「音は人なり」を、いまいちど考える(その7)
「音は人なり」。
確かにそうだと思っている。
思っているけれど、「音は人なり」が根本的なこと、根源的なことであれば、
いかなる環境においても「音は人なり」であるはずである。
音のために専用の空間とシステムを用意する。
その環境の中で音を良くしていこうとやっていく。
そうやって音は良くなっていく。
その意味で「音は人なり」である。
ではそうやって積み重ねてきた環境を捨てて、
まったくゼロから、しかもまるで違う環境におかれたとして、
その音は「音は人なり」となるのだろうか。
いいや、これは自分の音ではない、という考えもできるし、
いかなる環境においても出せる音こそが「音は人なり」であるとも考えられる。
出てくる音と出せる音との違いがある。