Archive for category テーマ

Date: 11月 3rd, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その82・追補)

ステレオサウンド 55号に載っているダグラス・サックスの記事の原文は、
Interview:Douglas Sax on the Limits of Disc Recordingというタイトルで、
アメリカのオーディオ雑誌Audioの1980年3月号に掲載されている。

このころのAudio誌の誌面をそのままスキャンして公開しているサイトがある。
記事のタイトルで検索すれば、すぐに見つかる。
ダグラス・サックスの記事も公開されていて、英文で読むことができる。

Date: 11月 3rd, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その82)

ステレオサウンド 55号の音楽・レコード欄に、非常に興味深い記事が載っている。
当時以上に、いま読み返した方が興味深いともいえる記事である。

「ディスク・レコーディングの可能性とその限界」というタイトルだ。

このタイトルからわかるように、
ダイレクトカッティングで知られるシェフィールドの二人の創設者のひとり、
ダグラス・サックスのインタヴューで構成されている。

インタヴューだけではなく、岡先生によるダグラス・サックスについての囲み記事もある。
それによるダグラス・サックスともうひとりの創設者のリンカーン・マヨーガ(マヨルガ)は、
ともに1937年生れ。
(1937年は、ジョージ・ガーシュウィンとモーリス・ラヴェルが亡くなった年でもある。)

彼らは1956年に、ウェスターン・エレクトリックの旧いディスク録音機の持主をたずね、
そこでマヨーガ演奏のピアノを録音してもらっている。
その78回転のディスク(モノーラル録音のラッカー盤)の音が、
一般のLPの音よりもあらゆる点で優っていると感じ、ふたりはSPに注目する。

周波数特性、S/N比、収録時間においても、LPよりも劣るSPなのに、
聴けば聴くほど音楽的に素晴らしいものであることを痛感。
その音の秘密はテープレコーダーにたよらず、ディスクに直接カッティング(録音)されているからで、
LP登場以後の進歩したカッティングシステムで、
ディスクレコーディングをしたら、どんなに素晴らしい音のレコードがつくれるだろうと、
と夢見るようになる。

ダグラス・サックスの兄、シャーウッド・サックスはオーディオ・エンジニアであった。
弟ダグラスの話、ばかげたことと、一笑に附す。
けれどダグラス・サックスとリンカーン・マヨーガは1965年に実験を行っている。
結果はシャーウッドのいうことを実感させられるほどに難しいものだった。

技術的に解決しなければならない問題が山ほどあることを知らされ、
マヨーガはピアニストとして演奏活動をつづけ、サックスはレコードをつくる方に夢中になる。

ふたりは1968年にマスターリング・ラボという会社をつくる。
中古のカッティングレーサーを買い、シャーウッド・サックスが稼働できるように整備している。

この会社の成功が、シェフィールドのにつながっていく。
興味のある方は55号のお読みいただきたい。

Date: 11月 3rd, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その81)

55号の特集2のプレーヤーテストは、
最初に扉のページがあって、次の見開きに、瀬川先生と山中先生の「テストを終えて」がある。
それから個々の機種の試聴記が続く。

「テストを終えて」は、いわは後書きではあっても、
記事の構成上、前書きといえる位置にくる。

つまり「テストを終えて」を読んでから、
ここのプレーヤーの試聴記を読むわけだ。

この「テストを終えて」を読んで、
瀬川先生のうまさと配慮を、ほんとうの意味で知ったといえる。
     *
 良くできた製品とそうでない製品の聴かせる音質は、果物や魚の鮮度とうまさに似ているだろうか。例えばケンウッドL07Dは、限りなく新鮮という印象でズバ抜けているが、果物でいえばもうひと息熟成度が足りない。また魚でいえばもうひとつ脂の乗りが足りない、とでもいいたい音がした。
 その点、鮮度の良さではL07Dに及ばないが、よく熟した十分のうま味で堪能させてくれたのがエクスクルーシヴP3だ。だが、鮮度が生命の魚や果物と違って、適度に寝かせたほうが味わいの良くなる肉のように、そう、全くの上質の肉の味のするのがEMTだ。トーレンスをベストに調整したときの味もこれに一脈通じるが、肉の質は一〜二ランク落ちる。それにしてもトーレンスも十分においしい。リン・ソンデックは、熟成よりも鮮度で売る味、というところか。
 マイクロの二機種は、ドリップコーヒーの豆と器具を与えられた感じで、本当に注意深くいれたコーヒーは、まるで夢のような味わいの深さと香りの良さがあるものだが、そういう味を出すには、使い手のほうにそれにトライしてみようという積極的な意志が要求される。プレーヤーシステム自体のチューニングも大切だが、各社のトーンアームを試してみて、オーディオクラフトのMCタイプのアームでなくては、マイクロの糸ドライブの味わいは生かされにくいと思う。SAECやFRやスタックスやデンオンその他、アーム単体としては優れていても、マイクロとは必ずしも合わないと、私は思う。そして今回は、マイクロの新開発のアームコード(MLC128)に交換すると一層良いことがわかった。
     *
これだけのことと思われるかもしれないが、
これだけのことで、このあとのページに登場するプレーヤーの、
音質的・音色的位置づけが提示されている。
そのうえで、個々の試聴記を読むわけだ。

そしてすべての試聴記を読んだうえで、私はもう一度「テストを終えて」を読んだ。
誌面から音は出ない。

オーディオ雑誌について、ずっと以前からいわれ続けていることだ。
それでも、瀬川先生の文章を読んで、音は出てこなくとも、想像はできると確信できた。

Date: 11月 3rd, 2016
Cate: audio wednesday

第71回audio sharing例会のお知らせ

12月のaudio sharing例会は、7日(水曜日)です。
テーマは未定ですが、音出しを予定しています。

昨夜のaudio sharing例会の準備をやっているときに、
会場となる喫茶茶会記にあるピアノの横に、あるモノが置いてあった。
以前からあったそうだが、いまごろ気づいたわけだ。

可搬型のミキサーだった。
クーパーサウンド(Cooper Sound)CS106+1である。

可搬型ということもあって、乾電池駆動になっている。
単一の乾電池12本を使う。
VUメーターが少し安っぽい感じはするけれど、全体のつくりはきっちりとしている感じを受ける。
これを使っての音出しもおもしろそうだという予感がした。

12月の例会で、これを使うのかどうかはまだ決めていない。
でも、今年最後の例会は音を出して、楽しもうと思っている。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 11月 3rd, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その80)

ステレオサウンド 55号の表紙は、JBLのウーファーLE14Aである。
夏号らしい、ともいえるけれど、51号の表紙と同じようでもあって、
書店で目にした時、ちょっとだけいやな予感がしたの憶えている。

55号の特集も51号と同じでベストバイである。
表紙の感じが同じであれば、特集のありかたも同じだった。
ベストバイは、51号の方針でいくのか、とがっかりした。

43号のベストバイは熱っぽく読んだ。
けれど51号、55号のベストバイは、熱っぽく読めなくなっていた。

50号での巻頭座談会での瀬川先生の発言を、
ステレオサウンド編集部はどう受けとめているのか、と思ってしまうほど、
ベストバイ(特集)がつまらなくなっている。

特集に読み応えがないと、その号のステレオサウンドの印象は、
他の記事がどうであろうと、薄くなるし、あまりいいものではなくなる。

52号、53号、54号の特集との落差を大きく感じてしまう。
落差は、編集部の仕事の楽さとも関係しているのか、とも思ってしまうほどだ。

55号のベストバイについては、このくらいでいいだろう。
55号の特集2は、おもしろかった。
「ハイクォリティ・プレーヤーシステムの実力診断」で、
瀬川先生と山中先生が、13機種のアナログプレーヤーのテストをされている。

総テストとは違う。
ここに登場するのは、いわゆる高級プレーヤーに属するモノばかりである。
13機種中、もっとも安価なのがトーレンスのTD126MKIIICで、250,000円である。
個人的に気になっていたプレーヤーのほとんどが、ここに登場していた。

Date: 11月 3rd, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その79)

ステレオサウンド 54号の特集の最終ページ(269ページ)の裏は、
スペックスのモノクロの広告ページ。
隣の271ページはカラーの記事が始まる。

記事のタイトルは、
スピーカーシステムの未来を予見させる振動系質量ゼロのプラズマレーザー方式
〝プラズマトロニクス/ヒル・タイプI〟の秘密を探る、
菅野先生が書かれている。

これまでのスピーカーとはかなり異る外観のスピーカーシステムが写っている。
コーン型のウーファーとスコーカーの上にアンプが載っているような恰好だ。
内部の写真もある。
そこにはヘリウムのガスボンベが収められている。

もうこれだけで従来のスピーカーとは大きく違うモノだということがわかる。
記事は3ページ。カラー写真で、開発・実験過程、工場の様子などが紹介されている。

プラズマトロニクス(PLASMA TRONICS)のHill Type-Iは、
700Hz以上の帯域をプラズマドライバーが受け持つ。
つまり700Hz以上の帯域は振動板が存在しない。

記事中でも、プラズマドライバーの動作原理は特許申請中で明らかにされていない、とある。
このプラズマドライバーの開発者のアラン・ヒルは、
アメリカ空軍のエレクトリックレーザー開発部門に籍をおいていた、とある。
空軍での仕事の傍らに、
自宅でレーザープラズマの応用技術のひとつであるスピーカーの研究・開発を行ってきた。

詳しいことは54号を読んでいただきたいし、
インターネットで検索して調べてほしい。

Hill Type-Iは製品としては未熟なところはある。
ヘリウムのガスボンベは300時間ごとにガスを充填させる必要があるし、
プラズマドライバーは内蔵の専用アンプが駆動する。

五つの電極があり、それぞれに専用アンプがある。
つまり五台のアンプが内蔵されている。
その出力は一台あたり1kWであり、合計5kWとなる。
しかも内蔵アンプはA級動作である。

となると、このスピーカーの消費電力はどのくらいになるのだろうか。
54号の記事には、そのことは触れられていない。
HI-FI STERO GUIDEのスペック欄にも、消費電力の項目はなかった。

Hill Type-Iの価格は5,100,000円だった。
ステレオペアだと1000万円を超える。
1982年頃に製造中止(もしくは輸入元の取り扱いが終ってしまった)時点での価格は、
5,830,000円になっていた。

Hill Type-Iはそれきりになってしまった。
けれど、インターネットで、”plasma speaker”で検索すると、
アラン・ヒルと同じように、振動板をもたないスピーカーの実験を行っている人がいる。
YouTubeでも公開されている。

Hill Type-Iから40年近く経っている。
次世代のHill Type-Iが登場するのだろうか。

54号を開くたびに、そんなことをおもってしまう。

Date: 11月 2nd, 2016
Cate: plain sounding high thinking

一人称の音(その6)

三人称の音といえば、私が頭に浮べるのはトーキー用スピーカーである。
ウェスターン・エレクトリック、シーメンスといった旧いスピーカーである。
その次に(というか少し範囲をひろげて)アルテック、ヴァイタヴォックスが浮んでくる。

いずれもが劇場用として開発されたスピーカーばかりである。
つまり聴き手はひとりではない、必ず複数、それも多人数を相手にするスピーカーである。

これらははっきりと三人称の音といえる。
アンプに関しては一人称の音に惹かれがちの私なのだが、
スピーカーに関しては、必ずしもそうではなく、むしろ三人称の音に惹かれるがちである。

スピーカーに限らず、
スピーカーと同じトランスデューサーであるカートリッジに関しても、そうだ。
一人称の音と感じられるモノよりも、三人称の音と感じられるモノを選ぶ傾向があることを、
これまでのことをふりかえって気づいている。

私の中では、オルトフォンのSPU、EMTのTSD15といったカートリッジは、
一人称の音のするカートリッジではなく、三人称の音のカートリッジなのである。
どちらも無個性の音がするわけではない。

TSD15はかなり個性的ともいえる。
それでもどちらも三人称の音であり、
個性が強いから一人称、個性がないから三人称と感じているわけではない。

Date: 11月 1st, 2016
Cate: plain sounding high thinking

一人称の音(その5)

ラックスのアンプには、根強いファンが昔からいる。
私は、というと、あまりラックスのアンプに惹かれることはなかった。

何度か書いているように、
スペンドールのBCIIと組み合わせた時のLX38の音は、
いまも耳の底に残っていて、もう一度、この「音」を聴きたい、と思うことがあるくらいだ。

LX38よりも少し前に登場したラボラトリーシリーズの5L15、5C50、5M21は、
いま聴いてみると、どうなんだろう、という興味はある。
古くささを感じてしまうのか、それともいま聴いても、いいアンプだな、と思えるのか。

こんな関心の持ち方をしても、私はラックスのアンプのファンではなかった。
いまのラックスのアンプの音については、
きちんと聴く機会がないので、あくまでもここに書くのは、以前のラックスのアンプの音についてだ。

私には、ラックスのアンプの音は、二人称のように感じることがある。
三人称ではない、といえる。
すべてのラックスのアンプを聴いているわけではないが、
それでもラックスを代表するアンプを聴いていて感じることである。
だからこそ、ラックスのアンプのファンは、根強いのかもしれない。

では、一人称の音かといえば、なにか違う気がする。
なにが違うのか、はっきりといえないところにもどかしさを感じてしまうが、
私の耳(感性)には、一人称の音としては聴こえてこない要素が、
ラックスのアンプにはあるようだ。

Date: 11月 1st, 2016
Cate: 「オーディオ」考

デコラゆえの陶冶(その8)

ステレオサウンド別冊Sound Connoisseur掲載の五十嵐一郎氏の「デコラにお辞儀する」。
ここでの写真は、いままで見たことのなかったデコラの姿を伝えてくれる。

カラー写真だけではない、モノクロでも、正面からのカットは二枚並んである。
正面からのカットも似まいある、後からのカットも二枚あり、
どちらもグリル、カバーを装着した状態と外した状態のカットである。

その他にも、コントロールアンプ、チューナー、パワーアンプ、電源部、
スピーカーユニット、ネットワークなどのカットもある。

それらの写真の中で、220ページと221ページの見開きのカットを見て、気づいたことがある。
このカットは両サイドのグリルだけでなく、各部の扉を全開にしている。

デコラ右側のスピーカー上部の扉をあけるとコントロールアンプ、
左側の扉をあけるとチューナーがある。
そして中央の両開きの扉をあけると、レコード収納のためのスペースがある。

アクースティック蓄音器と電気式蓄音器の違いはいくつかあるが、
このレコード収納のスペースの有無も、そうである。

アクースティック蓄音器にはSPを収納するスペースは設けられていない。
大型のアクースティック蓄音器であってもそうだ。

電蓄と呼ばれるようになって、蓄音器は音量の調整ができるようになり、
チューナーも付属するようになったりしたが、レコードの収納のスペースも設けられるようになった。

デコラにも、それがある。
扉を閉じた写真をみているだけでは、そのことに気づかなかった。
あって当然のことなのだが、なかなか気づかないことはある。

デコラにある収納スペースを見て、(その1)に書いているS氏のことが結びついた。

Date: 11月 1st, 2016
Cate: plain sounding high thinking
1 msg

一人称の音(その4)

ステレオサウンド 54号の特集の座談会での瀬川先生の発言。
     *
 あるメーカーのエンジニアにその話をしたことがあるのです。「あなたがこのスピーカーの特性はいくらフラットだと言われても、データを見せられても、私にはこう聴こえる」と言ったら、そのエンジニアがびっくりして「実は、このスピーカーをヨーロッパへ持っていくと同じことを言われる」というのです。「それじゃ、私の耳はヨーロッパ人の耳だ」と笑ったのですが、しかし冗談でなくて、その後ヨーロッパ向けにヨーロッパ人が納得のゆく音に仕上げたもの──見た目は全く同じで、ネットワークだけを変えたものだそうです──を聴かせてくれたのです。
 満点とはいえないまでも、日本向けの製品に感じられた癖がわりあいないのです。ではなぜ、日本向けにはそういう音にするのかというと、実は店頭などで、艶歌、ポップス、ニューミュージックなどの歌中心のレコードをかけた時に、ユーザーがテレビやラジカセなど町にはんらんしているあらゆるスピーカーを通して聴いてイメージアップしている歌手の声に近づけるためには、中域をはらさなければダメなのだというわけです。つまり商策だということになりますね。
     *
このメーカーのスピーカーの音は、一人称の音、
それとも二人称の音、三人称の音なのだろうか。

あるメーカーとは、もちろん日本のメーカーである。
この日本のメーカーがヨーロッパ向けのモノは、ヨーロッパ人に音を仕上げさせる。
国内流通分は日本人のエンジニアが音を仕上げる。

同じ外観のスピーカー、ユニットも同じであっても、ネットワークだけが違っている。
おそらくサイン波による周波数特性を測定してみたところで、
はっきりとした違いは認められないかもしれないが、
ヨーロッパ人がヨーロッパ向けに仕上げたモノは、
日本向けのモノに感じられた癖が少ない、ということ。

しかもその癖は、商策から生じるものである。
ということは、このメーカーが日本向けとして販売しているスピーカーは、
一人称の音ではない、二人称の音でもない、つまりは三人称の音なのだろうか。

でもここでも疑問がわく。
ほんとうに三人称なのたろうか。実のところ、三人称でもないのではないか。

54号よりも少し前、
若者向けの音、ということもオーディオ雑誌でときおり目にしていた。
この若者向けの音に仕上げられた場合、三人称の音なのだろうか。

日本向けが想定している日本人、
若者向けが想定している若者は、ほんとうにいるのだろうか。

Date: 10月 31st, 2016
Cate: plain sounding high thinking

一人称の音(その3)

AGIのコントロールアンプ511もそうだ。
ごく初期の511の持っていた音の魅力は、
その後細部の改良、OPアンプの変更などによって失われていった。

けれどアンプとしての優秀さは増していっている。
完成度の面では、ごく初期の511よりもその後の511、511bの方が高い、といえる。
だから511は改良されていった、ともいえるわけだ。

けれど、その変化はなんなのだろうか、とあのころから考えていた。
別項で書いているが、クレルのPAM2とKSA100の初期モデルが聴かせてくれた音も、
短い寿命だった。

フロントパネルの仕上げの変更とともに消失してしまった。
クレルの場合もAGIと同じで、アンプとしては確かに改良されていっている。
クレルもAGIも、進む方向が間違っているとはいえない。

こういう例は他にもいくつも挙げられる。
しかも不思議なことに、そのほとんどがアンプである。

規模の小さいメーカーが最初に世に問うたアンプの音には、
いまでも忘れ難い魅力があったものだ。
でも、それらは音のはかなさを教えてくれる。

あっという間に失われてしまう。
つまり、それは一人称の音から脱却なのだと思う。

それまでは自分、せいぜいが周りにいるオーディオマニアからの評価がすべてであったアンプが、
メーカーのアンプとして世に出ることで、比較にならぬほど多くの評価を受けることになる。
それらの声がフィードバックされることで、一人称の音は消えざるをえないのだろうか。

ここでまたネルソン・パスを例にだせば、
パスはパス・ラボラトリーズの他に、First Wattからもアンプを出している。
ふたつのブランドのアンプの性格はまるで違う。

First WattのSIT1、SIT2をみていると、そして音を聴くと、
そこにはネルソン・パスの一人称の音がある、と思える。

スレッショルド時代の800Aと同じ音ではないが、どちらも一人称の音のようにも感じる。

Date: 10月 31st, 2016
Cate: 「ネットワーク」
1 msg

オーディオと「ネットワーク」(おさなオーディオ・その4)

五味先生の「フランク《オルガン六曲集》」に、こう書いてある。
17の時に読んだ。
まだまだオーディオマニアとしての経験は足りないけれども、
なるほどそういうものか、と感心していた。
     *
 私に限らぬだろうと思う。他家で聴かせてもらい、いい音だとおもい、自分も余裕ができたら購入したいとおもう、そんな憧憬の念のうちに、実は少しずつ音は美化され理想化されているらしい。したがって、念願かない自分のものとした時には、こんなはずではないと耳を疑うほど、先ず期待通りには鳴らぬものだ。ハイ・ファイに血道をあげて三十年、幾度、この失望とかなしみを私は味わって来たろう。アンプもカートリッジも同じ、もちろんスピーカーも同じで同一のレコードをかけて、他家の音(実は記憶)に鳴っていた美しさを聴かせてくれない時の心理状態は、大げさに言えば美神を呪いたい程で、まさしく、『疑心暗鬼を生ず』である。さては毀れているから特別安くしてくれたのか、と思う。譲ってくれた(もしくは売ってくれた)相手の人格まで疑う。疑うことで──そう自分が不愉快になる。冷静に考えれば、そういうことがあるべきはずもなく、その証拠に次々他のレコードを掛けるうちに他家とは違った音の良さを必ず見出してゆく。そこで半信半疑のうちにひと先ず安堵し、翌日また同じレコードをかけ直して、結局のところ、悪くないと胸を撫でおろすのだが、こうした試行錯誤でついやされる時間は考えれば大変なものである。深夜の二時三時に及ぶこんな経験を持たぬオーディオ・マニアは、恐らくいないだろう。したがって、オーディオ・マニアというのは実に自己との闘い──疑心や不安を克服すべく己れとの闘いを体験している人なので、大変な精神修養、試煉を経た人である。だから人間がねれている。音楽を聴くことで優れた芸術家の魂に触れ、啓発され、あるいは浄化され感化される一方で、精神修養の場を持つのだから、オーディオ愛好家に私の知る限り悪人はいない。おしなべて謙虚で、ひかえ目で、他人をおしのけて自説を主張するような我欲の人は少ないように思われる。これは知られざるオーディオ愛好家の美点ではないかと思う。
     *
オーディオ・マニアというのは実に自己との闘い──疑心や不安を克服すべく己れとの闘いを体験している人、
と書いてある。
おしなべて謙虚で、ひかえ目とも書いてある。
他人をおしのけて自説を主張するような我欲の人は少ないように思われる、ともある。

五味先生の周りの人たちはそうだったのであろう。
でも、ここまでインターネットが普及し、SNSを誰もがやっている時代を生きていると、
この点に関しては、「五味先生、どうも違うようです……」といわざるをえない。

facebookには、オーディオ関係のグループがいくつもある。
それのどれにも入っていない。
理由のひとつは、見たくないからだ。

それでも、友人、知人のタイムラインに、それらのグループでの話題が出たりする。
とんでもない人がやっぱりいるんだ、とその度に思う。

そのとんでもない人たちは、五味先生が書かれているオーディオマニア像とはまるで違う。
謙虚、ひかえ目の真逆である。
自説を主張するだけの我欲のかたまりのような人たちがいるようである。

自分の持っているオーディオ機器を最高だ、と思うのは悪いことではない。
けれど、その良さを強調するために、他のオーディオ機器をボロクソに貶してしまう。

完璧なオーディオ機器なんて、ひとつもないのだから、
どのオーディオ機器にも欠点といえるところはある。
にも関わらず、とんでもない人たちは、自分の機器だけは完璧で、
他は……、と思っているのだろうか。

Date: 10月 31st, 2016
Cate: plain sounding high thinking

一人称の音(その2)

スレッショルドのアンプ。
800Aから始まり、いくつものアンプが登場した。
STASIS 1は、いいアンプだと思っている。
コンディションがいい状態であれば、いま聴いてもいいアンプと思えるかもしれない。

ネルソン・パスが離れるまでのスレッショルドのアンプでは、
STASIS 1がもっとも優れたパワーアンプだと思っている。

けれどスレッショルドのパワーアンプの中で、私がいまでも欲しいと狙っているのは800Aである。
スレッショルドの最初のアンプである800Aの音は、
いま聴くとおそらく古めかしさも感じるだろう。
それでも、800Aが登場したころに聴けた音は、なんとも魅力的だった。

それが美化されていない、とはいわない。
それでも、その後の400A、4000 Custom、
それにSTASISシリーズからはついに聴けなかった魅力があった。
少なくとも私にはあった。

いま振り返れば、800Aは、ネルソン・パスにとっての一人称のアンプ(音)であった。

800Aの音を聴いて、スレッショルドというアンプメーカーは、
私のなかでは特別な存在になっていた。

中古を探したこともある。
ステレオサウンドにいたころ、
巻末にあるused component market(売買欄)の「買います」に、
いわば職権濫用で800A買います、と写真付きで載せたことがある。

800Aの音については、瀬川先生がぴったりくる表現をされている。
《800Aのあの独特の、清楚でありながら底力のある凄みを秘めた音の魅力が忘れられなかった》、
ほんとうにそういう音がしていた。

だからスレッショルドのアンプの中で、800Aは好きなアンプであり、
個人的に別格のアンプでもある。
でもSTASIS 1よりも、その他の、その後に登場したアンプよりも優秀であるとは思っていない。

Date: 10月 31st, 2016
Cate: plain sounding high thinking

一人称の音(その1)

マランツの真空管時代のコントロールアンプといえば、
Model 7を誰もが挙げるであろうが、
Model 7の完成度の高さを認めながらも、
音はモノーラル時代のModel 1の方が好ましい、という人もいる。

Model 1の音は一度だけステレオサウンドの試聴室で聴いたことがある。
岡先生所有のモノが、メンテナンスのためステレオサウンドにあったからだ。
作業を行ったのは、サウンドボーイ編集長のOさんだった。

なので私が聴いたのはモノーラルの音である。
それにステレオサウンドの試聴室でModel 7を聴いてはいない。
Model 1とModel 7、
どちらの音が好ましいのかはなんともいえないが、わかる気はする。

Model 1はマランツの最初のアンプである。
それは最初の製品ではなく、最初のアンプと書く方がより正確である。

ソウル・バーナード・マランツが自分のために作ったアンプが、
彼の周りのオーディオマニアにも好評で市販することにした──、
という話はいろんなオーディオ雑誌に書かれているので、お読みになっているはず。

Model 1と書いてしまったが、正しくはAudio Consoletteであり、
のちにツマミの変更などがあり、Model 1となる。

Model 7とはそこが違うといえよう。
もちろんModel 7も、
ソウル・バーナード・マランツが自身のためのつくったアンプともいえなくもないが、゛
Model 7の前にModel 1を二台とステレオアダプターのModel 6をウッドケースにおさめたモデルがある。

それにModel 7を手がけたのはシドニー・スミスだともいわれている。
Model 1とModel 7。
どちらがいい音なのかを書きたいわけではない。

いわば処女作のModel 1だけがもつ音の好ましさがあって、
それに惹かれる人がいる、ということである。

つまりModel 1の音は、ソウル・バーナード・マランツの一人称の音といえる。

Date: 10月 31st, 2016
Cate: 新製品

新製品(Nutube・その10)

アンプのウォームアップの問題を最初に指摘したのは誰なのかは知らない。
私がステレオサウンドを読みはじめたころには、すでにウォームアップについては指摘されていた。

そのころアンプテストやその他の記事でウォームアップについて頻繁に書かれていたのは、
私にとっては瀬川先生という印象がある。

おもしろいことに瀬川先生が高い評価を与えているアンプの多くは、
ウォームアップに時間がかかるものだった。
セパレートアンプだけではなく、プリメインアンプにおいてもそうだった。

このころウォームアップに時間をたっぷりと必要とするアンプとしては、
まずトリオがそうだった。それからSAEのMark 2500もそうだった。

トリオはプリメインアンプ、セパレートアンプ、どちらもその傾向があったことが、
瀬川先生の書かれたものから読みとれた。

このウォームアップの問題は、アンプだけでなく、
サーボ技術をとりいれたアナログプレーヤーについても指摘されるようになってきた。
だからCDプレーヤーも、その点ではまったく同じである。

このウォームアップの問題が割とやっかいなのは、
すでに書いているように電源を入れておくだけでは不十分であること。

それからケーブルの好感などでいったん電源を落すと、
たとえそれが数分間という短い時間であっても、アンプによってはすぐに本来の音、
つまり電源を落す前の音に復帰できるわけではない。

少なくとも数分間の音出しを必要とするアンプがある。
同じことはサーボ採用のアナログプレーヤー、CDプレーヤーに関してもいえる。

ディスクのかえかけごとにターンテーブルプラッターを止めてしまうと、
サーボが安定状態(ウォームアップの完了)まで、いくばくかの時間を要する。
だからステレオサウンドの試聴室においては、ターンテーブルは廻しっぱなしであった。

CDプレーヤーはそうはいかないので、厳密な試聴の場合はディスクのいれかえを行わず、
さらにはストップボタンも押さずに、ポーズボタンを使っていた。

それほどウォームアップの問題は、気にしはじめるとやっかいである。