Archive for category テーマ

Date: 10月 8th, 2015
Cate: audio wednesday

audio sharing例会(予定)のお知らせ

毎月第一水曜日に行っているaudio sharing例会は、
四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースを借りている。

喫茶茶会記のスピーカーはふたつある。
ひとつは渋谷のあるジャズ喫茶で鳴らされていたモノが、
そのジャズ喫茶の閉店によって喫茶茶会記で鳴らされる。

アルテックのユニットを使ったモノである。
かなり使い込まれていて、今回エンクロージュアを新調することになった。
今月中には新しいエンクロージュアが届く予定だそうだ。

どんな音になるのか、
実際にエンクロージュアが届き、ユニットを装着してみなければわからないが、
せっかくの機会だから、いくつかアンプを持ち込んでみようという話になった。

11月か12月のどちらかの例会で行う予定である。
アンプは常連のKさんのコレクションをいくつかをお借りして、ということになる。
最新アンプの比較試聴とはまったく違う、
眉間にしわ寄せて聴くというものとも違う、
アンプによって、新調されたスピーカーがどう鳴ってくれるのかを楽しもうというものである。

Date: 10月 8th, 2015
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンド創刊号

今朝、本が届いた。
オーディオ関係の雑誌が段ボール箱で届いた。
どんな本が入っているのかは知らなかった。

箱を開けて積み重ねてある本を一冊一冊取り出して、パラパラめくっていた。
一冊目、二冊目、三冊目……、中ほどに来たときに、えっ、と思った。

ステレオサウンドの創刊号が、そこにあった。
しかもおどろくほどきれいな状態の創刊号である。
49年前のステレオサウンドであり、私にとって20数年ぶりに手にする創刊号である。

久しぶりに創刊号を読んでいた。
巻頭には五味先生の「オーディオと人生」が載っている。
「オーディオと人生」はオーディオ巡礼でも読める。何度も読んでいる。
それでもまた読み返していた。
     *
体験のある人なら分ってもらえると思うが、当時はベートーヴェンに私はきき耽った。おもに交響曲と、ピアノやヴァイオリン協奏曲、それにパデレフスキーやシュナーベルの弾くピアノ・ソナタ、カペエのクヮルテットなどだが、弦楽四重奏曲ばかりはトーキー用スピーカーでは醍醐味が味わえない。ピアノ・ソナタも同様である。クレデンザで、竹針を切って鳴らすほうがしんみり、曲趣を味わえる。そこで今度はサウンドボックス用のラッパをこしらえようと、ラッパの開口部までの拡がり(断面積)を数式で割出そうと受験勉強ほったらかしで頭を痛めた。——そういう当時の《青春時代》といったものが、ベートーヴェンのレコードを聴くと四十過ぎの現在でも、彷彿と眼前に泛んでくる。《音楽は過去を甦えらせる》というのは本当だ。過去ばかりか、感動を甦えらせるものだ。
     *
《音楽は過去を甦らせる》とある。
同じことを「芥川賞の時計」でも書かれている。
     *
音楽は、誰にもおぼえがあるとおもうが、むかしそれを聴いた頃の心境や友人や出来事を甦えらせる。何年ぶりかに聴く曲は、しらべとともに《過去》をはこんでくる。
     *
つねに音楽が《過去》をはこんでくるわけではないし、甦らせるわけではないが、
たしかに《過去》をはこんでくることがあるし、甦らせることもある。

音楽は《過去》に光をあてている、ともいえるかもしれない。
その光は一条の光であり、一瞬の光でもある。

音楽によって、どちらの光は違ってくるのかもしれない。
どちらの光かによってはこばれてくる《過去》、甦ってくる《過去》は違ってこよう。

読み返しながら、こんなことを考えていた。

Date: 10月 8th, 2015
Cate: 表現する

音を書くということ

オーディオ評論の難しさのひとつに、
音を言葉で表現することがある。

音を言葉で完全に表現することが仮にできたとしても、
それでオーディオ評論として成立するわけではないのだが、
それでも音を、文字でどう表現するのかのは、大きな課題である。

音を言葉で表現できるのか、できるとしてもどこまで可能なのか。
結論を書けば、音そのものを言葉にすることは不可能だと、私は思っている。

それでは、音を言葉にするということは、いったいどういうことなのか。
昨夜、ふと思いついたことがある。
思いついただけで、だから書いている。

音を書くということは、
音のしずくを言葉のしずくで表現する、ということだと思った。

音のしずく、言葉のしずくは沈く(水に映って見える)へとつながっているのではないだろうか。

Date: 10月 7th, 2015
Cate: ショウ雑感, 日本のオーディオ

2015年ショウ雑感(日本のオーディオ、これから・余談として)

私がオーディオに興味を持った1970年代後半、
ヤマハのスピーカーユニットはトゥイーターのJA0506とウーファーのJA5004ぐらいしかなかった。

そのヤマハが1979年にスピーカーユニットのラインナップを一挙に充実させた。
20cm口径のフルレンジユニットJA2071とJA2070、
トゥイーターはJA0506の改良型のJA0506IIの他に、
同じホーン型としてJA4281、JA4272、またドーム型のJA0570、JA0571、JA0572。
スコーカーはホーン型のJA4280、ドーム型のJA0770、JA0870。

コンプレッションドライバーはJA4271、JA6681、JZ4270、JA6670があり、
組み合わせるホーンはストレートホーンのJA2330、JA2331、JA2230、
セクトラルホーンのJA1400、JA1230が用意されていた。

ウーファーは30cm口径のJA3070、
38cm口径のJA3881、JA3882、JA3871、JA3870と揃っていたし、
これらの他にも音響レンズのHL1、スロートアダプター、ネットワークもあった。

このラインナップに匹敵するモノを、いまのヤマハに出してほしいとは思っていない。
ただひとつだけNS5000と同じ振動板の、20cm口径のフルレンジユニットを出してほしいと思っている。

JA2071とJA2070のコーン紙は白だった。
NS5000の振動板も白(微妙な違いはあるけども)である。
素性のとてもいいフルレンジユニットとなりそうな気がする。

それはこれからにとって必要なモノだと考えるし、
出来次第では重要なモノ、さらには肝要なモノへとなっていくことを夢想している。

Date: 10月 6th, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(小さい世界だからこそ・その1)

ステレオサウンドで働くようになってすぐに編集部の先輩からいわれたことがある。

「ステレオサウンドという本はオーディオ界で誰もが知っていてメジャーな存在だけど、
 オーディオそのものがマイナーな存在だからね」

確かにそうだと思って聞いていた。
私が働くようになったのは1982年からだから、すでにオーディオブームというものは終熄していた。

10年以上前のことになるが、菅野先生からいわれたことがある。

「世の中で起っているさまざまなこと、世界の広さからすれば、
 オーディオは、このコップ一杯の水くらいのことなんだよ」

その通りだとは思って、このときも聞いていた。

編集部の先輩も菅野先生も、そういわれたあとに特に何もいわれなかった。
だからその先にあることを、いわんとされることを、聞いた者としては考えていく。

Date: 10月 6th, 2015
Cate: ケーブル

ケーブルはいつごろから、なぜ太くなっていったのか(その16)

金子ケーブルが最終的にどういうモノになっていったのかは知らない。
ただかなり太くなっていったのではないかと思う。
その音は、推測するにスタティックな印象のケーブルであったのではないだろうか。

金子ケーブルは振動を徹底的に抑えるために太くなっていった、と私はとらえている。
もっとも、これだって、図書館に行きステレオのバックナンバーを丹念に読んでいけば、
もしかすると違っているのかもしれないが、極端に違っていることはないはずだ。

この金子ケーブルのアプローチは、
いわばケーブルは必要悪という考え方からのものといえる。
金子ケーブルだけでなく、多くの日本製のケーブルはそういうところがある。

つまり理想のケーブルはとはケーブルが存在しないことである。
けれどそれは現実としては無理なことであり、
ならば10mケーブルよりも1mのケーブル、1mケーブルよりも10cmのケーブルの方が、
音がいい、言い換えれば理想のケーブルのあり方にすこしでも近づける、ということになる。

日本のケーブルは、材質の純度を極端に高める方向に向って行った。
これなどは、まさしくケーブルの存在をゼロにちかづけたいがためであり、
ゼロにできなければケーブルの存在を稀薄にしていきたい、
ケーブルとは、音の上で透明な存在であるべき、ということになる。

これに対して海外製のケーブルの多くは、
ケーブルのキャラクターを積極的に認めているのではないか、と思えるところがある。
ケーブルも、オーディオコンポーネントのひとつであり、重要なアクセサリーでもある。

ケーブルとしての理想を追求はするけれども、
ケーブルの理想のあり方としてイメージしているところが、
日本のケーブルメーカーと海外のケーブルメーカーとでは違っているのではないか。

こう考えた場合、同じようにケーブルが太くなっていくとしても、
日本のメーカー的考えによるものと海外のメーカー的考えによるものとでは、
ひとまとめに考えるわけにはいかなくなる。

Date: 10月 5th, 2015
Cate: 使いこなし

スピーカー・セッティングの定石(その4)

同時にもうひとつ思い出していたことがあった。
KEF Model 105の後継機であるModel 107のことだ。

105と107はウーファーが異る。
中高域は105のスタイルを受け継いでいるが、
107の低域部はウーファーユニットが見えない構造をとっている。

エンクロージュアの形状は前面を傾斜させた105のスタイルから、
縦長のスタイルに変更されている。
そのためもあって、105のスタイルを見馴れている目には、
107は背高のっぽにうつるし、首(中高域部)だけが箱の上にのっかっているだけのようにも見える。

105では30cm口径のコーン型ウーファーによるダイレクトラジエーションだった。
107では25cm口径のウーファーを二発、エンクロージュア内におさめている。
低音は床に向って放射される。

KEFではCC(The Coupuled Cavity)方式と呼んでいた。
107には、それまでのKEFのスピーカーにはなかったアクティヴイコライザーが付属していた。

このModel 107なのだが、なぜか聴いた記憶がない。
発売されていたのは知っていた。
107が発売になったころはまだステレオサウンドにいたから、
聴いていて当然なのに、その記憶がない。

当時は、KEFも、こんなスピーカーを出すようになったのか……、と少し落胆した。
このことだけは憶えている。
でも、いまは少し違う見方をしている。

Date: 10月 5th, 2015
Cate: オーディオマニア

ドン・ジョヴァンニとマントヴァ侯爵(その1)

ドン・ジョヴァンニとマントヴァ侯爵。

ドン・ジョヴァンニはモーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」に、
マントヴァ侯爵はヴェルディのオペラ「リゴレット」の登場人物である。

ふたりは似ているようでいて、決定的にちがう。

このふたりについて黒田先生が書かれていた。
ステレオサウンド 47号掲載の「さらに聴きとるものとの対話を」で、
「腹ぺこ」のタイトルを文章で、ドン・ジョヴァンニについて書かれていた。
マントヴァ侯爵については、最後のほうで、ドン・ジョヴァンニとの比較対象として触れられている。
     *
 ドン・ジョヴァンニに似たタイプの、しかしドン・ジョヴァンニとは決定的にちがうマントヴァ侯爵という男がいる。ヴェルディのオペラ「リゴレット」の登場人物だ。彼は、夜会に出席している美女達たちをながめながら、「あれかこれか」と、いともくったくなくうたう。しかし、彼は、ただの好色漢でしかない。「あれかこれか」という、すくなくとも選択の意識が、マントヴァ侯爵にはあるが、ドン・ジョヴァンニにはそれがない。だから、ドン・ジョヴァンニは地獄におちるが、マントヴァ侯爵は、すくなくともオペラが終るまでは、生きのびていて、ベッドにひっくりかえって、鼻歌などうたっている。
 しかし、マントヴァ侯爵の姿は、妙にうすぎたない。ドン・ジョヴァンニの輝きは、マントヴァ侯爵に感じられない。マントヴァ侯爵は、女性に対して、ドン・ジョヴァンニのようにはハングリーではない。一種の退屈しのぎというか、ひまつぶしに女性を誘惑しているだけだ。
     *
黒田先生は、音楽についてのドン・ジョヴァンニは、ありえないか──、をテーマにされている。
そして《みんながハングリーでなくなったということが、ここでもいえるように思う》と書かれている。

みんながハングリーでなくなったのは、音楽だけではなく、オーディオに関してもいえるのではないか。

ドン・ジョヴァンニは、
イタリアで640人、ドイツで231人、フランスで100人、トルコで91人、スペインで1003人、
合計2065人の女性と交渉をもっている。
それでもドン・ジョヴァンニは女性を求め続け、オペラ「ドン・ジョヴァンニ」では地獄に堕ちる。

Date: 10月 5th, 2015
Cate: ショウ雑感, 日本のオーディオ

2015年ショウ雑感(日本のオーディオ、これから・その6)

感じただけで、実際にAPM8の音を聴くことはできなかった。
それもあってだろう、いつしか忘れてしまっていた。
思い出したのはダイヤトーンのDS10000を聴いたときだった。
五年が経っていた。

ダイヤトーンのDS10000はDS1000をベースにしていることはすでに書いた通りだ。
DS1000の音は、私にとっては井上先生がステレオサウンドの試聴室で鳴らす音とイコールである。

何度かのその音を聴いている。
DS1000の良さは、だから知っている。
ちまたでいわれているような音とは違うところで鳴る音の良さがある。

当時DS1000の評価は、すべての人が高く評価していたわけではなかった。
うまく鳴っていないケースも多かったというよりも、
うまく鳴っていないケースのほうが多かったらしいから、それも当然である。

それでも高く評価する人たちはいた。
誰とは書かない。
この人たちは、どれだけうまくDS1000を鳴らしたのだろうか、と疑問に思ってもいた。
それこそ聴かずに(少なくとも満足に聴かずに)、試聴記を書いているではなかったのか。

DS10000が出た。
価格はDS1000の三倍ほどになっていたし、
エンクロージュアの仕上げも黒のピアノフィニッシュになっていた。
専用スタンドも用意されていた。

音質的に配慮されたスタンドだということはわかっていても、
このスタンドに載せたDS10000の姿は、あまりいい印象ではなかった。
なんといわれていたのかはいまでも憶えているが、
いまもこのスピーカーシステムを愛用している人はきっといるはずだから、そんなことは書かない。

でも、DS10000から鳴ってきた音を聴いて驚いた。
DS1000の音はしっかりと把握していたからこそ、
そこでの「どこにも無理がかかっていない」と思わせる鳴り方に驚いた。
そして黒田先生のAPM8の試聴記を思い出してもいた。

Date: 10月 4th, 2015
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(語りたいモノがある)

ヤマハの新しいスピーカーシステムNS5000を書いている。
ジェームズ・ボンジョルノのアンプのことも書いている。
──こんなふうに語りたくなるオーディオ機器が、これだけではなく他にもいくつもある。

優秀なオーディオ機器だから、ではない。
語りたいと思うオーディオ機器は、必ずしも世評の高いモノではない。

そこに、何か共通した理由を私自身が見いだすのはできないことかもしれない。
とにかく語りたいオーディオ機器がある、ということだ。

この語りたいオーディオ機器を心の裡に持つ者がオーディオマニアである。
語りたいオーディオ機器を持たぬ者は、どれだけオーディオにお金を投じていようとオーディオマニアとは呼べない。

Date: 10月 3rd, 2015
Cate: audio wednesday

第57回audio sharing例会のお知らせ(ヤマハ NS5000をどう評価するか)

今月のaudio sharing例会は、7日(水曜日)です。

ヤマハのNS5000の、ネット上での評価は芳しくないもののほうが多いようである。
facebookでも、ヤマハの音づくりはおかしいのではないか、という意見ももらった。

インターナショナルオーディオショウの二日目、NS5000の音を聴いて私は昂奮していた。
けれど他の人たちはどう感じているのかについては、
どちらかといえば悪い評価の方が多いはずだとも思っていた。

ネットで見る限りは、やはりそうであるようだ。

私が危惧しているのは、そういう意見によって軌道修正され、
今回のインターナショナルオーディオショウで私が感じたNS5000の良さがなくなってしまわないか、である。

リヒテルはヤマハのピアノについて語っている。
     *
なぜ私がヤマハを選んだか、それはヤマハがパッシヴな楽器だからだ。私の考えるとおりの音を出してくれる。普通、ピアニストはフォルテを重視して響くピアノが良いと思っているけれど、そうじゃなくて大事なのはピアニッシモだ。ヤマハは受動的だから私の欲する音を出してくれる。
     *
NS5000も、その意味では受動的な、パッシヴなスピーカーシステムである。
アクティヴなスピーカーシステムを求めている人にとっては、
NS5000の音は箸にも棒にもかからない音であっても不思議ではない。

パッシヴなスピーカーだからといって、音が死んでいるとか生気がないとかではないのはもちろんだ。
ネガティヴな意味でのパッシヴなスピーカーではなく、ポジティヴな意味でのパッシヴなスピーカーである。

その意味で、ヤマハの音づくりは、果たしておかしいのか間違っているのだろうか。
音づくりとは、音作りなのか、音創りなのか。
たいていの場合は、音作りである。

けれど私はヤマハのNS5000には音創りを目指しているところがあるように感じた。

時間はこれまでと同じ、夜7時です。
場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 10月 3rd, 2015
Cate: 「ルードウィヒ・B」

「ルードウィヒ・B」(その6その後)

手塚治虫による「雨のコンダクター」、
つまり手塚治虫によって描かれたバーンスタインは、音楽を演る男のかっこよさをがあった。

バーンスタインは指揮者であり、作曲家でもあり、またピアニストでもある。
音楽家として才能に恵まれ、自信に満ちていたかのように思われた……。

河出書房新社の「フルトヴェングラー 最大最高の指揮者」に、
作曲家・伊東乾氏による「作曲家フルトヴェングラー」についての文章がある。

バーンスタインの話から始まる。
     *
 生前のレナード・バーンスタイン(1918-1990)と初めて会ったときの事だ。たまたま学生として参加していた彼の音楽祭で、当時僕がスタッフをしていた武満徹監修の雑誌の企画で「作曲家としてのバーンスタイン」に話を聴くことになった。
 ところが、話が始まって20分位だったか、マエストロ・レニーは突然、何か感極まったような表情になってしまった。
 思いつめたような声で、半ば涙すら浮かべながら
「コープランドには第三交響曲がある。アイヴズには第四交響曲がある。でも自分には何もない」
 と訴え始めたのだ。大変に驚いた。
 反射的に彼の『ウエストサイド・ストーリー』(『シンフォニック・ダンス』)の名を挙げてみたのだが
「ああ、あんなものは……」
 と更に意気消沈してしまった。確かに「シンフォニック・ダンス」はよく知られた作品だが、実はオーケストレーションも他の人間が担当しており、ミュージカル映画の付帯音楽に過ぎないのは否めない。
「誰も僕を、作曲家としてなんか認めていない……」
「いいえ、あなたが一九八五年、原爆40年平和祈念コンサートで演奏された第三交響曲『カディッシュ』は素晴らしかっただから今、僕たちはここに来て、作曲家としてのあなたにお話を伺っているのです。
 自分の信じる通りを誠実に話して、どうにか気持ちを立て直して貰った。
     *
意外だった、驚きだった。
「自分には何もない」、
「ああ、あんなものは……」、
「誰も僕を、作曲家としてなんか認めていない……」、
こんなことがバーンスタインから語られていたとは知らなかった。

そういえばグルダが、
バーンスタインはジャズがまったくわかっていない、批判していたのは知っていたけれど、
それでも大きな驚きだ。

とはいえ、指揮者バーンスタインが残したものの聴き方が、このことを知って変るかといえば、
まったく変らないであろう。
ただ「雨のコンダクター」の読み方は、多少変るかもしれない。

バーンスタインに、こんなコンプレックスがあったことを手塚治虫が知っていたのかどうかはわからない。
手塚治虫が、そういうものを感じとっていたのかどうかもわからない。
それでも知った後と知る前とでは何かが変っていくはずだ。

Date: 10月 2nd, 2015
Cate: 終のスピーカー

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その4)

続きを書くにあたって、迷っていた。
確認しておきたいことがあったけれど、
それが何に、いつごろ載っていたのかうろおぼえで、どうやってその本をさがしたらいいのか。
しかも、それは購入していた本ではない。
どこかで目にしたことのある本だった。

国会図書館に行き、じっくり腰を据えてさがしていけばいつかはみつかるだろうが、
それでは時間がどのくらいかかるのかわからない。

うろおぼえの記憶に頼って書くしかない……、と思っていたところに、
その本そのものではないが、
私が確認しておきたかった(読みたかった)記事が再掲されたムックが出ていた。

河出書房新社の「フルトヴェングラー 最大最高の指揮者」に載っていた。
7月に出たこの本の最後のほうに、「対談 フルトヴェングラーを再評価する」がある。
音楽評論家の宇野功芳氏と指揮者の福永陽一郎氏による、1975年の対談である。

この対談の福永氏の発言を、どうしても引用しておきたかったのだ。
     *
福永 ぼくがこのごろ思っていることは、フルトヴェングラーはいわゆる過去の大家ではないということです。つまりほかの大家、大指揮者というのは、みんな自分たちの大きな仕事を終わって、レコードにも録音して死んじゃったんですけれども、フルトヴェングラーというのは、そうではなくて、いまレコードで演奏している。つまり生物的には存在しない人間なんだけれども、いまなお、そのレコードを通して演奏している演奏家で、だから新しいレコードが発見されれば、ちょうどいま生きている演奏家の新しい演奏会を聴きに行くように聴きたくなる。そういう意味で、つまり死んでいないという考え方なんです。
 過去の演奏会ではない、いまだに生き続けている。あのレコードによって毎日、毎日鳴り続けている指揮者であると、そういう指揮者はほかにいないというふうに、ぼくは考えるわけです。だから、ほかの指揮者は過去の業績であり、あの人は立派だった、こういうのを残したという形で評価されているけれども、フルトヴェングラーの場合は、レコードが鳴るたびに、もう一ぺんそこで生きて鳴っているという、そういうものがあの人の演奏の中にあると思うんです。それがいまの若い人でも初めて聴いたときにびっくりさせる。
 つまり、過去の大家の名演奏だと教えられて、はあそんなものかなと聴くんじゃなくて、直接自分のこころに何か訴えてくるものがあって、自分の心がそれで動いちゃうということが起こって、それでびっくりしちゃって、これは並みのレコードとは違うというふうに感じるんじゃないか。そうするともう一枚聴きたくなるという現象が起きるんじゃないかという気がするわけですね。
     *
福永氏が語られていることをいま読み返していると、
フルトヴェングラーは、演奏家側のレコード演奏家だということをつよく感じる。

Date: 10月 1st, 2015
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その7)

「音は人なり」。
確かにそうだと思っている。

思っているけれど、「音は人なり」が根本的なこと、根源的なことであれば、
いかなる環境においても「音は人なり」であるはずである。

音のために専用の空間とシステムを用意する。
その環境の中で音を良くしていこうとやっていく。

そうやって音は良くなっていく。
その意味で「音は人なり」である。

ではそうやって積み重ねてきた環境を捨てて、
まったくゼロから、しかもまるで違う環境におかれたとして、
その音は「音は人なり」となるのだろうか。

いいや、これは自分の音ではない、という考えもできるし、
いかなる環境においても出せる音こそが「音は人なり」であるとも考えられる。

出てくる音と出せる音との違いがある。

Date: 9月 30th, 2015
Cate: ショウ雑感, 日本のオーディオ

2015年ショウ雑感(日本のオーディオ、これから・その5)

瀬川先生がステレオサウンド 52号「最新セパレートアンプの魅力をたずねて」で書かれている。
     *
 新型のプリアンプML6Lは、ことしの3月、レビンソンが発表のため来日した際、わたくしの家に持ってきて三日ほど借りて聴くことができたが、LNP2Lの最新型と比較してもなお、歴然と差の聴きとれるいっそう透明な音質に魅了された。ついさっき、LNP(初期の製品)を聴いてはじめてJBLの音が曇っていると感じたことを書いたが、このあいだまで比較の対象のなかったLNPの音の透明感さえ、ML6のあとで聴くと曇って聴こえるのだから、アンプの音というものはおそろしい。もうこれ以上透明な音などありえないのではないかと思っているのに、それ以上の音を聴いてみると、いままで信じていた音にまだ上のあることがわかる。それ以上の音を聴いてみてはじめて、いままで聴いていた音の性格がもうひとつよく理解できた気持になる。これがアンプの音のおもしろいところだと思う。
     *
52号は1979年に出ている。
私はまだ16だった。
オーディオをどれだけ聴いていたか──、わずかなものだった。

アンプとはそういうものなのか、アンプの音とはそういうものなのか、と思い読んでいた。
そして考えた。これがスピーカーだったら、アンプの音の透明度に相当するもの、
つまり「それ以上の音を聴いてみてはじめて、いままで聴いていた音の性格がもうひとつよく理解できた気持になる」音とは、
何なのかを考えていた。すぐには思いつかなかった。

そんなことを考えて半年、ステレオサウンド 54号が出た。
スピーカーシステムの特集だった。

黒田先生、菅野先生、瀬川先生が国内外の45機種のスピーカーシステムを聴かれている。
その中に黒田先生のエスプリ(ソニー)のAPM8の試聴記がある。
これを読み、これかもしれないと思った。
     *
化粧しない、素顔の美しさとでもいうべきか。どこにも無理がかかっていない。それに、このスピーカーの静けさは、いったいいかなる理由によるのか。純白のキャンバスに、必要充分な色がおかれていくといった感じで、音がきこえてくる。
     *
とはいえ、この時はいわば直感でそう感じただけだった。