Archive for category テーマ

Date: 10月 5th, 2020
Cate: ショウ雑感

2020年ショウ雑感(その30)

(その28)で、東京での開催にこだわることも考えた方がいいのかもしれないが、
国際フォーラムのような建物が、東京以外にあるのだろうか、と書いた。

(その28)は、7月に書いている。
私が知らなかっただけなのだが、今年4月に奈良県コンベンションセンターがオープンしている。

今日知ったばかりで、実際に行っているわけではないが、
奈良県コンベンションセンターはオーディオショウとして使えるのではないだろうか。

いま大阪のオーディオショウはホテルでの開催である。
以前書いているように、大阪のオーディオショウは、
ずっと以前の輸入オーディオショウのままといっていい。

近畿地方のオーディオショウは、奈良県コンベンションセンターでの開催。
うまくいけそうな感じがするのだが、どうだろうか。

Date: 10月 4th, 2020
Cate: 老い

老いとオーディオ(とステレオサウンド・その8)

ステレオサウンドの雑誌にビートサウンドがある。
あった、とすべきかな、と思い、ちょっと検索してみると、
休刊にはなっていないようだし、不定期刊行物扱いのようである。

ビートサウンドの創刊号が出たのは、二十年近く前のことのはずだ。
朝沼予史宏氏が編集長と創刊されたと記憶しているから、そのころのはずだ。

朝沼予史宏氏は2002年12月に亡くなられているから、
ビートサウンドの創刊号だけ携われていたはずた。

そのころまのステレオサウンドでは、クラシックとジャズが、
試聴レコードのメインであった。

ビートサウンドは、そこを突破したいという朝沼予史宏氏のおもいがあったのだろう。
ビートサウンドの創刊号を私は買わなかったけれど、
周りの人たちの評判はかなり良かった。

だから、その人たちは期待もした。
けれど、朝沼予史宏氏不在のビートサウンドは変っていった。
それはしかたないことだったのかもしれないが、
それとともに、ビートサウンドのことが、周りの人たちの話題にのぼることが減ってきた。

創刊号も買わなかったぐらいだから、それ以降の号も一冊も買っていない。
書店で手にとってパラッと眺めるだけか、
オーディオ好きの友人宅に行った時に、そこにあれば少しじっくり読むことはあった。

その程度の読み方(とはいえないけれど)しかしていないのだが、
スイングジャーナル化してきたな、と感じていた。

ここでのスイングジャーナルとは、
売れていたころの、勢いがあったころのスイングジャーナルではなく、
しぼんでいくだけのスイングジャーナルのことである。

Date: 10月 3rd, 2020
Cate: ショウ雑感

2020年ショウ雑感(その29)

インターナショナルオーディオショウの中止の発表後にも、
いくつかのオーディオショウの中止が発表になっている。
そこには来年のショウも含まれている。

来年も、どうなるのかはわからない。
東京オリンピックは開催されるような感じだが、
コロナ禍が終息せずに開催されたとしたら、
秋以降の感染は拡大していくのかもしれない。

そうなってしまったら、東京オリンピック後の東京でのオーディオショウは、
すべて中止になってもおかしくない。

劇的な変化があって、すんなり開催されることだってないわけではない。

とにかく今年は2月に開催されたTOKYO AUDIO BASE 2020に行っただけである。
でも、特にさびしいという気持はない。

田舎で生活よりも東京でのほうがすっかり長くなってしまっているけれど、
田舎にいたころは、オーディオショウは縁遠いものだった。

東京に行ってみたいと思っても、
中学、高校生の小遣いでどうにかなるものではない。

いまでこそ地方でのオーディオショウも活発になってきているが、
当時はそんなこともなかった。

ないのが、だから当り前だった。
それに戻っただけ、という感覚で受け止めているからなのだろう、
さびしい、という感じがしないのだ。

でも、あのころオーディオフェアに行きたい、と思いつつも、
無理してでも、とは思っていなかった。

東京に住んでいる人を羨ましく思っていたけれど、
東京に住みたい、とまでは思っていなかった。

そう思えたのは、オーディオ雑誌があったからだし、
オーディオ雑誌がおもしろかったからだ。

Date: 10月 3rd, 2020
Cate: ディスク/ブック

クラウス・テンシュテットのマーラー

別項「タンノイはいぶし銀か」で、
東欧のオーケストラの音についてのコメントがあり、
そのことで思い出したことを少しばかり書いた。

書いてしばらくして、そういえばと、
テンシュテットも東ドイツ出身の指揮者だったことを思い出す。

黒田先生だったと記憶しているが、
テンシュテットの録音がEMIが出始めたころに、
テンシュテットを大きな氷山に喩えられていた。

氷山の一角といわれるように海面にあらわれているのは、ほんの一部で、
海中にはその何倍もの大きさが隠れている。

テンシュテットが、そのころ見せ始めたのは、まさしく氷山の一角で、
これからその全貌を、われわれにみせて(聴かせて)くれるであろう、と。
そんなことを読んだ記憶がある。

なるほどなぁ、と思いながら読んでいた。
私が買った(聴いた)テンシュテットの最初のレコードは、マーラーだった。
六番が最初だった。

そのころステレオサウンドの試聴室で何度となく聴いていたレーグナーのマーラーの六番。
テンシュテットの場合は、亡命して西欧のオーケストラを振ってもので、
そのころは、そのへんのことをあれこれ考えながら(比較しながら)、
聴くことはしていなかったし、考えてもいなかった。

テンシュテットのマーラーは、その後もいくつか聴いている。
けれどマーラーばかり、テンシュテットばかり聴いているわけでもないから、
テンシュテットのマーラーをすべて聴くことはなかった。

テンシュテットの名声は、私がそうやって聴いていたころも、
あとになって非常に高くなっていた。
でも、そのころはテンシュテットから遠ざかっていた。

二年ほど前だったか、タワーレコードに、
テンシュテットのマーラー全集のCDボックスが、三千円を切る価格で売っていた。
ひさしぶりにテンシュテットのマーラーを聴こうかな、と思いつつ、
手にとっては見たものの、他に優先したいディスクがけっこうあり、
わずか三千円ほどであっても、レジまで持っていくことはなかった。

そのあとも、何度か店頭でみかけている。
いつこのあいだもみかけた。
それでも他のディスクを優先してしまった。

先日、タワーレコードのサイトを眺めていたら、
テンシュテットのマーラーの一番、五番、九番、十番(一楽章)、
テンシュテットのマーラーでアナログ録音だったものが、
SACDになっているのを知った。

何年か前に出ていたのに気づいていなかった。
今回は違う。ひさしふりにテンシュテットのマーラーである。

Date: 10月 2nd, 2020
Cate: ディスク/ブック

Bach: 6 Sonaten und Partiten für Violine solo(その5)

これも、レコード(録音物)の落穂拾いか、と自覚しつつも、
ハイフェッツのバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータを買った。

LPで昔聴いていた。
それでもあまり印象に残っていない。

私にとってハイフェッツといえば、
ブルッフのヴァイオリン協奏曲がまっさきに思い浮ぶヴァイオリニストである。

五味先生もハイフェッツのブルッフは聴かれていた、ときいている。
ブルッフの印象は思い出すことはあったが、
バッハに関しては、ほとんど残っていない。

ただシゲティ、シェリングとは違う演奏であることぐらいは憶えている。
エネスコ、シゲティ、シェリング。
これだけあれば、私は満たされている。

これだけしか持っていないわけではない。
他にも持っている(聴いている)。
最近の録音でも、いくつか聴きたいのはある。

なのに、それらの録音ではなく、
いまさら、またハイフェッツのバッハが気になってきたし、
ハイフェッツを優先してしまっている。

Date: 10月 2nd, 2020
Cate: ディスク/ブック

Hotel California(その7)

オーディオマニアは、AとBとに分けられる。
こんなことをたまにみかける。

オーディオマニアに限らず使われているのだから、
またか、と思う。
そう思うくらいなので、個人的にはあまり使いたくないのだが、
身体が憶えている音に関しては、これを使いたい。

身体が憶えている音を持っているオーディオマニアと、
持っていないオーディオマニアがいる──、とに分けられるとはいえそうに感じている。

以前はそんなこと感じなかったし、考えてもいなかった。
けれど、二年前のOTOTENのハーマンインターナショナルのブースで、
“Hotel California”が、当時発売されたアナログディスクで鳴らされた。

スタッフの個人所有のディスクだった。
その人は、ずっと、そのディスクで“Hotel California”を聴いていたはずだ。
もちろんアナログディスクだけではなく、CDでも聴いていたであろう。

でも“Hotel California”が発売されたころからのアナログディスクである。
それを最新のシステムで再生して、その人は満足していた様子だった。

それはそれでいい。
ケチをつけることではないのだが、
このスタッフの人は、当時どんな音で“Hotel California”を聴いていたのだろうか、
と考えてしまった。

私は“Hotel California”のディスクを買うことはなかったけれど、
JBLの4343で聴いた音が、いまも残っている。
身体が憶えている音として、残っている。

だからこそ二年前のOTOTENでの“Hotel California”の音には、
こんな音……、と思うところがあったし、
そのころ聴く機会が続いたいくつかのリマスター盤での“Hotel California”にも、
こんな音……と思っていた。

そんなことがあったから、
身体が憶えている音を持っているオーディオマニアと、
持っていないオーディオマニアとがいるように、ここにきて考えるようになった。

身体が憶えている音を持つ持たないについて、
項を改めて書きたい。

Date: 10月 1st, 2020
Cate: ケーブル

結線というテーマ(その12)

アースは重要だ、という人はけっこういる。
そんな人のなかには、今回私が書いていることに否定的な人もいるかもしれない。

けれど一言でアースといっても、
リターンのためのアースとグラウンドとしてのアースはわけて考える必要があり、
すでに別項「サイズ考」で書いているので詳細は省略するが、
徹底して分離しなければならないアースと、
分離してはいけないアースとがある、ということだ。

知人宅の音は、驚くほど変った──、
とやった本人がいったところで、自画自賛としか受けとらない人がいるのはわかっている。

知人宅には数日後、オーディオ店の人が来ている。
その日もたまたま私もいた。

その人は、知人宅の音を知っている。
同じシステムの以前の音を聴いているわけで、
その日の音は、ケーブルのところ以外、何ひとつ変っていないにもかかわらず、
音の変化が大きかったから、「何をやったんですか」と知人に訊いていた。

そのくらいに、分離してはいけないアースを一本化することの音の変化は大きい。
audio wednesdayでも、一年以上、
メリディアンの218とマッキントッシュのMA7900との接続、
それ以前はMCD350とMA7900の接続は、
ここに書いている方法でやっている。

以前、audio wednesdayで鳴らしている音を宮﨑さんの音と思っている、
といわれたことがあり、即座に否定したことがある。

なぜかといえば、愛情をこめて鳴らしているわけではないからだ。
それでも一つだけ、私の音といえるところがあるとすれば、
それはセンター定位のリアリティである。

それはしっかりと音にあらわれているわけで、
常連のかた数人から、そのことについて訊かれたこともある。

Date: 10月 1st, 2020
Cate: ディスク/ブック

Hotel California(その6)

昨晩、友人のAさんとひさしぶり飲んでいた。
割と頻繁に会うのだけれど、今年はコロナ禍のせいで、八ヵ月ほど会うことはなかった。

二人とも1963年生れである。
音楽とオーディオが好き。
聴いてきた音楽は、けっこうな違いがあるけれど、
共通する音楽もあって、昨晩は“Hotel California”のことについて話していた。

発売当時、アナログディスクで聴いた音の印象と、
いま入手できるリマスター盤(CD、アナログディスクなど)の音の印象が違う──、
とAさんも私も感じている。

Aさんも私も“Hotel California”は、JBLの4343て聴いた音こそが、
このディスクのいわばリファレンス(基準)の音となっている。

“Hotel California”をカリフォルニア生れのスピーカーで聴く、
つまりカリフォルニアの空を思わせるような音で聴く、
これこそが“Hotel California”のほんとうの音だ、というのは、
いわばこじつけであって、もちろんJBL以外のスピーカーで聴いたっていい。

そうはいいながらも、Aさんも私も、“Hotel California”のあのころの音は、
もっと乾いていた、という記憶がある。

“Hotel California”と4343の組合せ。
その音がいまも記憶に残っている。
その音を基準にして、リマスター盤の音について語っている。

若い人たちからすれば、おじさん二人のノスタルジーな会話なのかもしれないが、
それでも二人で確認していたのは、
“Hotel California”と4343の組合せの音は、身体(からだ)が憶えている音なのだ。

Date: 9月 30th, 2020
Cate: ケーブル

結線というテーマ(その11)

バランス伝送の場合も同じである。
XLRプラグを開け、1番ピンの接続を片側だけ外す。
そしてアース線を用意して接続する。

一度知人宅で試したことがある。
知人宅のリスニングルームは広かった。

コントロールアンプをリスニングポイントの目の前に、
パワーアンプはスピーカーの中央に、という置き方だった。

コントロールアンプとパワーアンプ間はバランスケーブルで、
7mは優にこえていた、と記憶している。
上記のような最短距離での配線でも、これだけの長さが要るほどの広い空間だった。

ラインケーブルにおける左右チャンネルのアースの共通化(一本化)は、
ケーブルが長くなればなるほど効果的であることは理屈からいってもそうである。

それでも私が自分のシステムでやっていたときは部屋が狭いこともあって、
ケーブルが目につかないように部屋の端っこをはわせても、
せいぜいが3m程度であった。それでもはっきりと効果は聴きとれる。

それが倍以上の長さになると、どの程度の変化量となるのか。
その時知人が使っていたアンプはクレルだった。
おもしろいことにパワーアンプにもアース端子が備わっていた。

なので実験は、より簡単に行える。
知人にケーブルに手を加えることの了解を得て、
アース線には、一般的なスピーカーケーブル(太くない)を引き裂いて使った。

10分もかからずにできる。
そんな作業にも関らず、出てきた音の変化の大きさには、二人とも驚いた。
ケーブルの長さに比例して、というよりも、
二乗とまではいいすぎだろうが、それに近いのでは、と思うくらいの変化量だった。

1990年ごろの話で、いまほど高価すぎるケーブルはほとんどなかった時代だが、
知人が使っていたのは、当時としては高価な部類のケーブルであった。

つまり、どんなに高価なケーブルであっても、ここでやっていることは、
アースの明確化であって、それにはこういう方法をとる以外にない。

Date: 9月 29th, 2020
Cate: ケーブル

結線というテーマ(その10)

私がいたころのステレオサウンドの試聴室で使っていたラインケーブルは、
ほとんどが1.5mか2m程度の長さだった。

それ以上の長さのケーブルももちろんあったけれど、
実際に使う長さのケーブルといえば、上記の長さのものだった。

この程度の長さのラインケーブルでも、(その9)で書いていることが発生する。
ラインケーブルのシールドで、
コントロールアンプとパワーアンプのアースは接続されている。

どんな導体にも直流抵抗はあるわけで、
たとえ1.5m程度のケーブルであっても、わずかとはいえ直流抵抗は存在する。
それからインダクタンスもある。

とはいえ、コントロールアンプ側のアースとパワーアンプ側のアースとに、
どれだけの電位差が生じるというのだろうか。

それから左右のケーブル間には浮遊容量が存在する。
1.5mもしくは2mのケーブルの引き回しかたによっては、
二本のケーブルの距離が広いところと狭いところができる。

それによって浮遊容量は変化する。
それでも左右チャンネルのシールドの電位は同じ、といってよい。
同電位間では浮遊容量の影響はほぼない。

こんなふうに考えていっても、理屈に合わないほどの音の変化が確かにある。
ならば試してみるしかないわけで、
ラインケーブルのシールドを、片側だけ外す。

コントロールアンプ側を外すのか、
パワーアンプ側を外すのか。

それは別項「境界線」で書いているように、
それぞれのアンプの領域をどこまでと考えるかによって違ってくる。

私はコントロールアンプの領域は、出力に接がれるラインケーブルまで、
つまりパワーアンプの入力端子まで、と考えるので、
ここではパワーアンプ側のシールドを外すことになる。

RCAプラグを開けて、シールド側にハンダづけされているのを外すだけである。
もちろん、こうしてしまうと音は基本的には出ない。
ただし機器間の浮遊容量があるため、実際には音が鳴ることがある。

そしてラインケーブルの他にアース線を用意して、
コントロールアンプとパワーアンプを接ぐ。

Date: 9月 29th, 2020
Cate: モノ

モノの扱い(その3)

その1)へのコメントには、若い世代のモノの扱いについてのものだった。
それだけを読むと、世代的なことが関係しているようにも読める。

けれどKさんからきいた話は、いまのことではない。
1970年代の終りごろの話だから、
(その1)で書いているレコードの扱いがまるでなっていない女性は、
世代に関係してのこととはいえない、と思う。

いつの時代にも、いるわけだ。
そのことを(その1)を公開して思い出した。

ほんとうに首を傾げたくなるほど、モノの扱いがわかっていない人がいる。
ここでいっているモノの扱いは、
ほとんどモノの持ち方である。

モノを持つというのは、人の基本的な動作なのではないのか。
それがアヤシイというか、
こんなところで使う言葉ではないと思いつつも、
センスがない、といいたくなる。

そういえば映画でもあった。
2003年公開の「チャーリーズ・エンジェル フルスロットル」だ。

ルーシー・リュー演じるアレックス・マンディがテレビを持っているシーンがある。
テレビといっても20年近く前なのだから液晶テレビではなく、
ブラウン管のテレビである。そこそこ大きなサイズのテレビだった。

インターネットで見た予告編では、
テレビの正面を自分の身体に押しつけるようなかっこうで持っていた。
ブラウン管のテレビは重量的にアンバランスで、前側が重い。
だから重い側自分の方に向けて持つ。

それが公開された映画本編では前後逆に持っていた。
ここで持っているテレビはソニー製である。

「チャーリーズ・エンジェル」の映画の配給は、
ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメントである。

テレビがソニー製であることを、
観ている人たちにはっきりとわからせるための変更のはずだ。

Date: 9月 26th, 2020
Cate: モノ

モノの扱い(その2)

その1)は、ついさっきまで別のタイトルをつけていた。
続きを書くつもりはなかった。

facebookでのコメントを読んで、続きを書く気になったし、
タイトルも変えた。

コメントを読んで思い出したことがある。
友人のKさんから聞いた話である。

Kさんは私よりも少し年上で、オーディオ業界で仕事もしていた。
スイングジャーナルの編集部に在籍していたこともある。

そのKさんがいうには、意外にもモノの扱いを知らない人がいる、ということである。
そんなことは知っている、といわれそうだが、
それはオーディオに関心のない人のオーディオ機器の扱いについてではなく、
スイングジャーナル編集部内にも、
オーディオ機器の扱いがまるでなっていない人がいた、という話である。

その人たちは、Kさんと同じか上である。
そうなると、世代によることではない。

具体例を一つ挙げておくと、
スイングジャーナルは既製品のスピーカーシステムだけでなく、
スピーカーユニットを組み合わせての試聴テストも積極的に行っていた。

大型のコンプレッションドライバーに大型のホーンを組み合わせたモノ。
モノの扱いを知らない編集部の人は、
ホーン開口部を持ち、いきなり持ちあげようとする。

逆だろう! 何やっている! と、
すぐさま試聴していたオーディオ評論家の怒声があったそうだ。

こんな例を他にも聞いている。
オーディオ機器の扱いというよりも、
モノの扱い、ということではなくそれ以前の、モノの持ち方からしてわかっていない。

どちら側が重いのか、をまずわかろうとしないのだろう。
重量的にアンバランスなモノは、重たい方を自分の身体側にする。
反対に身体から遠くなればそれだけアンバランス的な重みを感じることになるし、
落しやすくなる。

Date: 9月 26th, 2020
Cate: モノ

モノの扱い(その1)

数時間前、新宿のディスクユニオンにいた。
欲しかったCDが見つかりレジに並んでいた。

隣のレジでは私より先の客が店員とやりとりしていた。
アナログディスクについて店員に訊ねていた。

このディスクはモノーラルなのか、ステレオなのか、と。
どうもステレオと表記してあったようだ。

けれど実際はモノーラルで、客はそのことを知っていたようで、店員に訊いていたし、
別の店員がモノーラルです、というと、安くなります? とまた訊いていた。

値引きしてもらうつもりだったようだ。
でも、店員は値段は変りません、と答えていた。

じゃ、買うの止めます、と客。
いっしょに買うつもりだったCD数枚も、買わずに店を出た。

中古CD、中古LPの買い方の基準は人によって違う。
このディスクならば、この値段ならば買うけれど、というのが、
その人なりにある程度は決っているのだろう。

その客は、そこから外れていたから買わなかったのだろう。
そのことは別に構わない。

買うつもりだったCDも買わないのも構わない。

なのにこんなことをここに書いているのは、
その客のLPの扱いが、あまりにもひどかったからだ。

検盤していたのが見えた。
盤面は艶があり、隣にいた私の目にはかなりコンディションがよさそうに見えた。

なのに、この客は、盤面を平気で指で触れていた。
ディスクの縁を両手ではさむのではなく、
指で両盤面をはさんでいた。

しかもごていねいに両手の指で、だから、
盤面には常に四本の指が触れている。

その客は、私よりもひとまわりほど下の女性だった。
40代半ばごろのようにみえた。

この世代だと、音楽を10代のころに聴き始めたとすれば、
すでにCDで、だった可能性はけっこうある。

それにしても、LPの扱いを知らないのか。
自分のディスクであれば、ぞんざいに扱おうと、その人の勝手であり、
第三者の私がとやかくいうことではない。

けれど、今日見たのは、商品である。
店に並べられている商品であり、その客のモノにはまだなっていない段階での、
この扱いをみてしまうと、書きたくなってしまう。

店員はクリーニングをやらなければ思って見ていたことだろう。

昔ながらの昭和のガンコおやじがやっている店で、
こんなことをやったら、怒鳴られていたはずだ。

この客は何も知らないうえに、そういう経験もおそらくないのだろう。

Date: 9月 25th, 2020
Cate: High Resolution

MQAのこと、オーディオのこと(その5)

MQA対応のアクティヴ型スピーカーは、クリプトンがいちはやくKS9 Multi+を出してきた。

このあとに、ほかのメーカーも続くだろう、と勝手に期待していたけれど、
なかなかMQA対応を謳ったアクティヴ型スピーカーは登場しなかった。
私が単に見落していただけなのかもしれないが。

なので、なぜ出てこないのか、と書く予定でいたところに、
KEFからLS50 Wireless IIが登場した。

パッシヴ型のLS50ととともに、II型になった大きな特徴は、
Metamaterial Absorption Technology(MAT)という消音技術の導入であって、゛
私はLS50 Metaのほうにまず興味を持った。

聴いてみたい、と思った。
MATへの興味が強かったため、LS50 Wireless IIへの関心は薄かった。

KEFのサイトで、LS50IIのページは見たものの、
LS50 Wireless IIのページはさらっと流しただけだった。

翌日になって、LS50 Metaについて何か書こうかな、と思い、
再度KEFのサイトにアクセスして、LS50 WirelessがII型になって、
MATの導入だけでなく、MQA対応になったことを知った。

ようやく次が登場した。
メリディアンのULTRA DACを聴いたのが二年前の9月。
MQA対応のアクティヴ型スピーカーへの関心がわいてきたのは、昨年の秋ぐらいからだった。

なのでそれほど待っていたわけではないのだが、
期待しているモノだけに、ずいぶん待ったという感じがしている。

またしばらく待つことになるのか、
それとも意外に早く次が出てくるのか。

Date: 9月 24th, 2020
Cate: ケーブル

結線というテーマ(その9)

私が働いていたころのステレオサウンドは、六本木五丁目にあった。
ビルの窓から顔を出せば東京タワーが、かなり大きく見える位置にあった。

六本木という繁華街、しかも東京タワーのすぐ近く。
オーディオ的な環境としては、そうとうに悪い。
だからこそ、セッティングに関しては鍛えられた、といえる面もある。

(その8)でちょっと触れたラインケーブルの引き回しの前に、
スピーカーケーブルの引き回しに関しては、
できるかぎり左右チャンネルのケーブルが同じところを通るように注意していた。

つまりFMのT字アンテナのようにスピーカーケーブルは配置する。
たったこれだけのことで、音場感はずいぶん改善される。

こんな引き回しだと左右チャンネルのセパレーションの確保が……、という人もいるだろう。
まったく影響がないとはいわないが、それ以上に、
左右チャンネルのスピーカーケーブルが物理的に離れてしまうことのデメリットが大きい。

蛇のようにくねくねした引き回しで、
部分部分で左右のスピーカーケーブルの距離が広がった狭まったりするようにすると、
とたんに音場感はこわれてしまう。

同じことがラインケーブルでも起るわけである。
ラインケーブルとスピーカーケーブル、どちらもケーブルであることに変りはないが、
スピーカーケーブルはスピーカーシステムに接続されるもので、
スピーカーは左右チャンネルで完全に独立している。

一方ラインケーブルは、コントロールアンプとパワーアンプ、
もしくはCDプレーヤーとコントロールアンプとのあいだを接続するケーブルで、
モノーラルパワーアンプ以外では、アースに関してはシャーシー内部で接続されている。

それでも同じ現象(音の変化)が、ラインケーブルでも起る。
このことで、DINケーブルのもつ優位性に気づくことができた。