には次のように書かれている。

①学問・技芸などを教える人。また,自分が教えを受けている人。師。師匠。また,特に,学校の教員。「お花の—」「書道の—」
②学芸に長じた人。「駿台—(=室鳩巣)」
③師匠・教師・医師・弁護士・国会議員などを敬って呼ぶ語。代名詞的にも用いる。また,人名のあとに付けて敬称としても用いる。「—,いろいろお世話になりました」「中村—」
④親しみやからかいの気持ちを込めて,他人をさす語。「大将」「やっこさん」に似た意で用いる。「—ご執心のようだな」
⑤自分より先に生まれた人。年長者。

先生という文字からわかるように、原義は⑤の先に生れた人である。

瀬川先生は1935年生れで、私より先に生れた人である。
けれど瀬川先生は46歳で亡くなられた。
私は瀬川先生の年齢をもうこえてしまっている。
岩崎先生の年齢もこえているし、あと五年で五味先生の年齢に並ぶ。

それでも私は瀬川先生と呼ぶ。これからもそう呼ぶ。
死ぬまでそう呼んでいるであろう。惚けてしまってもそう呼んでいるかもしれない。

このブログを読まれている方の中に、
なぜオーディオ評論家に先生という敬称をつけるのか、と違和感をもつ人もいるのは知っている。
そうだろう、と思う。

瀬川先生、五味先生と呼び書いている私でも、なぜこの人まで先生と呼ぶのか違和感をおぼえることがある。
オーディオショウに行けば、多くのオーディオ評論家が、
メーカー、輸入元の人たちから「先生」と呼ばれているのをみることができる。

この人たちがつける先生という敬称は、辞書のどれにあたるのか。
⑤ではない、③でももちろんない。
①なのか、②なのか、それとも④なのか。

Date: 5月 13th, 2015
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(NIRO Nakamichiの復活・その2)

Nakamichi(ナカミチ)といえば、テープデッキである。
それもカセットデッキである(オープンリールデッキもフィデラ・ブランドで出していた)。

カセットテープにそれほど関心があったわけではない私にとって、
ナカミチという存在は、積極的にカセットデッキを開発しているメーカーという印象に留まり、
個人的にナカミチというブランドに思い入れがあったわけではない。

ナカミチもカセットデッキだけでなく、ターンテーブルの開発も行った。
TX1000というターンテーブルである。
いまでも中古市場では人気があるらしい。

技術的には意欲的なところをもつターンテーブルではあった。
TX1000はステレオサウンドの試聴室で聴いている。
レコードの偏芯による音の変化も確認している。
たしかに、その音の効果は耳で確認できる。

とはいえTX1000が素晴らしいターンテーブルだと思っていないので、
中古市場での高値を見ていると、不思議な感じがしてくる。

そしてナカミチはB&Wの輸入元でもあった(その前はラックスと今井商事だった)。
同時期にスレッショルドと技術提携してステイシス回路搭載のパワーアンプ、
ペアとなるコントロールアンプも出してきた。

これ以前にも、傾斜したフロントパネルをもつセパレートアンプを出していたけれど、
やはりナカミチといえばカセットデッキのメーカーという印象が強すぎていた。

1980年代にはいり、ナカミチは総合オーディオメーカーを目指しはじめていたのかもしれない。
結果的にうまくいかなかった、といえよう。
カセットデッキ専門メーカーというイメージが強すぎたためなのか。
とにかくナカミチは香港のファンドに買収されてしまった。

そしてNIROが、中道仁郎氏によって1998年に設立された。

Date: 5月 13th, 2015
Cate: 真空管アンプ

五極管シングルアンプ製作は初心者向きなのか(その3)

真空管アンプにおけるトランスの配置はパズルのようなものである。
トランス(チョークコイルをふくめて)は、相互干渉の大きな部品である。
どんな部品でも周囲の影響を受けない、周囲に影響を与えないものはないけれど、
トランスはその中でもっとも大きな部品だけに頭を悩ます存在である。

いちばん確実で簡単な解決方法は十分な距離をとることである。
だがそれでいいアンプが作れるか、という問題が生れてくる。
音さえ良ければ無様なアンプでもかまわないという人であればそれでいいだろうが、
そんなモノを自分で使いたいとも思わないし、作りたいとも思わない。

そしてそんなバラック的なアンプを、初心者にすすめることだけはやってはいけない。

とにかくトランスの配置を考えていくのは、
重量バランス、振動のことも含めてのことだけに、けっこう楽しい作業といえる。

トランスの配置ということでは、初心者にむいているのはステレオアンプではなく、
モノーラルアンプである。
モノーラルにすることでシャーシがふたついるし、電源トランスもそうなる。
いくつかの部品がステレオアンプよりも余計に要り、その分コストもかかるから、
初心者向きとはいいにくくなってくるけれど、アースの処理も含めて、モノーラルのほうが作りやすい。

けれどインターネットでときおりみかける「五極管シングルアンプは初心者向き」は、
おそらくステレオアンプのことであり、モノーラルで作ることではないように受け取っている。

この点に関しても、「五極管シングルアンプは初心者向き」には何も触れていないのが多い、
というかほとんどである。
それに初心者向き五極管シングルアンプとは、
特定の製作記事のことを指しているのかも、はっきりとしていない。

ただ五極管シングルアンプは初心者に向いている真空管アンプだ、と書かれているのが多過ぎる。

五極管シングルアンプの回路構成はどうするのか。
電圧増幅段は一段なのか二段なのか、
NFBはどうするのか、かけるとしたらどの程度かけるのか、
出力管をどう扱うのか(五極管接続なのか、UL接続なのか、三極管接続なのか)、
これらの基本的なことにふれずに、
「五極管シングルアンプは初心者向き」が増殖していっているような感じを受けている。

Date: 5月 13th, 2015
Cate: オプティマムレンジ

オプティマムレンジ考(その9)

アンプにもテープデッキにもカートリッジにもセパレーション特性という項目がある。
アンプは完全なモノーラル仕様であればセパレーション特性は関係なくなるが、
ステレオ仕様であるかぎり、どんなオーディオ機器であれセパレーション特性が関係してくる。

どんなに優秀なセパレーション特性のアンプやデッキなどであっても、
高域になればセパレーション特性は悪くなっていく。
20kHzまではセパレーション特性がフラットにできたとしても、
それ以上の高域、40kHz、80kHz……周波数が高くなればセパレーション特性はどんどん悪くなっていく。

20kHzまでであれは十分なセパレーション特性であっても、
高域レンジが拡大していくことで、それでは十分とはいえなくなる。
再生周波数レンジを高域方向にのばしていこうとすれば、
十分なセパレーション特性をどう確保していくのかが問題となってくる。

しかもデジタル機器では高域のレンジをのばしていくためには動作周波数を高くしていくことになる。
そのためSACDプレーヤーが登場したばかりのころ、
あるSACDプレーヤーはアンプとケーブルで接続しなくとも、
PLAYボタンをおしてSACDを再生すると、スピーカーから音が鳴ってきた。

CDプレーヤーでは起り得なかった現象が、
より高い周波数で動作しているSACDプレーヤーでは、輻射ノイズに音楽信号がのり、
そのノイズをアンプが検波してしまい結果としてケーブルによる接続がなくとも音が鳴ったわけである。

Date: 5月 13th, 2015
Cate: コントロールアンプ像, デザイン

コントロールアンプと短歌(その2)

瀬川先生の文章を読んでヤマハのCIとテクニクスのSU-A2を、まっさきに思い浮べたのは、
そこに書かれていたことから遠い存在として、であった。

その後に、瀬川先生の文章のような存在といえるコントロールアンプいくつか思い浮べていた。
そしてこれらのコントロールアンプのデザインに 短歌的なものを見いだせるとしたら、
CIとSU-A2は、技術者がやりたいことをやったという性格のアンプだから、
文字数の制約のない小説ということになるのか。
そんなことを考えた。

そんなことを考えながら思い出していたのは、
瀬川先生がステレオサウンド 52号の特集の巻頭に書かれた「最新セパレートアンプの魅力をたずねて」だった。
マッキントッシュのC29とMC2205のことを書かれている。
     *
 ずっと以前の本誌、たしか9号あたりであったか、読者の質問にこたえて、マッキントッシュとQUADについて、一方を百万語を費やして語り尽くそうという大河小説の手法に、他方をあるギリギリの枠の中で表現する短詩に例えて説明したことがあった。
 けれどこんにちのマッキントッシュは、決して大河小説のアンプではなくなっている。その点ではいまならむしろ、マーク・レビンソンであり、GASのゴジラであろう。そうした物量投入型のアンプにくらべると、マッキントッシュC29+MC2205は、これほどの機能と出力を持ったアンプとしては、なんとコンパクトに、凝縮したまとまりをみせていることだろう。決してマッキントッシュ自体が変ったのではなく、周囲の状況のほうがむしろ変化したのには違いないにしても、C29+MC2205は、その音もデザインも寸法その他も含めて、むしろQUADの作る簡潔、かつ完結した世界に近くなっているのではないか。というよりも、QUADをもしもアメリカ人が企画すれば、ちょうどイギリスという国の広さをそのまま、アメリカの広さにスケールを拡大したような形で、マッキントッシュのサイズと機能になってしまうのではないだろうか。そう思わせるほど近ごろ大がかりな大きなアンプに馴らされはじめた目に、新しいマッキントッシュは、近ごろのアメリカのしゃれたコンパクトカーのように小じんまりと映ってみえる。
     *
大河小説というキーワードで思い出したにすぎないのだが、
これがCIとSU-A2はほんとうに文字数の制約のない小説なのだろうか、と考え直すきっかけとなった。

ヤマハのCIは実際に触ったことはある。
とはいえ自分のモノとしてしばらく使ったわけではないし、触ったという程度に留まる。
SU-A2は実物を見た記憶がはっきりとない。
もしかすると学生時代に、どこかでちらっと見たような気もしないではないが、もうおぼろげだ。

これだけ多機能のコントロールアンプは短い期間でも自分の使ってみるしかない。
そのうえでないと、きちんと評価することはできない、といっていいだろう。

なのでCIとSU-A2に関しては、あくまでも写真を見ただけの判断になってしまうのだが、
このふたつのコントロールアンプに未消化と感じるところは、私にはない。

Date: 5月 12th, 2015
Cate: 真空管アンプ

五極管シングルアンプ製作は初心者向きなのか(その2)

伊藤先生が晩年、無線と実験に6V6のシングルアンプを発表された。
手持ちのアンプがなくなったため、手持ちの部品で作られたアンプを記事にされていた。

このアンプ、最初はハムが出た、とある。
伊藤先生ほどの真空管アンプのベテランでも、ハムが出てしまう。
しかもあれこれハムを止めるためにやってみたけれどおさまらない。
結局チョークコイルを後付けして止った、とあった。

このくらいのアンプならばチョークなしでも大丈夫だろうと横着した結果がこれである、
そんなことを書かれていたと記憶している。

シングルアンプはハムが出やすい、というよりも、チョークコイルなしではほぼ出ると考えた方がいい。
プッシュプルアンプであればチョークコイルなしでもハムが出ることは、
よっぽどまずい設計か、よっぽどまずい配線の引き回しでもないかぎりハムに悩まされることはほとんどない。

シングルアンプもチョークコイルを使えばハムに悩まされることはないわけだが、
チョークコイルを使うのは初心者向きなのかどうかと考える。

チョークコイルを使うと、ステレオアンプだと鉄芯をもつ部品が、
出力トランス(二個)、電源トランス、チョークコイルと四つ使うことになる。
この四つを、どう配置するのか。

左チャンネルと右チャンネルのそれぞれのトランスを、どう配置するのがいいのか。
シャーシの左右両端に離すのか、それとも見映えも考慮して二個並べて配置するのか。
その場合に、トランスの向きはどうするのか。

初心者向きのアンプでは、コアが露出しているタイプのトランスが使われることが多い。
だからこそトランスの配置、向きは最初に押えておかねばならぬポイントであるにもかかわらず、
まったく触れていない記事の多いこと。