世代とオーディオ(「三島由紀夫の死」から50年)
昨晩『「三島由紀夫の死」から50年』を公開したあとで、
気づいたことがある。
いまごろなのか、と自分でも呆れ気味ではあったが、
それでも気づいたことがある。
マンガもそうだった。
私がマンガに夢中になっていたころ第一線で活躍していたマンガ家たち、
手塚治虫を筆頭に、石森章太郎、赤塚不二夫、藤子不二雄、水島新司、
ここで名を挙げた人たちはみな戦争を体験している。
戦後生れのマンガ家ももちろん大勢いて、活躍していた。
戦前生れのマンガ家も第一線にいた、というより、
この人たちがまさしく第一線だった。
オーディオ評論家も、私にとってはそうである。
私がオーディオ評論に夢中になっていたころ第一線で活躍していたオーディオ評論家たち、
みな戦争を体験している。
いまのオーディオ評論家はどうだろう。
柳沢功力氏は戦前の生れなのだが、ほかの人たちとなると、
みな戦後の生れである。
読み手側はどうだろうか。
ステレオサウンドの読者は高齢化していることは、
ステレオサウンドが発表している資料からもわかる。
今年(2020年)は、戦後75年。
75歳以上の読者となると、高齢化しているとはいえそう多くはないはず。
ステレオサウンドの読者ですら、戦後生れが大半となっている。
こういうことを書いている私も戦後生れだ。
ただ戦後生れでも、親が戦後生れなのかどうかは、どこかで関係しているのではないだろうか。
私の父と母は戦前生れだから、戦争を体験している。
私の場合、戦前生れの両親をもち、戦争を体験してきた人たちの書いてきたものを、
熱心に読んでいたわけだ。
戦後生れの両親のもとで、
戦後生れの人たちの書いてきているものをリアルタイムに読んできた世代も、
いまではけっこういるであろう。
世代の分断とは、こういうところが意外なところで関係しているような気がしてきている。