Archive for category テーマ

Date: 10月 26th, 2016
Cate: 録音

マイクロフォンとデジタルの関係(その2)

デジタルマイクロフォンという言葉をきいたのは、
菅野先生のリスニングルームであった。

「このCD、聴いたことあるか」といって、
ケント・ナガノ、児玉麻里のベートーヴェンのピアノ協奏曲第一番を聴かせてくれた。
別項で書いているように、聴く前はあなどっていた。
音はいいだろうけど、ケント・ナガノ(?)、児玉麻里(?)と思っていた。

もちろんふたりの名前は知っていた。
ケント・ナガノの演奏は、何かの録音で聴いていた。
児玉麻里は聴いたことはなかった。

負のバイアスが思いっきりかかった状態で聴いていた。
もう最初の音から、負のバイアスは霧散した。
そのくらい、いままで聴いたことのないレベルの音が鳴ってきた。

音だけではなく、演奏も見事だった。
一楽章を最後まで聴いた。
「続けて聴くか」と菅野先生がいわれた。
最後まで聴いていた。

このCDは、ノイマンがデジタルマイクロフォンのデモストレーション用に制作した、ということだった。
その時は市販されていなかったが、しばらくしてカナダのレーベルから出ていた。

デジタルマイクロフォンとは、
マイクロフォンにA/Dコンバーターを内蔵し、デジタル出力で信号が取り出せるようになっている。

録音の現場ではマイクロフォンからケーブルが、場合によっては非常に長くなることがある。
ケーブルが長くなれば、それだけロスも増えるし、ノイズの影響も受けやすくなる。
音の変化もある。

デジタル伝送にすれば、すべて解決とまではいかないものの、かなりの改善が期待できる。
録音に必要な器材がデジタル化されて、マイクロフォンもそうなった。

このノイマンのマイクロフォンは、
ハードウェアとしてのデジタルが、マイクロフォンに搭載されたわけで、
デジタルにはハードウェアだけでなく、ソフトウェアとしてのデジタルもある。

このソフトウェアとしてのデジタルが、マイクロフォンをどう変えていくのか。

Date: 10月 26th, 2016
Cate: 録音

マイクロフォンとデジタルの関係(その1)

Lytro(ライトロ)の製品は2011年に登場しているが、
Lytroの技術(撮影後にピント合せが可能)が話題になったのは、製品化の数年前だった。

そのころは理屈がどうなっているのかさっぱりだっただけに、
すごい技術が誕生したものだと思うとともに、
録音の世界では、同じこと、同じようなことが可能にならないのたろうか、と思っていた。

カメラのレンズにあたるのはマイクロフォンである。
マイクロフォンには指向特性がある。
たとえば音の焦点は変化できなくとも、指向特性を録音後に変えることはできないのだろうか。
そんなことを考えていたけれど、すっかり忘れていた。

LEWITTというメーカーがある。
LCT640TSというマイクロフォンがある。
今年発売になっている。

このマイクロフォンは、録音後にマイクロフォンの指向特性をシームレスに変更できる、という。
もちろんこのマイクロフォンだけで可能にしているわけではなく、
専用のプラグインを用いることでDAW(Digital Audio Workstation)上で可能になる。

CDが登場してしばらくしたころから思っていたのは、
マルチトラック録音を2チャンネルにトラックダウンせずに、
マルチトラックのまま聴き手に届く時代が来るかもしれない、ということだった。

再生にはコントロールのためのなにがしかの機械が必要となる。
コンピューターが、聴き手にとってミキシングコンソールになる。

もちろんレコーディングエンジニアによる2チャンネル再生も、
その音源からできる上に、聴き手が聴きたい個所をクローズアップできるように、
マルチトラックのそれぞれのチャンネルをいじれるようになってほしい、と思っていた。

けれどそういうことよりも、マイクロフォンの指向特性が録音後に変更できることは、
別の可能性を聴き手にもたらしてくれる。
そういうふうになるのかどうかははっきりしないが、
少なくとも技術的には可能になってきている。

マイクロフォンがデジタル信号処理と結びつくことで、
アナログ時代では無理だったことが可能になりつつある。
マイクロフォンアレイも、そのひとつである。

Date: 10月 26th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その78)

ステレオサウンド 54号について書きたいことはまだまだあるけれど、
これだけは憶えておいてほしい、ということがひとつある。

瀬川先生の連載「ひろがり溶け合う響きを求めて」である。
     *
 部屋の響きを美しくしながら、なおかつ音の細かな差をよく出すということは、何度も書いたことの繰り返しになるが、残響時間周波数特性をできるだけ素直に、なるべく平坦にすること。つまり、全体に残響時間は長くても、そ長い時間が低域から高域まで一様であることが重要だ。そして減衰特性ができるかぎり低域から高域まで揃っていて、素直であるということ。それに加えて、部屋の遮音がよく、部屋の中にできるかぎり静寂に保つ、ということも大事な要素である。ところでこの部屋を使い始めて1年、さまざまのオーディオ機器がここに持ち込まれ、聴き、テストをし、仕事に使いあるいは楽しみにも使ってみた。その結果、この部屋には、音のよいオーディオ機器はそのよさを一層助長し、美しいよい音に聴かせるし、どこかに音の欠点のある製品、ことにスピーカーなどの場合には、その弱点ないしは欠点をことさらに拡大して聴かせるというおもしろい性質があることに気がついた。
 これはおそらく、従来までのライブな部屋に対するイメージとは全く正反対の結果ではないかと思う。実際この部屋には数多くのオーディオの専門の方々がお見えくださっているが、まず、基本的にこれだけ残響の長い部屋というのを、日本の試聴室あるいはリスニングルームではなかなか体験しにくいために、最初は部屋の響きの長さに驚かれ、部屋の響きにクセがないことに感心して下さる。反面、たとえば、試作品のスピーカーなどで、会社その他の試聴室では気づかなかった弱点が拡大されて聴こえることに、最初はかなりの戸惑いを感じられるようである。特にこの部屋で顕著なことは、中音域以上にわずかでも音の強調される傾向のあるスピーカー、あるいは累積スペクトラム特性をとった場合に部分的に音の残るような特性をもったスピーカーは、その残る部分がよく耳についてしまうということである。
 その理由を私なりに考えてみると、部屋の残響時間が長く、しかも前掲のこの部屋の測定図のように、8kHzでも1秒前後の非常に長い残響時間を確保していることにあると思う(8kHzで1秒という残響時間は大ホールでさえもなかなか確保しにくい値で、一般家庭または試聴室、リスニングルームの場合には0・2秒台前後に収まるのが常である)。高域に至るまで残響時間がたいへん長いということによって、スピーカーから出たトータル・エネルギーを──あたかもスピーカーを残響室におさめてトータル・パワー・エナジーを測定した時のように──耳が累積スペクトラム、つまり積分値としてとらえるという性質が生じるのではないかと思う。普通のデッドな部屋では吸収されてしまい、比較的耳につかなくなる中域から高域の音の残り、あるいは、パワー・エネルギーとしてのゆるやかな盛り上りも、この部屋ではことさら耳についてしまう。従って非常にデッドな部屋でだけバランス、あるいは特性を検討されたスピーカーは、この部屋に持ち込まれた場合、概してそれまで気のつかなかった中高域の音のクセが非常に耳についてしまうという傾向があるようだ。いうまでもなく、こういう部屋の特性というのは、こんにちの日本の現状においては、かなり例外的だろう。しかしはっきりいえることは、これまで世界的によいと評価されてきたオーディオ機器(国産、輸入品を問わず)は、この部屋に持ち込むと、デッドな部屋で鳴らしたよりは一層美しく、瑞々しい、魅力的な音で鳴るという事実だ。
 つまりこの部屋は、オーディオ機器のよさも悪さも拡大して聴かせる、というおもしろい性質を持っていることが次第にわかってきた。
     *
ライヴな部屋でありながら、
メーカーの試聴室では気づかなかった弱点が拡大されて聴こえる、ということ、
その理由として、耳が累積スペクトラム、つまり積分値としてとらえるということ、
このふたつの意味はとても重要である。

無響室に入ったことはあるが、そこで比較試聴をした経験はない。
瀬川先生の、このリスニングルームにも行ったことはない。

無響室と残響室とでは、人間の耳は、音の聴き方を自動的に変えるのだろうか。
それは主に高域の残響時間と深く関係してのことなのだろうか。

積分的な聴き方と微分的な聴き方。
「ひろがり溶け合う響きを求めて」を読んできて、思ったことはいくつもある。
そして、54号で最終回だったのだが、上に引用したところが示唆するところについて、
議論がなされていったり、実験が行われることを、私は期待していた。

でも、ここでとまってしまっている。

Date: 10月 26th, 2016
Cate: 組合せ

スピーカーシステムという組合せ(813と4311・その5)

(その5)としているが、完全に余談である。

オーディオユニオンが4343、4311タイプのエンクロージュアを製品化していたころ、
オーディオユニオンの店舗は原宿にもあった。

原宿の店舗を憶えている人もいるだろうが、
その店舗の前の話で、当時はラフォーレ原宿の四階と五階にあった。
新宿ももう一店舗あり、マイシティ(現在のルミネエスト)にもあった。

ダイナミックオーディオも六本木と青山にも店舗があった。
ダイナミックオーディオの六本木店の隣にロシア料理の食品店があった。
水曜日か木曜日にピロシキが売られていた。
揚げたてのピロシキがおいしかったことを憶えている。

この店のことは、ステレオサウンド 53号の編集後記で、Oさんが少し触れられている。
六本木のE食品店である。
たしかに、ここのレアチーズケーキはおいしかったが、
それは素朴なおいしさだった。

Oさんの編集後記はL洋菓子店のことを書かれている。
ルコントのことだ。
ルコントのレアチーズケーキを、E食品店の前に食べていた。
順番が逆だったら、違うおいしさを感じたのかもしれない。

E食品店はとっくになくなった。
ルコントも六本木からなくなり、すべての店舗が閉店した。
でも数年前に復活していて、広尾と銀座と三越日本橋店にいまもある。

オーディオユニオンはその後、吉祥寺と国立にも店舗ができた。
国立店は閉店している。

なくなった店舗もあれば、新たな店舗もあって、
店舗数としては大きく変っているとはいえないわけだが、
どこにあったのかは、大きく変ってしまった。

Date: 10月 25th, 2016
Cate: 組合せ

スピーカーシステムという組合せ(813と4311・その4)

1980年か1981年ごろ、まだまだスピーカーの自作熱が高かったころ、
オーディオユニオンがエンクロージュアを製品化していた。

4343のエンクロージュアのコピーを出していた。
4343のエンクロージュアのコピーは、他のエンクロージュアメーカーも出していたので、
特に珍しいことではなかったが、オーディオユニオンは4311のそれも出していた。

EN4311WXという型番で、35,200円(一本)。
ユニットはついていないが、ネットワークとレベルコントロール、それに銘板はついていた。
JBLのロゴはaudio unionになっていたけれど、
写真でみるかぎり4311っぽい感じは出ていた。

推奨ユニットとしては、
ウーファーは2213H(これは4311Bと同じ)、
スコーカーは2105H(4311B搭載のLE5-2のプロ用ユニット)、
トゥイーターはフォステクスのFT90HかJBLの2405(4311Bはコーン型のLE25-2)。

どんな音がしたのかはわからない。
こういう製品なので、その評価がオーディオ雑誌に載っているのも見たこともない。
私の周りには、使っている人、使ったことのある人、聴いたことのある人もいない。

2405搭載版は聴いてみたい気もする。
それに、このオーディオユニオン版4311も、
JBLの4311同様、ウーファーを下側にもってくる設置をしたら、うまく鳴らないのか。

このところだけでも知りたいのだが、無理であろう。

Date: 10月 25th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

虚実皮膜論とオーディオ

 ある人の言はく、「今時の人は、よくよく理詰めの実らしき事にあらざれば合点せぬ世の中、昔語りにある事に、当世受け取らぬ事多し。さればこそ歌舞伎の役者なども、とかくその所作が実事に似るを上手とす。立役の家老職は本の家老に似せ、大名は大名に似るをもつて第一とす。昔のやうなる子どもだましのあじやらけたる事は取らず。」

 近松答へて言はく、「この論もつとものやうなれども、芸といふものの真実の行き方を知らぬ説なり。芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるものなり。なるほど今の世、実事によく写すを好むゆゑ、家老は真まことの家老の身ぶり口上が写すとはいへども、さらばとて、真の大名の家老などが立役のごとく顔に紅脂、白粉を塗る事ありや。
また、真の家老は顔を飾らぬとて、立役が、むしやむしやと髭は生えなり、頭ははげなりに舞台へ出て芸をせば、慰みになるべきや。皮膜の間と言ふがここなり。虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰みがあつたものなり。

 絵空事とて、その姿を描くにも、また木に刻むにも、正真の形を似するうちに、また大まかなるところあるが、結句人の愛する種とはなるなり。趣向もこのごとく、本の事に似る内にまた大まかなるところあるが、結句芸になりて人の心の慰みとなる。文句のせりふなども、この心入れにて見るべき事多し。」
     *
近松門左衛門の「虚実皮膜論(きょじつひにくろん)」である。
インターネットで検索すれば現代語訳はすぐ見つかる。

ここでの「芸」をオーディオにおきかえれば、
見事、オーディオで音楽を聴く行為の本質をついている。

Date: 10月 24th, 2016
Cate: audio wednesday

第70回audio sharing例会のお知らせ(理屈抜きで聴くオーディオ・アクセサリー)

オーディオは何をやっても音は変化する。
スピーカーを別のモノにかえれば、いちばん大きな変化がある。
スピーカーは同じでもアンプをかえれば、音は変る。
カートリッジひとつでも音は変るし、
カートリッジの周囲、ヘッドシェル、リード線をかえても音は変る。

そういった器材の変化ではなく、
スピーカーの位置を少し前に出してみるとか後にしてみる、
もしくは左右の間隔を広げてみる──、そういったことでも音は変化する。

音が変化しないところはない、と言い切るほどに音は変っていく。
こんなふうにして音を変えていく行為は、音の補助線を引いていくことともいえる。

オーディオ・アクセサリーの大半は、それがなくとも音は出せるわけで、
そういう意味では必要不可欠なオーディオ・アクセサリーはケーブルぐらいである。

それ以外のオーディオ・アクセサリーがなくとも、音は出せる。
にも関わらず、多くのオーディオ・アクセサリーが市場にあふれている。
音を出す上で必要不可欠ではないオーディオ・アクセサリーも、
また音の補助線を引いていくことになる。

時にその補助線は、アンプやスピーカーの交換では引けない補助線かもしれない。

11月2日(水曜日)のaudio sharing例会は、
オーディオ・アクセサリーを持ち寄っての音出し。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 10月 24th, 2016
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その69)

「オーディオあとらんだむ」に登場するM氏は、
ステレオサウンド 67号「素晴らしき仲間たち」にも登場されている。

四回目となる「素晴らしき仲間たち」はエレクトロボイスの30Wユーザーである。
この記事の終りに、30Wを搭載しているパトリシアン800のユーザーが四人登場されている。
その中のひとりがM氏、前橋武氏である。

顔写真も載っている。
この人だったのだ、と気づいた。

瀬川先生が熊本のオーディオ店で定期的にやられていたオーディオ・ティーチ・イン。
私も毎回通っていたが、M氏もほぼ毎回来られていた。
ひとり和服姿だったし、髪形も独特だったから、よく憶えている。

67号にThe GoldとSG520のことを書かれている。
もちろんパトリシアン800とトーレンスのリファレンスのことも書かれているが、
瀬川先生の「オーディオあとらんだむ」を補完することが、ここにはある。
     *
「76cmウーファーで棚の人形が揺れて落ちます」と言う青木周三さんの言葉に魅せられてテクニカの限定販売の時にとびついた。だが足かけ2年に及ぶ苦汁を味わうことになる。始め嘗ての銘器Mアンプで鳴らした。出て来た音の貧弱なることまるで昔の電蓄である。ウーファーが全く動かないのである。以来現在入手可能な国産海外の著名な製品のほとんどを次から次へと試聴していった。マーク・レビンソンを始めとして新しい所ではMC2500、サイテーションXX、クレルなどがある。結局メインはスモのザ・ゴールドに落着いた。ウーファーをグンと駆動するバイタリティは文字通りのスモー(相撲)だ。然しプリが中々無いのである。最早K店の片隅の埃かぶりの下取りSG520しかなかった。だが突然目も覚める様な鮮かな音が出て来た。欣喜雀躍! テラーク版サンサーンス3番のオルガンの重低音が素晴らしい。鬼太鼓座の六尺太鼓が眼前に彷彿である。坐っている椅子が揺れた。
     *
トーレンスのリファレンスとエレクトロボイスのパトリシアン800だけで、
瀬川先生の「永いオーディオ体験の中の1ページに書き加える価値のあるほどの」音が出たわけではない。
The Goldがあって、SG520があってこその「すごさ」であることが読みとれる。

もちろん前橋氏の感覚があってのことはいうまでもない。

それでもThe Goldがなかったら……、
そんなことを思っていた。

Date: 10月 23rd, 2016
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(飯島正氏のこと・その3)

前書きがながくなってしまった。
というより前書きの方がながいかもしれない。
ここからが、最初に書こうと考えていたことだ。

岡先生が飯島正氏について書かれているところを書き写しておく。
     *
 四十年ぐらいむかし、ぼくは映画に夢中になっていた。映画批評家を志そうなどとはまだ考えてもみなかったけれど、いろんな雑誌や本を読んで映画の勉強をしていたのは、そうすることにわけもなく情熱を感じていたからである。その頃、飯島正さんの書くものに一ばん共感し尊敬していた。その気持はいまでもかわらないけれど、当時飯島さんが〝ぼくの批評はコンマンテール(注釈)だ〟というようなことを書いていた一行が、いまだに頭にこびりついてはなれない。批評が注釈だということには、いろいろな解釈があるかもしれないし、そういった飯島さんの真意がどこにあったのかはぼくにはわからないけれど、訓詁注釈の原典批判に通ずるものではないかとおもう。そのへんは辰野隆、鈴木信太郎という二大学殖の門に学んだ飯島さんの言葉らしいとおもうし、批評の方法論のひとつのありかたとして立派なものだとおもうのだ。訓詁注釈のありかたもいろいろあるが、物事を相対的に考え判断のデータをできるだけ幅ひろく検討するということでなければなるまい。
     *
私が、今回のことを書こうと思ったのは、
〝ぼくの批評はコンマンテール(注釈)だ〟に惹かれたからだ。

岡先生の文章を読んで、読んでみようと思っているところだが、
私は飯島正氏の映画批評を読んでいない。
あまり映画評論・映画批評を読むほうでもない。

手元にある映画批評の本といえば、ポーリン・ケイルのものだけだ。
「映画辛口案内──私の批評に手加減はない」、「今夜の映画で眠れない」である。
しかも「今夜も映画で眠れない」は友人に貸したまま戻ってきてない。

ポーリン・ケイルの本を読んで、批評とはここまであるべきなのか、と感嘆した。
岡先生のことだからポーリン・ケイルのこともご存知だったはずだ。

ポーリン・ケイルの「映画辛口案内」(1990年発行)を読んで、
当時のオーディオ評論のなまぬるさに吹きだしたくなったほどだ。

Date: 10月 23rd, 2016
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(飯島正氏のこと・その2)

「オーディオ評論のあり方を考える」は、まったく広告に結びつかない企画である。
地味な記事ともいえる。
写真もない、ただただ文章だけのページが、12ページ続く。
いまこれだけの文章を書ける人が、ステレオサウンドにいるだろうか、と思うとともに、
いま掲載したとして、どれだけの人がきちんと最後まで熟読するだろうか……、とも思う。

岡先生は批評と評論の違いについて書かれ、
英語のcriticとreviewの違いについても書かれた後に、こう続けられている。
     *
いずれにせよ、評論あるいは評論家という言葉の曖昧さが、一億総評論家時代、などというふうに使われることになって、評論そのものの権威的な意味はうすれてしまっているのが今日のジャーナリズムのありかたのようにおもう。
 オーディオについて何か書いたり意見をいうひとはすべてオーディオ評論家だということになっていることを、何もべつに問題にしないというのが現状であるようだ。そういう曖昧なオーディオ評論に〝ありかた〟をもとめるということ自体が、何ともおかしなものだ、とおもうわけである。
     *
ステレオサウンド 26号は1973年春号である。
そこから43年経ち、オーディオ「評論」の現状は、どうなっていったか。
評論そのものの権威的な意味はうすれてしまった、というよりも、
なくなってしまった、というほうがぴったりくる。

だから各オーディオ雑誌が年末に賞を与える記事を連発している、ともいえる。
賞の名称の変化にしてもそうだ。
どこかでなんとか権威的な意味を維持しようとしているのが、現状のオーディオ雑誌の賞である。

ステレオサウンドは創刊50周年、200号を迎えた。
ならば、この岡先生の「オーディオ評論のあり方を考える」を、
いま一度掲載し、それぞれの現在の書き手がどう読んでどう感じ考えたのかを記事にしたらどうだろうか。

広告に結びつくような企画ではないから、やるはずがない。

Date: 10月 23rd, 2016
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(飯島正氏のこと・その1)

飯島正氏はいうまでもなくオーディオ評論家ではなく、映画評論家である。
飯島正氏のことを、岡先生がステレオサウンド 26号に書かれている。
岡先生も映画評論をやられていた。
映画雑誌「映画世界」の編集長、「映画の友」の編集次長もつとめられていた。

岡先生は、評論家という言葉をきらわれていた。
これもステレオサウンド 26号にある。
     *
 ぼくは評論家という言葉がきらいである。日頃、映画評論家といわれたり、音楽評論家といわれたり、オーディオ評論家といわれたりしているわけだが、そのたびに背筋に冷たいものがはしるヘンな気持になってしまう。そうじゃありませんというと、ではなんだということになる。それについて自分の考えていることを説明すると、ひじょうにながくなるので、いつもめんどうくさくなってやめてしまおうという気持におそわれるのだ。だから、評論家などといわれると、何となくニヤニヤして、まあそんなところでしょうというような表情をしているより仕方がない。〝評論〟とか〝評論家〟という言葉はおよそ便利なものだ。わけのわからない曖昧な言葉だ。
 映画のことを書いていた頃、自分は映画批評家のつもりであった。その後、音楽やオーディオのことを書くようになった頃、自分では批評家だという意識をもったことはかつてない。批評というに値するほどの文章は書いたおぼえがないからである。意見をのべるということがそのまま批評の同義語として通ずるものであるなら、こんな楽なことはない、といささか後ろめたい思いがするほどである。映画のことは本気になって勉強したつもりであったが、音楽やオーディオの方はもともと好きが昂じて、何やかと書いていたというにすぎない。雑文家の程度と自分ではおもっているのである。ただし、そんな雑文でなにがしの原稿料をちょうだいしてゆくからには、それだけの勉強めいたことはいささかしたつもりだ。けれど、批評というに値するような文章を意識して書くには、もっと勉強しなければダメである。だから、ぼくは、映画批評家だと思ってきたけれど、音楽批評家だともオーディオ批評家だとも、つゆ思ったことがない。
     *
これは26号から短期連載が始まった「オーディオ評論のあり方を考える」の冒頭からの引用だ。
この連載は27号が菅野先生、30号が上杉先生、31号が岩崎先生である。

26号の岡先生の文章には、大見出しというか副題として、
「オーディオ機器は音楽に奉仕するべきものだということについての管見」となっている。

管見とは、管の穴から見る意であり、見識がせまいこと、
自分の知識・意見をへりくだっていう語、と辞書に載っている。

岡先生が、あえて管見と使われている。
岡先生のことを黒田先生は、こう書かれていた。
     *
岡さんは、決して大袈裟な、思わせぶりなことをいわない。資料を山とつみあげて苦労の末さがしあてた事実をも、さらりとなにげなく書く。
 この本はそうやって書かれた本である。一行一行がどしりと重い。したがってこの本は、その重さを正しく計って読むべき本である。レコードについて多少なりともつっこんで正確に考えようとする人にとって、この本は、常に身近におくべき本である。そして、ことあるたびごとに、くりかえし読みたくなる本である。
     *
ステレオサウンド 60号に載っている「岡さんの本」からの引用だ。
岡先生がどういう人であったのかは、ぜひ60号の黒田先生の「岡さんの本」を読んでいただきたい。

JBLのジョン・アーグルは、岡先生のことをDr.Oka(ドクター岡)と呼んでいた、と聞いている。
日本に行けば岡先生と会える、それをジョン・アーグルは楽しみにしていた、とも聞いている。

Date: 10月 23rd, 2016
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その68)

「オーディオあとらんだむ」では、
トーレンスのすごさと、スピーカーのパトリシアン800のすごさについて書かれているけれど、
The Goldのすごさについては書かれていない。

コリン・デイヴィスの「春の祭典」でのすごさについて書かれている。
瀬川先生が熊本のオーディオ店でかけられたのは、
コリン・デイヴィスのストラヴィンスキーではあったが、
記憶違いでなければ「春の祭典」ではなく、こちらは「火の鳥」だった。

当時、コリン・デイヴィスのストラヴィンスキーのバレエ三部作の録音で、
「春の祭典」と「火の鳥」は非常に優秀な録音という評価が与えられていた。

ほんとうにそうだと思っている。
あの時聴いた「火の鳥」のすごさは、
瀬川先生がM氏のリスニングルームでの「春の祭典」には及ばないところがあるだろうが、
それでもそれまで聴いた音の中で、圧倒的にすごかった。

瀬川先生は《まさに「体験」としか言いようのないすごさ》と表現されている。
私も、その時、そう感じていた。
4343から鳴ってくる音を聴いている、というよりも、
体験している、としか表現しようのないすごさの音だった。

当時、高校生だった私は、放心していた。
ここまでオーディオはすごいのだ、と実感できたこともあった。
いまの耳で聴けば、こまかな欠点も気づくはずだろうが、
そんなことを関係ない、といえるだけの圧倒的なすごさがあったし、
それに打ちのめされた。

ただこの時は、トーレンスのリファレンスのすごさゆえだ、と思っていた。
だから、家までの帰り途(バスで約一時間ほどかかる)、
パワーアンプがマークレビンソンのML2だったら、もっとすごい音だったかも……、
そんなことも考えないわけではなかった。

まだ若かった、というか、青二才だった。

Date: 10月 23rd, 2016
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その67)

いまでこそ、であるのだが、10代のころの私にとっては、
ボンジョルノよりもマーク・レヴィンソンがつくるアンプの方に憧れていた。

それには瀬川先生の影響が強い。
何度も書いているように、そのころのマークレビンソンの音とGASの音は、
女性的と男性的というふうに、アメリカの最先端のアンプでありながらも性格は対照的であった。

そんな私が、ある日突然、SUMOのThe Goldを買うに至ったのも、
瀬川先生の影響があってなのだ。

そのころ瀬川先生はFMfanに「オーディオあとらんだむ」という連載を書かれていた。
私はこの連載が楽しみで、当時あったFM誌の中からFMfanを選んでいた。

その「オーディオあとらんだむ」で書かれていることが、
読んだ時からずっと頭の中に残っていた。
     *
 トーレンスは、スイスおよび西ドイツにまたがる著名なターンテーブルのメーカー。プロ用のEMTと同じ工場で製品を作っている。社歴もあと2年で100年を迎えるという老舗。
 このメーカーは、一貫してベルトドライブ式のターンテーブルを作り続けてきた。いわゆる業務用でない一般向けのターンテーブルとしては、世界で最も優秀な製品のひとつ、と高く評価されていた。しかしここ数年前は、日本の生んだDD(ダイレクトドライブ)式に押されて、世界的に伸び悩んでいたようだ。
 そのトーレンスが、昨年のこと、突然、「リファレンス」と名づけて、ものすごいターンテーブルを発表した。最初は市販することを考えずに、社内での研究用として作られたために、もし売るとしたらどんなに高価になるか見当もつかない、ということだったが、ことしの9月にようやく日本にほんの数台が入荷して、その価格はなんと358万円! たいていの人はびっくりする。
 トーレンス社の研究用としてはおもに2つの目的を持っていて、ひとつは、ベルトドライブシステムの性能の限界を究めるため。もうひとつは、世界各国のアームとカートリッジを交換しながら、プレイヤーシステム全体を研究するため。
 しかしこの2点が、私たちオーディオ愛好家にとっても、きわめて興味深いテーマであったために、発売を希望する声が世界中からトーレンス社に寄せられて、ついに市販化に踏み切ったのだという。
 現在、ここまで性能の向上したDDターンテーブルがあるのに、350万円も投じて、いったい、ターンテーブルを交換してどういう効果があるのか──。たいていの人がそう思うのは当然だ。
 だが、市販されている相当に高級なプレイヤーシステムと、この「リファレンス」とで、同じレコードを載せかえ、同一のカートリッジをつけかえて聴き比べてみると、ターンテーブルシステムの違いが、音質をこんなにまで変えてしまうのか、と、びっくりさせられる。第一に音の安定感が違う。ビニールのレコードのあの細い音溝を、1~2グラムという軽い針先がトレースしているという、どこか頼りない印象は、ローコストのプレイヤーでしばしば体験する。ところが「リファレンス」ときたら、どんなフォルティシモでも、音が少しも崩れたりせず、1本の針が音溝に接しているといった不安定な感覚を聴き手に全く抱かせない。それどころか、消え入るようなピアニシモでも、音の余韻がほんとうに美しく、かすれたりせずにしっとりとどこまでも消えてゆく。大型スピーカーの直前に置いて、耳がしびれるほどの、聴き手が冷汗をかくほどの音量で鳴らしても、ハウリングを生じない。またそれだからいっそう音が安定して、いわゆる腰の座りのいい音がするのだろう。
 詳しいことは既に、ステレオサウンド誌56号に紹介した通り、一愛好家としては恵まれすぎているほどの時間と機会を与えられて試聴したが、なにしろこの音は、すごい、としかいいようがない。いや、すごいといっても、決して聴き手を驚かせるようなドキュメンタルな音が鳴るばかりでなく、むしろ上述のような、ピアニシモの美しさのほうをこそ特筆すべきではないかとさえ思う。
 そういう次第で、この音を十分よく聴き知っているつもりの私が、つい先日、大変な体験をした。
 スピーカーがエレクトロボイスの、「パトリシアン800」。アンプはJBLのSG520(旧製品のプリアンプ)とSUMO社の「ザ・ゴールド」。こういう組み合せで聴いておられる一愛好家のお宅で、プレイヤーをこの「リファレンス」に替えて試聴したときのことだ。たいていの音には驚かなくなっている私が、この夜の音だけは、永いオーディオ体験の中の1ページに書き加える価値のあるほどの、まさに冷汗をかく思いのすごい音、を体験した。聴いた、のではない。まさに「体験」としか言いようのないすごさ。
 例えば、1976年録音のコリン・デイヴィスの「春の祭典」(フィリップス)。第2部終章の、ティンパニーとグラン・カッサの変拍子の強打音の連続の部分──。何度もテストに使って、結構「聴き知っていた」つもりのレコードに、あんな音が入っていようとは……。
 グラン・カッサ(大太鼓)が強く叩かれる。その直後にダンプして音を止める部分が、これまではよくわからなかった。当然、ダンプしないで超低音の振動がブルルルン……と長く尾を引いているところへ、ティンパニーが叩き込んだ音が重なってくる。そうした、低音域での恐ろしく強大な音が重なり、離れ、互い違いにかけあう音たちが、まるでそのスピーカーのところで実際のティンパニーやグラン・カッサが叩かれているかのような、部屋全体がガタガタ鳴り出すような音量で、聴き手を圧倒してくる。
 居合わせた数人の愛好家たちは、終わってしばらくのあいだ、口もきけないほどのショックを受けたらしい。次の日、私はすぐに、日本フォノグラム(フィリップス)の新部長に電話をかけた。私たちは、まだフィリップスの音をほんの一部しか聴いていないらしいですよ……と。
 スピーカーもすごかったし、そのスピーカーをここまで鳴らし込むことに成功されたM氏の感覚もたいへんなものだ。
 そしてしかも、そういうシステムであったからこそ、トーレンス「リファレンス」が、もうひとつ深いところで、いままで聴くことのできなかった新しい衝撃を与えてくれたのだろう。
 いくら音がいいといっても、本当に350万円の価値があるのだろうか、と、誰もが疑問を抱く。
 しかし、あの音をもし聴いてみれば、たしかに、「リファレンス」以外のプレイヤーでは、あの音が聴けないことも、また、誰の耳でもはっきり聴きとれる。
 この夜の試聴は、「リファレンス」の非売品のサンプルであったため、プレイヤーは翌朝、M氏のお宅から引き上げられた。
 M氏はもう気抜けしてしまって、本当に「リファレンス」を購入するまでは、もうレコードを聴く気が起きないといわれる。
 良い音を一旦聴いてしまうと、後に戻れなくなるものだ。
     *
ここに登場するM氏は、熊本在住の医師である。
瀬川先生の手術を担当された方でもある。

瀬川先生がM氏のリスニングルームで、冷汗をかく思いのすごい音、を体験される前に、
これに近いシステムで、熊本のオーディオ店で、私はトーレンスのリファレンスの音を聴いた。

鳴らされたのは瀬川先生。
スピーカーはJBLの4343、パワーアンプはThe Gold、
コントロールアンプはLNP2で、プレーヤーがリファレンスだった。

この時が、瀬川先生に会えた最後の日となった。

Date: 10月 22nd, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(パイオニア SH100・その4)

パイオニアの創立者である松本望氏は、1988年7月15日に逝去されている。
ステレオサウンド 88号に、菅野先生が「松本 望氏を悼む」を書かれている。

ここにステレオフォンSH100のことが出てくる。
     *
 ステレオフォンという、たしか、昭和三十四年頃だったと思うが、ステレオレコードをサウンドボックスで再生する機械には、まだ強い執着をもっておられたようだ。アンプなしのアクースティック・ステレオレコード再生装置であったが、確かにダイレクトでピュアーな音がしたものだった。
     *
モノーラルのころからオーディオマニアだった人ほど、
モノーラルからステレオへの移行は遅かった──、という話を見たり聞いたりしている。

凝りに凝った再生装置をもうひとつ一組用意するのが大変だったのが、その理由である。
当時はメーカー製を買ってシステムを組むのではなく、
自作して、というのが主流であったからこその理由といえよう。

SH100はそういう人たちに、
ステレオレコードの良さを手軽に体験してもらおう、という売り方を行ったらしい。
それからオーディオマニアでない人たちにも、ステレオレコードという新しい体験をしてもらおう、
という意図もあったそうだ。

そのためもあってだろうか、それにアンプを必要としない、
というのが子供だましのように受け取られたのかもしれない。

SH100は決してそういうモノではないと感じていた。
松本望氏が、まだ強い執着をもっておられたということは、その証しといえるし、
菅野先生の《ダイレクトでピュアーな音がした》は、そのことを裏付けている、と受けとめている。

Date: 10月 22nd, 2016
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その5)

黒田先生がフルトヴェングラーについて書かれている。
     *
 今ではもう誰も、「英雄」交響曲の冒頭の変ホ長調の主和音を、あなたのように堂々と威厳をもってひびかせるようなことはしなくなりました。クラシック音楽は、あなたがご存命の頃と較べると、よくもわるくも、スマートになりました。だからといって、あなたの演奏が、押し入れの奥からでてきた祖父の背広のような古さを感じさせるか、というと、そうではありません。あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます。
(「音楽への礼状」より)
     *
クラシックの演奏家は、フルトヴェングラーの時代からすればスマートになっている。
テクニックも向上している。
私はクラシックを主に聴いているからクラシックのことで書いているが、
同じことはジャズの世界でもいえるだろうし、他の音楽の世界も同じだと思う。

《あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき》
と黒田先生は書かれている。

フルトヴェングラーと同じ時代の演奏家の残した録音すべてがそうであるわけではない。
単に過ぎた時代をふりかえるだけの演奏もある。

時代の忘れ物に気づかさせてくれる演奏──、
私がしつこいくらいに五味先生、岩崎先生、瀬川先生のことを書いている理由は、ここにもある。
私自身が時代の忘れ物に気づきたいからである。

オーディオの世界は、いったいどれだけの時代の忘れ物をしてきただろうか。
オーディオ雑誌は、時代の忘れ物を、読み手に気づかせるのも役目のはずだ。

私にとっての「戻っていく感覚」とは、そういうことでもある。