Archive for category テーマ

Date: 9月 7th, 2017
Cate: オーディオマニア

五条件(その1)

オーディオ愛好家の五条件を、五味先生があげられている。
「オーディオ巡礼」でも読めるが、私は「五味オーディオ教室」で先に読んでいた。

①メーカー・ブランドを信用しないこと。
②ヒゲのこわさを知ること。
③ヒアリング・テストは、それ以上に測定器が羅列する数字は、いっさい信じるに足らぬことを肝に銘じて知っていること。
④真空管を愛すること。
⑤金のない口惜しさを痛感していること。

これはすぐに憶えた。
そこに書いてあった内容を含めて、憶えた。

②はLPに関することであっても、CDでも同じだ、と思っている。
CDプレーヤーにはアナログプレーヤーのようなスピンドルがないから、
ディスクにヒゲがつくことはない。

それでもトレイにディスクをセットする際、
ぞんざいに置けば、なんとなく音場がきれいに広がらなくなることがときおりある。
CD登場後、しばらくしていわれはじめたディスクの二回かけである。

CDプレーヤーのトレイのディスクを置く個所の形状、
クランパーの仕方、構造によって、二回かけしてもさほど変らないモデルも増えてきているが、
それでもゼロになっているとは思っていない。

同じディスクなのに、さきほどまでの鳴り方と微妙に何かが違うと感じることがなくなってはいない。
そういう時は、トレイを出してもう一度プレイボタンを押してみる。
100%、二回かけしたほうがいいと限らないが、それでも改善されることがあるのも事実だ。

私は、この二回かけがどちらかといえば嫌いで、そんなことをやりたくないから、
トレイにディスクを置く際は、LPにヒゲをつけないのと同じような感覚で扱っている。

Date: 9月 7th, 2017
Cate: ケーブル

結線というテーマ(その2)

スピーカーがフルレンジユニット一発のスピーカーであれば存在しない問題も、
マルチウェイとなり、ネットワークが二次以上(12dB/oct以上の減衰量)となると、
アースの共通インピーダンスという問題が発生してくる。

ならばスピーカーのネットワークをアンバランス型からバランス型にし、
アンプの出力も、アンバランスからバランスにするという方法もあるが、
これはこれで別の問題が出てくる。

バランス型ネットワークを採用したシステムとしては、
過去にパイオニアのExclusive 2401、2402がある。

バランスにした際の問題点に、ここで触れると話が大きく外れるので、
割愛するし、ここではアンバランス型ネットワーク(これが大半である)の話である。

この問題に介しては、別項「サイズ考」で述べたことなので、詳細は省く。
「サイズ考」を読まれれば、アースの共通インピーダンスということでわかっていただけるし、
具体的にどうするのかについても書いている。

ただ「サイズ考」でも文章だけで説明している。
実際の配線の仕方の図を公開しているわけではない。
なので、よく理解できない人もいるとは思う。

そういう人はいまは手を出さないのが賢明である。
自分の頭で考えて、私が以前書いたものを読んで理解してからの方がいい。

わかったつもりになって、
私に直接、そこで生じる問題点(といえないこと)を指摘した人がいた。
いいかげんな断片的な知識での指摘であった。

確かに、この指摘してきた人のレベルと理解力ならば、
どうすればいいのかをじっくり考えることなく表面的にマネてしまうため、
そういう問題が発生しないわけではない。

「サイズ考」では、その指摘に対して答えている。

Date: 9月 7th, 2017
Cate: ケーブル

結線というテーマ(その1)

オーディオ機器同士は、なんらかのケーブルを使って接続しなければならない。
ケーブルは必要不可欠であり、そのケーブルにより音が変るから、
やっかいとも思えるし、ゆえに楽しいともとらえることかできる。

私がオーディオに関心をもち始めた1976年にも、
いくつかのケーブルが市場に出ていた。
とはいえ、昨今のような活況とはいえない。

現在のケーブル市場を活況といっていいものかは措くとして、
少なくとも製品ヴァリエーションは、圧倒的に多くなっている。
価格というダイナミックレンジは、40年前では想像できなかったほどに大きくなっている。

あの時代に、いまの最高価格帯のケーブルが登場してくるなんて想像できていた人はいないはずだ。

高価すぎるといえるケーブルが゛みな優れているわけではない。
そんなケーブルのすべてを聴いているわけではないが、
概ね個性派といいたくなる傾向がある。

ケーブルに対する考えかたは、人によって違うから、
これだけのヴァリエーションに増えた、ともいえるだろう。

これからも、あれこれアピールしてくるケーブルは登場するだろうし、
最高価格に関しても塗り替えるモノが、いくつも出てくるだろう。

そういったケーブルを、仮に理想ケーブルとしよう。
理想のケーブルはいいすぎならば、理想のケーブルに近付いている、ぐらいにしておこう。

しつこいようだが、あくまでも「仮に」である。

そういったケーブルを使うことで、
接続のすべての問題点が解消されるのであれば、まだ理解できる。
だが、現実に理想に近づいたケーブルであっても、
スピーカーシステムとアンプとの接続において、解決できない問題が存在している。

Date: 9月 7th, 2017
Cate: audio wednesday

30年ぶりの「THE DIALOGUE」(その9)

6月のaudio wednesdayで、「THE DIALOGUE」をひさしぶりに聴いて以来、
先月はディスクを忘れたけれど、昨晩も含めて毎回鳴らしている。

いま喫茶茶会記のアンプはマッキントッシュのMA7900。
電子ボリュウムということもあってか、フロントパネル中央のディスプレイには、
減衰量がdBではなく%で表示される。

6月のaudio wednesdayでは、MA7900の表示で、54%あたりが、
音が破綻しないぎりぎりのところと感じた。
もう少し上げられるけれど、少しきわどいところも出てくるであろうと感じられた。

毎回「THE DIALOGUE」を鳴らしているのは、
どこまでボリュウムを上げられるようになるか、というひとつの挑戦である。

7月は60%をこえたあたりまで、いけた。
8月はディスクを忘れていたけれど、他のディスクの鳴った感触から、
もう少し上げられた、という手応えは感じていた。

9月の今回は、70%まで上げた。
喫茶茶会記のスピーカーはアルテック。
ウーファーは416-8Cで、このユニットの能率がシステム全体の能率となるわけだが、
同じユニットを搭載していて、構成もほぼ同じのアルテックのModel 19(後期)は、
出力音圧レベルは102dB/W/mと発表されているが、
聴いた感じでは97dBとか98dBくらいに感じられる。

97dBとしても、いまでは高能率といえる。
そういうスピーカーに、けっこうなパワーを入れている。
来月は、もっと上げる(パワーを入れる)予定だ。

音量でごまかす、みたいなことをいう人が、いまも昔もいる。
確かに比較試聴をしているときのボリュウム設定は、重要である。

デリケートな試聴になればなるほど、音量のわずかな差は、
音がよく聴こえたり、そうでなかったりすることにつながる。

けれど、その音量の違いというのは、わずかである。
「THE DIALOGUE」でやっているのは、そういうことではない。

大音量再生を知性の感じられない行為だ、という人もいるが、
ただボリュウムを上げれば、それでよし、という領域ではない。

使い手(鳴らし手)の、さまざまなことが試される領域であるから、
大音量再生はスリリングである。

Date: 9月 5th, 2017
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(続々・明白なことでさえ……)

三年前に書いたことと同じことをまた書くのか、と私も思う。
思うけれど、三年前よりもいまのほうが良くなっていると感じるのであれば、
くり返し書きはしない。良くなっていると感じないどころか、むしろひどくなっているように感じる。

だから、また書いている。

三年前は個人のサイトやブログで、明白な間違いが書かれてあっても、
それがある程度のオーディオのキャリアのある人が書いてたりすると、
その間違いが広まってしまうことがある。

アマチュアといえど、不特定多数の人が読むインターネットで、
間違ったことを思い込みで書いてしまうことを、
書いた本人は、なんとも思っていないのかもしれないのが、問題だと思う。

今回、くり返し書いているのは、
そうやって間違ったことを思い込みで書いてしまっているブログやサイトを、
SNS(facebook)でシェアして、「いいね!」をクリックしている人が少なくないからだ。

明白な間違いとは、発売時期の順序とか、そういったことである。
少し調べればすぐにわかることを、思い込みだけで書いているブログを、
facebookを通じて知った。

誰も、その人の思い込み(間違い)を指摘しないのか、と思う。
むしろ、「いいね!」をして間違いの拡散に手を貸している人たちがいる。

そうやって間違いが定着していく……

Date: 9月 5th, 2017
Cate: 世代, 瀬川冬樹

とんかつと昭和とオーディオ(瀬川冬樹氏のこと)

とんかつのことを書いている。
そういえば、おもい出す。
そういえば瀬川先生も、とんかつ、お好きだったのか、と。
     *
 二ヶ月ほど前から、都内のある高層マンションの10階に部屋を借りて住んでいる。すぐ下には公園があって、テニスコートやプールがある。いまはまだ水の季節ではないが、桜の花が満開の暖い日には、テニスコートは若い人たちでいっぱいになる。10階から見下したのでは、人の顔はマッチ棒の頭よりも小さくみえて、表情などはとてもわからないが、思い思いのテニスウェアに身を包んだ若い女性が集まったりしていると、つい、覗き趣味が頭をもたげて、ニコンの8×24の双眼鏡を持出して、美人かな? などと眺めてみたりする。
 公園の向うの河の水は澱んでいて、暖かさの急に増したこのところ、そばを歩くとぷうんと溝泥の匂いが鼻をつくが、10階まではさすがに上ってこない。河の向うはビル街になり、車の往来の音は四六時中にぎやかだ。
 そうした街のあちこちに、双眼鏡を向けていると、そのたびに、あんな建物があったのだろうか。見馴れたビルのあんなところに、あんな看板がついていたのだっけ……。仕事の手を休めた折に、何となく街を眺め、眺めるたびに何か発見して、私は少しも飽きない。
 高いところから街を眺めるのは昔から好きだった。そして私は都会のゴミゴミした街並みを眺めるのが好きだ。ビルとビルの谷間を歩いてくる人の姿。立話をしている人と人。あんなところを犬が歩いてゆく。とんかつ屋の看板を双眼鏡で拡大してみると電話番号が読める。あの電話にかけたら、出前をしてくれるのだろうか、などと考える。
     *
実際にとんかつ屋の看板があったのだろう。
そこに電話番号も書いてあったのだろう。
だから、ただ単に双眼鏡で見えたこと、思ったこと、考えたことを書かれただけかもしれない。

それでも、ここにもとんかつがでてきた、とおもい出す。
《出前をしてくれるのだろうか、と考える》くらいなのだから、
嫌いではなかったはずだ。

Date: 9月 4th, 2017
Cate: 世代

とんかつと昭和とオーディオ(その6)

BRUTUS 852号のとんかつ特集「とんかつに、明治からの歴史あり。」によれば、
とんかつの元祖といえるポークカツレツは、
銀座の洋食店・煉瓦亭の創業者の木田元次郎氏が、
ヨーロッパで食べられていた仔牛肉のコートレットにヒントを得たもの、とのこと。

明治32年に、ポークカツレツが誕生している。
当初のポークカツレツは、温野菜を添えていて、デミグラスソースだったそうだ。
日露戦争の時期に入手不足になったこともあり、
キャベツのぶつ切りに、その後、千切りへとなっている。

そのころデミグラスソースがウスターソースへ、となり、
パンではなく白い飯を出すようになり、それが現在のポークカツレツである。

BRUTUS 852号には「あの町の、とんかつ」で、
神戸のとんかつも紹介している。
ここに登場するのは、デミグラスソースがかかっている。
添えてあるのは、甘藍の千切りのところもあれば、そうでないところもある。

神戸のとんかつ、と書いてしまったが、
神戸のは、日露戦争以前のポークカツレツであり、
いまのとんかつの元祖となる日露戦争後のポークカツレツではない。

伊藤先生は、この事実を何といわれただろうか。

デミグラスソースのポークカツレツは、これまで何度か、
美味しいといわれている店のいくつかで食べたことはある。

不味いとは思わないけれど、とんかつに似ているけれど、
とんかつとは明らかに違う食べもののように感じた。

伊藤先生が《ラーメンと共に日本人に好かれる食いもの》とされるとんかつは、
甘藍の千切りとウスターソースがよく合うものこそ、である。

Date: 9月 4th, 2017
Cate: 世代

とんかつと昭和とオーディオ(その5)

伊藤先生は、ステレオサウンド 42号「真贋物語」で、
とんかつについて、こう書かれている。
     *
 とんかつぐらいラーメンと共に日本人に好かれる食いものはない。何処へ行っても繁昌している。生の甘藍(きゃべつ)がこれほどよく合う料理もないし、飯に合うことは抜群である。甘藍とウースターソースの香りを嗅ぐととんかつを連想して食欲が沸く。ビフカツには生のが合わないで甘藍を人参の細切りと茹でてビネガーを加えたものが最高によく合う。逆に之がとんかつと合わないから不思議である。豚も牛もよい肉の場合であることは断っておく。
 鴨と葱のような因縁が、誰が創(はじ)めたのか見事な配合として残されている。
 小さいレストランだと換気が悪い為か、入った途端に調理場の臭いがする。これを嗅げば其所の料理の程度の大方は推察できる。バターの香りとスープ・ストックの香りが漂っていれば大丈夫である。
 とんかつやも然りで、ここの場合は本もののラードの香りがしていれば占めたもの、甘藍も肉も上質なものに決まっている。
 嗅ぐと頭痛がして嘔吐を模様するような油をつかっている家が沢山あるが、その店の前を通っただけで鼻をついてくれるからよく解る。そんな店でもひれかつを出しているから、恐れ入る。ひれは余程よい店のでないと臭くてまずいから中以下の店ではロースの方がよい。それも並の方がうまく高い上の方は厚みがあるだけである。
 脂身があると起って残す人がいるが、程度にもよるけれど油のないロースのかつなど食わない方がよい。
 とんかつソースなんて得体の知れないものを発明してから、どんかつは下落したのである。
 劣悪な肉料理を食うための効能は認めるが、良質な肉と高度な調理に対する害毒と侮辱の外の何ものでもない。
 ウースターソースでさえ、当節日本人の口に合わせたとか称して本物の味のするものが殆どない。国産品で唯一つ納得できるものが有るが儲からぬのか製品が少ないのか、仲仲手に入らない。市場から消えないように祈っているがその中に大手の企業に併合されて、劣悪なものになり下るであろう。
 先日テレビで演歌師の老人が大正時代を顧て「むかしは浅草のパウリスタでとんかつが十銭で食えたもんだが今のよりずっとうまかった。何しろいまとちがってソースだって舶来の本ものだったから。」と気焰を上げていたのを見聞して我意を得たと喜んだものの、この演歌師ほどの老人(私自身を棚にあげて)でなくてはもう忘れられていくのか、と悲しく憶った。
 改悪を重ねて大衆の舌を劣化させていく食品、本物が遠く霞んで消えていくのを見ていると、生き甲斐を失う。
     *
何度も読んだ、この伊藤先生のとんかつの文章こそが、
私のとんかつの基準と、いまもなっている。

Date: 9月 4th, 2017
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(価格表示について)

オーディオ機器の価格。
このアンプの価格はいくらだったかな、と調べようとして、
そのメーカーのサイトにアクセスする。

製品情報はある。
けれどいちばん知りたかった価格がどこにも表示されていない。
数年前までは表示されていたはずなのに、いまはなくなっている。

ある輸入元のサイトでは、製品を紹介しているページには価格は、ない。
価格一覧表が別に用意されていて、それを見ろ、というわけだ。

それからオープンプライスというものを増えてきている。

なぜ価格を表示しないのか。
もしくはわかりにくくするのか。
その必要性はあるのだろうか。

価格を表示しなくなったのは、ドイツでも人気の高いアンプメーカーだ。
ドイツのオーディオマニアが、そのメーカーのサイトにアクセスする。
日本での販売価格がわかる。

日本では、この値段なのに、ドイツでは……、というクレームが、
ドイツの輸入元へ来た、ときいている。
日本とドイツでは販売価格に差が生じて、当然である。

でも、これに納得してないマニアが、どうにも少なくないようなのだ。
ドイツの輸入元から、
そのメーカーに、サイトに価格を表示しないでくれ、という要望があった、らしい。

わからなくはない理由だが、
それでも日本での価格は、調べようとすれば、キーワードを追加すればすぐにわかることだ。
どれだけの意味があるだろうか、と疑問に思うのだが、
日本のオーディオマニアに不便を感じさせても、そのメーカーは価格表示をしない。

些細なことといえば、そうである。
けれど、その価格に自信をもって決めたのであれば、堂々としてればいいはずだ。
むしろ堂々としているべきである。

高い価格であっても、それに見合うだけの内容を備えたモノであれば、
わかりやすいところに、きちんと価格は表示しておくべき情報である。

Date: 9月 3rd, 2017
Cate: モノ

モノと「モノ」(主従の契り・その2)

オーディオシステムは、
オーディオ機器を擬人化する人にとっても、いわば道具である。

使い手(鳴らし手)が主であり、
オーディオが従である、ように見えるし、そう思える。

けれど少し距離をとってみると、
オーディオは自ら起動することはできない。

使い手、つまり人間が電源を入れて、
LP、CD、テープをかけて、入力セレクターをあわせて、
レベルコントロールを上げる操作をしなければ、スピーカーから音は鳴ってこない。

見方をかえれば、オーディオが人間を使っている、ともいえる。
音をただ単に出すだけでも、これである。

よりよい音、つまりオーディオ機器がもてるポテンシャルを発揮するためには、
人間による使いこなし、鳴らし込みを必要とする。

スピーカーが勝手に、いい音で鳴るポジションまで移動して、
スピーカーの振りなども自動的にやってくれるわけではない。

ここでも使い手である人間が、大型スピーカーであれば、
動かすだけでも大変な重さにも関係なく、いい音のために設置場所を変えていく。

振りや仰角をミリ単位で調整したりするのも、人間の仕事である。

アンプにしても電源を入れてもらうだけでなく、
いわゆるウォームアップのために、
それも実際に音楽を鳴らす動的ウォームアップを求めているともいえる。

そういった人間の努力を、オーディオは眺めているのかもしれない。
その努力の褒美として、きまぐれにいい音を聴かせてくれているとしたら、
どちらが主なのかは、判然としない。

Date: 9月 3rd, 2017
Cate: きく

音を聴くということ(グルジェフの言葉・その2)

錬金術とは、卑金属を貴金属に変える。

ゲオルギー・グルジェフがいっていた「人間は眠っている人形のようなものだ」こそ、
卑金属なのかもしれない。

つまり目覚めている人間が貴金属である、とすれば、
眠っている状態から目覚めようとすることが錬金術ともいえよう。

オーディオで音楽をきくことは、
聴き手の意識次第では、錬金術に連なっていくような気さえする。

Date: 9月 2nd, 2017
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ヤマハのヘッドフォン)

私にとってヤマハのヘッドフォンといえば、
カセットデッキのTC800GLとともに、マリオ・ベリーニによるデザインのHP1である。
そして次に、YHL003が来る。

TC800GLとYHL003は、ニューヨーク近代美術館の永久所蔵に選ばれている。
YHL003はポルシェデザインである。

現在のヤマハのヘッドフォン。
その写真を見て、違和感があった。
デザインがひどいという違和感ではない。
HP1やYHL003と違うデザインだからという違和感でもない。

左右のハウジングに、大きくヤマハのマーク(音叉を三つ組み合わせたもの)が入っている。
ここに違和感があった。

同じようにハウジングに、ブランドのロゴやマークが大きく入っているヘッドフォンは、
ヤマハだけでなく、他にも数多くある。
それなのにヤマハのヘッドフォンだけに違和感をおぼえたのは、
私の記憶の中にあるヤマハのヘッドフォンは、HP1でありYHL03であるからだ。

Date: 9月 2nd, 2017
Cate: 真空管アンプ

五極管シングルアンプ製作は初心者向きなのか(その20)

ステレオサウンド 43号の「真贋物語」、
「(三)貪欲」と見出しがついたところを引用したい。
     *
 これも料理店の主の話であるが、一流の店に奉公して四十歳で独立し、花柳界の中で仕出し専門の店を開業した。永年叩き上げた板前だから、この人の作るものは優れている。私はよくその人に誘われて旅に出たし、料亭を廻って食べ歩かされた。腹が減ると、どんな店へでも入って、この人の口にはとても合うまいと思うものでも全部残らず食べる。
 まずいものでもみんな食ってみないとわからないし、作った人に無礼である、といって、暫くして「まずかった」と笑ってみせる。納得して口に出す。最高の味作りのできる人がこれである。
 だし巻きと伽羅蕗だけの弁当を旅に出た車中で相伴に預ったが何とも美味であったのが忘れられない。前夜親方が店をしめてから独りで作ってくれた逸品である。
 この人も徹底的に吝(けち)であったから、その技まで弟子にも倅にも残さず死んでいってしまった。あれほどの名人であったのに私を連れて食い漁ったのは屹度自分の作ったものより旨いものがあったら、という恐怖と興味が錯綜していたのだろう。
 永年修業して確固として自分の味を既に持っているのだから、おいそれと変えられる筈もないし、またそうあっては困るのだが、若しやという不安にかられる処に私は惹かされる。自信と不安、名人になるほどそれは苛まれる。
 自惚の強いということは他人を蔑むことでは決してない。もっと自惚れたいから他人の仕事を見たいのである。欠点を指摘したいのではなく優れた点を採り入れたい一心である。しかし実行するには相当の努力を必要とする、というのは真似が赦されない立場にあるのが名人であり、自分で自分をその座につかせてしまっているからである。
 個性を喪失させたくないのと、自分の鼻についた個性への嫌悪との葛藤に苦しむことは、この道に限らず名人の業である。
     *
最初に読んだ時はわからなかったが、
ある程度経ってから読みなおしてみると、
伊藤先生自身のことだと気づく。

いまこうやって書き写していても、そう感じる。
だから、この人の作るアンプと同じモノを作れるようになりたいと思ったのだった。

Date: 9月 2nd, 2017
Cate: 価値・付加価値

「趣向を凝らす」の勘違い(その4)

別項「オーディオ・アクセサリーとデザイン(その5)」で引用した伊藤先生の「絢爛な混淆」、
ここで伊藤先生が書かれていることも、趣向を凝らすを勘違いした例である。

Date: 9月 1st, 2017
Cate: 価値・付加価値

「趣向を凝らす」の勘違い(その3)

1980年代にフィリップス・レーベルからでていた小澤征爾/ボストン交響楽団によるマーラー。
二番を、井上先生が試聴によく使われていた。

ピアニッシモのレベルは低かった、と記憶している。
そこが聴こえるぎりぎりで音量を設定すると、
フォルティシモではそうとうな音量になって、最初聴いた時は少々驚いた。

何度か聴いていても、
このダイナミックレンジは家庭で聴くには広すぎるな、と感じたし、
ちょっとボリュウムを大きめにしただけで、フォルティシモでは大きい、と感じていた。

岡先生が小澤征爾の「ローマの松」で、
ピアニッシモが物理的に小さな音、といわれている、
まさにマーラーにおいてもそうであって、
「ローマの松」を聴いていないから断言できないものの、
おそらく、マーラーのピアニッシモのほうが、物理的により小さな音であり、
フォルティシモは物理的により大きな音なのだろう。

ステレオサウンド 52号は1979年、
カラヤン盤も小澤盤も「ローマの松」はアナログ録音で、
小澤/ボストンのマーラーはデジタル録音、
しかも52号のころ、岡先生も黒田先生もLPで聴かれている。
小澤のマーラーはCDである。

優秀録音盤ということに、小澤のマーラーはなるわけだが、
私は、このマーラーを自分のリスニングルームで聴きたいとは思わなかった。

カラヤンのマーラーの二番はない。
もしカラヤンが二番をデジタル録音で残していたとしたら、
「ローマの松」と同じことがいえたのではないだろうか。

カラヤンはデジタル録音になっても、
ただ物理的に小さな音であるだけでなく、
心理的な意味でのピアニッシモであったと思う。

これはカラヤンの、さりげない趣向が凝らしかたといえるし、
カラヤンのピアニッシモは見事ともいえる。

岡先生は、こうもいわれている。
     *
 六〇年代後半から、レコードそしてレコーディングのクォリティが、年々急上昇してきているわけですが、そういった物理量で裏づけられている向上ぶりに対して、カラヤンは音楽の表現でこういうデリケートなところまで出せるぞと、身をもって範をたれてきている。指揮者は数多くいるけれど、そこで注意深く、計算されつくした演奏ができるひとは、ほかには見当りませんね。ぼくがカラヤンの録音は優れていると書いたり発言したりすると、オーディオマニアからよく不思議な顔をされるんだけど、フォルテでシンバルがどう鳴ったかというようなことばかりに気をとられて、デリカシーにみちた弱音といった面にあまり関心をしめさないんですね。これはたいへん残念に思います。
     *
さりげない趣向であっても、他の指揮者ができることでもない。