CALLAS IN CONCERT THE HOLOGRAM TOUR(その4)
5月16日、17日に行われる予定だった“CALLAS IN CONCERT THE HOLOGRAM TOUR”。
中止もしくは延期になりそうだなと危惧していたら、中止が正式に発表になった。
延期ではなく中止である。
マリア・カラスのホログラムが歌うところをみたかったが、
おそらく日本では行われないのだろう。
コンサートは死んでいくのか。
5月16日、17日に行われる予定だった“CALLAS IN CONCERT THE HOLOGRAM TOUR”。
中止もしくは延期になりそうだなと危惧していたら、中止が正式に発表になった。
延期ではなく中止である。
マリア・カラスのホログラムが歌うところをみたかったが、
おそらく日本では行われないのだろう。
コンサートは死んでいくのか。
MQAで配信されたのが、2019年10月。
今日まで、そうたびたび聴いてきたわけではなかった。
大事な愛聴盤なのだから、むしろそういうものだろう。
MQAで聴くシュヴァルツコップの、
“Strauss: Seven Songs – Mozart: Concert Arias”の一曲目、
モーツァルトの“Ch’io mi scordi di te?… Non temer, amato bene, K. 505”は、
美しい、というほかない。
シュヴァルツコップのK.505にであったときのことは、
1997年のサウンドステージに書いている。
純粋性ということを、シュヴァルツコップのK.505を聴いた後では考えてしまう。
私にとって、そういう存在だからなのか、MQAで聴いて満足しながらも、
もっともっと美しく鳴るはずだ、というおもいがつきまとう。
いわば欲だ。
美しい、といっておきながら、
純粋性などといっておきながら、
もっともっと、と求める欲があるわけだ。
ほんとうにシュヴァルツコップによるK.505の美しさを理解しているのか──、
そんなことも頭に浮かぶ。
ルンダールの絶縁トランスLL1658で200Vに昇圧してのメリディアンの218で聴いた。
求めていた音は、これだ! とそう素直におもえる音で鳴ってくれたからこそ、
こんなことを考えてしまう。
アマチュア無線の世界に踏み入ろうとする手前で興味を失ってしまった私は、
アマチュア無線機のその後について、まったく知らない。
アマチュア無線機の世界において、ケンウッドがどういうポジションにいるのかすら知らない。
(その1)にコメントがfacebookであった。
F1のマクラーレンのチームは、ケンウッドの無線システムをずっと使っている、とのこと。
その記事へのリンクもあった。
ケンウッドの無線の技術は本物といっていいのだろう。
TS990は、暗にそう語っているようにも見える。
TS990は、オーディオ機器でいえば、
ヤマハのコントロールアンプ CI、もしくはテクニクスのコントロールアンプ SU-A2、
相当するように、まず感じた。
無線機だから、チューナーを思い浮べるよりも、
この二つのコントロールアンプのことが浮んだ。
オーディオのケンウッド・ブランドを代表するといえるチューナーのL02Tでもなく、
チューナーの最高峰といわれていたセクエラのModel 1、
マランツの Model 10Bでもなく、
ヤマハのCIとテクニクスのSU-A2であり、どちらかといえばSU-A2的である。
ST990の機能のすべてを理解しているわけではない。
アマチュア無線機にまったくうとい私には、
なぜ、これだけのファンクションが必要なのかもわかっていない。
それでも、それらが飾りではないことは察しがつく。
TS990は堂々としている。
ケンウッド・ブランドは健在だと主張している。
L01A、L01T、L02A、L02Tにわくわくしていたころを思い出すだけでなく、
TS990をつくれる会社なのだから、という期待もわいてくる。
トリオというブランドは、オーディオに興味をもつ前から知っていた。
オーディオの前、アマチュア無線を趣味としようとしていた時期が、
ほんのいわずかだがあった。中学二年のころだった。
アマチュア無線の試験も受けるつもりで、問題集を買って勉強していた。
勉強しながら、
合格したら、どの無線機にしようか、と、
アマチュア無線関係の雑誌のページをめくりながら、あれこれ考えるのは楽しかった。
トリオの無線機は、そうやっていいなぁ、と思っていた候補機種のブランドの一つだった。
結局、アマチュア無線の試験を受ける前に、
五味オーディオ教室とであってしまった私は、オーディオに急速にのめり込んでいった。
アマチュア無線への興味は、そこですっぱりとなくなってしまった。
あのままだったら、どうなっていたのか。
オーディオを知らなければ、アマチュア無線の試験を受けて合格して、
トリオの無線機を買っていただろう。
あのころは、見知らぬ人と対話できることに未知の世界の魅力を感じてもいたが、
私の性格からして、長続きはしなかったようにも、いまは思う。
それでもアマチュア無線機は、カッコいいモノだ。
ケンウッドのTS990のウェブページを見つけて、驚いた。
こんなふうに進化していたのか、と。
TS990は、760,000円(税抜き)だ。
安くはない、というか、かなり高価だ。
それでもパネルフェイスを見て、もう少し高価かな、とも思ったくらいだから、
TS990の内容を知るにつれて、これだけのモノにしては、むしろ安いのではないか──、
そうも思えてきた。
TS990は、私のなかにあるケンウッド・ブランドのイメージそのものといえるモノだ。
オーディオ御三家、といっても、もう通用しないだろうが、
ずっと以前、サンスイ、パイオニア、トリオはそう呼ばれていた。
トリオはいまではケンウッドとなっている。
ケンウッドは、最初のころは、海外向けのブランドだった。
日本ではトリオ・ブランドだった。
そのケンウッド・ブランドを、高級機ブランドとして使い始めた。
プリメインアンプのL01Aが、国内向けケンウッド・ブランド最初のモデルだった。
チューナーのL01Tもあった。
続いてL02A、L02Tも登場した。
このころが、オーディオのケンウッド・ブランドのピークだった。
ケンウッド・ブランドのオーディオ機器はその後も続いたけれど、
L02A、L02Tのような製品ではなかった。
わくわくするような製品ではなくなってしまった。
わくわくが期待できるブランドはなくなってしまった。
いまもケンウッドはオーディオを続けているが、
根っからのオーディオマニアを満足させるようなモノではない。
もうこれからも期待できない──、
さっきまでそう思っていた。
三時間ほど、いろんなリンク先をクリックしていた。
そんなことをやって見つけたのが、ケンウッドのTS990だった。
TS990というオーディオ機器は存在しない。
TS990はアマチュア無線用のトランシーバーである。
松田聖子のディスクは、一枚も持っていないことは、
以前別項でも書いている。
私が高校生のころ、松田聖子はデビューしているから、
同級生に松田聖子のファンはいた。
ステレオサウンドからは松田聖子のSACDが出ていて、好評らしい。
それでも、松田聖子のディスクは一枚も持っていないだけでなく、
自分のシステムで、一度も松田聖子をかけたこともなかった。
松田聖子がソニー・ミュージックからユニバーサルミュージックに遺跡したことぐらいは知っていた。
そして「SEIKO JAZZ」が出た時は、ちょっと聴いてみたい、とも思った。
でもそのまま聴かずにいた。
つい先日、e-onkyoで「SWEET MEMORIES[甘い記憶]」が出た。
アルバムではなく、「SWEET MEMORIES[甘い記憶]」一曲だけである。
ユニバーサルミュージックからだから、MQAでも出ている。48kHz、24ビットである。
ちょっと聴いてみたい、と思った。
それに一曲(550円まで)、無料でダウンロードできるクーポンもあった。
となれば、ためらうことはない。
私にとって、はじめての松田聖子である。
松田聖子のMQAは、「SEIKO JAZZ」が96kHz、24ビット、
「SEIKO JAZZ 2」が48kHz、24ビットで出ている。
「SEIKO JAZZ」も買ってみようかな、と、
MQAでの「SWEET MEMORIES[甘い記憶]」を聴いて思い始めている。
アムトランスにルンダールのLL1658を注文した二日後に、
Mさんという、218ユーザーの方からメールがあった。
リン用に是枝重治氏が製作されたものを使って、218を240Vで使っている、とあった。
小椋佳の「彷徨」(MQA-CDで出ている)が、
広がりと密度が共存する音場で聴けるようになった、とも書いてあった。
やっぱりそうなのか、と思いつつ読んでいた。
スイッチング電源搭載のオーディオ機器を、
200Vもしくは240Vで駆動させている人はいる。
どのくらいいるのかまではわからないが、
自分の耳で、電源電圧の違いによる音の変化を体験している人は、いるわけだ。
Mさんのように自身のシステムで、という人もいるし、
たとえばMさんやすでに実践している人のところで聴いて、
音の変化を体験している、という人もいることだろう。
私が聴いているのは、いまのところ、メリディアンの218での音の変化だけだ。
ほかの機種でも音は変化するが、その変化の仕方がどの程度なのかまでは、
いまのところなんともいえない。
それでも小さくない音の変化はある、とはいえる。
そうなると、200V、240Vでの音を聴いている人たちは、
オーディオ雑誌に掲載されている試聴記事を、どう捉えていることだろうか。
私は218を使っているから、
218は200Vで聴いてほしい、と思ってしまう。
是枝氏はリン用に製作されていたわけだから、
リンの製品を、240Vで使っている人もいる。
その人たちも、そう思っているのかもしれない。
ここは日本なのだから、100Vでの音が、そのオーディオ機器の音とはいえる。
けれど内部の変更なしに、200V、240Vにも対応しているのだから、
200V、240Vでの音が、そのオーディオ機器の本来の音といえるのではないか。
明日(4月7日)に、緊急事態宣言が出される。
期間は一ヵ月程度のようだから、5月6日までか。
5月6日に、audio wednesdayをやるつもりだったから、
もしかすると4月に続いて5月も延期することになるのかもしれない。
その時になってみないとなんともいえないのだが、
新型コロナのニュースを見ていると、
映画「ターミネーター」シリーズのことを思い出す。
昨年、「ターミネーター:ニュー・フェイト」が公開された。
「ターミネーター」シリーズは一作目から映画館で観ている。
「ニュー・フェイト」も、だから映画館で観た。
「ターミネーター」シリーズのあらすじについては省くが、
この映画は、人工知能スカイネットと人類との戦いなわけだが、
無機物と人類との戦いを描いている、ともいえる。
人はさまざまな技術を進歩させてきた。
それはなんのためなのか。
無機物を進化させるためだったのではないのか。
「ターミネーター」シリーズは、
人間が無機物を進化させてきたことによって、
無機物が、人の手を借りずに無機物を生み出せる時代、
それを迎えてしまったから起きてしまった戦いを描いている──、
という見方もできる。
新型コロナウイルスの変位のニュースを読んで、
「ターミネーター」シリーズのことを思ったのは、そこである。
ウイルスを進化させるために、人は存在しているのかもしれない。
そういう見方もできる。
「ターミネーター」は映画だから、絶望的な未来ではない。
けれど現実はどうなるのかは、わからない。
遠い時代には、無機物とウイルスとが融合していくのかもしれない。
自分にとってどれだけの価値があるのか。
それを見極めたくて、オーディオマニアの多くは、
購入前に試聴をじっくり行うのだろう。
それぞれのオーディオ機器のもつ価値を、ほんとうにわかるようになるのは、
自分のモノとしてからだろう。
導入記という記事は、それを読者が知るためのものだろう。
それはそれでいい。
それでも、手離すということについて書いているのは、
手離すことで、より深く価値を知ることになることだってあるからだ。
同時に、手離すことで、価値が、意味に変っていくことがある。
だから、私はステレオサウンドがつまらない、というわけだ。
「てばなす」を私は「手離す」と書いてきている。
てばなすは、手放すであって、手離すは、私が勝手にそうしているだけである。
けれど、心情的に手放すではなく、どうしても手離すとしたいから、そうしている。
止むを得ぬ事情で、私のもとから離れていってしまったオーディオ機器、それにレコード、
それらは、私にとっては手放すではなく、手離すなのだ。
購入後には、この「てばなす」ことがある。
何ひとつてばなさずにいられる人もいる。
そうでない人もいる。
同じ「てばなす」にしても、手離すではない人もいよう。
新しいオーディオ機器を買う、
そのための購入資金の一部にするために、これまで使っていたモノを売る。
これもてばなすことだが、手放すの場合が多いのではないか。
手離すは、どこかに未練が残っている。
手放すには、未練はない。
手放すくらいのほうがいいのだろう。
それでも手離すとしたくなることが、私にはあった。
そういう私にとって、ステレオサウンドがつまらなくなったと感じるのは、
実はその点において、でもある。
五味先生の「オーディオと人生」に、こうある。
*
終戦後、復員してみると、我が家の附近は焼野ヵ原で、蔵書もレコードも、ご自慢のウェスターンも、すべて灰燼に帰していた。本がなくなっているというのは、文学を捨てろということではないのか、なんとなく、そんな気持になった。自分が大切にしたものを失ったとき、再びそれを見たくないと思うのが人間の自然な感情だろう。私は再びそれを取り戻そうとは思わなかった。それどころかもう二度と見たくない、という感じになっていた。音楽に対しても同じで、二十一年に復員してから、二十六年の暮まで私は音楽的なものに全く関心を向けなかった。
小林秀雄氏が、当時来日したメニューヒンの演奏に感激して、朝日新聞に一文をしたためられたことがある。これを読んで、なんと阿呆なことを言われるのだろうと思った。メニューヒンが、それほどいいとは、私には考えられなかった。また、諏訪根自子のヴァイオリンに接して感激したという文化人の記事なども、新聞で見かけたが聴いてみたいとも思わなかった。
*
五味先生は手離されていた。
AC 200Vにしたメリディアンの218については、
書きたいことはけっこうあるが、
5月6日のaudio wednesdayまでは、このへんにしておく。
今回の218の音の変化を聴いた後では、
オーディオ雑誌での試聴は、AC 100Vの音だけで判断していいものだろうか、と思うようになった。
従来の電源トランスを使用した場合は、
AC入力は100Vに限定されている。
国産製品は当然だし、海外製品も100V仕様になっている。
輸入製品のなかには、内部のタップを切り替えることで200Vに変更できたりするが、
それでもユーザーが勝手にやっていいことではなく、
あくまでもAC 100Vで使用するのが前提である。
ところがスイッチング電源を搭載したオーディオ機器のなかには、
これまで書いてきているように、商用電源の電圧に幅広く対応できるモノがある。
そういう製品の場合、
100Vだけで聴くのか、それとも200Vでも聴くのか。
200Vの音を聴かずに、その製品の音を判断していいのだろうか。
一般家庭の多くは、100Vである。
だから100Vの音だけでいいじゃないか──、そういわれそうだが、
たとえばメリディアンの218の消費電力は、カタログによれば5Wである。
わずかな消費電力であれば、
200Vへの昇圧トランスもそれほど大型のモノを用意せずにすむ。
私が使っているルンダールのLL1658は、重量1.35kgである。
それでも218よりも重いのだが。
オーディオ雑誌の試聴の際には、
200Vをどうやって得るのかは、問題となる。
昇圧トランスを、消費電力に応じていくつか用意するのか。
同じ容量のトランスでも、トランスによって音は違ってくるし、
トランスを使うデメリットも生じる。
そのデメリットを、少しでも小さくするために、
LL1658には、少しばかり手を加えているが、
そういうことをオーディオ雑誌の編集者がやるのか。
試聴室だから、壁コンセントのどれかを200Vにしておくのがいい。
昇圧トランスを使っての200Vとは条件が違う、
だから読者の参考にはならない──、
そんな言い訳も出てきそうだが、現実に私以外にも、
218を200Vもしくは240Vで鳴らしている人はいる。
218だけに限らない。
スイッチング電源を搭載したオーディオ機器を、
そうやって使っている人はいるわけだ。
別項で書いているように、
メリディアンの218は、ルンダールの絶縁トランスLL1658を介して、
AC 100Vを200Vにしている。
ほぼ一週間この状態で聴いている。
もう元(AC 100V)に戻す気はない。
どんなふうに音が変化したのかは、
4月1日にやる予定だったaudio wednesday終了後に書くつもりでいた。
audio wednesdayに来てくれた人に、何の先入観もなしに聴いてもらいたいと考えたからだ。
4月1日にやる予定だったテーマ、218+αは、5月6日に行う。
LL1658を使っての最初の音は、よかった。
それでも新品ということもあって、多少は馴らし運転の時間も必要だろうと、
一枚目と二枚目のディスクは、それぞれ二回ずつ聴いていた。
約三時間聴いたあとに、
バーンスタイン/ベルリンフィルハーモニーによるマーラーの九番を鳴らした。
MQA-CDである。
これまで通常のCD、SACD、MQA-CDで聴いてきている演奏(録音)だ。
にもかかわらず、こんなにも背景雑音が多かったことに気づいた。
バーンスタインらしき声も、そうだ。
これらはそれほど小さな音なわけではない。
これまで聴いていたときも、耳には入ってきていたはずだ。
ライヴ録音なのだから、これらの背景雑音があるのはわかっていた。
これまでも気づいていたけれど、これほどとは感じていなかった。
つまり、今回改めて気づいた背景雑音を含めて、すべてが生々しい。
だからこそ、これまで耳に入ってきていても、
気にも留めることがなかった音が、はっきりと聴きとれる。
バレンボイムは、カラヤンほどではないようだが、
日本にはアンチ派が少なからずいる、らしい。
私の周りにアンチ・バレンボイムといえる人はいないけれど、
そういわれてみると、バレンボイムの評価は、
海外でのそれと比較すれば、あまり高くないことは感じている。
私はアンチ・バレンボイムなわけではないが、
好きか嫌いかでいえば、嫌いな演奏家の一人だ。
嫌いだからといって、その演奏そのものが嫌いなわけではなく、
嫌いという感情が個人的なものであるのはいうまでもないことで、
私がバレンボイムが嫌いなのは、
ジャクリーヌ・デュ=プレと関係してのことだ。
バレンボイムのことが嫌いだ、
けれどバレンボイムの演奏を嫌いであったり、批判したりはしない。
積極的にバレンボイムの演奏を聴いてこなかったけれど、
それでも指揮者としても、ピアニストとしても、
特に優れた演奏家との共演者としてのバレンボイムの演奏はみごとだと感じているし、
バレンボイムが、フルトヴェングラーの信奉者であることも知っている。
そのバレンボイムが、
1999年にベートーヴェンの交響曲を短期間で録音したことは、
バレンボイム嫌いの私でも知っていた。
興味も少しはあった。
どれか一枚くらいは買ってみようかな、と思いつつも、
それでも買わなかったし、聴くこともなかった。
縁があれば、どこかで聴く機会があるだろう……、そのくらいの興味だった。
4月3日に、e-onkyoで、バレンボイムのベートーヴェンの配信が始まった。
各交響曲ごとの配信もあれば、全集もある。
全集は、クリュイタンスによる全集同様、かなり廉い価格設定である。
二枚(二曲)買うのであれば、全集のほうがお得である。
しかもMQAである。
こうなると、バレンボイム/シュターツカペレ・ベルリンのベートーヴェンへの興味が、
二十年前とは比較にならないくらい強くなってくる。
バレンボイムのベートーヴェンが、MQAでなかったら、
出たんだぁ……、ぐらいの興味のままだったかもしれない。
誰かからきいたのか、
それとも何かで読んだのか、
クリュイタンス/ベルリンフィルハーモニーのベートーヴェンは、
偶数番の曲がいい、という評判だった。
実をいうと、クリュイタンス/ベルリンフィルハーモニーのベートーヴェンを、
すべて聴いているわけではない。
四番と八番を聴いているだけだ。
六番も聴こうと思いつつも、
六番に関しては、ワルター/コロムビア交響楽団は、
昔から世評が高かった。
福永陽一郎氏だったはずだが、
ワルターを、ベートーヴェンの「田園」を指揮するために存在していた、とどこかで記していた。
そのことがどこかにあって、クリュイタンスの六番を外して、
四番と八番を聴いたものだった。
いま聴いても、いい演奏だ、とおもう。
節度ある、とか、粋な、とか、
そんな表現が使われそうなスタイルの演奏で、どこにも大仰なところを感じさせない。
その後のカラヤンとの録音とは、かなり対照的ともいえよう。
今回のリリースで、序曲をふくめて、一番から九番まですべて聴ける。
一番から順に聴いてもいけるし、
録音順に聴くことだってできる。
今日は帰宅が遅かったため、まだ聴き始めていない。
まずは四番と八番を改めて聴くことから始めようかとおもっている。
そして、今日リリースされたベートーヴェン全集は、
クリュイタンスだけではなく、
バレンボイム/シュターツカペレ・ベルリンも出ている
今年(2020年)は、ベートーヴェン生誕250周年ということで、
各レコード会社から、ベートーヴェンの録音がけっこう数リリースされているし、
これからもかなりリリースされるであろう。
「MQAで聴けるベートーヴェン 交響曲全集」は、
いつか書けるかな……ぐらいには思っていた。
e-onkyoでは、
バーンスタイン/ウィーンフィルハーモニー、
カラヤン/ベルリンフィルハーモニー(二種)、
ネルソンズ/ウィーンフィルハーモニー、
クリップス/ロンドン交響楽団、
このくらいしかなかった。
なにもMQAにこだわらなければ、
flac、DSDであれば、もっと多くリリースされている。
3月下旬ごろから、クリュイタンス/ベルリンフィルハーモニーのベートーヴェンが、
ぽつぽつリリースされ始めた。
3月中にすべて(九枚)出た。
すべてを買うつもりはなかったけれど、いくつかは買おうと考えていた。
それで今日(4月3日)、日付が変ったばかりの0時すぎにe-onkyoにアクセスしてみると、
クリュイタンス/ベルリンフィルハーモニーによるベートーヴェンがまとめてリリースされていた。
単売されていたのが、すべてまとまって、かなりのお買い得な価格である。
もちろん即購入した。
いまはどうなのか知らないが、
私がクラシックに興味を持ち始めたころ、
クリュイタンスのベートーヴェンの交響曲は、
ベルリンフィルハーモニーによる初の全集録音であることはよく知られていた。
カラヤンではなく、クリュイタンスをベルリンフィルハーモニーが、
初の全集録音に選んだ理由は知らない。
いまは、この事実はどのくらい知られているのだろうか。