Archive for category テーマ

Date: 6月 7th, 2019
Cate: audio wednesday

第102回audio wednesdayのお知らせ(ラジカセ的音出し)

ラジカセといえば、私にとってはカセットテープのモノーラル再生である。
私が中学一年(1974年)のころ、
ステレオのラジカセはあったのだろうか。

あったのかもしれないが、中学生が小遣いを貯めた程度では手の届かないモノだったはずだ。
当時の中学生の私に買える範囲のラジカセは、すべてモノーラルだった。

私が買った(買えた)ラジカセは、だからモノーラルだった。
そのためだろう、私にはラジカセ的音出しとなると、
まずモノーラルによる音出しが浮ぶ。

ステレオラジカセが当り前になって、
最初のラジカセはステレオだった、という世代は、
私の世代よりもどのくらい下になるのだろうか。

五年くらいか、それとも十年くらいなのか。

それにスピーカーはフルレンジだけだった。
トゥイーターがついた2ウェイ仕様が標準のようになったのは、いつからだったのか。

フルレンジでモノーラルで、カセットテープの再生。
これが私のラジカセ的音出しということになる。

Date: 6月 7th, 2019
Cate: ディスク/ブック

ブラームス ヴァイオリン協奏曲二長調 Op.77(その3)

6月5日のaudio wednesdayでは、
ジネット・ヌヴーのヴァイオリン、
シュミット=イッセルシュテット指揮北西ドイツ放送交響楽団による1948年録音のライヴ盤をかけた。

STIL盤ではなく、2016年に出たtahra盤である。
このCDは、今年一度かけている。

その時と今回とでは、電源コードの違いがある。
MCD350とMA7900の電源コード、両方が違っている。
あとはスピーカーのセッティングを、ほんのわずか変えているくらいだ。

第一楽章は22分ちょっと。
鳴り出した最初の音からして、前回とは根本的なところで違っているような気がした。

私だけでなく、ほかの人みな聴き惚れているような感じがした。
第一楽章の最後まで鳴らした。
(私としては、三楽章すべて聴きたいところだったけれど)

1948年といえば、71年前である。
古い録音はよく聴く。
この時代の、他の録音も聴く。

モノーラル録音の古い録音である。
鳴ってくる音を聴けば、新しい録音か古い録音かぐらいは誰でも感じることだ。

今回は、少し違っていた。
聴いていて、1948年という時代そのものを感じていた。

感じていた、と書いてしまったけれど、
1963年生れの私は、1948年がどういう時代だったのかを知っているわけではない。

にも関らず、聴いていて、こういう時代だったのか、と感じていた。
時代の空気を感じた──、
と書けば、そんなバカな、とか、大袈裟な、とか、いわれるであろう。

それでも、そう感じた(錯覚だとしても、だ)。

そして、川崎先生(1949年生れ)は、こういう時代に生れた人なんだ、ともおもっていた。

Date: 6月 7th, 2019
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(余談)

昨日「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」を観てきた。

私の世代は、ゴジラやガメラの映画を観て育ったし、
テレビでは、仮面ライダー、ウルトラマンなどを見て育った、といえる。

いわゆる特撮ものをよくみていたわけだ。

別項「実写映画を望む気持と再生音(その1)」で書いたように、
「ターミネーター2」を観て、
マンガ「寄生獣」が実写化できる、と思った。

「ジュラシックパーク」の一作目を観たときは、
理想のゴジラ映画が誕生する、そう思った。

「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」は、理想のゴジラ映画に近い。
なのに観ている途中で、「芋粥」の心境だな……、と思っていた。

何か大きな不満があったわけではない。
日本のゴジラ映画のスタッフたちがやりたかったことをすべてやっているのではないか、
そう思わせるほどの内容であり、映像のすごさである。

なのに、というより、だからこそなのだろうが、
そして私が日本人ということも関係してくるのだろうが、
「芋粥」の心境なのか……、そんなことをぼんやり思いながら観ていた。

このことはいずれ別項できちんと書くつもり。

Date: 6月 7th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その3)

小野寺弘滋氏が、ステレオサウンドの編集者であり、編集長であったことは知られている。
小野寺弘滋氏は、私が退社したころに入社してきた人であり、
私は小野寺弘滋氏とは面識がない。

どんな人なのかは、ほとんど知らない、といっていい。
オーディオ関係者(元をふくめて)から、こんな人だよ、という話は聞いている。
その程度であり、それだって鵜呑みにしているわけではない。

私にとって、小野寺弘滋氏の印象のほとんどは、
インターナショナルオーディオショウで、ブースで話をされている時のものである。

過去二回だけ、たまたま入ったブースで、
小野寺弘滋氏がマイクをもって話をされていたことがある。

その時の印象は、ある意味、強烈だった。
マイクを持っていない手を、ズボンのポケットに突っ込んだまま話されていたからだ。

インターナショナルオーディオショウの各ブースで、
いろんな人の話を聞いてきたが、ポケットに手を突っ込んだままという人は、
小野寺弘滋氏が初めてだったし、他にはいない。

もちろんすべてのブース、すべての人の話を聞いているわけでないから、
他にもポケットに手を突っ込んだままという人はいたかもしれない。

それでも私は、そういう人を見ていない。
小野寺弘滋氏一人だけである。

その二年後だったか、また小野寺弘滋氏が話されている時だった。
その時も、ポケットに手を突っ込んだままだった。

一回目はたまたまだったのかもしれないと思ったが、
二回目もそうだということは、そういう人なのだ、と認識した。

ポケットに手を突っ込んだまま話したところで、誰かに迷惑をかけるわけではない。
それでもいいじゃないか、といわれれば、そうかもしれない。
ただ、ポケットに手を突っ込んだまま話をしている姿は、
けっこう強烈な印象を与える。

Date: 6月 7th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その2)

昨晩公開した「ステレオサウンド 211号(編集者の悪意とは)」は、
続きを書くつもりはなかった。

けれどfacebookでのコメントを読んでいて、続きを書くことに変更したし、
タイトルも少し変えた。

「ステレオサウンド 211号(編集者の悪意とは)」から「編集者の悪意とは」にした。
ステレオサウンド 211号を取っただけである。

「ステレオサウンド 211号(ステレオサウンド編集者の悪意とは)」にするつもりは、
最初からなかった。

けれど「ステレオサウンド 211号(編集者の悪意とは)」とすると、
ステレオサウンド編集者の悪意、と受けとられることも考えられる。

なので「編集者の悪意とは」へと変更した。
ステレオサウンド 211号について、これからも書いていくから、
結局、ステレオサウンド編集者の悪意について書くのではないか、と思われそうだが、
そう受けとられても仕方ないようなことも書くことになろうが、
あくまでも「編集者の悪意」がテーマである。

ここでの編集者には、元ステレオサウンドの編集者だった私も含まれる。

Date: 6月 7th, 2019
Cate: 書く

毎日書くということ(もう一つのやり方)

このブログを始めるにあたって決めたのは、毎日書いて公開すること。

毎日書いて公開するには、いまやっているように、
書いたものを即公開するやり方と、もう一つ、
あるテーマを決めて、数日から一週間ほどかけて、最後まで書き上げる。
その上でいくつかに分割して、公開していくやり方も、最初に考えた。

一本書き上げたら、次のテーマで書き始める。
こうすれば、毎日書いて、毎日公開することができる。

どちらが楽かといえば、後者のやり方である。
それでもいまのやり方で始めたのは、
一日でも早くブログを開始したかったからだ。

十年以上続けていて、
何度か、後者のやり方に変更しようかと思ったことがある。
そうすれば書くペースも、公開のペースも上げられる。

でも、そうしなかったのは、時々コメントがつくからである。
コメントでなくても、友人と会っていて、ちょっときかれることがヒントになることがある。
そういうことで、書いて行く方向を少し変えていったり、
補足を加えたり、関連するテーマを思いついたりする。

続きを書くつもりがなかったけれど、コメントを読んで、
続きを書いたことも何度かある。

これはブログならではの、毎日書いて公開する楽しみだ、と感じているから、
途中で後者のやり方に変更することなく、続けている。

Date: 6月 6th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その1)

悪意をまったく持たない人がいるとは、私には思えない。
編集者もまた人間であるから、編集という行為に、
まったく悪意が現れないと言い切れるだろうか。

雑誌に掲載される写真。
たった一枚しか撮らないということはまずない。
特に試聴風景や、試聴者の集合写真など、人物を撮る場合には、何カットか必ず撮る。

おそらく、いまのステレオサウンドもそうはずだ。
複数枚のカットから、誌面に載せるカットを選ぶ。
編集者が選ぶ。いまもそのはずだ。

ステレオサウンド 211号の119ページの写真を見て、
この写真を選んだ編集者の悪意のようなものを、私は感じた。

このカット、1カットしか撮影していない、ということはないはずだ。
なのに、この一枚を選んで載せるのか──。

小野寺弘滋氏の座り方と脚の開きぐあい。
こんな一枚を選ぶ必要性は、どこにあるのか。

柳沢功力、和田博巳、三浦孝仁、三氏の座り方、脚の開きぐあいと見較べなくとも、
この写真はひどい、と多くの人が感じるはずだ。

この写真を選んだ編集者は、何も感じずに、このカットを選んだのか。
そうだとしたら、その編集者は、写真の選択だけでなく、
他のことでも、その程度の選択をしているのかもしれないし、
あえて、このカットを選んだとしたら──、
それは編集者の悪意のようにしか感じられない。

Date: 6月 6th, 2019
Cate: audio wednesday

第102回audio wednesdayのお知らせ(ラジカセ的音出し)

昨晩、喫茶茶会記に行ったら、
グッドマンのスピーカーシステムが一本だけ置いてあった。
店主の福地さんによると、戻ってきたモノ、とのこと。

以前audio wednesdayで鳴らしたグッドマンとは、別のグッドマンのスピーカーシステムである。
一本だけである。
モノーラル再生しかできないけれど、見ていて、それもいいかなぁ、と思えてきた。

私と同世代、近い世代の人にとって、ラジカセは音楽を聴く道具の出発点であったと思う。
その前に、ラジオがあっただろうけれど、ラジオは好きな時に好きな音楽を聴けるわけではない。

カセットテープに録音しておけば、聴きたい時に聴ける──、
そういう意味での出発点である。

喫茶茶会記には、ソニーのカセットデッキがある。
マッキントッシュのMA7900はモノーラルスイッチがついている。
ならばモノーラル出力にして、グッドマンのスピーカーを一本だけ鳴らす。

もちろんソースはカセットテープである。
ミュージックテープでもいいし、自分で録音したテープでもいい。

なんらかの音楽が録音をされたカセットテープを持ち寄っての音出しを、
7月のaudio wednesdayでやろう、と考えている。

7月のaudio wednesdayは、3日。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時からです。

Date: 6月 6th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その11)

昨晩のaudio wednesdayは、三ヵ月ぶりの標準システムだけによる音出しであった。
4月はメリディアンのULTRA DAC、5月はメリディアンの218を迎えての音出しであった。

マッキントッシュのMCD350、MA7900、それにアルテックを中心としたスピーカー。
今回三ヵ月前と違うのは、電源コードだけである。

しかもMA7900の電源コードは5月にすでに聴いてもらっている。
MCD350の電源コードだけ、3月に聴いてもらったのを長くして、
壁のコンセントから直接とれるようにしただけである。

音の変化は小さくなかった。
私にとってはそうしている範囲でのことであっても、
昨晩来られた方には、かなり大きな変化だったようだ。

ある人から、「変えたの電源コードだけですか」と訊ねられた。
「電源コードは変えたけれど、いちばんの大きな変化は、私の人間的成長です」、
そう返した。

私の答を、また冗談言っている、と受け止められたと思うが、
けっこう本気で言ったことだ。

「音は人なりと昔からいうでしょう」ともつけ加えた。

オーディオで音を変えるのは、特に難しいことではない。
何かを変えれば、音は変化する。
いい方向にも悪い方向にも、音は変化する。

何かを、以前のモノよりもずっと高価なモノに買い替えれば、
音の変化は、決して小さくないはず。

そういう音の変化を楽しむのも、オーディオの楽しみではある。
それでも「音は人なり」である。

結局、音を大きく変化させるのは、鳴らし手の人間的成長である。

Date: 6月 5th, 2019
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(Made in Japan・その4)

製品開発と製造は違う国で行うことは、いまや珍しいことではない。
各国の、いろんなメーカーがすでに行っていることである。

オーディオも以前からそうなっていた。
特にローコストの製品はそうだった。

高級品(高額品)もそうなりつつある、というところなのか。
製品の品質に問題がなければ、特に取り上げるようなことではない。

なのにここで書いているのは、電子機器ではなく、
スピーカーシステムにおいて、このやり方を続けていく──、
どうなるのかという懸念がないわけではない。

スピーカーシステムのエンクロージュアが木工でなければ、あまり問題にはならないが、
金属エンクロージュアも登場してきたとはいえ、
やはりエンクロージュアの多くは木である。

井上先生がよく言われていたことがある。
エンクロージュアづくりの難しさである。
木工の難しさである。

いまはどうなのか知らないが、
当時のオーディオメーカーは、腕利きの木工職人を抱えていた、ときく。

スピーカーシステムの開発には、なくてはならない存在である。
ベテランの職人であっても、
まったく同じといえる二本のエンクロージュアをつくるのは、
ほぼ無理だ、と井上先生はいわれていた。

木工のデリケートさを強調されていた。
接着剤の量、接着まで終えるまで、各部にかける圧の調整、
湿度や温度、とにかくいろんな要素によって、エンクロージュアの音は違ってくる──、
そういうものである。

Date: 6月 4th, 2019
Cate: きく

トマティスメソッド

ステレオサウンド 211号で目を引いたのは299ページである。
ここに、アルフレッド・トマティスの名前があったからだ。

1990年ごろ、マガジンハウスが出版していた雑誌(休刊)に、
このトマティスメソッドのことが載っていた。

そこには各言語の周波数グラフがいくつか載っていた。
フランス語のそれもあった。

スピーカーのメーカーの国による音の違いがよく論じられていたころのフランスのスピーカー、
その特徴的な音色をあらわしているかのようなグラフのカーヴだった。

他にもドイツ語、英語、日本語があったように記憶している。
トマティスメソッドがある、ということもその時知った。

ずっと気にはなっていた。
耳のトレーニングには最適のように思えたからだ。

インターネットを使うようになって数年したころ、
トマティスメソッドで検索したことがある。

いまもトマティスメソッドはある。
前回もそうだったけれど、料金を見て行くのをやめた。

いまは無料体験コースもあるようだ。
行く価値はあるように、いまも思っている。

Date: 6月 4th, 2019
Cate: ディスク/ブック

FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO(その2)

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”のSACDを、
昨年5月のaudio wednesdayで鳴らした。

びっくりするほど、ひどかった。
その二年前(2016年)に鳴らしたことは、(その1)で書いている。

ウーファーとエンクロージュアは同じでも、
上の帯域は、私物のJBLの2441+2397だった。
アンプも違っていた。

この時はCDだったけれど、聴いていた人の一人が、拍手をしてくれた。
そのくらいうまく鳴ってくれた。

2018年5月の音は、ギターの音色の違いが判然としない。
観客のざわめきも、さほどリアルに感じられない。
なにより聴いていて昂奮してこない。

聴いていると、気になる点ばかりが耳につく。
まったく同じ音になるわけがないのはわかっていたし、
それでも、そこそこ鳴ってくれるという期待はあった。

その数ヵ月後にも一度鳴らしているが、それでも、私が求める鳴り方からはほど遠かった。

明日(6月5日)のaudio wednesdayで、SACDで鳴らそうと思っている。
SACDでの三度目の正直となるか。

Date: 6月 3rd, 2019
Cate: ラック, 広告

LOUIS VUITTONの広告とオーディオの家具化(その13)

長岡鉄男氏は、さらにこんなことを書かれている。
     *
 たとえばある辺境の販売店では店主がその地域のオーディオ・マニアを牛耳っていた。マニアには店主推奨の海外製品を押しつける。他の製品を買いたいというと、ウチへはくるなと追い出される。そんな店でメーカー後援のセミナーを開くことになった。講師は国産品第一主義の僕である。だから店内に一歩入るといような雰囲気である。店主は敵愾心むき出し、恐ろしく挑戦的である。プレーヤー、アンプは国産メーカー品でもいいが、スピーカーは店主推奨の海外製品を使えという。うまく鳴ったらおなぐさみ、お手並みを拝見しましょうという。集まった客も店主の息のかかった超偏向マニアばかりだから普通ではない。敵意というほどではないにしても目付きは冷たい。いやなところへきたなと思ったがなんとか音は出した。僕の持っていったソフト(もちろんAD)が優秀だったのでお客さんもびっくり、最終的には勝利の実感が持てた。それにしてもこんなくだらない仕事は早くやめるべきだと痛感、17年ぐらい前にセミナー拒否宣言を出して、以後は純メーカー主催、デパート主催、出版社主催、新聞社主催のセミナーを時々引き受けるだけにしている。
     *
「長岡鉄男の日本オーディオ史 1950〜82」は、1993年に出ているから、
17年前は1976年ごろとなる。

《ある辺境の販売店》とは、いわゆるオーディオ専門店なのだろう。
オーディオ専門店すべてが、こういう店だ、とはいわないし思っていない。
けれど、こういう店が意外にも少なくないことも、いろいろと聞いている。

十年以上前になるが、菅野先生がいわれたことがある。
「日本のオーディオがひどくなった原因の一つは、オーディオ店にある」と。

菅野先生はステレオサウンドのベストオーディオファイル訪問の取材で、
全国をまわられているし、オーディオ店にも寄られている。

ベストオーディオファイルに登場する人は、
オーディオ店からの紹介ということもあったからだ。
それに、オーディオ店主催のセミナー、イベントにも行かれている。

そういう経験から、いわれたことである。

Date: 6月 3rd, 2019
Cate: 広告

ホーン今昔物語(It’s JBL・その5)

その1)を書くきっかけとなった人から、
今日、別のムックのことで,どう思うか、と訊かれた。

いま書店に並んでいる「ヘッドフォンブック SPECIAL EDITION」のことである。

CDジャーナルのムックであり、ファイナル・ブランドのイヤフォンE1000が附録でついてくる。
ムックといっても、ページ数は30ページちょっとで、
半分はE1000の記事(といちおういっておく)。

ようするにメインはE1000であり、本の部分こそ附録ともいえる。
E1000の価格は二千数百円である。
「ヘッドフォンブック SPECIAL EDITION」は税抜きで1,944円だから、
E1000が欲しい人にとっては、数百円ではあるが、最も安く買えることになる。

この「ヘッドフォンブック SPECIAL EDITION」は、何なのか。
E1000が附録としてついてくるムックということになっているが、
実質は、E1000についての読み物がついたE1000そのものである。

オーディオ店や量販店などで購入するよりも、安く買える。
読み応えはないとはいえ、30ページほどの本がおまけでついてくる。

コスト的に考えれば、この「ヘッドフォンブック SPECIAL EDITION」が、
E1000単体よりもかかっていることになる。
ムックの制作費は、ファイナル側も負担しているのかもしれない。

こんなパッケージで売る理由は、こうすることで書店で売れるからだろう、と思う。
いま書店の数が減ってきている、といわているが、
それでもオーディオ店や量販店よりも書店のほうが多いはずだ。

私がいま住んでいるところで、E1000を取り扱っている店は、
「ヘッドフォンブック SPECIAL EDITION」を売っている書店ということになる。

そう見ていくと、
このムック(E1000を含めて)、ファイナルというブランドの広告そのものといえよう。

Date: 6月 2nd, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、SACDのこと

SACDの登場は1999年5月。
20年が経ったわけで、ステレオサウンド 211号は6月発売だから、
特集はSACDなのかな、とは予想していた。

実際、211号の特集は「深化するSACD」とある。

進化ではなく、深化である。
そう、進化とは書けない。

20年経っていても、進化しているわけではない。
けれど、深化なのだろうか、とも思う。

「化」がつくのにも関らず……、と皮肉めいたことをいいたくなる。
ならば進歩ならぬ「深歩」か。

でも「深歩するSACD」では……、と感じる。

特集「深化するSACD」には、
「私のSACD名盤ベスト10」と「SACDプレーヤー開発陣が語るリファレンスディスク」の項目がある。

211号は6月4日の発売だから、まだ見ていない。
なので、ここでどんなSACDが取り上げられているのかはまったく知らない。

でも、ここで、ステレオサウンドが売っているSACDが、
何枚も登場してたりするのだろうか──、と思っている。

だとしたら、それをどう受け止めるかは読者次第である。

SACDは20年経っても進化しなかった。
進歩ではなく進化を期待する方が無理というものだ。
それはよくわかっている。

なのにこんなことを書いているのは、
「進化するCD」ということを考えるからだ。

MQAが出てきて、MQA-CDが誕生した。
MQA-CDは、はっきりとCDである。
MQA-CDは、CDの進化である。