Archive for category テーマ

Date: 8月 4th, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴きたいアルゲリッチのショパン(その4)

別項「スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ」のテーマであり、
その17)で引用している中野英男氏の文章。

リンクをはってはいても、クリックして読んでくれる人はほんのわずかしかいないから、
またか、といわれても、もう一度引用しておく。
     *
 アルヘリッチのリサイタルは、今回の旅の収穫のひとつであった。しかし、彼女の音楽の個々なるものに、私はこれ以上立ち入ろうとは思わない。素人の演奏評など、彼女にとって、或いは読者にとって、どれだけの意味があろう。
 私が書きたいことはふたつある。その一は、彼女の演奏する「音楽」そのものに対する疑問、第二は、その音楽を再現するオーディオ機器に関しての感想である。私はアルヘリッチの演奏に驚倒はしたが感動はしなかった。バルトーク、ラヴェル、ショパン、シューマン、モーツァルト──全ての演奏に共通して欠落している高貴さ──。かつて、五味康祐氏が『芸術新潮』誌上に於て、彼女の演奏に気品が欠けている点を指摘されたことがあった。レコードで聴く限り、私は五味先生の意見に一〇〇%賛成ではなかったし、今でも、彼女のショパン・コンクール優勝記念演奏会に於けるライヴ・レコーディング──ショパンの〝ピアノ協奏曲第一番〟の演奏などは例外と称して差支えないのではないか、と思っている。だが、彼女の実演は残念ながら一刀斎先生の鋭い魂の感度を証明する結果に終った。あれだけのブームの中で、冷静に彼女の本質を見据え、臆すことなく正論を吐かれた五味先生の心眼の確かさに兜を脱がざるをえない心境である。
 問題はレコードと、再生装置にもある。私の経験する限り、彼女の演奏、特にそのショパンほど装置の如何によって異なる音楽を聴かせるレコードも少ない。
 一例をあげよう。プレリュード作品二十八の第一六曲、この変ロ短調プレスト・コン・フォコ、僅か五十九秒の音楽を彼女は狂気の如く、おそらくは誰よりも速く弾き去る。この部分に関する限り、私はアルヘリッチの演奏を誰よりも、コルトーよりも、ポリーニのそれよりも、好む。
 私は「狂気の如く」と書いた。だが、彼女の狂気を表現するスピーカーは、私の知る限りにおいて、スペンドールのBCIII以外にない。このスピーカーを、EMT、KA−7300Dの組合せで駆動したときにだけアルヘリッチの「狂気」は再現される。BCIIでも、KEFでも、セレッションでも、全く違う。甘さを帯びた、角のとれた音楽になってしまうのである。このレコード(ドイツ・グラモフォン輸入盤)を手にして以来、私は永い間、いずれが真実のアルヘリッチであろうか、と迷い続けて来た。BCIIIの彼女に問題ありとすれば、その演奏にやや高貴の色彩が加わりすぎる、という点であろう。しかし、放心のうちに人生を送り、白い鍵盤に指を触れた瞬間だけ我に返るという若い女性の心を痛切なまでに表現できないままで、再生装置の品質を云々することは愚かである。
     *
アルゲリッチは好きなピアニストだから、すべての録音とまではいかないけれど、
かなりの数聴いているし、自分のシステムだけでなく、ほかのところでもわりとよく聴いていた。

それでもショパンに関しては、すでに書いているように、
どうにも苦手意識がついてまわっていたので、アルゲリッチのショパンは、自分で買ったことはない。

なので中野氏があげられている「プレリュード作品二十八の第一六曲」を自分のシステムで鳴らしたことはない。
おそらく鳴らしたところで、「狂気の如く」鳴ったとは思えない。

中野氏も、スペンドールのBCIII、トリオのKA7300D、EMTの927Dstの組合せでのみ、
アルゲリッチの狂気が再現される、と書かれているくらいだから、
それはある種、レコード再生の妙が,つくりだした「狂気」なのかもしれない。

それでも“THE LEGENDARY 1965 RECORDING”のアルゲリッチのショパンを聴いて、
もしかすると……、と思い始めてもいる。

そうもしかすると、“THE LEGENDARY 1965 RECORDING”は、限られた条件内では、
そんなふうに鳴り響いてくれるのかもしれない──、という予感がしている。

それもCDよりもMQAで鳴らしたら、と思ってしまう。
CDよりもSACDなのかもしれないが、不思議とそうは感じなかった。

アルゲリッチのショパン、ドイツ・グラモフォンから出ている前奏曲集は、
すでにMQAで配信されている(192kHz、24ビット)。

中野氏が感じられたアルゲリッチの狂気とはどういうものなのかは、
ほんとうのところは第三者にははっきりとはつかめないのかもしれない。

だから、私は私だけの、アルゲリッチの狂気を感じとりたい、という気持が強い。
そのためにも、MQAで聴いてみたいのだ。

Date: 8月 3rd, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴きたいアルゲリッチのショパン(その3)

絶対的な才能と相対的な才能の違い。
一流と二流の違いは、そうなのではないだろうか。

“THE LEGENDARY 1965 RECORDING”を聴いていると、なおさらそう思ってしまう。
1965年のショパン・コンクールで、アルゲリッチが優秀したというのは、
この年の出場者のなかで、アルゲリッチがもっとも優れていた(相対的な才能)というよりも、
圧倒的(絶対的才能)だった、ということなのだろう。

ショパン・コンクールから三ヵ月の録音である“THE LEGENDARY 1965 RECORDING”。
55年後のいま聴いても、輝きをまったく失っていないばかりか、
輝きをましているかのようにも感じてしまうのは、
相対的な才能の優秀なピアニストが増えてきたからなのだろうか。

7月は、“THE LEGENDARY 1965 RECORDING”をよく聴いた。
ショパンの音楽をあれだけ遠ざけていた私とは思えないほどに、くり返し聴いていた。

聴くたびに、音のよさにもやはり驚く。
驚くからこそ、そしてアルゲリッチの絶対的な才能をあますところなく聴きたい、とも思う。

“THE LEGENDARY 1965 RECORDING”はSACDも出ていた。
いまごろ“THE LEGENDARY 1965 RECORDING”を買っているくらいだから、SACDではなくCDだ。

SACDでも聴いてみたいと思う。
でもそれ以上にMQAで聴いてみたい。

“THE LEGENDARY 1965 RECORDING”はワーナー・クラシックスから出ている。
ワーナー・クラシックスはMQAにも積極的である。
いまのところe-onkyoに“THE LEGENDARY 1965 RECORDING”はない。

でも、これからさき出てくる可能性は、決してゼロではない。
そう思ってしまうのは、トリオの創業者の中野英男氏の「音楽、オーディオ、人びと」、
このなかにアルゲリッチについてかかれた文章がある。
『「狂気」の音楽とその再現』を読んでいるからなのだろう。

Date: 8月 2nd, 2020
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(あるオーディオ評論家のこと・その5)

いまのオーディオ業界にいる一流ぶったオーディオ評論家と、
私がオーディオ評論家(職能家)と思っている人たちとの大きな違いはなにか。

その一つは、意志共有できるどうか、だと思う。
一流ぶることなく「私は二流のオーディオ評論家ですから」という人は、どうか。

意志共有できていた、ようにも思うところもある。
そうだからこそ、「私は二流のオーディオ評論家ですから」といえるのではないのか。

そこまでの才能がないことを自覚している。
そのうえで、オーディオ評論家としての役目を考え、
そのうえで自分の役割を果たしていくことは、意志共有できていたからではないのか。

一流のオーディオ評論家がすべての役割をこなしていけるわけではない。
役割分担が必要になってくる。

一流ぶったオーディオ評論家も、二流のオーディオ評論家である。
同じ二流のオーディオ評論家でも、
「私は二流のオーディオ評論家ですから」といったうえで、自分の役割をはたしていく人、
一流ぶるだけの人たち。

一流ぶっているオーディオ評論家は、一流ぶっているうちに、
役割を忘れてしまった(見失ってしまった)のではないのか。

それでも一流ぶることに長けてしまった。
一流ぶっているだけ、と見抜いている人もいれば、そうでない人がいる。

そうでない人を相手に、オーディオ評論という商売をしていけば、
これから先も一流ぶって喰っていける。

一流ぶっている人のなかには、以前は、役割を自覚していた人もいるように思う。
なのに、自身の役割から目を背けてしまったのではないのか。

一流ぶることなく「私は二流のオーディオ評論家ですから」といい役割を忘れていない人、
一流ぶることに汲々として、役割を放棄した人、
そして見極められない読者がいる。

Date: 8月 2nd, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴きたいアルゲリッチのショパン(その2)

“THE LEGENDARY 1965 RECORDING”は、ピアノ・ソナタの3番から始まる。
クラシックをほとんど聴かない人であっても、
ショパンのピアノ・ソナタ3番の冒頭は、どこかできいたことがあるはずだ。

その冒頭が、誇張なしに目が覚めるように鳴ってきた。
演奏がすごいだけでなく、音もいい。
1965年の録音とは思えなかった。

アルゲリッチの演奏テクニックはすごいのだけれども、
聴いていて芸達者というふうにはまったく感じない。

別項で一流と二流について書いているところだけれど、
ここでもそのことをひしひしと感じることになる。

プロのピアニストとして十分なテクニックをもっていて、練習を怠らない人、
音楽の理解も十分にあっても、それだけでは到達できない領域があることを、
“THE LEGENDARY 1965 RECORDING”は、はっきりと見せつける。

ピアノを弾けない私が聴いてもそう感じる。
ピアニストならば、どう感じるのだろうか。

ピアノを弾けない私とプロのピアニストのあいだには隔絶した壁があるわけだが、
大半のプロのピアニストとアルゲリッチとのあいだにある壁は、
それよりもずっとずっと隔絶しているのではないだろうか。

優れた指導者の元で、演奏を磨いていく。
ピアノ教育の現場がどうなのかは知らないが、
アルゲリッチがピアノを習っていた時代と現在とでは、そうとうに違っているのではないか。

トレーニング法はずっと進歩している、と思う。
だからこそ、トレーニングだけでは絶対にこえられない壁があることを、
プロのピアニストならば実感しているのではないのか。

Date: 8月 1st, 2020
Cate: ジャーナリズム, ディスク/ブック

自転車道 総集編 vol.01(その2)

(その2)を書くつもりはなかったけれど、
facebookでのコメントを読んで書くことにした。

コメントには、総集編はブームの終りに出しやすいですね、とあった。
自転車ブームが終りを迎えているのかどうかは、いまのところなんともいえないが、
少なくともピークは過ぎてしまったようには感じている。

私が「自転車道 総集編 vol.01」を高く評価するのは、
オーディオ雑誌というよりも、
ステレオサウンドが出す総集編、選集とは根本的なところで違うからである。

「自転車道 総集編 vol.01」の序文に、こうある。
     *
安井 僕は自転車道の連載の中で、ことあるごとに、しつこいくらいに書いているんです。「この記事を読んでも速くなったり楽になったりペダリングが上達したりはしないぞ」って。今までの自転車雑誌はそういう記事ばっかりでしたよね。「どのホイールが速いのか」とか「こうすれば速くなる」とか「これでラクに走れるようになる」とか。そういうシンプルでイージーな記事ばっかりだった。もちろんそういう記事も必要なんですけど、「自転車という乗り物を深く理解してみよう」という記事はなかった。だから、「速くもラクにもなれないけど、読めばもしかしたら自転車乗りとして内面から進歩できるかもしれない」という記事をずっと作りたいとも思ってました。
吉本 自分はいち自転車好きとして「こういう記事が読みたい」と思ってたんですが、編集者として、雑誌屋として、「こういう記事を作りたい」という想いも強かったですね。ありがちなインプレとかノウハウ記事とは違う、エンターテイメントとして成立する読み物があるべきだとずっと思ってました。
安井 でも最初は怖かったですよ、ホントに。「フレームにかかる力を知る」なんて企画をバーンとやったはいいものの、全員から「そんなことどうだっていいんだよ」っていわれたらどうしようって。
     *
「自転車道」は2014年から始まった記事である。
そのころに、こういう記事をはじめたところが、オーディオ雑誌とは違う。

そして自転車ブームのピークが過ぎ去ったといえるころに、
「自転車道 総集編 vol.01」を出してきた。

「どのホイールが速いのか」とか「こうすれば速くなる」とか「これでラクに走れるようになる」とか、
そういった記事の総集編ではない。

Date: 8月 1st, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴きたいアルゲリッチのショパン(その1)

ショパンの音楽に特徴的な無垢な部分。
かなり以前に、黒田先生が、なにかそんなふうに書かれていたことをおもいだす。

この特徴的な無垢な部分がショパンの音楽にはあるからこそ、
芸達者なショパンの演奏は、どこかつくりものめいたところを感じる──、
そんなふうにも書かれていた。

私は、ショパンの音楽がどうも苦手である。
いまは歳をとったせいもあるからそれほどでもなくなってきているが、
20代のころは、ショパンの音楽を聴いていると、尻のあたりがムズムズして落ち着かない。

30代のころまでそうだった。
40代のころは、ショパンをほとんど聴かなくなっていた。

ショパンが嫌いなわけではない。
ただ聴いていると、そうなるから聴くのを避けていたら、そうなってしまっただけだ。

この尻のあたりのムズムズ感は、
もしかすると、黒田先生が以前指摘されたことは関係しているのかもしれない。
そんなふうに50代になって思うようになった。

芸達者なショパンだったから、そんなふうに落ちつかなくなるのか。
先月、アルゲリッチの“THE LEGENDARY 1965 RECORDING”を聴いた。

録音は1965年。
アルゲリッチがショパン・コンクール優勝の数ヵ月後の録音である。

なのに世に出たのは1999年。
レコード会社との契約の関係で34年間発売されなかったことは、
クラシック好きの人ならば、よく知っていること。

“THE LEGENDARY 1965 RECORDING”が出るといニュースを知った時は、
まだ30代だったこともあって、出るんだぁ、以上の関心がもてなかった。

“THE LEGENDARY 1965 RECORDING”がショパンでなく、
ほかの作曲家の作品の録音だったら、すぐさま買っていただろう。

そんなことで発売から21年経って、はじめて聴いた。

Date: 7月 31st, 2020
Cate: ジャーナリズム, ディスク/ブック

自転車道 総集編 vol.01(その1)

オーディオ好きには自転車好きも多い、と聞いている。
どのくらいいるのかは知らない。

だから昨日(7月30日)に発売になった「自転車道」を手にしている人もいることだろう。
自転車の雑誌といえば、私が読み始めたころから、
いまもそうなのだが、サイクルスポーツとバイシクルクラブがよく知られている。

ほかの自転車関係の雑誌を置いていない書店でも、
この二冊は、ほぼ置いてあるほどに自転車の雑誌といえば、この二冊である。

どちらがおもしろいかは、年代によって違っていた。
ここ数年はサイクルスポーツのほうが断然おもしろく感じていた。

その理由の一つが、2014年から始まった「自転車道」という企画である。
残念なことに、2019年8月号で終ってしまったけれど、この記事を読みながら、
一冊の本にまとめてほしい、と思っていたし、
きっとまとめてくれるだろうな、とも期待していた。

連載終了から約一年、総集編 vol.01である。
この総集編のムックの冒頭には、序文がある。

この序文は、このムックでしか読めない。
「自転車道」では、安井行生と吉本司という二人の自転車ライターによる記事だ。

この二人の、連載をふりかえっての短い対談が、序文になっていて、
そこの見出しには、こうある。
《自転車選びが短絡的になってしまった弦駄句へのアンチテーゼとして》

この序文は、自転車をオーディオに置き換えてもそのまま読める内容だ。

自転車は、つい最近までブームだった。
いまでもブームが続いているとみえるかもしれないが、
都内の自転車店は減少している、ともきいている。

自転車の雑誌、ムックも、以前ほどにはみかけなくなってきている。
そういう時期をむかえているときに、「自転車道」が始まって、総集編が出た。

それにしても、いまのオーディオ雑誌は、こういう記事をどうしてつくれなくなったのだろうか。
つくれるさ、という編集者もいるかもしれない。

続けて、その編集者は、こういうのかもしれない。
「つくれるさ、でも、そんな記事を読者は望んでいない」と。

はたしてそうだろうか。

Date: 7月 31st, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴けるバックハウスのベートーヴェン(その4)

いちばん待っていたバックハウスによるベートーヴェンのピアノ・ソナタの30番、31番、32番、
このカップリングのMQAの配信が始まったのは、7月3日だった。

すぐに購入したのか、というと、実はしていなかった。

今年はベートーヴェン生誕250年ということで、
CDだけでなく配信も活発である。

今年のはじめにはクリュイタンスのベートーヴェンの交響曲がMQAで配信され始めた。
一枚ずつの配信が始まった。
どれとどれを買おうか迷っていた。

迷っているうちに、もしかすると最後に全集というかたちでの配信があるかもしれない──、
そう思うようになった。
そして、しばらくしてそのとおりになった。

全集でのMQAの配信は、一枚ずつ購入するよりもずっとお得だ。
バックハウスのベートーヴェンもそうなるかもしれない──、
という期待を勝手にもっていた。

一ヵ月は待ってみよう、
それで全集のかたちで出なければ、30番、31番、32番のカップリングを買おう、と。

クリュイタンスとバックハウスとでは、レコード会社が違う。
クリュイタンスがそうであったとしても、バックハウスがそうであるとはいえないのだが、
なんとなく全集で出る、という確信に近いものがあった。

待っていると、やはり出る。
今日、バックハウスのベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集が出た。

あとは「最後の演奏会」とカーネギーホールでのライヴがMQAで出てくれれば、
もう満足といっていい。

Date: 7月 30th, 2020
Cate: 世代

世代とオーディオ(実際の購入・その14)

好感度、という。
オーディオの場合だと、好感度よりも高感度が使われるわけだが、
芸能の業界では、好感度のほうであり、好感度の順位が発表されてたりする。

好感度タレントと呼ばれている人たちがいる。
テレビのない生活を送っていると、
誰が好感度タレントと呼ばれているのかは、なんとなく知っているけれど、
その好感度タレントがテレビに出ているのを見ているわけではない。

好感度タレントが出ているテレビ番組をみて、
なるほど、この人が好感度タレントなのか、と感心するのかどうかはなんともいえないが、
オーディオの世界で、好感度ということについて考えてみると、
たとえば1980年代後半から1990年前半ぐらいまでのBOSEのスピーカーは、
好感度スピーカーといえたのではないだろうか、とちょっと思っている。

好感度タレントの上位にいた人が、ある不祥事で好感度が下ってしまった──、
みたいなことをインターネットで目にすると、
好感度の基準の曖昧さみたいなものを感じるわけだが、
あの時代のBOSEのスピーカーは、いわゆるカフェバーと呼ばれる店には取り付けられていた。

多くは101MMだったし、301MMもあった。
この二つのBOSEのスピーカーは、当時、好感度な存在だったのだろうか。

誰も当時、そんなことはいっていなかったけれど、
多くの人から嫌われていたスピーカーならば、あれだけの多くの店舗で使われることはなかったはずだ。

101MMは大きさ・価格からしてまさにそうだが、
301MMにしても、その用途はBGMを店内に流すためのスピーカーであった。

BOSEのスピーカーの音が好きかと問われれば、嫌いじゃないけれど……、と答えるところがある。
井上先生が鳴らす901の音は、ほんとうによかった。
その音を聴いていたから、いまでも901は、欲しいな、という気持が少しだけ残っている。

でも、あくまでも901に関してだけであって、
他のBOSEのスピーカーを欲しい、と思ったことはない。

それでも、あの当時、オーディオに関心のない人(二人)から、
BOSEのスピーカーを買おうと思っているけれど、どう? と訊かれたことがある。

ずいぶん以前のことだから、はっきりとどんなふうに答えたのかは記憶にないが、
否定することはしなかったはずだ。

Date: 7月 30th, 2020
Cate: 日本のオーディオ

S氏とタンノイと日本人(その13)

朝日新聞社が、1970年代後半、オーディオのムックを出していた、というと、
いまでは懐かしがる人よりも驚く人のほうがずっと多いんだろうな……。

あのころ、朝日新聞社は「世界のステレオ」という、
LPジャケット・サイズのムックを数冊出していた。

1977年夏発行のNo.2に、「オーディオ・コンポーネントを創る」という記事がある。
そこで瀬川先生は、タンノイのアーデンとQUADのアンプとの組合せをつくられている。
     *
 最近の新しいオーディオ装置の鳴らすレコードの音にどうしても馴染めない、という方は、たいてい、SP時代あるいは機械蓄音器の時代から、レコードに親しんできた人たちだ。その意味では、このタンノイの〝ARDEN〟というスピーカーと、クォードのアンプの鳴らすレコードの世界は、むろん現代のトランジスター時代の音でありながら、古い時代のあの密度の濃い、上質の蓄音器の鳴らした音色をその底流に内包している。
 〝古き酒を新しき革袋に〟という諺があるが、この組合せはそういうニュアンスを大切にしている。
 ピックアップに、あえて新製品でないオルトフォン(デンマーク)のSPU−GT/Eを選んだのも、そういう意図からである。
 こういう装置で最も真価を発揮するレコードは、室内楽や宗教音楽を中心とした、いわゆるクラシックの奥義のような種類の音楽である。見せかけのきらびやかさや、表面的に人を驚かせる音響効果などを嫌った、しみじみと語りかけるような音楽の世界の表現には、この組合せは最適だ。
 むろんだからといって、音楽をクラシックに限定することはなく、例えばしっとりと唱い込むジャズのバラードやフォークや歌謡曲にでも、この装置の味わいの濃い音質は生かされるだろう。
 しかしARDENというスピーカーは、もしもアンプやピックアップ(カートリッジ)に、もっと現代の先端をゆく製品を組合せると、鮮鋭なダイナミズムをも表現できるだけの能力を併せもった名作だ。カートリッジにオルトフォンの新型MC20、プリアンプにマーク・レヴィンソンLNP2Lを、そしてパワーアンプにスチューダーのA68を、という組合せを、あるところで実験してたいへん好結果が得られたこともつけ加えておこう。
     *
《あるところで実験》というのは、
1976年12月に出たステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’77」での組合せだ。

「世界のステレオ」のなかにも、酒というたとえがある。
ステレオサウンド 41号のなかにも、
《媚のないすっきりした、しかし手応えのある味わいは、本ものの辛口の酒の口あたりに似ている》
と書かれている。

瀬川先生にとって、タンノイの音(スピーカー)というのは、「酒」なのか。

Date: 7月 30th, 2020
Cate: 日本のオーディオ

S氏とタンノイと日本人(その12)

ステレオサウンド 41号の特集「世界の一流品」で、
瀬川先生は、タンノイのアーデンについて、つぎのように書かれている。
     *
 ARDENを、レクタンギュラー・ヨークとくらべてタンノイの堕落と見る人があるが、私はその説をとらない。エンクロージュアの木質や仕上げが劣るというのなら、初期のオートグラフからIIILZに至る一連の製品のあの艶のある飴色のニスの光沢──その色と艶は使い込むにつれて深みを増したあの仕上げ──にくらべれば、チークをオイル仕上げして日本で広く普及しはじめてからのレクタンギュラー・ヨークの時代から、堕落はすでに始まっていた。そういう見方をするなら、JBLも〝ハーツフィールド〟以前の高級機では、木部のフィニッシュに四通りないし五通りの種類と、それに合わせてグリルクロスが指定できた。いまはそういう時代ではない。残念なことには違いないが、しかしそれはスピーカーに限った話ではなく、もっと大局的にものを眺めなくては本質を見あやまる。
 すでにヨークの後期から、タンノイはユニットの改良に手をつけている。最大の変化はウーファーのコーン背面の補強リブの新設。それにともなって全体が少しずつ改良され、呼び方も〝デュアル・コンセントリック・モニター〟から、単にHPD385A……というように変ってきている。が、そこに流れる音の本質──あくまでも品位を失わない、繊密でしっとりした味わい──には、むしろいっそうの磨きがかけられ、現代のワイドレインジ・スピーカーの中に混っても少しも聴き劣りしないどころか、ブックシェルフのお手軽スピーカーから聴くことのできない音の密度の高い、味わいの濃い、求心的な音楽の表現で我々に改めてタンノイの良さを再認識させる。
 新シリーズはニックネームの頭文字をAからEまで揃えたことに現れるように、明確なひとつの個性で統一されて、旧作のような出来不出来が少ない。そのことは結局、このシリーズを企画しプロデュースした人間の耳と腕の確かさを思わせる。媚のないすっきりした、しかし手応えのある味わいは、本ものの辛口の酒の口あたりに似ている。
     *
冒頭に《レクタンギュラー・ヨークとくらべてタンノイの堕落と見る人があるが、私はその説をとらない》
とある。
1980年のGRFメモリーの登場以降、ハーマン傘下時代のタンノイを堕落と見る意見が、
オーディオ雑誌に載っていた。
いまも載っている、といってもいいだろう。

瀬川先生は43号のベストバイでは、
《ホーン型の鳴らす中〜高域域の確かな手ごたえは、手をかけた料理あるいは本ものの良酒を味わったような充実感で聴き手を満足させる》と書かれていたし、
45号の「フロアー型中心の最新スピーカーシステム」では、
《たとえばKEFの105のあとでこれを鳴らすと、全域での音の自然さで105に一歩譲る反面、中低域の腰の強い、音像のしっかりした表現は、タンノイの音を「実」とすればKEFは「虚」とでも口走りたくなるような味の濃さで満足させる》という評価である。

その瀬川先生の、59号のベストバイでの、タンノイに対しての、いわば無視ともいえる評価。
54号の「いまいちばんいいスピーカーを選ぶ・最新の45機種テスト」のあとで、
スーパー・レッド・モニターにふれられているのは、56号である。
     *
 日本の、ということになると、歌謡曲や演歌・艶歌を、よく聴かせるスピーカーを探しておかなくてはならない。ここではやはりアルテック系が第一に浮かんでくる。620Bモニター。もう少しこってりした音のA7X……。タンノイのスーパーレッド・モニターは、三つのレベルコントロールをうまく合わせこむと、案外、艶歌をよく鳴らしてくれる。
(「スピーカーを中心とした最新コンポーネントによる組合せベスト17」より)
     *
59号ベストバイでの評価のあとでは、つけ足しのような感じがしないでもない。

Date: 7月 29th, 2020
Cate: 日本のオーディオ

S氏とタンノイと日本人(その11)

瀬川先生は、GRFメモリーを聴かれていないはず、である。

ステレオサウンド 61号に岡先生が書かれている。
     *
 八月七日、本誌第六十号のアメリカ・スピーカー特集のヒアリングの二日目、その日の夕刻から急にくたびれた様子が目立っていた彼の夕食も満足にできないという痛痛しい様子に、早く寝た方がいいよと思わずいってしまった。翌朝、彼は必死の気力をふりしぼって病院にかけつけ、そのまま入院した。それから、一進一退の病状が次第に悪化して、ちょうど三ヵ月目に亡くなった。
     *
それからは退院されることなく、11月7日に亡くなられた。
瀬川先生はGRFメモリーを聴かれていない──、と断言してもいい。

だから、あのころ、とても気になっていた。
瀬川先生は、GRFメモリーをどう評価されたのか、が。

ほかの方と同じに高く評価されたのか、
それとも59号のベストバイでの評価のようだったのか。

私は、後者ではなかったのか、と思っている。
それほど高く評価されなかったのではないだろうか。

いや、高く評価されたに違いない、と考える人もいていい。
私と同じように考える人もいていい。
誰にもどちらが答なのかは、わからない。

だから、瀬川先生がGRFメモリーを高く評価されているところも想像してみたことがある。
そうでない瀬川先生も想像してみていた。

考えては、また考える。
そうやって考えのあとに私のなかに残ったのは、GRFメモリーを高く評価されない瀬川先生である。
酷評されることはなかった、はずだ。

59号の次のベストバイ、63号まで生きておられたどうだったか。
おそらく59号の結果と同じだったのではないのか。

59号では、ヴァイタヴォックスのCN191、セレッションのDedham、
エレクトロボイスのパトリシアン800、JBLのパラゴンといったスピーカーに点を入れられている。
なのにタンノイに関しては、オートグラフにも点を入れられていない。

その理由を、私はどうしても考えてしまう。

Date: 7月 29th, 2020
Cate: 日本のオーディオ

S氏とタンノイと日本人(その10)

ステレオサウンドのベストバイは、その後も続いているが、
瀬川先生は59号まで、である。

60号「ザ・ビッグ・サウンド」にタンノイのGRFメモリーが登場した。
菅野先生が書かれている。

さらに55号から始まったタンノイ研究の五回目も、GRFメモリーであり、
10ページが割かれている。こちらも菅野先生が書かれている。

一つの機種が、一冊のステレオサウンドのなかで、
これだけのページで取り上げられているのそうそうない。

しかも菅野先生一人で、二つの記事で、ということは初めて、といっていい。
それだけにGRFメモリーの評価は高かった。

GRFメモリーは、タンノイがハーマン傘下から離れた最初の製品である。
タンノイと輸入元ティアックが協力して株を買い戻している。

GRFメモリーに搭載されているユニットは、3839/Mである。
このユニットは、クラシック・モニター搭載のK3838のスペシャルヴァージョンということだった。

このことからも想像できるし、
ステレオサウンド 60号のタンノイ研究では、クラシック・モニターとの比較表があることからも、
ベースモデルとしてクラシック・モニターがあった、といえるだろう。

エンクロージュアの形状は、この二つは違いがあるが、
内容積はクラシック・モニターが230リットル、GRFメモリーが220リットルと近い。
重量はクラシック・モニターが65kg、GRFメモリーが62kgである。

型番の違い、クラシック・モニターやスーパー・レッド・モニター、
それからSRMシリーズは、モニターの名がついている。
GRFメモリーには、モニターの文字はない。

アピアランスも、
クラシック・モニターやスーパー・レッド・モニターはスタジオモニター用に対し、
GRFメモリーは家庭用スピーカーとしてのそれである。

クラシック・モニター、スーパー・レッド・モニターにはバイアンプ駆動端子があったが、
GRFメモリーにはない。

そのネットワークも、K3838と同じではない。新設計ということだったし、
クラシック・モニター、スーパー・レッド・モニターが、
プレゼンス・エナジー、トレブル・ロールオフ、トレブルエナジーの3コントロールに対し、
GRFメモリーは従来と同じトレブル・ロールオフとトレブル・エナジーの2コントロールに戻っている。

クラシック・モニター、スーパー・レッド・モニターなどは、
日本市場でJBLのスタジオモニターが好評であることから出てきた製品なのかもしれない。

どちらもハーマン傘下のスピーカーメーカーであったわけだから、
タンノイのスタジオモニターを出せば……、
ということを親会社のハーマンが考えていたとするのは、私の妄想だろうか。

でも、タンノイがつくりたかったスピーカーは、
モニタースピーカーではなかった、というわけだ。

そんな背景があって、GRFメモリーの評価は高かった、ともいえる。
けれど、瀬川先生はどうだっただろうか、とどうしても考えてしまう。

Date: 7月 28th, 2020
Cate: 欲する

何を欲しているのか(サンダーバード秘密基地・その4)

世代とオーディオ(実際の購入・その13)」へのコメントがfacebookにあった。

そこには、スペンドールのBCIIは欲しい製品ではあるけれど、
好きかどうかはわからない──、とあった。

これは、よくわかる。
ここでとりあげているデアゴスティーニからでている週刊サンダーバード秘密基地。
確かに小学生のころ、欲しかった。

けれど、サンダーバードの秘密基地のプラモデルが好きだったのか、というと、
そうでもなかった。
サンダーバードという番組は好きだった。

好きだったからこそ、テレビに出てくる秘密基地そっくりといえるものが欲しかった。
それは無理というものだと大人になればわかるけれど、小学生はそうではなかった。

欲しかったけれど、好きではなかった。
その気持は、別項で書いているマッキントッシュのMC2300やJBLの4310に対してもある。

MC2300が好きかといえば、微妙なところがある。
はっきりといえるのは嫌いではない、ということ。

MC2300の音だけで、これから先ずっと聴いていく、ということは、ごめんこうむる。
そんな気持ははっきりとある。

なのに欲しい、という気持がはっきりとある。

4310に対しても、MC2300とまったく同じとはいわないが、近い。
嫌いではない、と、4310についてもはっきりといえる。

4311は聴いているが、4310の音は聴いていない。
それでも4310の音だけでずっと私が好きな音楽を聴いていくのは、ちょっと無理である。

4310(正しくは4311A)の音は、うまく鳴ったときは惹かれるところがある。
これはMC2300も同じである。

どこか強烈に惹きつける魅力がある──、とはいわない。
まったくよさを感じない人がいるのも事実だからだ。

あくまでも私個人は、ということなのだが、
無性に聴きたくなる衝動が何年かに一回おとずれる(わきあがってくる)ということは、
惹きつけられるなにかを、感じとっているからなのだろう。

カートリッジだとエンパイアの4000D/IIIがそうだ。
好きではない。けれど、ある種の音楽、
それもたまに聴きたくなる音楽のためだけに欲しい、と若いころ思っていた。

Date: 7月 28th, 2020
Cate: ちいさな結論

ちいさな結論(問いつづけなくてはならないこと・その3)

美しく聴く、ということは、
自分と和する心をもつことなのだろう。