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Date: 3月 16th, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その6)

《──ああ、針音の出るところまで! そっくり頭の中で鳴ってしまう》
と書かれている。

LPを大切に扱っていても、何かの拍子に疵をつけてしまうことがある。
青くなる瞬間だ。

買いなおそうと思いつつも、学生のころは買いたいレコードとふところ具合を勘案して、
そのまま聴き続けることもあった。
針飛びするほどならば買いなおすけれど、それほどでもない。

LPの疵。
カチッ、カチッという疵音。
五味先生が書かれている。
     *
 フランクのソナタは、言う迄もなく名曲である。LP初期のころ、フランチェスカッティとカサドジュのこのイ長調のソナタを聴きに、神保町の名曲喫茶へよく私は行った。昭和二十七年の秋だった。当時はLPといえば米盤しかなく、たしか神田のレコード店で一枚三千二百円だったとおもう。月々、八千円に満たぬ収入で私達夫婦は四畳半の間借り生活をしていた。収入は矢来町にある出版社の社外校正で得ていたが、文庫本を例にとれば、一頁を校正して五円八十銭もらえる。岩波文庫の〝星〟ひとつで大体百ページ、源泉徴収を差引けば約五百円である。毎日、平均〝星〟ひとつの文庫本を校正するのは、今と違い旧カナ使いが殆どだから大変な仕事であった。二日で百ページできればいい方だ。そういう収入で、とても三千円ものレコードは買えなかった。当時コーヒー代が一杯五十円である。校正で稼いだお金を持って、私はフランクのソナタを聴きに行った。むろん〝名曲喫茶〟だから他にもいいレコードを聴くことは出来る。併し、そこの喫茶店のお嬢さんがカウンターにいて、こちらの顔を見るとフランクのソナタを掛けてくれたから、幾度か、リクエストしたのだろう。だろうとはあいまいな言い方だが私には記憶にない。併し行けば、とにかくそのソナタを聴くことができたのである。
 翌年の一月末に、私は芥川賞を受けた。オメガの懐中時計に、副賞として五万円もらった。この五万円ではじめて冬用のオーバーを私は買った。妻にはこうもり傘を買ってやった。そうして新宿の中古レコード屋で、フランクのソナタを千七百円で見つけて買うことが出来た。わりあい良いカートリッジで掛けられたレコードだったように思う。ただ、一箇所、プレヤーを斜めに走らせた針の跡があった。疵である。第三楽章に入って間なしで、ここに来るとカチッ、カチッと疵で針が鳴る。その音は、私にはこのレコードを以前掛けていた男の、心の傷あとのようにきこえた。多分、私同様に貧しい男が、何かの事情で、このレコードを手離さねばならなかったのであろう。愛惜しながら売ったのだろう。私の買い値が千七百円なら、おそらく千円前後で手離したに違いない。千円の金に困った男の人生が、そのキズ音から、私には聴こえてくる。その後、無疵のレコードをいろいろ聴いても、第三楽章ベン・モデラートでピアノが重々しい和音を奏した後、ヴァイオリンがあの典雅なレチタティーヴォを弾きはじめると、きまって、架空にカチッ、カチッと疵音が私の耳にきこえてくる。未知ながら一人の男の人生が浮ぶ。
(フランク『ヴァイオリン・ソナタ』より)
     *
《勿論、こういう聴き方は余計なことで、むしろ危険だ》とも書かれている。
そのとおりである。
けれども……、である。
それでも……、だ。

Date: 3月 14th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(中古オーディオ店の存在・その1)

オーディオがブームだったころ、吉祥寺にはオーディオがいくつかあった。
オーディオガラという、鉄製のプレーヤーキャビネットを製作しているところもあったし、
パルコの地階にはダイナミックオーディオもあったし、ジャズ喫茶も多かった。

住みたい街No.1である吉祥寺(最近の調査ではそうではなくなったようだが)に、
オーディオ店はつい最近までオーディオユニオンだけだった。

今日西荻窪に用があり、吉祥寺まで五日市街道を歩いていた。
いつもなら途中で左に曲り駅に向うのだが、今日は少しまっすぐ歩いた。
するとハードオフが見えてきた。

ハードオフについての説明はいらないだろう。
ハードオフの店舗が少しずつ増えてきたころは、
店舗を見付けては覗いていた。

そのころはオーディオ的には穴場といえるところもあった。
これが、この値段なの? ということが時々あった。
でもここ数年、中古オーディオの価格は、他のオーディオ店と対して変らなくなった。
そうなるとハードオフから足は遠ざかる。

理由はオーディオ機器の扱いがぞんざいだからだ。
他の中古オーディオ店がていねいに扱っていると見えるほどに、
ハードオフの扱いはぞんざいだった。

ハードオフもいくつも店舗があるからすべての店舗がそうであるとはいわないが、
少なくとも私が行ったことのある店舗はすべてぞんざいとしか思えなかった。

けれど吉祥寺にできたハードオフ オーディオサロンは、違っていた。
だから、ここで書いている。

まず建物が新しい。
三階にオーディオサロンがある。
店舗が広いから、ゆったりと展示してある。

これまでのハードオフのぞんざいな扱いではない。
オーディオ機器として扱っている店舗である。

ハードオフという名称を使わない方がいいのでは……、と思ってしまうほど、
他の店舗とは違って見える。

ちょっと心惹かれるモノがいくつかあった。

見ていて、楽しい、と感じていた。
あの人には、こんなモノがあったよ、
また別の人には、これがあったよ、と写真を撮ってメールしたくなる気分になっていた。

オープンして数ヵ月くらいだから、品揃えもいいのかもしれない。
今後、どうなっていくのかはなんともいえないが、
少なくとも吉祥寺にオーディオの活気が戻ってくるのかもしれない、とは思える。

Date: 3月 14th, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その5)

音も音楽も所有できない、と考えている私でも、
音楽を所有できる瞬間はある、と思っている。
     *
「もう二十年も昔の事を、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるか、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついてゐた時、突然、このト短調シンフォニィの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。」
「モオツアルト」の中でも最も有名な一節である。なに、小林秀雄でなくなって、俺の頭の中でも突然音楽が鳴る。問題は鳴った音楽のうけとめかただが、それを論じるのが目的ではない。
 だいたいレコードのコレクションというやつは、ひと月に二〜三枚のペースで、欲しいレコードを選びに選び抜いて、やっと百枚ほどたまったころが、実はいちばん楽しいものだ。なぜかといって、百枚という文量はほんとうに自分の判断で選んだ枚数であるかぎり、ふと頭の中で鳴るメロディはたいていコレクションの中に収められるし、百枚という分量はまた、一晩に二〜三枚の割りで聴けば、まんべんなく聴いたとして三〜四カ月でひとまわりする数量だから、くりかえして聴き込むうちにこのレコードのここのところにキズがあってパチンという、ぐらいまで憶えてしまう。こうなると、やがておもしろい現象がおきる。さて今夜はこれを聴こうかと、レコード棚から引き出してジャケットが半分ほどみえると、もう頭の中でその曲が一斉に鳴り出して、しかもその鳴りかたときたら、モーツァルトが頭の中に曲想が浮かぶとまるで一幅の絵のように曲のぜんたいが一目で見渡せる、と言っているのと同じように、一瞬のうちに、曲ぜんたいが、演奏者のくせやちょっとしたミスから──ああ、針音の出るところまで! そっくり頭の中で鳴ってしまう。するともう、ジャケットをそのまま元のところへ収めて、ああ、今夜はもういいやといった、何となく満ち足りた気持になってしまう。こういう体験を持たないレコード・ファンは不幸だなあ。
     *
瀬川先生の「虚構世界の狩人」からの引用だ。

確かに、こういう体験を持っている。
それも瀬川先生が書かれているように、学生のころはひと月に一枚くらいしか買えなかった、
それが少しずつ増えてきて、ニ〜三枚のペースで買えるようになった。

わずかだったコレクションも増えていく。
確かに百枚くらいまでは、こうい体験があった。

コレクションが少ないからくり返し聴く。
そうすることで細部までいつのまにか記憶している。
そこまで来て、こういう体験はふいに訪れる。

頭の中で一斉に、そのレコードにおさめられている音楽が鳴り出す。
聴かずとも満ち足りた気持になる。

それはほんの一瞬である。
一瞬のうちに、音楽が一斉に鳴り出すからだ。

この一瞬こそが、音楽を所有できる、といえる。
けれど、それは一瞬で終ってしまう。

Date: 3月 13th, 2017
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(たまのテレビで感じること・その1)

テレビは持っていない。
テレビなしの生活のほうが、テレビありの生活よりも倍ほど長くなった──、
と書くとテレビ嫌いのように思われるだろうが、
むしろ逆でテレビがあると、一日見ているからテレビを持たない生活にしているだけである。

友人宅に遊びに行った時にテレビがあって、何かの放送が流れていると、
かなり真剣に見ているようである。本人にその気はないのだが、
数人の友人から「なに、そんなに真剣にテレビを見てるんだ」といわれたこともある。

ほんとうにたまにしか見ないから、そんなふうに見えるのかもしれないし、
たまにしか見ないから、ついていけないことがある。

お笑い番組は、私にとってそうである。
30年以上テレビなしの生活を続けていると、まったく笑えない。

お笑い番組が好きな知人が大笑いしているのを見ても、こちらはクスッとも笑えない。
私がテレビを見る時間はわずかだし、その中でお笑い番組はさらに少ないのだから、
どの番組なのかは書かないし、どの芸人がそうなのかとも書かない。
他のお笑い番組ならば、笑えるのかもしれない、と思いつつも、
私がテレビを見なくなっているあいだに、
お笑い番組はテレビ(お笑い番組)を見続けていないと笑えないようになってしまったのかと思った。

一見さん、おことわり的なものを感じる。
芸人が笑いを追求して、マニアックな方向に行ってしまったようには感じない。

先日、茂木健一郎氏が、日本のお笑い芸人に対して否定的な発言をして話題になった。
その指摘が正しいのかどうかは、テレビを見ていない私にはなんともいえないが、
私がたまに見るお笑い番組に感じてしまうことと無関係でもないようだ。

オーディオにも、そういうところがないと言い切れるだろうか。

Date: 3月 13th, 2017
Cate: 輸入商社/代理店

輸入商社なのか輸入代理店なのか(OPPOと逸品館のこと・その4)

メーカーにとっても輸入元にとっても、自社製品、扱い製品の評価が高いことに文句はない。
つねに高い評価ばかりが得られるわけではない。

低い評価はないにこしたことはないが、
低い評価がなされたときにメーカーと輸入元は、受けとめ方に差があるように感じる。

メーカーは、評価の対象となったオーディオ機器を開発し製造している。
輸入元は、輸入しているだけである。開発・製造しているわけではない。

この立場の違いが、
低い評価(というよりメーカー側が気づいていない長所と短所)の受けとめ方に関わってくる。

短所をできるだけなくして、
さらに長所を活かして改良モデルを開発することができるのがメーカーである。
すべてのメーカーがそうだとは思っていないが、多くのメーカーがそうであろう。

けれど輸入元はどうだろうか。
低い評価が拡散してしまうことで、売上げに影響を与えるかもしれない。
そこでの低い評価に、建設的な意見があったとしても、
そのことを海外のメーカーに伝え、よりよい製品への改良していこうと考えているところもあれば、
そうでない輸入元もあるはずだ。

どこの輸入元が前者であり、後者がどこだとかは書かないし、
輸入元それぞれの内情を知っているわけでもない。
それでもこれまでの海外製品の扱い方をながく見ていると、
ここは前者だろうな、あそこは後者だろうな、というぐらいの見当はつく。

今回の逸品館のOPPOのSonica DACの評価が妥当なのかは、
Sonica DACの音を聴いてない私には、これ以上のことはいえない。

それでも逸品館の評価からOPPOの輸入元OPPO Digitalが得られることはあったのではないだろうか。
それに販売店と輸入元の関係だから、文字だけの一方的なものではなく、
直接の話もできるのだから(実際に電話で話されているのだから)、落し所はあったように思う。

Date: 3月 13th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(贅沢な環境)

三日前の「会って話すと云うこと(その12)」で書いた
「若い才能は育ってきているけれど、贅沢な環境は失われつつある」。

昨晩「瀬川冬樹という変奏曲(その6)を書いていて、気づいたことがある。
瀬川先生はマランツのModel 7を買ったときのことを書かれている。
JBLのSA600を輸入元の山水電気から借りて、初めてその音を聴かれたことを書かれている。
JBLの175DLH、375と蜂の巣ホーンのことを書かれている。

そこには瀬川先生の驚きがある。
     *
 何度も書いたように、アンプの回路設計はふつうにできた。デザインや仕上げにも人一倍うるさいことを自認していた。そういう面から選択を重ねて、最後に、マランツの回路にも仕上げにも、まあ一応の納得をして購入した。さんざん自作をくりかえしてきて、およそ考えうるかぎりパーツにぜいたくし、製作や調整に手を尽くしたプリアンプの鳴らす音というものは、ほとんどわかっていたつもりであった。
 マランツ7が最初に鳴らした音質は、そういうわたくしの予想を大幅に上廻る、というよりそれまで全く知らなかったアンプの世界のもうひとつ別の次元の音を、聴かせ、わたくしは一瞬、気が遠くなるほどの驚きを味わった。いったい、いままでの十何年間、心血そそいで作り、改造してきた俺のプリアンプは、一体何だったのだろう。いや、わたくしのプリアンプばかりではない。自作のプリアンプを、先輩や友人たちの作ったアンプと鳴きくらべもしてみて、まあまあの水準だと思ってきた。だがマランツ7の音は、その過去のあらゆる体験から想像もつかないように、緻密で、音の輪郭がしっかりしていると同時にその音の中味には十二分にコクがあった。何という上質の、何というバランスのよい音質だったか。だとすると、わたくしひとりではない、いままで我々日本のアマチュアたちが、何の疑いもなく自信を持って製作し、聴いてきたアンプというのは、あれは一体、何だったのか……。日本のアマチュアの中でも、おそらく最高水準の人たち、そのままメーカーのチーフクラスで通る人たちの作ったアンプが、そう思わせたということは、結局のところ、我々全体が井の中の蛙だったということなのか──。
(ステレオサウンド 52号より)
     *
ここには、きっと驚きだけでなく悔しいという感情もあったのではないだろうか。
井の中の蛙だったということなのか──、と書かれている。

当時の、どんな日本のアンプもModel 7には遠く及ばなかったのだから。
そこに悔しいという感情がないはずがない。

そして悔しいというおもいが、
その後の、いま私が贅沢な環境だったと感じている時代につながっていっているはずだ。

Date: 3月 11th, 2017
Cate: 輸入商社/代理店

輸入商社なのか輸入代理店なのか(OPPOと逸品館のこと・その3)

facebookで日本オーディオ協会をフォローしているから、
日本オーディオ協会がシェアした記事(投稿)は、私のfacebookに表示される。

ついさっきfacebbokを見ていたら、日本オーディオ協会がOPPO Digitalの投稿をシェアしていた。
OPPO Digitalは、KADOKAWA運営のASCII.jpの記事をシェアしている。

記事のタイトルは、『品薄で入手難、個人的にも興味があった「Sonica DAC」の実力は?』
Sonica DACの、逸品館の評価に輸入元は噛みついていて、
一方で、ASCII.jpの評価はfacebookでシェアしているわけだから、お気に召したようである。

このタイミングは偶然なのであろう。
にしても、タイミングがよすぎるし、あからさますぎるとも感じる。

輸入元がSonica DACの記事に求めているのは何かがわかりすぎる──、
といったら言い過ぎだろうか。

Date: 3月 11th, 2017
Cate: 輸入商社/代理店

輸入商社なのか輸入代理店なのか(OPPOと逸品館のこと・その2)

今回の逸品館とOPPOの件を読んでいて、思い出したことがある。

私がまだステレオサウンドにいたころ、
あるスピーカーの新製品の記事に対し、輸入元からクレーム的なことがきたことがあった。

柳沢功力氏が、そのスピーカーを担当されていた。
記事に「悪女の深情け」とあった。

もちろんいい意味で使われていた。
けれど、「悪」という一文字が使われていたのが輸入元の気に障ったようだ。

悪女の深情けは、ありがた迷惑だという意で使う、と辞書にはあるが、
そこでは、情の深い音を聴かせる、という意でのことだった。

そのことは前後の文章を読めばすぐにわかることだった。
にも関わらず、クレーム的なことが来た。

柳沢功力氏の話だと、最初は輸入元の担当者も喜んでいた、
けれどとある販売店から、何かをいわれたそうである。
それをきっかけに、ころっと態度が変ってしまった、ということらしい。

当惑とは、こういうことなのか、と当時思っていた。
書かれた柳沢功力氏も編集部も、放っておこう、ということで一致した。

このことは今回の逸品館とOPPOの件とは違うけれど、
輸入元の仕事とは──、について考えるのであれば、似ているというより、
同じであると捉えることもできる。

Date: 3月 11th, 2017
Cate: 輸入商社/代理店

輸入商社なのか輸入代理店なのか(OPPOと逸品館のこと・その1)

昨晩、寝る前にfacebookを見ていたら、えっ?、と思うようなことがあった。
逸品館がOPPOの取り扱いをやめる、とそこには書いてあった。

リンク先のソナス・ファベールのVenere Sの試聴記事を読む。
昨晩は酔いが残っていたら、そのまま寝てしまったが、
そうでなければ、そのままブログを書いていた。

こんなことをやる輸入元があるのかと思った。
記事の最後に太字で書き加えられている。
その冒頭に、次のように書かれてあった。
     *
※このページを最初書いたときに、「oppo」社の商品を低く評価したとoppo Japanに判断され、即時「逸品館でoppoの製品は売らせない。即時契約を解除する」旨の連絡が、oppo代表取締役から、弊社の「社員宛」にありました。文章の不適切と思われる部分を訂正し、翌日こちらから電話しましたが、契約解除の方針は変わらないと言うことでした。
     *
私が逸品館の、そのページを読んだときにはすでに「不適切と思われる部分」が訂正されたあとである。
最初は、どう書かれていたのかはわからない。

それに逸品館の言い分はウェブサイトにあるが、
この件に関するOPPOの輸入元の言い分はない。

だから逸品館の言い分だけを読んで──、ということは控えたいが、
それでも、輸入元の判断・行動には首を傾げざるをえない。

今回のことは輸入元として賢明なことなのだろうか。
輸入元の仕事とは──、ということをさらに考えるきっかけともいえる。

Date: 3月 10th, 2017
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その12)

今日は飲み会(パーティか)だった。
表参道にあるとある事務所での、それは行われていた。

私としては、まあまあの量飲んだので、いまもほどほどに酔っている。
酔っている状態で、今日は書いている。
このブログを書くために途中で抜け出して帰ってきた。

30人以上の人が来ていた。
すごいにぎわいだった。

何人かの方と話した。
あるメーカーの人がいた。
このブログを読んでいる人ならば、みな知っているメーカーである。

そのIさんが、
「若い才能は育ってきているけれど、贅沢な環境は失われつつある」
といわれた。

まったく同感である。
オーディオ業界は、若い才能が育ってきているか疑問も残るが、
他の分野では確かに若い才能は育ってきている、といえるだろう。

けれど贅沢な環境は失われつつある、のもまた事実である。

オーディオの場合、特に失われつつある、といえるかもしれない。

いろんな人が集まる場になれているわけではない。
今夜は、とある女性に「気弱にならない」ともいわれた。
そういうタイプの私でも、誘いがあると出掛けていくのは、
やはり人と会って話すのは楽しいからである。

ステレオサウンドにいたら、多くの人と会えたであろうが、
それはすべて仕事が関係してのことであり、ステレオサウンドという看板があってのことである。

そういうこととは関係なく、会って話せるというのは楽しい。

Date: 3月 9th, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その4)

音は所有できない。
同じ意味で、音楽も所有できない。

先日、バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」のCDを買った。
一度手離したディスクを久しぶりに聴きたいがためである。

バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」のCDは四枚組である。
私が所有している(できている)のは、
バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」を収めた四枚組のCDである。

それはバーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」という音楽を所有していることにはならない。
あくまでも四枚組のCDを所有している、ということに留まる。

CDにしてもアナログディスクにしても、他のメディアだろうが、
そのメディアに記録されている音楽を聴くためには、再生装置が必要となる。

たとえば本。
本とレコードは似ている、といえば似ている。
けれど本を読むのに、レコードを聴くのに必要な再生装置の類は要らない。

その本さえあれば、まっくら闇でもなければ読める。
本は、レコードよりも、よりダイレクトといえる。
それでも、その本におさめられている作品を所有したとはいわないし、思わない。

いま私は「3月のライオン」に夢中になっている。
単行本が手元にある。
購入した本であるが、だからといって「3月のライオン」を所有している、
所有できた、とはまったく思わない。

どんな本でもいい。
そこにおさめられている作品を所有している(できた)と思った人はいるのだろうか。

Date: 3月 8th, 2017
Cate: 戻っていく感覚

もうひとつの20年「マンガのDNA」と「3月のライオン」(その1)

いまは3月だから、という勝手な理由をつけて「3月のライオン」については、
遠慮することなく書こう、と思っている。
少なくとも私の中では、オーディオと無関係なことではないのだから。

「3月のライオン」を読んでいると、なぜ、こんなにもハマっているのか、と自問することがある。

「3月のライオン」の単行本の巻末には、いわゆるあとがきといえるページがある。
本編とは違うタッチで描かれた短いマンガが載っている。
筆者近況ともいえる内容のこともある。

十巻の、そんなあとがきを読んでいて、
やっぱりそうだったのか、と納得できた。

そのあとがきは入院・手術のことから始まる。
かなり大変だったのだろうと思う。

あとがきに、こんな独白がある。
     *
身体はしんどかったのですが
素晴らしい事もありました

今年(2014年)5月に
朝日新聞社さんの
「手塚治虫文化賞マンガ大賞」
いただく事ができました

「こんなにも何かを欲しがっては
呪われてしまうのでは」と思う程
心を占めていた賞でした

受賞の報せを
きいた時

こんらんして どうようして
30分以上 立ったままで
大泣きしました
     *
作者の羽海野チカは、初めて買ったマンガが「リボンの騎士」で、
小さかったころ夢中になってまねて描いていた、と。

羽海野チカは描き続けてきたのだろう。
私にもそんな時が、短かったけれどあった。

手塚治虫のキャラクターをまねてよく描いていた。
けれどそこで終っている。

そこで終った人間と描き続けている人間とでは、描いた線の数はものすごい差がある。
私に描けたのは、
手塚治虫のキャラクターを表面的にまねるためだけの線でしかない。

羽海野チカの描く線は、そんな域には留まっていない。

Date: 3月 7th, 2017
Cate: 老い

老いとオーディオ(余談・その7)

グラシェラ・スサーナの「抱きしめて」を聴いたのは、中学生のころだった。
スサーナが情感をこめて「抱きしめて」と歌い出す。

この最初の「抱きしめて」を聴いて、どきりとしたことは、いまも憶えている。
とはいえ、ここでの「抱きしめて」に込められた意味を正しく理解していたとはいえない。

なにせ中学生。そんな経験はないのだから、あくまでも想像での理解にすぎなかった。
それから月日が経ち、久しぶりに聴いたスサーナの「抱きしめて」は、
自分の経験を自然とそこに重ねていて、初めて聴いたときよりも、
もっともっとどきりとした。

思い出して後悔もした。

そのスサーナの「抱きしめて」を、
マイケルソン&オースチンのTVA1は、情感たっぷりに鳴らす。

「抱きしめて」は日本語の歌であっても、歌っているグラシェラ・スサーナはアルゼンチンの人。
日本人にはない濃密さのようなものがそこにはあって、
そのことをTVA1の音は、より濃く表現してくれる。

それに対してウエスギ・アンプのU·BROS3は淡泊に鳴らす。
若いころは、そこが不満に感じた。

私は真空管アンプでプリント基板を使っているのは、基本的に認めていない。
TVA1はプリント基板を使った配線、U·BROS3はプリント基板を使わずに配線し組み立てられている。

アンプとしての信頼性の高さはU·BROS3は上といえる。
それでもスピーカーから鳴ってくる音だけで判断すれば、
グラシェラ・スサーナの「抱きしめて」だけで判断しても、
TVA1を若いころの私は、何の迷いもなく選んだ。

けれどさらに歳を重ねていき、40を越えたころからU·BROS3の表現も、TVA1の表現も、
どちらも魅力的に感じられるように変ってきたことに、
どちらの「抱きしめて」も等しく受け入れられるように変っていることに気づいたわけだ。

Date: 3月 6th, 2017
Cate: ディスク/ブック, 老い

「トリスタンとイゾルデ」(バーンスタイン盤)

本は書店で買うようにしているのに、
CDはなぜかインターネット通販で買うことが圧倒的に多い。

今日ひさしぶりに新宿にあるタワーレコードに行った。
タワーレコードは独自に、廃盤になってしまった録音を復刻しているのはご存知のとおり。

バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」のその中に入っていたことを、
店舗に行って気づいた。

「この曲の新境地を示したバーンスタイン唯一のワーグナーのオペラ全曲盤が、国内盤で約23年振りに復活!」
と帯にある。

なぜか、ずっと廃盤のままだった。
ハイライト盤はあったけれど。

数ある「トリスタンとイゾルデ」のディスクで、屈指の名演かといえば、そうとは思っていないけれど、
このバーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」は執拗さという点で、
異質といえるのかもしれない。

この執拗さは、老いからくるものだろうか。
そうだろうと思う。
だからだろう、40をすぎたあたりから、無性に聴きたくなった。

けれど廃盤のままでかなわなかった。
発売になってすぐに買って聴いていたバーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」だったが、
当時私は20代、最後まで聴き通すことがしんどく感じられた。

二、三回にわけて全曲を聴いたが、一回で最後まで聴き通したことはなかった。
そんなこともあって、他の事情もあって、手離していた。

いまなら、最後まで聴き通せるはずである。

Date: 3月 5th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(組合せを考えていて)

別項「ラジカセのデザイン!」(余談)を書いている。
また古い機種を持ち出して書いている、と思う人がいるのはわかっている。

私だってもっと新しいオーディオ機器で、同じことが書けるのであればそうする。
おまえの実力がそれまでなんだよ、といわれようと、
4310と1060の組合せと同じことを、
現在のオーディオ機器で書けるだろうか、となると、なかなか難しい。

なので昔のオーディオ機器のことを、あえて書いているし、
書きながら、ほんとうに豊かになっているのか、とそこでも考える。