Archive for category テーマ

Date: 10月 11th, 2021
Cate: 新製品

JBL SA750(その17)

JBLの新製品SA750について書いている。
このSA750は、発明を聴く、という新製品ではない。
そのことが頭に浮んできた。

別項「新製品(発明を聴く・その1)」で、新製品を聴く、ということは、ときとして発明を聴くことである、
と書いた。

発明を聴ける新製品が、発明を聴けない新製品よりも上とは、もちろん考えていない。
だからこそ、なにか新製品が出るたびに、この新製品は何か発明を聴けるのか──、
そういう視点で捉えることはしないし、それで評価が変るわけでもない。

それでもSA750について書いていて、
SA750は発明を聴くという新製品ではないことが浮んできたのは、
SA750がSA600のオマージュモデルとして扱われているからであろう。

SA750のパワーアンプの出力段はG級動作と謳っている。
アーカムのSA30がベースモデルだし、SA30もとうぜんG級動作である。

G級動作はアーカム独自の技術のようなので、この方式そのものは発明といえよう。
とはいえ、信号レベルに応じて、出力段の電源電圧を切り替えているようなので、
だとしたら既に製品化したモノがいくつか存在している。

もっとも信号レベルの検出、どのレベルで切り替えるのか、
そういった細かいところでの独自技術なのだろうか。

G級動作を発明とみなせば、SA30は発明を聴ける新製品といえるわげだが、
SA750は、そのへん微妙といえば微妙だ。

日本にはSA750のほうが先に発売になっているはずだ。
アーカムの取り扱いが再開されたのは、つい最近のことだ。

となるとSA30よりもSA750を聴いた人にとっては、
SA750で発明を聴いた、ということもいえる。

こんなどうでもいいことを書いているのは、
SA600はどうだったのか──、そのことを思い出してほしいからである。

Date: 10月 10th, 2021
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その26)

audio wednesdayをやっていたときは、
毎月定期的に、誰かと会っていたわけだが、
喫茶茶会記の閉店・移転にともない、それにコロナ禍もあって、
人と会って、という機会は、今年は少なかった。

それでも10月になり緊急事態宣言も解除、
ワクチンを二回接種した人も、ほとんどになってきた。

油断は禁物なのはわかっていても、7日に五人集まっての会だった。
どこかの店ではなく、個人宅で集まっての、ひたすら話す、という集まりだった。

爆笑の連続だった。
ひさしぶりに屈託なく笑った夜だった。
腹の底から笑えた。

一人で過ごすことに何も苦痛を感じない私でも、
こうやって気心の知れた人たちとの会話は、大切にしたい。

Date: 10月 10th, 2021
Cate: ディスク/ブック

カラヤンのマタイ受難曲(その6)

カラヤンのバッハを積極的に聴きたいかというと、そうではない。
カラヤンのマタイ受難曲(ドイツ・グラモフォン盤)も一度聴いたきりである。

一ヵ月ほど前、TIDALであれこれ検索していて、カラヤンのフーガの技法を偶然見つけた。
1944年の録音である。

こんな録音があったのかと、Googleで検索すると、
五年ほど前に録音が発見されてCDが発売になっていることを知る。

気づいていなかった。
気づいていたら、おそらくCDを買って聴いていただろう。

TIDALで聴いた。

カラヤン指揮によるバッハのマタイ受難曲は、
ドイツ・グラモフォンによる1972-73年にかけてのステレオ録音のほかに、
1950年のモノーラルのライヴ録音がある。

1950年録音は、カスリーン・フェリアーが歌っているので、
アナログディスクでももっていた(ただし音はひどかった)。
CDになってからも購入した(まだこちらの方が音はまともになっていた)が、
くり返し聴くことはほとんどしていない。

1944年のフーガの技法は、これから先、何度か聴いていくように感じている。

Date: 10月 9th, 2021
Cate: ディスク/ブック

This One’s for Blanton

デューク・エリントンとレイ・ブラウンによる“This One’s for Blanton”。

私が、このディスクの存在を知った(聴いた)のは、ステレオサウンドの試聴室。
ここまで書けば、昔からの読者、
記憶力のいい方だと、長島先生の試聴だな、と気づかれるだろう。

長島先生の試聴、
それも確か組合せの試聴だったはずだ。

アナログディスクだった。
A面一曲目の“Do Nothin’ Till You Hear from Me”。
出だしの強烈なピアノの音。

長島先生による組合せからの音だったことも、その強烈さを一層増して聴こえた。
それからというもの、私にとって、
“Do Nothin’ Till You Hear from Me”がどういう音で鳴るべきなのか、は、
この瞬間に決ったといっていい。

頻繁に聴いているわけではない。
でも、スメタナの「わが祖国」のように、無性に聴きたくなるときがふいに訪れる。
そういう時は、できるだけ大きな音で聴く。

それだけでなく、音の判断で少し迷ったとき、
“Do Nothin’ Till You Hear from Me”を聴くと、よくわかる。

数日前、ChordのMojoをいじった。
基本的にはメリディアンの218に施したことと同じなのだが、
スペースの都合上、やれなかったことも少なくない。

それでも満足できる音になった。
この音ならば──、とおもい、“Do Nothin’ Till You Hear from Me”を鳴らした。

ヘッドフォンで聴いた。
ヘッドフォンから、あの時、聴いた音が出てきた。

Date: 10月 8th, 2021
Cate: ディスク/ブック
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シフのベートーヴェン(その11)

五味先生が、「日本のベートーヴェン」でこう書かれているのを、
私は20代のころ、何度も読み返している。
     *
 ピアノ・ソナタのほかに、たとえば『ディアベリの主題による変奏曲』を音楽史上に比類ない名曲という人がある。私には分らない。比類ないのはやはり『ハンマークラヴィーア』と作品一一一だと私は思う。『ハンマークラヴィーア』といえば、いつか友人の令嬢(高校二年生)が温習会で弾くのに招待され、唖然とした。十代の小娘に、こともあろうに『ハンマークラヴィーア』が弾けるとおもう、そんなピアノ教師が日本にはいるのだ。技術の問題ではない。ベートーヴェンのソナタの中でも最も深遠なこの曲を、本当に、弾けるピアニストが日本に何人いると教師は思っているのだろう。だいたい日本の専門家には、レコードなど、ろくにきかない人が多いが、だからオーボエが何本ふえたなどと言っていられるのだろうが、そういうピアノ教師たちに教育ママは子供を習わせ、音楽的教養が身につくと思っている。あわれと言うも愚かで、済む問題ではない。ベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタが女性に弾けるわけはない。晩年のベートーヴェンの歳になって、やっと、限られた、世界でも数人のピアニストがその心境を弾き得るだろう。そういう曲である。恐らく当の教師にだって満足に弾けはすまい。それが、こともあろうに発表会で少女に演奏させる。どういう神経なのか。こんな教師たちで日本の楽壇は構成され、ベートーヴェンが語られる。日本はその程度のまだ、水準でしかないのだろうか。
     *
《ベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタが女性に弾けるわけはない》とある。
《晩年のベートーヴェンの歳になって、やっと、限られた、世界でも数人のピアニストがその心境を弾き得るだろう》
ともある。

そうだ、と私も思っている。
作品一一一の第二楽章を聴いていると、
五味先生が書かれていることを実感する。

極端な意見だ、という人がいてもいい。
私だって、少しはそう思うところもあるが、
それでもくり返すが、作品一一一の第二楽章だけでもいいから聴いてほしい。

聴けばわかるはずだ。
お前は、五味先生の文章に洗脳されすぎだ、といわれるだろう。

でもアニー・フィッシャーのベートーヴェンを聴いていると、
五味先生は、どういわれただろうか、と思ってしまう。

作品一一一の第二楽章。
ベートーヴェンの心境を描ききったと思えるピアニストは、
私にとっては、ほんとうに少ない。

そのなかの一人にアニー・フィッシャーは入っている、
アンドラーシュ・シフは入っていない。

Date: 10月 8th, 2021
Cate: High Resolution, 新製品, 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(MQAのこと・その3)

CHプレシジョンの新製品D1.5。
MQA対応である。

ほぼ間違いなく、11月開催のインターナショナルオーディオショウで聴けるだろう。
今年は行かないと決めたものの、D1.5の登場は、その決心が揺らいでしまうほどだ。
それでも今年は行かないのだが、今年のショウの目玉はD1.5といってしまいたくなる。

日本のメーカーは、どうなのだろう。
今年のインターナショナルオーディオショウに向けての新製品で、
新たにMQAに対応するブランドはあるのだろうか。

いまの時点ではなんともいえないけれど、ないような気がする。

今年のインターナショナルオーディオショウでは、
MQAに対する日本と海外の温度差をより感じることになるのだろうか。
どうもそんな気がしてしまう。

Date: 10月 8th, 2021
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その11)

FM fanの記事は、一回目が長岡鉄男、上杉佳郎、
二回目が瀬川冬樹、菅野沖彦、
この四氏のリスニングルームを傅 信幸氏が訪問というものだった。

おもしろかったのはだんぜん二回目である。
当時、何度も読み返し、グラビアのリスニングルームのカラー写真を、
それこそ穴が開くほどに見ていた。

この記事のあとに、ステレオサウンドの記事も読み返した。
でも、やっぱりおもしろくない、というよりも、最後まで読み通すのがしんどいのは、
まったく同じままだった。

いまにして思えば、この時に気づいていたのかもしれない。
傅 信幸氏は狂言まわしの才能がある、ということに。

こんなふうに書いてしまうと誤解する人がいるかもしれない。
いまオーディオ評論家と呼ばれている人たちで、
傅 信幸氏と柳沢功力氏が、オーディオ漫談家もしくは狂言まわしである、というだけのことだ。

ほかのオーディオ評論家と呼ばれている人たちと比較してどうのこうという話ではない。
ほかのオーディオ評論家と呼ばれている人たちには、
オーディオ漫談家、狂言まわしとしての才能もない、ということである。

そして月刊ステレオサウンドというものが本当に登場してくれるのであれば、
傅 信幸氏、柳沢功力氏のオーディオ漫談家、狂言まわしといった、
よいところを読みたいのである。

Date: 10月 7th, 2021
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その10)

傅 信幸氏の名前を知ったのは、1970年代後半の無線と実験においてだった。
ハンダによる音の違いの実験記事だった。

それ以前も無線と実験に記事を書かれていたのかもしれないが、
このハンダの記事は、ここまでやるのか、と意味で印象に残っている。

ハンダ付けがどういう現象なのかを理解していれば、
この試聴方法が必ずしも、実際のハンダの音を聴くこととイコールなのか、
疑問がないわけではないが、とにかく記事のおもしろさ、
それだけでなく試聴用のケーブル作りまで、自身でやるというところも、
無線と実験の記事のようでいて、それまでの記事とは違うところも感じさせていた。

その傅 信幸氏は少ししてからステレオサウンドの誌面に登場。
カセットデッキのノイズリダクション、dbxの一連の製品の試聴など、である。

一機種ごとの、いわゆる試聴記という形ではなく、
巻末に地階ところでの掲載ではあったが、かなり力の入った記事(文章)であった。

あのハンダの人が、ステレオサウンドに登場なのか、と期待して読み始めた。
けれど何度か読み返しても、最後までスムーズに読み通せない。

手抜きの文章だったからではない。
じっくり時間をかけての文章だった、と感じられる。

けれど読んで行くと、流れにのれないとでもいおうか、
もういいや、という感じになってしまった。

最初は聴く音楽のジャンルが違うからなのか、と思った。
けれど、どうもそうではないようだ。

当時は高校生で、周りにステレオサウンドを読んでいる友人はいなかった。
ほかの人がどうだったのかは、わからなかった。

いま読み返すと、はっきりとなぜだったのか、わかるのだが、
それはここで書くことではない。

その傅 信幸氏の文章を、おもしろいと感じたのは、
FM fanに二号連続掲載の記事だった。

Date: 10月 6th, 2021
Cate: ディスク/ブック
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アレクシス・ワイセンベルク(その4)

カラヤンとのチャイコフスキーのピアノ協奏曲を聴いたあとで、
ジュリーニとのブラームスのピアノ協奏曲も聴いていた。

このブラームスにも驚いた。

ジュリーニは好きな指揮者だし、よく聴いている。
なのにワイセンベルクとのピアノ協奏曲は知ってはいても、
なんとなく遠ざけていて、聴いたのはついこのあいだが初めてだった。

どう驚いたのかは書こうと思いながら、一ヵ月以上が経っていた。
どんなふうに書こうかな、と考えているうちに、
ここ数ヵ月、ワイセンベルクの演奏にいままでにない関心をもつようになったし、
すごい演奏だ、とも感じている。

それでもワイセンベルクのディスクが、
これから先、私にとって愛聴盤となっていくのだろうか──、
そんなことを考えるようになってきた。

いまのところ、答は、おそらく愛聴盤とはならないだろう、なのだが、
それでは、どうして愛聴盤とならないのかについて考えることになる。

同時に、私にとって愛聴盤といえるのは、どのディスク(演奏・録音)なのか。
そのことを改めて考えることになる。

こんなことを考えている(書いている)と、五味先生の文章を引用したくなる。
     *
最近、復刻盤でティボーとコルトーによる同じフランクのソナタを聴き直した。LPの、フランチェスカッティとカサドジュは名演奏だと思っていたが、ティボーを聴くと、まるで格調の高さが違う。流麗さが違う。フランチェスカッティはティボーに師事したことがあり、高度の技巧と、洗練された抒情性で高く評価されてきたヴァイオリニストだが、芸格に於て、はるかにまだティボーに及ばない、カサドジュも同様だった。他人にだからどの盤を選びますかと問われれば、「そりゃティボーさ」と他所ゆきの顔で答えるだろう。しかし私自身が、二枚のどちらを本当に残すかと訊かれたら、文句なくフランチェスカッティ盤を取る。それがレコードの愛し方というものだろうと思う。
(「フランク《ヴァイオリン・ソナタ》」より)
     *
ワイセンベルクの演奏が、ここでのティボーにあたるといいたいのではない。
《レコードの愛し方》。ここである。

Date: 10月 6th, 2021
Cate: ディスク/ブック

スメタナ 交響詩「わが祖国」(その3)

スメタナの「わが祖国」を、いろんな指揮者で聴いているわけではない。
数える程しか聴いていない。

先日、ふと、そういえばカラヤンは「わが祖国」は録音していないのでは? と思った。
カラヤンの「わが祖国」といえば、
モルダウだけをベルリンフィルハーモニーで録音しているディスクがある。

日本盤には、「モルダウ〜カラヤン/ポピュラーコンサート」とつけられていた。
それからウィーンフィルハーモニーとのドヴォルザークの交響曲第九番にも、
モルダウだけがカップリングされている。

カラヤンのモルダウ(ウィーンフィルハーモニー)を聴いていた。
TIDALにあるから、思い立ってすぐ聴けるのは、ほんとうにありがたい。

流麗なモルダウだった。
カラヤンは、モルダウだけを演奏しているわけだから、
モルダウだけということでは、名演といえるだろうな、と思う。

クラシックに強い関心のない人でも、モルダウのフレーズは耳にしている。
日本語の歌詞がつけられていたりするからだ。

そういう人にとっては、カラヤンのモルダウは名演となるだろう。
けれど「わが祖国」を聴いている人にとっては、
モルダウは交響詩「わが祖国」の第二曲であるわけだがら、
モルダウだけを聴いていたとしても、「わが祖国」と切り離して聴くということはないはずだ。

カラヤンのモルダウを聴いていると、そこのことがひっかかる。
カラヤンのモルダウは、モルダウだけ、なのだ。

「わが祖国」は思い出したように数年おきに聴くぐらいである。
全曲通して聴くことは、いまではほとんどない。
モルダウだけを聴いて、ということが多い。

だったらモルダウだけの演奏で完結してしまっているカラヤンの演奏でもいいのではないか──、
自分でもそんなことを思ったりする。

なのにカラヤンのモルダウを聴いて、これは「わが祖国」ではないと憤ったりする。

Date: 10月 5th, 2021
Cate: 新製品

JBL SA750(その16)

先月、ハーマンインターナショナルがアーカムを取り扱うことが発表になった。
SA750のベースモデルであるアーカムのSA30も取り扱う。

ステレオサウンドの次号(221号)の新製品紹介の記事で、
SA30は取り上げられるのだろうか。

SA750はカラー2ページだったが、
SA30も同じくカラー2ページになるのか──。

おそらくモノクロページ扱いだろう。
それも2ページではなく、1ページになるかもしれない。

誰が担当するのだろうか。
SA750と同じ小野寺弘滋氏なのだろうか。
その可能性は低いだろう。

となると誰なのか。
誰になっても、書きにくいだろうな──、と同情してしまう。

JBLもアーカムもハーマンインターナショナルだから、よけいに書く側は困る。
けれど読む側からしたら、おもしろい読み方ができる新製品紹介の記事になるはずだ。

当り障りのないことだけを書いた、さらっとした紹介記事になっていたとしても、
それはそれで、220号のSA750の小野寺弘滋氏の記事と比較しながら読めば、
面白くなるはずだ。

SA750の記事、SA30の記事、それぞれ単体の記事として読むのではなく、
並べて読むことで浮び上ってくることに気づくはずだ。

Date: 10月 5th, 2021
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その17)

20代のころは、映画館のはしごをごくあたりまえにやっていた。
日曜日は映画を三本観ることが多かった。

そのころはシネコンなんてものはなかった。
映画を数本観るということは、映画館をはしごすることであった。

いまはシネコンばかりになってきているから、
映画館をはしごすることなく、二本、三本の映画を観ようと思えば、
以前よりも楽になっている。

とはいうものの、30を超えたころから、映画を観る本数が減ったし、
一日に数本観ることもやらなくなっていた。

最後に映画館をはしごしたのは、もういつのことだろうか。三十年ほど経っているはずだ。

今日、ひさしぶりに映画を二本たてつづけに観てきた。
ここでとりあげている「MINAMATA」と007の二本を観てきた。

007「ノー・タイム・トゥ・ダイ」、最後で涙するとは予想していなかった。

「MINAMATA」は、007とはまったく違う映画だ。
スクリーンのサイズも違う。
けれど、意外にも多くの人が来ていた。
高齢者の方も多かった。

007は9時20分から、「MINAMATA」は13時25分と上映開始時間が違うため、
単純な比較はできないけれど、
007と同じくらいの人が、私が観た回にはいた、と思えるくらいだった。

忘れられていない。
そう思っていた。

「MINAMATA」も、最後のところで涙が出た。

映画を観ての涙であっても、同じではない。

「MINAMATA」の公開にあわせて、
ユージン・スミスとアイリーン・美緒子・スミスの写真集「MINAMATA」が復刻されている。

Date: 10月 4th, 2021
Cate: 新製品

JBL SA750(その15)

SA600の時代とSA750の時代は違う。
製品数もまるで違う。
大きく違っている。

SA750にSA600と同じことを求めることは無理だ、ということは百も承知だ。
SA750は、SA600とまったく違うアピアランスで登場していたら、
こんなことは書いていない。

JBLの創立75周年モデルであり、SA600を意識したモデルであるから、
やっぱりあれこれいいたくなる、というか、期待したくなる。

アーカムのSA30をベースとしていることは、音さえ良ければどうでもいいことだ。
すべての音楽を夢中になって聴ける──、
そんなことまで望んでいるわけではない。

ある特定の音楽ジャンルだけでもいいし、
特定の楽器だけでもいい。

たとえばピアノを鳴らしたら、夢中になって聴いてしまった──、
そういう存在であってほしい。

なぜJBLは75周年モデルとして、SA750を企画したのだろうか。
SA600のオマージュモデルという意図自体は素晴らしいことなのに、
なぜ、こんなに中途半端に出してきたのだろうか。

いまのJBLの開発陣に、SA600を聴いた人はどれだけいるのだろうか。
SA600が当時どう評価されていたのかを知っている人はいるのだろうか。

どのメーカーかは書かないが、JBLよりも古いあるオーディオメーカーは、
企業買収されたことで、古株の社員がみないなくなってしまった。
そのため古い製品について知っている社員が一人もいない。

そのメーカーの広報の人が日本に来て、オーディオ雑誌の取材を受けた際に、
古い製品についてたずねたところまったく知らない。
むしろインタヴュアーから教えられていた──、
そんな話を十年以上前に、ある人から聞いている。

JBLもそうなのかどうかは、私は知らない。
けれどSA750の記事を読んで思うのは、それに近いのかも、ということだ。

Date: 10月 3rd, 2021
Cate: 新製品

JBL SA750(その14)

別項「Falstaff(その3)」で、
夢中になって聴くことについて触れた。

JBLの新製品SA750は、夢中になって楽しめる新製品なのだろうか。
SA750についての関心は、私の場合、ただこの一点のみにある。

それというのも、瀬川先生の影響である。
(その11)で書いているように、
瀬川先生はSA600を借りてきての自宅での試聴(もう試聴ではないのだけれど)をされている。

ステレオサウンド 52号の特集の巻頭で、
《SA600を借りてきて最初の三日間というものは、誇張でなしに寝食を惜しみ、仕事を放り出して、朝から晩までその音に聴き耽った》と、
1981年、ステレオサウンド別冊の巻頭では、
《およそあれほど無我の境地でレコードを続けざまに聴かせてくれたオーディオ機器は、ほかに思い浮かばない》
と書かれている。

まさしく夢中になって聴かれていたわけだ。

ステレオサウンド 220号掲載のSA750の記事をようやく読んだ。
小野寺弘滋氏が書かれている。

そこには《本機SA750は、SA600へのオマージュモデル》とある。
ステレオサウンドよりも先に出ていたオーディオアクセサリーの記事(小原由夫氏)にも、
オマージュモデルとある。

何をもってオマージュなのか。
アピアランスが似ていれば、そういえるのか。

オマージュモデルに関しては項を改めて書きたいぐらいだが、
私には、ステレオサウンド(小野寺氏)とオーディオアクセサリー(小原氏)、
どちらを読んでも、まったくそうとは感じなかった。

私にとってSA750がSA600のオマージュモデルであるためには、
《最初の三日間というものは、誇張でなしに寝食を惜しみ、仕事を放り出して、朝から晩までその音に聴き耽った》
そういう音を、いまの時代に聴けるかどうかである。

夢中になって音楽を聴ける音。
ただそれだけをSA750には求めていた。

でも、それは無理なこと、とは最初からわかっていたといえばそうである。
それでも、どこか期待していた。

だから音はどうなのか。
小野寺弘滋氏の文章は、あっさりしたものだ。
まったく熱っぽさがない。

小野寺氏を責めたいのではない。
SA750が、そういう音であった、というだけのことだ。

Date: 10月 3rd, 2021
Cate: ディスク/ブック

Falstaff(その3)

真剣に音楽を聴く、
まじめに音楽を聴く、
音楽と向きあいながら聴く、
そんなふうに音楽を聴く態度を表現するわけだが、
これらと「夢中になって聴く」とは、同じとはいえそうなのだが、
違うといえば違うところがある。

何をしながら音楽を聴く、ということからすれば、どちらも同じことである。
まじめに音楽を聴いているのだから。

それでも夢中になって音楽を聴くは、少し違う。

その演奏をまじめに聴く人と、その演奏を夢中になって聴く人とは同じではない。
一人の聴き手に、まじめに音楽を聴くと夢中になって音楽を聴くとがある。

ジュリーニによる「ファルスタッフ」を、これまでまじめに聴いてきた。
少なくとも私のなかではそうであった。
けれど夢中になって聴いてきただろうか、と、
今回バーンスタインの「ファルスタッフ」を聴き終って、そんなことを考えていた。

TIDALにバーンスタインの「ファルスタッフ」があった。
あったのは知っていたけれど、今回初めて聴く気になったのは、
MQA Studioで配信されるようになったからだ。

とりあえずどんな演奏なのか聴いてみよう、
そんな軽い気持からだった。
聴き始めた時間も遅かった。

十分ほど聴いたら、きりのいいところで寝るつもりだった。
なのに、最後まで、二時間ほど聴いてしまった。
夢中になって聴いていたからだ。