Archive for category テーマ

Date: 12月 19th, 2017
Cate: デザイン

表紙というデザイン(その3)

Record’s Bibleは売れたのだろうか、1978年に二冊目が出ている。
やはり表紙デザイン=田中一光、表紙撮影=安齊吉三郎である。

1977年のRecord’s Bibleは、表紙の背景は黒だった。
1978年のRecord’s Bibleは、背景は明るいグレーになっているが、
基本的なところは同じで、ナグラのSNを中心として、まわりにアクセサリーが配置されている。

1977年のRecord’s Bibleのように、
表4のビクターの広告まで含めてのデザインではなくなっているが、
私は1978年のRecord’s Bibleのデザインに魅力を感じる。

「コンポーネントステレオのすすめ」の表紙のデザイナーの塚本健弼氏は、
田中一光氏の元でデザインの修業をされていた。
いわば師弟関係である。

Record’s Bibleの表紙は、塚本健弼氏の表紙デザインを見た田中一光氏の、
私ならこうやる、という対抗心のようなものがあったのではないか……、
と勝手におもっている。

塚本健弼氏の手法は、それぞれのオーディオ機器を正面から撮影し、
それらの切り抜き写真をレイアウトしていく、というもので、
それぞれのオーディオ機器の写真の縮小率は、同じなわけではない。

スピーカーのような大きなモノの縮小率はやや大きめで、
カートリッジのような小物の縮小率は小さめである。

田中一光氏の手法は、すべてを並べての一発撮りゆえに、
縮小率を個々でコントロールすることはできない。

1977年のRecord’s Bibleでは背景が黒だから、
そこにモノを置いた際の影がはっきりとはしない。
ほとんどわからない、といってもいい。

1978年のRecord’s Bibleでは明るいグレーが背景だから、
そこに影ができ、1977年のRecord’s Bibleより立体的に見える。

塚本健弼氏の手法も切り抜き写真だから、影はない。

Date: 12月 19th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(JBL 4301・その18)

モノーラルのころからオーディオをやっていた世代の人たちからすれば、
4301も時代の軽量化を感じさせる、ということになるのかもしれない。

ハーツフィールドやハークネス、オリンパス、パラゴンといったJBLのスピーカーを、
その時代時代で、見て聴いて体験してきた人からすれば、
4301をみて、JBLも……、と嘆くのだろうか。

かもしれない、という気持が半分と、
いやそうじゃない、という気持が半分ずつある。

ただ4301は、時代の軽量化ではないと思うのは、
JBLのバッジのついた商品というのではなく、
JBLの音が聴けるモノだから、である。

Control 1はJBLの音がしないのか。
しないとは言い切らないが、ここまでをJBLの音といっていいのだろうか──、
という気持が常に残る。

4301には、それはない。

ハーツフィールドやパラゴンなどのスピーカーは、
いまではヴィンテージといわれることがある。
それだけの歳月が経っているわけだが、
4301も同じくらいの歳月を経たとしても、ヴィンテージとはならない。
少なくとも私は4301をヴィンテージJBLとか、そういういい方はしない。

それこそ時代の軽量化ではないのか、と問われれば、
いまのところ答に窮するところがあるのは自分でもわかっている。

なのに4301は違う、と思ってしまう理由を見つけたいから、
この項を書いている、ともいえる。

Date: 12月 19th, 2017
Cate: 素材

素材考(カーボンか鉄、塗装の下にあるもの・その1)

1980年に、イタリアのフレームメーカー、チネリから登場したLaser。
ニューヨーク近代美術館の永久所蔵されるほどに美しいフレームである。

私が自転車に興味をもった1990年代にはすでに製造中止になっていた。
製造されていたとしても、なかなか高価なフレームだけに買えなかったけれど……。
とにかく憧れのフレームである。

2012年だったか、限定でわずかに復刻された。
けっこうな値段だったが、これだけのフレームだから、その値段も当然と思えた。

2013年にLaser Miaが登場した。
オリジナルのLaserはスチール製だったのを、Miaではカーボン製になった。

オリジナルの造形は、ほぼそのままである。
フロントフォークの形状が少し違うくらいである。

なのに、スチール製のLaserとカーボン製のLaser Miaとでは、
どこかが違う、とつねに感じる。

フロントフォークの違いからくるものではなく、フレーム全体に、
Laser Miaはシャープさを感じないのだ。

寸分違わぬ、というのは本当だろう。
なのに、この印象の違いはどこからくるのか。

フレームは、どちらも同じ色で塗装してある。
それでもスチール製のLaserにはシャープさを感じ、
カーボン製のLaser Miaには輪郭の甘さを感じるのは、なぜなのか、とずっと考えている。

塗装されていても、その下の材質の違いは感じとれるものなのか。

Date: 12月 18th, 2017
Cate: 世代

世代とオーディオ(その16)

エアチェックという言葉が、昔よく使われていた。
(その12)で書いているように、
本来は放送局からの電波が正しく送信されているのかをチェックするから、
エアチェックなのであって、主に放送に携わっている人たちが使う言葉だった。

それがFM放送を受信して録音することに使われるようになっていった。
私が高校生だったころ、エアチェックという言葉は、
オーディオマニアでなくとも使っていた。

電波を受信して録音することをエアチェックといっていたということは、
TV放送をビデオデッキで録画するのも、エアチェックであるわけだ。

その13)で、瀬川先生の別冊FMfanでの発言を引用している。
     *
 最後に一つ、お話しておきたいのは、この前、「週刊朝日」だったかで明治時代の写真を日本中から集めたことがありましたよね。
 要するに、家の中に眠っている写真を何でもいいから、日本中から集めて。そうしたら、しまっていた人でさえ気がつかなかったようなすばらしい資料がたくさん集まったわけですね。
 今エア・チェックでやっていることって言うのはそれに似ていると思うんですよ。一人一人は何気なく自分が聴きたいから、あるいは、そういう意志もなしに、習慣でテープのボタンを押してしまって、録っちゃったみたいなこともある。これだけFM放送がはんらんしてくると、それぞれ、みんな録る番組が違うと思うんですよ。しかし、どこかにみんな焦点が合っている。これから十年、二十年たって、あるいは五十年くらいたって、かつてこんな番組があったのか、誰かこれ持ってないかなと言うときに、ちゃんと残っていたら、これは大変な資料になると思うんです。
 エア・チェックには楽しさの他に、そうした意義があると思う。そこに、エア・チェックのスゴサみたいなものをぼくは強く感じるわけです。
     *
1976年のことだから、家庭用ビデオデッキの普及はまだ先のことだった。
1980年代に入り、ビデオデッキが急速に普及してくる。

まだまだテープが高価だったから、
録画しては消去して、また録画・再生という使い方がよくされていた。

それでも、昔録画したテープを保管している人もいる。
そうやって残っていったテープからの動画が、いまYouTubeにアップロードされている。

まさに瀬川先生が語られていた《エア・チェックのスゴサ》が、
インターネットのおそろしいほどの普及によって、この時代、強く感じられるようになった。

Date: 12月 18th, 2017
Cate: 1年の終りに……

2017年をふりかえって(その7)

一年ほど前に「タンノイがふさわしい年齢」というタイトルで書いている。

今年は「ヴァイタヴォックスがふさわしい年齢」というタイトルで、
一本書こうかな、と思うほどに、
ヴァイタヴォックスのことを考えることが、日常的といえるほどに増えてきた。

Date: 12月 18th, 2017
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その17)

そんなふうにおもう私でも、今日は楽しかった。
つきあいのながい人たちと観に行ったわけではない。

一人は11月に知りあったばかり。
でも、そんなことはどうでもいいほどに、映画の後の雑談が楽しい。

映画の後に、何を話そうか……、などと考えながら映画を観てもつまらない。
そんな観方はしない。

オーディオで、誰かのところに行って音を聴くということを、
私の方から積極的にしないのは、同じ理由からである。

初対面の人のところに行って、音を聴く。
聴き終れば、当然感想を聞かれる。
これが苦痛になることがある。

なんといおうかと考えながら聴いていては、
中途半端に聴き方になってしまうし、聴かせてくれた人に対して失礼でもある。

それでも、なんといおうかと、言葉につまることも、実際にある。
当り障りのないことでごまかすのも失礼だし、
かといって正直に話すのも……、と憚られることも少なくない。

確認したわけではないが、いっしょに行った二人も、
そんな映画の観方はしていないはず。

そういう三人でも、というか、そういう三人だから、というべきか、
話は盛り上る。

10数年、誰かと映画を観ることはしてなかった。

映画だけでなく、コンサートもオーディオに関係することも、
ひとりでやることが圧倒的に多い。
これからもそうであろう。

それでも、これからは、ひとりで、ということに頑なにならずに、
これからは機会があれば、積極的に誰かと映画を観ることにしよう。

Date: 12月 18th, 2017
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その16)

映画館で映画を観るようになったのは、小学校の低学年からか。
その時代、東映まんがまつりが、春休み、夏休み、冬休みに上映されていた。
そのあたりから映画館で観るようになって、今日までに何本の映画を観てきたのか、
けっこうな本数を観ている。

子供のころは、親と一緒だった。
けれど中学生ともなると、一人で行く。
一人で観るようになってから、誰かと一緒に観た映画はわずかだ。

思い出すかぎりで、十本に満たない。
映画は一人で行って観るものだ、とおもうようになったのは、
観たいと思った時に、観たい映画を観たいから、である。

そんな私も、今日は三人で観てきた。
先週の水曜日に、観に行こう、ということになった。

こんなことは初めて、である。
いままで誰かと観に行った映画は、当日、「じゃ観に行こうか」という感じだった。

前もって約束して、集合時間と場所を決めて観る。
そんなの当り前だろ、といわれそうだが、
こと映画に関しては、初めてだった。

観終って映画館を出たら、そこで別れるわけではなく、
三人で軽く食べながら飲みながら、映画の話となる。

実をいうと、20代、30代のころは、これが苦手だった。
観終ったばかりの映画について語る──、
なぜ、観終ったばかりの映画について、こんなに語れるのか、
一緒に行った人が語るのを聞いていて、不思議に思うこともあった。

20代終りごろ、ある試写会に行った。
ちょっと変った試写会で、観終った後に、
アンケート用紙に記入させられた。

まわりの人をみると、かなりのいきおいでびっしりと書いている人ばかりだった。
この人たちは、映画評論家を目指しているのか、と思うほどに書いていた。

その姿を見ていて、
この人たちは映画を観ながら、何を書くかを考えていたんじゃないのか──、
そんなことを勝手に思っていた。
もうそうだとしたら、なんとつまらない映画の観方なのだろう、ともおもっていた。

Date: 12月 17th, 2017
Cate: オーディオ評論

「商品」としてのオーディオ評論・考(その8)

その7)に書いている広告代理店とメーカーの、かなりずうずうしいといえる依頼。
こんなことを平気でいってくる広告代理店は、
つまり、それが当り前のように通るものだ、と思っているからだろう。

もちつもたれつなのはわかっている。
完成品でなくとも、プリプロダクツ(量産直前の生産モデル)ならば、まだわかる。
けれど、その時のCDプレーヤーはプリプロダクツともいえない段階だった。

そういうモノを試聴用として持って来ていて、
文句をいれてくる。

オーディオ評論家(商売屋)とオーディオ評論家(職能家)がいる。
オーディオ雑誌の編集者も同じだ。
編集者(商売屋)と編集者(職能家)がいる。

その時の私が、編集者(職能家)だった、とはいわない。
だが編集者(商売屋)ではなかった、とはっきりと言い切れる。

広告代理店の人も同じだ。
商売屋と職能家がいよう。

試作品のCDプレーヤーが、どういう段階のモノなのか、
それすらも理解せずに、ごり押しすれば……、と考えていたのだろうか。
はっきりと商売屋でしかない。

編集者、広告代理店の他にも、いえる。
出版社の営業部の人たちだ。

Date: 12月 17th, 2017
Cate: pure audio

ピュアオーディオという表現(「3月のライオン」を読んでいて・その6)

「やはり将棋そのものを本質的にどこまで分かっているかといわれれば、分かっていないのが実情」

産経ニュースのサイト、今日公開されたページに、そうあった。
永世七冠を手にした羽生善治棋聖のことばである。

なんというタイミングなんだろう、とおもった。
ここ(その6)で書こうとしていたことはあったけれど、
まず羽生善治棋聖のことばを書いておきたかった。

「やはり将棋そのものを本質的にどこまで分かっているかといわれれば、分かっていないのが実情」、
このことばを、
「菅野沖彦の音を超えた」
「瀬川先生の音を彷彿させる音が出せた」
「頂点まで最短距離で登っていった」
これらの言葉を吐いてきた人たちは、どう受け取るのだろうか。

Date: 12月 16th, 2017
Cate: 1年の終りに……

2017年をふりかえって(その6)

中島平太郎氏が亡くなられていたことは、
友人から知らされた。

ちょうど長電話していたときだった。
友人が驚いた様子で、「中島平太郎さんが亡くなった……」といった。
9日に亡くなっていた、と友人は続けた。

ニュースでは、CDの父とあった。
SNSに中島平太郎氏の死について投稿していた人たちも、
「CDの父」としていた。
確かにそうである。

でも私にとって中島平太郎氏は、SS-G7の人である。
1976年に登場したスピーカーシステムSS-G7は、ソニーとしては異色の存在だったように思う。

SS-Gを傑作とか名器とは思っていない。
でも力作である。

美しいデザインとは思っていない。
けれど堂々としていて、印象に残る。

広告も印象に残っている。
中島平太郎氏が、SS-G7の広告には必ずスピーカーの横に座っての写真だった。
広告の文章も中島平太郎氏によるものだった。

SS-G7は中島平太郎氏の自信作だった、はずだ。

Date: 12月 15th, 2017
Cate: 老い

老いとオーディオ(若さとは・その3)

むき出しの才能、
むき出しの情熱、
むき出しの感情、
これらをひとつにしたむき出しの勢いを、
audio wednesdayでの音で出しているのだろうか。

出せているのだろうか、それとも出せなくなったのか。

Date: 12月 14th, 2017
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その15)

火曜日は、別項「実感した電源事情」で書いているように、
渋谷のギャラリー・ルデコに行っていた。

4Fで24日まで開催されているSUBTERRANEAN HOMESICKは、
金村修、小松浩子、マイク野上、三人の写真家による展示である。

SUBTERRANEAN HOMESICKで音楽を鳴らしているシステムは、野上さんのモノである。
12日の夜は、野上さんと渋谷で飲んでいた。

ライカの話が出た。
ライカの話をされるときの野上さんの手つきは、
そこにライカのカメラがあるかのような手つきである。
ライカのカメラが、そこにスポッとおさまっているかのようである。

野上さんのライカの話を聞いていて、
瀬川先生の文章を思い出してもいた。
     *
 カメラについて、私の知るかぎり最もその扱いの見事な人は、故人となった木村伊兵衛先生だった。写真に凝ったあげく「ライカ倶楽部」の会員の端くれに入れて頂いた私にとって、木村先生は雲の上のような存在だったが、その木村先生のカメラさばきの見事さについては、いくつもの〝伝説〟が残っている。だが、それを最もうまく言いあてているのは、「まるで呼吸すると同じように」カメラを扱った、という大倉瞬二氏の表現だろう。木村伊兵衛氏が写真を「撮っている」ところを、しかと見た人は少ない。つまり、カメラを「構えた」という感じを周囲の人にまったく気づかせない。首からぶら下げたライカが、時折、顔のところまでスっと引き上げられ、スっと元のところにおさまる。居合抜きもかくやという雰囲気で、確かにそれはもう、呼吸すると同じくらい、身体の一部になってしまっていた。
(「音の味覚学(ガストロノミー)」より)
     *
ライカこそ、そういうカメラなんだ、と野上さんの話を聞きながら思っていた。

楽しい三時間は、あっという間だった。
帰宅して布団の中に入って、ふと気になったことがあった。

iPhoneで「木村伊兵衛」で検索してみた。
木村伊兵衛氏は、1901年12月12日の生れだった。

その場に居合わせなかった人にとって、どうでもいいことなのだろうとわかっていても、
12月12日に、ライカについての野上さんの話を聞けたことは、
私にとっては単なる偶然ではない意味をもつ。

Date: 12月 14th, 2017
Cate: 1年の終りに……

2017年をふりかえって(その5)

「今年をふりかえって」的なことを書き始めたのは、2015年12月からである。
そのころは、一年のうちに登場したオーディオ機器で、気になるモノについて書いていた。

買える買えない、好き嫌い、そんなことを抜きにして気になる製品というのは、
いつの時代にもある。
今年もなかったわけではないが、
目の前に今年のステレオサウンドを一冊も置かず、パッと浮んでくるモノがない。

今年出た四冊のステレオサウンドをパラパラとめくっていけば、
そういえば、この製品もあったなぁ、とか、気になる製品はいくつも出てこよう。

ないと、なかなか思い浮ばない、ということは、
私の記憶力が衰えてきたのか、それほど強烈な印象のオーディオ機器と出合えなかったからか。

それでも最初に浮んできたのは、マンガーのスピーカーシステムである。
アブサートロンが輸入元になっている。

今年のインターナショナルオーディオショウは、アブサートロンのブースには行かなかった。
時間の余裕がなかったこともあるが、マンガーのことを知っていれば、真っ先に行ったのに……。

来年のインターナショナルオーディオショウでの楽しみにとっておける。

マンガー以外では、CHORDのBlu MkIIとPSオーディオのDirectStream Momory Player
どちらもCDトランスポートだ。

Date: 12月 14th, 2017
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その39)

つきあいの長い音は、身近にいるようでいて、遠くにあるのだろうか。

Date: 12月 13th, 2017
Cate: 新製品

新製品(TANNOY Legacy Seriesとベストバイ)

ステレオサウンドの定番企画でベストバイは、
35号、43号、47号の三回は価格帯を設けずの選定だった。

51号から価格帯を分けての選択となっていった。
価格帯の分け方は難しい。

たとえば10万円未満と10万円以上のところで線引きしたとする。
99,800円のモノは下の価格帯に、
10万円を1,000円でも超えていれば上の価格帯に、と分けられる。

この二機種の価格差はどれだけあるのか、
そのことによって内容の差がどれだけ生じるのか。
そういう難しさが価格帯の設定にあることは、昔から編集部もわかっていたことだ。

いま書店に並んでいるステレオサウンドをパラパラと見てきた。
タンノイのLegacyシリーズが気になったからだ。

ベストバイにもLegacyシリーズは登場している、
つまりベストバイ・コンポーネントとして選ばれている。

けれどArden、Cheviot、Eatonが、同じ価格帯にいる。
タンノイのLegacyシリーズのために価格帯の線引きを考え直せ、なんてことはいわない。

けれど、この時代、価格帯を分けることの無理な面が露呈してきつつあるのではないか。

タンノイのArden、Cheviot、Eatonは、43号からベストバイに登場している。
もちろん今回のArden、Cheviot、Eatonは復刻版なのはわかっていても、
同じ型番、ほぼ同じ外観のArden、Cheviot、Eatonが、
同じ価格帯のベストバイ・コンポーネントであることには、どうしても違和感をおぼえる。