所有と存在(その5)
音も音楽も所有できない、と考えている私でも、
音楽を所有できる瞬間はある、と思っている。
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「もう二十年も昔の事を、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるか、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついてゐた時、突然、このト短調シンフォニィの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。」
「モオツアルト」の中でも最も有名な一節である。なに、小林秀雄でなくなって、俺の頭の中でも突然音楽が鳴る。問題は鳴った音楽のうけとめかただが、それを論じるのが目的ではない。
だいたいレコードのコレクションというやつは、ひと月に二〜三枚のペースで、欲しいレコードを選びに選び抜いて、やっと百枚ほどたまったころが、実はいちばん楽しいものだ。なぜかといって、百枚という文量はほんとうに自分の判断で選んだ枚数であるかぎり、ふと頭の中で鳴るメロディはたいていコレクションの中に収められるし、百枚という分量はまた、一晩に二〜三枚の割りで聴けば、まんべんなく聴いたとして三〜四カ月でひとまわりする数量だから、くりかえして聴き込むうちにこのレコードのここのところにキズがあってパチンという、ぐらいまで憶えてしまう。こうなると、やがておもしろい現象がおきる。さて今夜はこれを聴こうかと、レコード棚から引き出してジャケットが半分ほどみえると、もう頭の中でその曲が一斉に鳴り出して、しかもその鳴りかたときたら、モーツァルトが頭の中に曲想が浮かぶとまるで一幅の絵のように曲のぜんたいが一目で見渡せる、と言っているのと同じように、一瞬のうちに、曲ぜんたいが、演奏者のくせやちょっとしたミスから──ああ、針音の出るところまで! そっくり頭の中で鳴ってしまう。するともう、ジャケットをそのまま元のところへ収めて、ああ、今夜はもういいやといった、何となく満ち足りた気持になってしまう。こういう体験を持たないレコード・ファンは不幸だなあ。
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瀬川先生の「虚構世界の狩人」からの引用だ。
確かに、こういう体験を持っている。
それも瀬川先生が書かれているように、学生のころはひと月に一枚くらいしか買えなかった、
それが少しずつ増えてきて、ニ〜三枚のペースで買えるようになった。
わずかだったコレクションも増えていく。
確かに百枚くらいまでは、こうい体験があった。
コレクションが少ないからくり返し聴く。
そうすることで細部までいつのまにか記憶している。
そこまで来て、こういう体験はふいに訪れる。
頭の中で一斉に、そのレコードにおさめられている音楽が鳴り出す。
聴かずとも満ち足りた気持になる。
それはほんの一瞬である。
一瞬のうちに、音楽が一斉に鳴り出すからだ。
この一瞬こそが、音楽を所有できる、といえる。
けれど、それは一瞬で終ってしまう。