一人称の音(その3)
AGIのコントロールアンプ511もそうだ。
ごく初期の511の持っていた音の魅力は、
その後細部の改良、OPアンプの変更などによって失われていった。
けれどアンプとしての優秀さは増していっている。
完成度の面では、ごく初期の511よりもその後の511、511bの方が高い、といえる。
だから511は改良されていった、ともいえるわけだ。
けれど、その変化はなんなのだろうか、とあのころから考えていた。
別項で書いているが、クレルのPAM2とKSA100の初期モデルが聴かせてくれた音も、
短い寿命だった。
フロントパネルの仕上げの変更とともに消失してしまった。
クレルの場合もAGIと同じで、アンプとしては確かに改良されていっている。
クレルもAGIも、進む方向が間違っているとはいえない。
こういう例は他にもいくつも挙げられる。
しかも不思議なことに、そのほとんどがアンプである。
規模の小さいメーカーが最初に世に問うたアンプの音には、
いまでも忘れ難い魅力があったものだ。
でも、それらは音のはかなさを教えてくれる。
あっという間に失われてしまう。
つまり、それは一人称の音から脱却なのだと思う。
それまでは自分、せいぜいが周りにいるオーディオマニアからの評価がすべてであったアンプが、
メーカーのアンプとして世に出ることで、比較にならぬほど多くの評価を受けることになる。
それらの声がフィードバックされることで、一人称の音は消えざるをえないのだろうか。
ここでまたネルソン・パスを例にだせば、
パスはパス・ラボラトリーズの他に、First Wattからもアンプを出している。
ふたつのブランドのアンプの性格はまるで違う。
First WattのSIT1、SIT2をみていると、そして音を聴くと、
そこにはネルソン・パスの一人称の音がある、と思える。
スレッショルド時代の800Aと同じ音ではないが、どちらも一人称の音のようにも感じる。