Archive for category テーマ

Date: 7月 20th, 2021
Cate: High Resolution

MQAのこと、IL DIVOのこと

数日前、TIDALの新譜のところを眺めていたら、
イル・ディーヴォの“For Once In My Life: A Celebration Of Motown”があった。
これだけだったら、ここに書くようなことはしない。

そこにMQAのマークがついていた。
えっ、と思う。

イル・ディーヴォはソニーと契約しているはず。
ソニーからMQAが出たのか。

ソニーがウォークマンではMQAに対応しているのは知っている。
けれどレコード会社としてのソニーからMQAが出てくるとは思っていなかった。

グレン・グールドをMQAで聴きたい、と思っているし、
指揮者カザルスだってMQAで聴きたい。

他にもMQAで聴きたい演奏家は、ソニー・クラシカルだけに絞っても何人もいる。
でも期待はしていなかった。
なにか根拠があって、そう思っていたわけではないが、
なんとなくソニーからMQAは期待できない──、
それが数日前までの私の認識だった。

イル・ディーヴォのアルバムは、“Timeless”も、TIDALでMQAで聴ける。

これはイル・ディーヴォ側からの要求でそうなったのだろうか。
そのへんのことは、いまのところ不明だけれども、
少なくともソニーからMQAでの配信がある、という事実。

うれしいかぎりだ。

Date: 7月 20th, 2021
Cate: オーディオ評論

二度目の「20年」(商売屋か職能家か・その3)

オーディオ評論家(職能家)は、いなくなった。
私は、そう思っている。

いまオーディオ雑誌に登場しているオーディオ評論家と呼ばれている人たちは、
みなオーディオ評論家(商売屋)だと思っている私なのだが、
そのオーディオ評論家(商売屋)のなかで一人、
なかなかのオーディオ評論家(商売屋)だと思う人がいる。

名前をあげようかと思ったけれど、やめておく。
ステレオサウンドにも登場するようになった人の一人だ。

オーディオ雑誌のウェブサイトにも記事を頻繁に書かれている人だ。
ペイドパブと呼ばれる記事にも積極的に登場している人でもある。

この人のことを、ひどいオーディオ評論家(商売屋)と言いたいのではない。
むしろ、ここまでやられると、見事にオーディオ評論家(商売屋)であって、
商売屋といっては失礼かな、と思ったりもする。

なにも皮肉を込めて書いているのではない。
私がオーディオ評論家(商売屋)と呼ぶ人のなかには、
オーディオ評論家(職能家)ぶったり、
私がオーディオ評論家(職能家)と呼ぶ人たちへの憧れが見え隠れしてたりして、
オーディオ評論家(商売屋)としてふっきれているわけではない。

そんななかにあって、この人は、オーディオ評論家(商売屋)にふっきれている。
少なくとも私は、そう感じている。

だから商売屋という蔑称ではなく、商売家と呼んだほうがいいのか。
それでも商売と家はそぐわないから、商売者か。
でも語感がいいとはいえない。

ならば商人(あきんど)でもいいかもしれない。
オーディオ評論家(商人)。

くり返すが、バカにしているわけではない。
この人は、自身の役割を考えているのではないのか。

Date: 7月 19th, 2021
Cate: 程々の音

程々の音(その31)

スピーカーがあって、そこで音楽を聴くのであれば、
そこはリスニングルームとなるわけだが、
それでも書斎は、やはり書斎であり、
ベッドルームは、どうやってもベッドルームである。

セレッションのUL6とロジャースのLS3/5Aの違いを、
ここでのテーマである「程々の音」ということで捉えるならば、
そんなことをつい思ってしまうことになる。

このあたりのことは、
中学生のころ読んでいたステレオサウンドの影響が残っているからでもある。

43号のベストバイでの瀬川先生のUL6評。
     *
 イギリスの小型スピーカーの中に、えてして高域の細いやや腺病質的な音質があるが、セレッションの製品にはそういう弱点が少なく、中域のしっかりした上品な艶のある音色で、音楽をとても生き生きと聴かせる。この小さい箱を見た目の印象からは驚くほどの低音も出る。ごく質の良いセカンドスピーカーが欲しいと相談されたら、一〜二に推したい。
     *
《ごく質のよいセカンドスピーカー》とある。
それだけでなく、43号の半年前の「コンポーネントステレオの世界 ’77」で、
ヨーロッパ的な雰囲気のリビングルームに、さりげなく置かれていたUL6の写真があった。

それだけでなく、女性読者のための組合せで、
瀬川先生はスピーカーにUL6を選ばれていた。

ここでの組合せでは、UL6の他に同じセレッションのDitton 11、
それからKEFのCorelliとCantata、B&WのDM4/II、
そしてロジャースのLS3/5A、六組のスピーカーを用意されていた。

いうまでもなくいずれもイギリスのスピーカーばかりであり、
結果としてUL6である。

翌年の「コンポーネントステレオの世界 ’78」では、
ベッドルームの写真があった。
ウーヘルのカセットデッキCR210に、アンプはスペンドールのD40、
スピーカーはUL6ではなく、スペンドールのSA1だったのだが、
UL6も、ここに似合うな、と思いながら、写真を眺めていた。

Date: 7月 18th, 2021
Cate:

薬師丸ひろ子の「戦士の休息」

ステレオサウンド 80号の「ぼくのディスク日記」に、
黒田先生が、薬師丸ひろ子の歌について書かれている。
     *
 よせばいいのに、ついうっかり安心して、ある友人に、この薬師丸ひろ子のコンパクトディスクを買ったことをはなしてしまった。その男は、頭ごなしに、いかにも無神経な口調で、こういった、お前は、もともとロリコンの気味があるからな。
 音楽は、いつでも、思い込みだけであれこれいわれすぎる。いい歳をした男が薬師丸ひろ子の歌をきけば、それだけでもう、ロリータ・コンプレックスになってしまうのか。馬鹿馬鹿しすぎる。
 薬師丸ひろ子の歌のききてをロリコンというのであれば、あのシューベルトが十七歳のときの作品である、恋する少女の心のときめきをうたった「糸を紡ぐグレートヒェン」をきいて感動するききてもまた、ロリコンなのではないか。むろん、これは、八つ当たり気味にいっている言葉でしかないが、薬師丸ひろ子の決して押しつけがましくもならない、楚々とした声と楚々としたうたいぶりによってしかあきらかにできない世界も、あることはあるのである。人それぞれで好き好きがあるから、きいた後にどういおうと、それはかまわないが、ろくにききもしないで、思いこみだけで、あれこれ半可通の言葉のはかれることが、とりわけこの音楽の周辺では、多すぎる。
 決めつければ、そこで終わり、である。ロリコンと決めつけようと、クサーイと決めつけようと、決めつけたところからは、芽がでない。かわいそうなのは、実は、決めつけられた方ではなく、決めつけた方だということを、きかせてもらう謙虚さを忘れた鈍感なききては、気づかない。
     *
黒田先生は1938年生れだから、この時48歳だった。
いまの私は58になった。

そして、いまでも薬師丸ひろ子の歌を聴いている。

薬師丸ひろ子の歌は、それ以前に聴いている。
それでも、自分でディスクを買って、というわけではなかった。

私が最初に買った薬師丸ひろ子のディスクは、
黒田先生が80号で紹介されていた「花図鑑」である。

しばらくは頻繁に聴いていた。
その後は、パタッと聴かなくなった。

十年ほどしてから、また聴きたくなった。
一度、どれかの曲(歌)を聴いてしまうと、またしばらく頻繁に聴く。
そして、またしばらく聴かなくなる、ということをくり返してきた。

最近、また聴くようになった。
「戦士の休息」を、よく聴く。

最初に聴いた時から、いい歌だ、と思っていた。
薬師丸ひろ子の歌に興味のない人でも「セーラー服と機関銃」は、
どこかで耳にしたことがあるだろう。

「セーラー服と機関銃」と「戦士の休息」の歌詞は、男側の歌詞である。
それを薬師丸ひろ子が、黒田先生がいわれるところの
《決して押しつけがましくもならない、楚々とした声と楚々としたうたいぶりによって》
歌われることで、あきらかになる世界がある。

ほかの人はどう感じているのかわからないが、
「セーラー服と機関銃」、「戦士の休息」を聴いていると、
薬師丸ひろ子の歌に、少年っぽいところを感じてしまう。

少女っぽいところももちろん感じているのだが、
その陰に、少年っぽいところが、この二曲ではあるからこそ、
薬師丸ひろ子の歌でなければ、と感じてしまう。

Date: 7月 18th, 2021
Cate:

賞からの離脱(オリンピックがらみでおもうこと・その1)

エンブレムの盗作騒動から始まって、
今回のいじめ(虐待)の件まで、オリンピックがらみで、
こんなにぎりぎりになってまで……、とおもうほど、あれこれ騒動が起きている。

この一連の騒動を通して感じているのは、
「選ぶこと」である。

選ぶということをおろそかにしてきたから、これらの騒動は起ったように感じている。

選ぶ、ということは、選ぶ人たちのことであり、
その選ぶ人たちを選んできた人たちも含まれる。

昔は、もっと真剣に選んでいたのではないだろうか。
こんなに選ぶということをおろそかにするようになったのは、
賞が世の中に氾濫するようになったことと無関係ではないはずだ。

Date: 7月 17th, 2021
Cate: 程々の音

程々の音(その30)

二ヵ月前に、別項でセレッションのUL6のことを少し書いた。
これを読んでいた友人から電話があった。
数日前に、あるところでUL6を聴く機会があった、とのこと。

友人は私よりちょっと上だから、UL6を当時聴いている。
それでも、今回改めて聴いて、いろいろ驚き、発見があったようだ。

友人とUL6の話をしていて、ふと思った。
同時代のイギリスの小型スピーカーとして、
セレッションのUL6があり、ロジャースのLS3/5Aがあった。

UL6は58,000円(一本)で、LS3/5Aは75,000(一本)。
この価格帯で一本あたり17,000円の違いは小さくないのだが、
BBCモニターの場合、ライセンス料がそこに加算される、という話がある。

具体的にライセンス料がいくらなのかははっきりとしないが、
LS3/5Aの価格にはそれが含まれているのは事実である。

ならばUL6とLS3/5Aの価格帯は同じと考えてもいいのではないか。
そして、この二つのスピーカーの性格の違いは、
ここでのテーマに関係してきそうな気が、話が進むうちにしてきた。

Date: 7月 17th, 2021
Cate: Noise Control/Noise Design

CR方法(その26)

昨晩の(その25)を書き終って、Macの電源を落としてすぐに思い出した。
今年の春に書いていることを、だ。

この項を読まれている方が、クラングフィルムのオイローパジュニアに実践されている。
音の憧れ」というブログを公開されている方だ。

この方が、オイローパジュニアの励磁用のコイルで試されている。
説明するまでもないが、励磁用コイルにかかるのは、直流である。
直流だけしか流れないコイルにおいても、CR方法は効果があるわけだ。

励磁用コイルとリレーの中のコイルとでは、規模が大きく違う。
それでもリレーの中のコイルにCR方法をやれば、一応の効果は得られるはずである。

とはいえ、それがどのくらいの効果として音に出てくるのか、
やってみての楽しみである。

Date: 7月 16th, 2021
Cate: Noise Control/Noise Design

CR方法(その25)

私がこれまで試してきて好結果がえられたコイルは、交流信号に対してである。

CR方法によって、これだけ音が変化する、はっきりとした理由をまだつかめずにいる。
経験的に、こうであろうという予測は立てているものの、実証したとはいえない。

そういう状況で、アンプのリレーの電磁石のコイルにCR方法をやってみるのは、
ひとつの手がかりになるかもしれない。

リレーの電磁石のコイルにかかるのは、直流である。交流ではない。
コイルの性質上、直流と交流とでは大きく違う様相を見せる。

もしかするとリレーの電磁石のコイルにCR方法をやってみても、効果はないのかもしれない。
そういう予測もできる反面、意外にも大きな変化があるような気もしないわけではない。

もしある程度の効果があったら、何故CR方法によって音が変化するのか、
その理由を、一から考え直さなければならなくなる。

この実験は、SAEのMark 2500をあるレベルまで仕上げてからになる。

Date: 7月 16th, 2021
Cate: 戻っていく感覚

SAE Mark 2500がやって来る(2500と現代アンプのこと・その2)

四十年前のアンプ技術と現代のアンプ技術。
差があって当然であって、その差とは、いわゆる進歩といえる。

四十年間のアンプ技術進歩。
いろいろありすぎる。
一つ一つ取り上げていったら、項を別にしてもなかなか終りそうにないくらいにある。

それでも大きなことを挙げるとすれば、
D級アンプの進歩とスイッチング電源の進歩である。
それから面実装部品の多用である。

SAEのMark 2500は、そのいずれも採用していない。
四十年前のアンプのなかにも、D級アンプはあったし、スイッチング電源のアンプもあった。

だから、そういうアンプとの比較はできる。
別項で触れているAliExpressを検索すれば、
五万円で購入できるパワーアンプは、まあまあある。

それにMark 2500を五万円ほどで手に入れたとはいえ、
手を加えるのが前提の五万円であるから、
手を加えるのに必要な部品の費用を、まず五万円に足さなければならない。

それから私の手間賃をどう加算するのか。
どこか業者に頼めば、そこそこの技術料を請求されるだろう。

けれど、自分でやれば、時間はとられるものの、現金が減っていくわけではない。
とはいえ、自分の技術料をまったく考慮しないのも、なんだかずるい気もする。

部品代には数万円かかる。
面倒なので、部品代と同じだけの技術料とすると、
Mark 2500は十万円を超えることになる。

十数万円のパワーアンプ。
それも日本のオーディオ店で取り扱っていることにこだわらず、
海外からのインターネット通販も含めれば、面白い比較ができるように思うが、
実際に、それらの製品を聴いているわけではないので、妄想でしかない。

Date: 7月 15th, 2021
Cate: 戻っていく感覚

SAE Mark 2500がやって来る(2500と現代アンプのこと・その1)

昔、オーディオ雑誌の読者の相談コーナーに、
○○製のアンプの音が気に入っている、
このアンプの音を活かすスピーカーを教えてほしい、というのが、わりとあった。

瀬川先生は、この手の質問をばっさりと切られていた。
スピーカーが主役であり、スピーカーが決ってから、
そのスピーカーをいかにうまく鳴らすか、そのためのアンプ選びだ、と。

そういう趣旨のことを、熊本のオーディオ店に来られている時も話されていた。

そうである、気に入っているスピーカーがなければ、
ある意味、オーディオは始まらない。

今回、SAEのMark 2500を手に入れた。
鳴らすスピーカーは、コーネッタである。

Mark 2500とコーネッタは同時代である。
1970年代後半の音を聴くうえでは、興味ある組合せではあるが、
スピーカーは古いままでも、アンプ、特にパワーアンプを最新のモノにすることで、
聴き馴染んだスピーカーから、新しい魅力を抽き出すこともある。

昨年後半、喫茶茶会記では、マッキントッシュのMA7900で鳴らした。
最新とまではいえないMA7900だが、古いアンプではない。
現代のマッキントッシュのプリメインアンプといえる製品だ。

コーネッタは四十年以上前のスピーカーだが、
だからといって古いアンプで鳴らさなければならない、なんてことはない。
なのに、Mark 2500を手に入れて、浮れている私がいる。

そのことは、
つまりは私にとってMark 2500は、現代アンプに負けない魅力を持っている、ということなのか。
だとしたら、現代アンプとの比較ということで、どのアンプを持ってくるのか。

Mark 2500は四十年前に650,000円だった。
ならば、いまの同価格のアンプとの比較なのか。

Mark 2500は、あの時代、最高級パワーアンプの一つだった。
ならば、現代の、そういえるアンプとの比較となるのか。

Mark 2500は、ヤフオク!で五万円(送料込み)ほどで手に入れた。
ならば、五万円クラスのアンプと比較すべきなのか。

Date: 7月 15th, 2021
Cate: 戻っていく感覚

SAE Mark 2500がやって来る(2500とM6000のこと・その5)

SAEのMark 2500とラックスのM6000は同じ価格といっていい。
日本市場では、為替相場の変動でMark 2500が数万円高かった時期もあったが、
同じ価格だった時期もある。

SAEはアメリカ製、ラックスは日本製。
当時の為替相場や関税などを考慮すると、
海外製品は割高といわれていた時代である。

この時代は、
輸入元によっては1ドルあたり500円以上で換算したような値づけのモノもあった、ときいている。

Mark 2500とM6000、投入されている物量からいえば、
あきらかにM6000のほうが上である。

ラックスの製品でいえば、M4000とMark 2500が内容的には同クラスとなろうか。

前回、マッキントッシュのMC2300をM6000は意識している、と書いた。
MC2300とMark 2500は、といえば、あきらかにMark 2500はアメリカの新世代のアンプである。

内部の造りを比較して、そういえる。
Mark 2500はメインテナンスがしやすい。
表現をかえれば、手を加えやすい。

もし、いまM6000を手に入れたとしよう。
積極的に手を加えるかといえば、おそらくやらないだろう。

内部に関しては写真でしか見ていないが、やりにくそうだし、
50kgを超える重量からして、体力も必要となるし、場所もそれなりにとる。

Mark 2500は増幅回路は3ブロックに分れている。
電圧増幅部、ドライバー部、出力段である。

そしてヒートシンクも、M6000のような豪華なモノではなく、
アルミ板をコの字に曲げただけのモノだ。

Date: 7月 14th, 2021
Cate: 程々の音

程々の音(その29)

(その28)を書いたのは六年前。
その五年後に、コーネッタを手に入れることになるとは、書いている時はまったく思っていなかった。

欲しい、とは思っていても、そこまでだった。

コーネッタを手に入れて、半年はaudio wednesdayで鳴らした。
2020年10月のaudio wednesdayでは、music wednesdayというテーマで、
野上眞宏さんと赤塚りえ子さんにDJをお願いした。

この時の音は、すでに書いているのでくり返さないが、
あらためて「程々の音」ということについて考えるきっかけになった。

オーディオ歴がある程度ながくなると、
それまでのシステムをすべて投げ打って、
シンプルでうまくまとまったシステムにしてみたい、という欲求が出てくる。

小粋なシステムといってもいいだろう。
そういうシステムで、残りの人生を好きな音楽を聴いて過ごしたい──、
そんなことを一度もおもったことのない人は、どれぐらいいるだろうか。

ここでのテーマというより、この項自体が、
コーネッタについて書いていきたい、ということで始めた。

程々の音とは、どんな音楽をかけても、程々に鳴ってくれるから「程々の音」なのか。
そうでない、とはいわないけれど、そこに留まるのが程々の音ではない。

私にとっての「程々の音」の結論は、すでに書いている。
“plain sounding, high thinking”である。

そして、このことは聴く音楽と切り離して語ることは、絶対にできない。

Date: 7月 14th, 2021
Cate: 1年の終りに……

2016年をふりかえって(その8)

今日は2021年7月14日。
なのにタイトルは「2016年をふりかえって」であるのは、
昨日、東京地方裁判所で判決が出たからである。

火災事故とするところもあれば、事件としているところもある。
事故なのか事件なのか。

私は事件と思っている。
今日、書きたいのは、事故か事件かということではなく、
今日、昨日の判決があってから「東京デザインウィーク」で検索してみたら、
裁判の結果が上位に表示されなかったこと。

そして、Wikipediaでは、東京デザインウィーク火災事故ではなく、
日本工業大学作品火災事故として公開されていることを、知った。

出火元は、確かにそうである。
日本工業大学の学生による作品(と呼べるのだろうか)から火が出ている。

けれど……、とどうしてもおもってしまう。

そして東京デザインウィークのウェブサイトを見た。
トップページに「TOKYO DESIGN WEEK 2016 事故について」とある。

クリックする。
「お探しのページが見つかりませんでした。」と表示される。
なんなんだろう……、とおもってしまう。

いくつもの異和感をおぼえてしまう。

Date: 7月 13th, 2021
Cate: 楽しみ方

オーディオの楽しみ方(その5)

たくましさを喪失していくことで、
毒にも薬にもならない音を求めるようになるのかも──、
そんな気がしてならない。

Date: 7月 13th, 2021
Cate: 情景

情報・情景・情操(音場→おんじょう→音情・その5)

金井克子の「他人の関係」は1973年、
1974年には映画「エマニエル夫人」が公開されている。

公開時、私は十一歳だったから、観たくても観れなかった。
けれど、「エマニエル夫人」のポスターのインパクトは強かった、というより凄かった。

映画のポスターは、映画の数だけ、というよりも、
同じ映画でも国によってポスターが違うこともあるし、
何種類かのポスターが用意されたりもするから、
映画の数の数倍のポスターが世に出ているわけで、そのすべてを見ているわけではない。

映画のポスターとしてのデザイン、
どの映画のポスターが優れたデザインとか、そういうことはいえないが、
少なくともインパクトの強さに関していえば、「エマニエル夫人」のポスターだ。

籐の椅子にシルヴィア・クリステル演じるエマニエル夫人が坐っている。

いまでは、当時の各国の「エマニエル夫人」のポスターが、検索すれば見れる。
日本の「エマニエル夫人」のポスターは、評価が高い、らしい。

いま見ても、そうだろうな、と思う。
「エマニエル夫人」のポスターが、ポスター・デザインとして、どう評価されるのか、
そういうことは関係ないところで、これほど印象深く記憶に残っているものはない。

けれど、このポスターは、あの時代だったから、街中にも貼られていて、
当時小学生だった私の目にも留まったわけだ。

いま「エマニエル夫人」がリメイクされて公開されたとしても、
もう、あのポスターは無理であろう。