Archive for category テーマ

Date: 9月 29th, 2020
Cate: モノ

モノの扱い(その3)

その1)へのコメントには、若い世代のモノの扱いについてのものだった。
それだけを読むと、世代的なことが関係しているようにも読める。

けれどKさんからきいた話は、いまのことではない。
1970年代の終りごろの話だから、
(その1)で書いているレコードの扱いがまるでなっていない女性は、
世代に関係してのこととはいえない、と思う。

いつの時代にも、いるわけだ。
そのことを(その1)を公開して思い出した。

ほんとうに首を傾げたくなるほど、モノの扱いがわかっていない人がいる。
ここでいっているモノの扱いは、
ほとんどモノの持ち方である。

モノを持つというのは、人の基本的な動作なのではないのか。
それがアヤシイというか、
こんなところで使う言葉ではないと思いつつも、
センスがない、といいたくなる。

そういえば映画でもあった。
2003年公開の「チャーリーズ・エンジェル フルスロットル」だ。

ルーシー・リュー演じるアレックス・マンディがテレビを持っているシーンがある。
テレビといっても20年近く前なのだから液晶テレビではなく、
ブラウン管のテレビである。そこそこ大きなサイズのテレビだった。

インターネットで見た予告編では、
テレビの正面を自分の身体に押しつけるようなかっこうで持っていた。
ブラウン管のテレビは重量的にアンバランスで、前側が重い。
だから重い側自分の方に向けて持つ。

それが公開された映画本編では前後逆に持っていた。
ここで持っているテレビはソニー製である。

「チャーリーズ・エンジェル」の映画の配給は、
ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメントである。

テレビがソニー製であることを、
観ている人たちにはっきりとわからせるための変更のはずだ。

Date: 9月 26th, 2020
Cate: モノ

モノの扱い(その2)

その1)は、ついさっきまで別のタイトルをつけていた。
続きを書くつもりはなかった。

facebookでのコメントを読んで、続きを書く気になったし、
タイトルも変えた。

コメントを読んで思い出したことがある。
友人のKさんから聞いた話である。

Kさんは私よりも少し年上で、オーディオ業界で仕事もしていた。
スイングジャーナルの編集部に在籍していたこともある。

そのKさんがいうには、意外にもモノの扱いを知らない人がいる、ということである。
そんなことは知っている、といわれそうだが、
それはオーディオに関心のない人のオーディオ機器の扱いについてではなく、
スイングジャーナル編集部内にも、
オーディオ機器の扱いがまるでなっていない人がいた、という話である。

その人たちは、Kさんと同じか上である。
そうなると、世代によることではない。

具体例を一つ挙げておくと、
スイングジャーナルは既製品のスピーカーシステムだけでなく、
スピーカーユニットを組み合わせての試聴テストも積極的に行っていた。

大型のコンプレッションドライバーに大型のホーンを組み合わせたモノ。
モノの扱いを知らない編集部の人は、
ホーン開口部を持ち、いきなり持ちあげようとする。

逆だろう! 何やっている! と、
すぐさま試聴していたオーディオ評論家の怒声があったそうだ。

こんな例を他にも聞いている。
オーディオ機器の扱いというよりも、
モノの扱い、ということではなくそれ以前の、モノの持ち方からしてわかっていない。

どちら側が重いのか、をまずわかろうとしないのだろう。
重量的にアンバランスなモノは、重たい方を自分の身体側にする。
反対に身体から遠くなればそれだけアンバランス的な重みを感じることになるし、
落しやすくなる。

Date: 9月 26th, 2020
Cate: モノ

モノの扱い(その1)

数時間前、新宿のディスクユニオンにいた。
欲しかったCDが見つかりレジに並んでいた。

隣のレジでは私より先の客が店員とやりとりしていた。
アナログディスクについて店員に訊ねていた。

このディスクはモノーラルなのか、ステレオなのか、と。
どうもステレオと表記してあったようだ。

けれど実際はモノーラルで、客はそのことを知っていたようで、店員に訊いていたし、
別の店員がモノーラルです、というと、安くなります? とまた訊いていた。

値引きしてもらうつもりだったようだ。
でも、店員は値段は変りません、と答えていた。

じゃ、買うの止めます、と客。
いっしょに買うつもりだったCD数枚も、買わずに店を出た。

中古CD、中古LPの買い方の基準は人によって違う。
このディスクならば、この値段ならば買うけれど、というのが、
その人なりにある程度は決っているのだろう。

その客は、そこから外れていたから買わなかったのだろう。
そのことは別に構わない。

買うつもりだったCDも買わないのも構わない。

なのにこんなことをここに書いているのは、
その客のLPの扱いが、あまりにもひどかったからだ。

検盤していたのが見えた。
盤面は艶があり、隣にいた私の目にはかなりコンディションがよさそうに見えた。

なのに、この客は、盤面を平気で指で触れていた。
ディスクの縁を両手ではさむのではなく、
指で両盤面をはさんでいた。

しかもごていねいに両手の指で、だから、
盤面には常に四本の指が触れている。

その客は、私よりもひとまわりほど下の女性だった。
40代半ばごろのようにみえた。

この世代だと、音楽を10代のころに聴き始めたとすれば、
すでにCDで、だった可能性はけっこうある。

それにしても、LPの扱いを知らないのか。
自分のディスクであれば、ぞんざいに扱おうと、その人の勝手であり、
第三者の私がとやかくいうことではない。

けれど、今日見たのは、商品である。
店に並べられている商品であり、その客のモノにはまだなっていない段階での、
この扱いをみてしまうと、書きたくなってしまう。

店員はクリーニングをやらなければ思って見ていたことだろう。

昔ながらの昭和のガンコおやじがやっている店で、
こんなことをやったら、怒鳴られていたはずだ。

この客は何も知らないうえに、そういう経験もおそらくないのだろう。

Date: 9月 25th, 2020
Cate: High Resolution

MQAのこと、オーディオのこと(その5)

MQA対応のアクティヴ型スピーカーは、クリプトンがいちはやくKS9 Multi+を出してきた。

このあとに、ほかのメーカーも続くだろう、と勝手に期待していたけれど、
なかなかMQA対応を謳ったアクティヴ型スピーカーは登場しなかった。
私が単に見落していただけなのかもしれないが。

なので、なぜ出てこないのか、と書く予定でいたところに、
KEFからLS50 Wireless IIが登場した。

パッシヴ型のLS50ととともに、II型になった大きな特徴は、
Metamaterial Absorption Technology(MAT)という消音技術の導入であって、゛
私はLS50 Metaのほうにまず興味を持った。

聴いてみたい、と思った。
MATへの興味が強かったため、LS50 Wireless IIへの関心は薄かった。

KEFのサイトで、LS50IIのページは見たものの、
LS50 Wireless IIのページはさらっと流しただけだった。

翌日になって、LS50 Metaについて何か書こうかな、と思い、
再度KEFのサイトにアクセスして、LS50 WirelessがII型になって、
MATの導入だけでなく、MQA対応になったことを知った。

ようやく次が登場した。
メリディアンのULTRA DACを聴いたのが二年前の9月。
MQA対応のアクティヴ型スピーカーへの関心がわいてきたのは、昨年の秋ぐらいからだった。

なのでそれほど待っていたわけではないのだが、
期待しているモノだけに、ずいぶん待ったという感じがしている。

またしばらく待つことになるのか、
それとも意外に早く次が出てくるのか。

Date: 9月 24th, 2020
Cate: ケーブル

結線というテーマ(その9)

私が働いていたころのステレオサウンドは、六本木五丁目にあった。
ビルの窓から顔を出せば東京タワーが、かなり大きく見える位置にあった。

六本木という繁華街、しかも東京タワーのすぐ近く。
オーディオ的な環境としては、そうとうに悪い。
だからこそ、セッティングに関しては鍛えられた、といえる面もある。

(その8)でちょっと触れたラインケーブルの引き回しの前に、
スピーカーケーブルの引き回しに関しては、
できるかぎり左右チャンネルのケーブルが同じところを通るように注意していた。

つまりFMのT字アンテナのようにスピーカーケーブルは配置する。
たったこれだけのことで、音場感はずいぶん改善される。

こんな引き回しだと左右チャンネルのセパレーションの確保が……、という人もいるだろう。
まったく影響がないとはいわないが、それ以上に、
左右チャンネルのスピーカーケーブルが物理的に離れてしまうことのデメリットが大きい。

蛇のようにくねくねした引き回しで、
部分部分で左右のスピーカーケーブルの距離が広がった狭まったりするようにすると、
とたんに音場感はこわれてしまう。

同じことがラインケーブルでも起るわけである。
ラインケーブルとスピーカーケーブル、どちらもケーブルであることに変りはないが、
スピーカーケーブルはスピーカーシステムに接続されるもので、
スピーカーは左右チャンネルで完全に独立している。

一方ラインケーブルは、コントロールアンプとパワーアンプ、
もしくはCDプレーヤーとコントロールアンプとのあいだを接続するケーブルで、
モノーラルパワーアンプ以外では、アースに関してはシャーシー内部で接続されている。

それでも同じ現象(音の変化)が、ラインケーブルでも起る。
このことで、DINケーブルのもつ優位性に気づくことができた。

Date: 9月 24th, 2020
Cate: ディスク/ブック

SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO(その2)

“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”には期待している。
期待は“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”に対してだけではなく、
“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”に対しても持っている。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”はSACDも出ている。
その意味での期待ではなく、“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”の完全版が、
“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”の発売にあわせて出てくるのではないか、という期待だ。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”の実際のライヴは、もっと長かったはずだ。
それをすべて聴きたい、とずっとおもってきた。

“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”は、
“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”との組合せで、
いくつかのヴァージョンが出るではないだろうか。

そういうやり方を好まないけれど、
今回はそのことに期待している。

Date: 9月 24th, 2020
Cate: 老い

老いとオーディオ(とステレオサウンド・その7)

出版社とは記事を売る会社で、本という物を売る会社ではない、書いてすぐに、
記事を情報とする人もいるだろうな、と思っていた。

出版社とは情報を売る会社で、本という物を売る会社ではない──
そうだろうか。

記事も情報のうちに含まれる、といえば、否定はしない。
それでも記事と情報を同じに捉えていては、
この二つの境界を曖昧にしたままで、
インターネットに自社サイトを公開しているところがあるように感じている。

インターネット以前は、
海外屋と呼ばれる人たちが、どの業界にもいた、ときいている。
とにかく海外の動向をいち早く知ることが、昔は仕事につながっていっていた。

オーディオの世界も、そういう人たちはいた。
オーディオ評論家と呼ばれている人たちのなかにも、
昔は、海外屋的な人が確かにいた。

音楽評論家のなかにも、海外屋と呼ばれる人は何人かいた。
三浦淳史氏も、その一人であったけれど、
海外屋も、情報だけの人もいれば、三浦淳史氏のように記事(読みもの)として、
読み手に提供してくれる人とに分れていた。

残念なのは、三浦淳史氏のような人が少ないということ。

少なかっただけでなく、情報提供だけの海外屋を求めていた読み手も、
実のところ少なくなかったのではないだろうか。
それはいまも続いているような気さえする。

情報だけでいいんだよ、そんな声があるのか。
いまもSNSで情報提供だけの海外屋的な人を持囃す人たちがいる。
オーディオの世界では、まだまだそうである。

インターネットがこれだけ普及して、
ほとんどの人がスマートフォンをもっている時代であっても、そうである。

スイングジャーナルが売っていたのは、
休刊間際のころに売っていたのは、情報だったのか記事だったのか。

もう情報でもなかった、記事でもなかったのではないだろうか。

Date: 9月 24th, 2020
Cate: 老い

老いとオーディオ(とステレオサウンド・その6)

フィリップス・インターナショナルの副社長の
「なぜならわが社は音楽を売る会社で、ディスクという物を売る会社ではないからだ」は、
出版社にあてはめれば、
出版社とは記事を売る会社で、本という物を売る会社ではない、ということになる。

スイングジャーナルがなくなってしまったのは、
結局のところ、記事を売る会社ではなく、本という物を売る会社のままだったからなのか。

スイングジャーナルの最終号がいつものままのつくりであったことは、
どういうことなのか。

編集部としては、このまま終らせるつもりはない、
復刊させてみせる、という気持があって、
復刊を信じていれば、あえて通常通りの編集を最終号でもやったのかもしれない──、
そういう見方もできる。

でもアドリブが休刊になる前から、
スイングジャーナル社があぶない、というウワサは耳に入ってきていた。

編集部の人たちは、どうだったのだろうか。
このまま消えてしまうのであれば、特別な労力を必要としない、
いつも通りの編集でいいじゃないか──、
そんなどこか投げやりな気持はなかったのか、とも思ってしまう。

どっちでもいいとも思っている。
もし復刊できたとしても、あのままだっただろうから。
復刊できたとしても、いずれまた休刊してしまう。

本という物を売る会社としての出版社。
スイングジャーナルもそうだし、ステレオサウンドもそうなのだが、
どちらも雑誌がメインの出版社である。

ここでの本とは雑誌のことであり、
雑誌を売る会社とは、売る相手は読者だけでなく、広告主もいるということだ。

Date: 9月 23rd, 2020
Cate: 日本のオーディオ

リモート試聴の可能性(その9)

五味先生の「オーディオ巡礼」に「HiFiへの疑問」がある。
そこに、こんなことが書かれている。
     *
 ところで、たとえばここに二つのスピーカーがある。Aは理想的に平坦な周波数特性をもち、Bは周波数帯域に小さな谷や山をずいぶんもっている。山はピークだから、その周波数附近の音は(楽器は)Aに比して、何か強く強調されたようにきこえる、もしくは歪んでひびく。谷の周辺の音は弱く、小さい。
 さて現実に、まったき周波数特性の平坦なスピーカーはまだのぞめないだろう。じつに大小さまざまな山や、谷の特性をもつスピーカーしかない。しかも周波数特性がまったく同じスピーカーなど存在しない。厳密にはだから、レコードにきざまれた音を、大小差異のある音に増幅してぼくらは聴いている。しかもぼくらが家庭で聴くスピーカーは一台である。私の家で鳴っている音と、B君の家とでは或る音域に微少でも必ず差があるわけで、どちらの音がいいかは、厳密には誰にも断言できまい。
 スピーカー一つを例にとってこうである。アンプ、カートリッジ、テープデッキ、ひとつとして同じ鳴り方をするものはない。つまり演奏の同じレコードなど、それが再生される限り、一枚もない理屈になる。ハイフェッツのレコードが五十万枚売れたとすれば、五十万のハイフェッツの演奏がある理屈だ。ことわっておくが、私は理屈をこねているのではない。何十万という異なる再生装置で、異なる演奏を聴きながらレコード愛好家が良否を識別する、その不思議さをおもうのである。肯綮に当っている不思議さを。
     *
(その7)で触れた「PLAYBACK in JAZZ KISSA BASIE」を、どう聴くかは、
これと同じことだろう。

「PLAYBACK in JAZZ KISSA BASIE」を再生することで、
ジャズ喫茶ベイシーの音を、自分のリスニングルームに完全に再現しよう、
と考える人はおそらくいない、と思う。

五味先生が、これを書かれたころからすれば、
スピーカーの周波数特性ひとつとっても、かなり平坦になってきている。

スピーカーの物理特性は変換効率以外は明らかに向上している。
それでも、いまだ一つとして同じ音のするスピーカーは存在しない。
似ている音のスピーカーは存在するようになってきたけれども。

ベイシーの再生システムとまったく同じシステムを揃えている人がいても不思議ではない。
でも、その再生システムで「PLAYBACK in JAZZ KISSA BASIE」を鳴らしても、
ジャズ喫茶ベイシーの音を再現できるわけではない。

「PLAYBACK in JAZZ KISSA BASIE」が何枚売れたのかは知らないが、
仮に一万枚としよう。
そうすれば、一万の「PLAYBACK in JAZZ KISSA BASIE」の演奏がある理屈になる。

そう「PLAYBACK in JAZZ KISSA BASIE」を、
ベイシーの店主・菅原正二氏のレコード演奏として捉えるのであれば、
そうなる道理だ。

Date: 9月 22nd, 2020
Cate: 老い

老いとオーディオ(とステレオサウンド・その5)

ステレオサウンドは老いていっている、
というのが、私の本音である。

そして、そんな老いていくステレオサウンドの、
いわば先輩にあたるのがスイングジャーナルであった、とも思っている。

スイングジャーナルは1947年に創刊している。
ステレオサウンドよりも19年早い創刊である。

スイングジャーナルは,2010年6月発売の7月号で休刊(廃刊)になった。
当時、twitterで休刊のニュースを知った。

特に驚きはなかった。
スイングジャーナル社発行のアドリブが5月に休刊していたし、
そのことがなくても、
休刊までの20年分くらいのスイングジャーナルの内容を知っている人ならば、
休刊やむなし、と思ったであろう。

2010年7月号のスイングジャーナルを、書店で手にとった。
パラパラをめくってみただけだった。

なのではっきりと記憶があるわけでなはい。
60年以上続いた雑誌の最終号とは、誰も思わないであろう、
いつも通りの内容だったな、という印象だけしか残っていない。

ジャズの熱心な聴き手でない私、
スイングジャーナルを定期購読したことはなかった私には、
感慨なんて、最終号を手にしても、まったくなかった。

自然消滅、自然淘汰されたぐらいにしか感じなかった。

ここでのことに関係して思い出すのは、
黒田先生の「聴こえるものの彼方へ」のなかの
「ききたいレコードはやまほどあるが、一度にきけるのは一枚のレコード」に、
フィリップス・インターナショナルの副社長の話だ。
     *
ディスク、つまり円盤になっているレコードの将来についてどう思いますか? とたずねたところ、彼はこたえて、こういった──そのようなことは考えたこともない、なぜならわが社は音楽を売る会社で、ディスクという物を売る会社ではないからだ。なるほどなあ、と思った。そのなるほどなあには、さまざまなおもいがこめられていたのだが、いわれてみればもっともなことだ。
     *
「ききたいレコードはやまほどあるが、一度にきけるのは一枚のレコード」は1972年の文章、
ほぼ50年前の、フィリップス・インターナショナルの副社長のこたえである。

Date: 9月 22nd, 2020
Cate: ディスク/ブック

SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO(その1)

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”の間違いではなく、
“SATURDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”で合っている。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”に収められている日だけでなく、
翌日の土曜日も演奏が行われていて、録音が残されていることを知ったのは、
三年ほど前のことだ。

アル・ディ・メオラがfacebookに、そう書いていた。
なんでも、ある一人が発売に反対している、ともあった。

いつ出るのか。
あまり期待せずに待っていた。

ようやく来年発売になるようだ。
延期になる可能性もあるけれど、とにかくいつかは発売されるであろう。
期待は、ずっと大きくなっている。

Date: 9月 22nd, 2020
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その22)

ステレオサウンド 94号(1990年春)の特集、
CDプレーヤーの試聴で、井上先生はEMTの921の試聴記の最後に、こう書かれている。
《ブルックナーが見通しよく整然と聴こえたら、それが優れたオーディオ機器なのだろうか》と。

私が10代のころ読んでいたステレオサウンドでは、
井上先生がどんな音楽を特に好まれて聴かれているのかがわからなかった。

ステレオサウンドの試聴室で、井上先生の隣で聴くことができてから、
いろんな音楽を聴かれていることがわかった。

実際に会えばすぐにわかることなのだが、井上先生は照れ屋である。
だからだろう、好きな音楽のことをことさらに語られることはされない。

それでも試聴中、ときどきぽろっといわれることがある。
そうとうに音楽を聴いているからこそのひとことである。

《ブルックナーが見通しよく整然と聴こえたら、それが優れたオーディオ機器なのだろうか》、
これに関しても、ほほ同じことを試聴のあいまにきいている。

94号の試聴では、カラヤン/ウィーンフィルハーモニーのブルックナーの八番が、
アバドのロッシーニの「アルジェのイタリア女」、
ボザール・トリオのモーツァルトのピアノ三重奏曲第一番、
バーバラ・ディナーリーンの「ストレート・アヘッド!」といっしょに、
試聴ディスクとして使われている。

これまでも書いているように、私はブルックナーはあまり聴かない。
最近の指揮者のブルックナーは、まったく聴いていない。

もしかすると、最近のブルックナーは《見通しよく整然と聴こえ》るのかもしれない。
そうだとして、そういうブルックナーしか知らない聴き手は、
《ブルックナーが見通しよく整然と聴こえたら、それが優れたオーディオ機器なのだろうか》
という疑問はまったくもたないであろう。

でも、ここではカラヤン/ウィーンフィルハーモニー、
それもカラヤン晩年のブルックナーであり、
1931年生れの井上先生が聴いてのブルックナーである。

Date: 9月 22nd, 2020
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その21)

瀬川先生が、「あなたはマルチアンプに向くか向かないのか」で書かれている。
     *
 もう何年も前の話になるが、ある大きなメーカーの研究所を訪問したときの話をさせて頂く。そこの所長から、音質の判断の方法についての説明を我々は聞いていた。専門の学術用語で「官能評価法」というが、ヒアリングテストの方法として、訓練された耳を持つ何人かの音質評価のクルーを養成して、その耳で機器のテストをくり返し、音質の向上と物理データとの関連を掴もうという話であった。その中で、彼(所長)がおどろくべき発言をした。
「いま、たとえばベートーヴェンの『運命』を鳴らしているとします。曲を突然とめて、クルーの一人に、いまの曲は何か? と質問する。彼がもし曲名を答えられたらそれは失格です。なぜかといえば、音質の変化を判断している最中には、音楽そのものを聴いてはいけない。音そのものを聴き分けているあいだは、それが何の曲かなど気づかないのが本ものです。曲を突然とめて、いまの曲は? と質問されてキョトンとする、そういうクルーが本ものなんですナ」
 なるほど、と感心する人もあったが、私はあまりのショックでしばしぼう然としていた。音を判断するということは、その音楽がどういう鳴り方をするかを判断することだ。その音楽が、心にどう響き、どう訴えかけてくるかを判断することだ、と信じているわたくしにとっては、その話はまるで宇宙人の言葉のように遠く冷たく響いた。
 たしかに、ひとつの研究機関としての組織的な研究の目的によっては、人間の耳を一種の測定器のように──というより測定装置の一部のように──使うことも必要かもしれない。いま紹介した某研究所長の発言は、そういう条件での話、であるのだろう。あるいはまた、もしかするとあれはひどく強烈な逆説あるいは皮肉だったのかもしれないと今にして思うが、ともかく研究者は別として私たちアマチュアは、せめて自分の装置の音の判断ぐらいは、血の通った人間として、音楽に心を躍らせながら、胸をときめかしながら、調整してゆきたいものだ。
     *
これを読んで、私は勝手に、「ある大きなメーカーの研究所」は、
きっとあそこだな、と思っていた。

40年ほど昔のことである。
10代の私は、あるメーカーのことを思い浮べた。
いまも、そのメーカーのことだろう、と思うが、メーカー名は書かない。

書きたいのは、そこではない。
井上先生のことである。

10代のころの私は、
ステレオサウンドに載っている井上先生の試聴記を読んで、
「この人も、これに近い聴き方をしているんだろうな」と思ってしまっていた。

ものすごく耳のいい人だということは書かれているものからは伝わってくるし、
黒田先生が鬼の耳といわれていたのも知っていた。

それでなんとなく、そんなふうに思い込んでしまった。

けれどステレオサウンドで働くようになって、井上先生の試聴を間近で接していて、
なんという勘違いをしていたんだろう、と気づいた。

Date: 9月 21st, 2020
Cate: ケーブル

結線というテーマ(その8)

自作ケーブルのほうが、いわゆるオーディオ的には優れていた、といえる。
レンジ感も自作のほうが、あきらかにワイドレンジに聴こえる。

もともとのDINケーブルは、なんとなくナロウレンジにも感じた。
そのためもあって、センター定位がなんとなく安定しているように聴こえる──、
そんなふうに勝手に解釈してしまったところがある。

けれどアンプの場合、
RCAコネクターは左右チャンネルで分れていても、
アンプ内部ではアース側は結ばれている。

ステレオアンプであるかぎり、ほぼすべてのアンプでそうなっている。
例外はないはずだ。

つまりコントロールアンプ側でもパワーアンプ側でも、
アースは結ばれているわけである。

なのにコントロールアンプとパワーアンプを結ぶラインケーブルでは、
アース(シールド)が、左右チャンネルで分れている。

つまりどういうことなのかといえば、ラインケーブルの両端ではアース側は結ばれていて、
シールド(アース)は、ケーブルの長さの分だけのループを形成している。

もちろんケーブルの両端はアースに接続されいてるわけだから、
同電位であって、見た目上のループが形成されていても、問題がないように感じるし、
むしろ左右チャンネルのケーブル間でのクロストークを考えれば、
シールドは分れていたほうがよいようにも感じる。

けれど、このループの形成がいちど気になってくると、
これでほんとうにいいのだろうか、という疑問に変ってくる。

一度、井上先生の試聴で、こんなことがあった。
コントロールアンプとパワーアンプ間のラインケーブルが、
接続を替えた際に、物理的に少し離れてしまった。
といっても、いちばん広いところで20cmくらい離れたくらいだった。

そこに気づかれた井上先生が、
左右のラインケーブルをくっつけろ(近づけろ)といわれた。

Date: 9月 21st, 2020
Cate: ケーブル

結線というテーマ(その7)

いまではほとんど使われなくなったDINコネクターだが、
1980年代ごろまでは、ヨーロッパのオーディオ機器にはけっこう使われていた。

ラインケーブルの場合、DINは一つの端子でまかなわれる。
RCAコネクターのように、左右チャンネルで分離というわけではない。
なので左チャンネル、右チャンネルのホット側、
それに左右チャンネル共通のアースとなる。

たいていの場合、ケーブルは左右チャンネルを一本ですませる。
二芯シールドであれば、芯線を左右チャンネルのホットに、
シールドをアースに接続すればいい。
それにDINコネクターは、太いケーブルはまず使えない。

RCAケーブルの立派なみかけのケーブルをみなれた目には、
DINコネクターの接続は、たよりなくうつる。

たとえばQUADのパワーアンプの405。
1976年登場の、このアンプの入力端子はDINである。
これをRCAコネクターに改造した人もけっこういるようである。

DINコネクターに、かなり無理をして左右チャンネル独立のシールド線を通した人もいよう。
私も、人に頼まれてずいぶん昔にやったことがある。

そこそこ評判のいいケーブルを使って自作した。
交換すると、音はよくなった、と感じた。
依頼した人も満足していたので、それでよかったのだが、
一つ、その時気になったのはセンター定位のことである。

この点、一点に関しては、もともとのDINケーブル。
つまり左右チャンネルで共通のケーブル(つまり一本)のほうが、
しっかりしているように感じた。

自分のシステムではなかいら、気の済むまでじっくりと、
その点に関して聴き込むことはできなかった。

これが最初の疑問の起りだった。