Archive for category テーマ

Date: 3月 28th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来る(その2)

GASのTHAEDRAの落札は昨晩、つまり日曜日である。
ヤフオク!にはいくつかのクーポンがある。

土日落札分にかぎり、10%割引(上限5,000円まで)というクーポンもある。
このクーポンが使えて、33,000円の落札金額は10%割引の金額になった。

こんな金額で落札してTHAEDRAに申しわけない、みたいな気持もある。
とはいっても、四十年以上のアンプを入手して、
そのまま使おう、とはまったく考えていないわけで、
メインテナンス、場合によっては修理が必要になることも、
その費用も考慮して、つねに落札金額を決めて入札している。

応札することは、なので、まずない。

ヤフオク!を眺めていると、
ジャンクと説明されているアンプを、けっこうな金額で落札する人がいる。
そういうモノのなかには、写真で判断するかぎり、かなり手入れが必要と思われるのがある。

その費用はけっこう金額になるであろうに、
そんな金額で落札するのか──、
落札した人は、どこに修理依頼するのか、それとも自分で直すのか、
まさかそのまま聴くということはないであろうに、
いったいどうするつもりなのか。よけいなことをつい考えてしまう。

話が逸れてしまったが、
今回、THAEDRAをもう一度と思ったのには、いくつかの理由がある。
といっても、欲しい、というまず気持があっての、後付けみたいな理由なのだが、
THAEDRAのヘッドフォンアンプとしての実力を知りたい、というのがまずある。

以前、別項で書いているように、ロジャースのLS3/5AをTHAEDRAで鳴らしたことがある。
私にとって、LS3/5Aの最上の音は、この時の音である。

多くの人がもっているGASのアンプの音のイメージとは、違っているのかもしれない。
LS3/5Aから、馥郁たる響きが鳴ってきた。

馥郁たる響きといっても、人によってイメージする響きは、たぶん大きく違うだろう。
ここで聴けた響きこそが、イギリスの、あの時代のスピーカーだからこそ聴けた響きであり、
THAEDRAの繊細な一面をはっきりと聴きとれた。

LS3/5Aを持っている人は割と多い。
そういう人のところで、いくつかのLS3/5Aの音を聴いてきたけれど、
THAEDRA+LS3/5Aの音を超えていない。

Date: 3月 27th, 2022
Cate: 戻っていく感覚
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GAS THAEDRAがやって来る(その1)

GASのTHAEDRAをヤフオク!で落札したばかりだ。
音が出ない、ということがあってか、33,000円(税込み)という、
予想していた価格よりもかなり安価で落札できた。

音は出ないわけだから、どこかが故障しているわけだ。
それでも写真を見る限りは、さほどくたびれた印象は受けない。
となると、音が出ない原因は、おそらくあそこだろう、という見当はついている。

実は20代のころ手に入れたTHAEDRAも、最初音が出なかった。
輸入元のエレクトリで、私のところに届く前にチェックされているにもかかわらず、である。

なので原因はここじゃないか、と思うところがあった。
事実、そこが原因だったし、簡単に修理できた。

今回も同じところが原因であれば、すぐに音は出るようになる。
もっとも実物が届いてみないことには、なんともいえないけれど、
この値段で手に入れたのだから、いろいろやって楽しむつもりでいる。

これまでいろんなオーディオ機器を使ってきたけれど、
一度手離した機種をふたたび使うようになるのは、今回が初めてだ。

それにしても2020年に、タンノイのコーネッタを、
2021年に、SAEのMark 2500を、
そして今回(2022年)に、GASのTHAEDRAである。

すべてヤフオク!で、そのころの落札相場よりもかなり安価で落札できている。

コーネッタを手に入れたとき、
アンプはマークレビンソンのLNP2とスチューダーのA68の組合せで鳴らしてみたい、
そんなことをおもっていたのに、
現実には、Mark 2500にTHAEDRAである。

THAEDRAはジェームズ・ボンジョルノの作である。
Mark 2500の回路の基本設計もボンジョルノである。

いったいどんな音がするのだろうか。

Date: 3月 27th, 2022
Cate: ディスク/ブック

新版 名曲この一枚(その1)

西条卓夫氏の「名曲この一枚」が復刊している。
二ヵ月ほど前に出ていたのを、昨日知ったばかり。

盤鬼・西条卓夫氏について語る必要はないだろう。

Date: 3月 27th, 2022
Cate: 書く, 老い

老いとオーディオ(なにに呼ばれているのか・その3)

十年以上、毎日こうやってオーディオ、音楽、音について書いている。
毎日、オーディオ、音楽、音について考えている、ともいえる。

「五味オーディオ教室」と13歳のときに出逢ってからというもの、
オーディオ、音楽、音について考えなかった日はなかった、といえる。

けれどここに来て、考えているのか──、と思うようになってきた。
つまり考えているのではなく、考えさせられているのでは──、
そんなふうに感じることが出てきたからだ。

Date: 3月 26th, 2022
Cate: 欲する

新月に出逢う(その10)

今年はすでに三箇所の展示会で、En氏の人形をみてきている。
それぞれの展示会には、En氏以外の人形作家の作品も、もちろんある。

去年2月の新月でEn氏の作品に出逢ってからというもの、
これまでに何人もの人形作家の作品(人形)をみてきて、
なぜ、ここまでEn氏の人形に惚れ込んでいるのだろうか、
その理由がおぼろげながらではあるが、つかめてきている。

その4)で書いていること、である。
En氏の人形は、私にとって「目があるもの」なのだ。

En氏以外の作家の人形にも、もちろん目はある。
目のない人形なんて、おそらくないであろう。

けれど目がついているからといって、
「目があるもの」と認識するかどうかはなんともいえない。

「目があるもの」ならば、その人形からこちらが見られている、と感じられなくてはならない。
世の中には、私が一年間見てきたよりもずっとずっと多い人形作家、
それからその作品である人形がある。

それらのなかには、En氏の作品と同じように「目があるもの」と感じられる人形があるだろう。
もっと強く感じられる人形もあるかもしれない。

でも、いまのところ私にとって「目があるもの」が感じられるのは、
En氏の人形である。

Date: 3月 26th, 2022
Cate: 604-8G, ALTEC, ワイドレンジ
1 msg

同軸型ユニットの選択(その27)

ステレオサウンド 50号のマイ・ハンディクラフト、
別冊「HIGH-TECHNIC SERIES 4」、
同じく別冊「SOUND SPACE 音のある住空間をめぐる52の提案」、
これらの記事を何度もくり返し読んできた私にとっては、
アルテックの604-8Gと平面バッフルとの組合せが鳴らす音と響きは、
私自身が心から求める世界とは違っていることはわかっていても、
思いっきり鳴らしてみたい世界でもある。

でるだけ大きな面積の平面バッフルこそが、
こういう音を求めるには最良の結果をもたらすことぐらいはわかっていも、
現実に5.5畳ほどのワンルームに、1.8m×0.9mの平面バッフルを無理矢理入れて、
シーメンスのコアキシャルを取り付けて聴いていた私は、
いかにも大きすぎることを感じていた。

私の感覚からすれば、自分の身長よりも高いスピーカーはあまり使いたくない。
それは広いリスニングルームがあったとしてもだ。

このへんのことは、人それぞれの感覚があってのことだから、
どんなに背の高いスピーカーであっても、音が良ければまったく気にならない、
そういう人もいれば、私のような人もいる。

さほど大きくない平面バッフルに604-8Gを取り付けて、
サブウーファーはエンクロージュアにおさめる。

こんな構想を考えながら思い出しているのは、
ダルクィストのスピーカーシステムDQ10のことだ。

いまではDQ10といっても、どんなスピーカー?
ダルクィスト? という人のほうが多数だろう。

あえてQUADのESLのアピアランスに似せたDQ10は、
私は聴く機会はなかったけれど、
ハイエンドスピーカーの流れに連なっていく音だったのではないだろうか。

DQ10はウーファーだけがエンクロージュアに収まっていた。
他のユニットは最小限のバッフルに取り付けられていた。

サランネットを外した姿、いわば裸のDQ10はバラックのようでもあった。

Date: 3月 25th, 2022
Cate: コントロールアンプ像

パッシヴ型フェーダーについて(その8)

グラフィックイコライザーとはまったく関係のないことと思われるだろうが、
ステレオサウンド 54号の瀬川先生の文章を読んでほしい。
     *
 本誌51号でも、計画の段階で、いわゆるライブな残響時間の長い部屋は本当に音の細かな差を出さないだろうか、ということについて疑問を述べた。あらためて繰り返しておくと、従来までリスニングルームについては、残響時間を長くとった部屋は、音楽を楽しむには響きが豊かで音が美しい反面、細かな音の差を聴き分けようとすると、部屋の長い響きに音のディテールがマスクされてしまい、聴き分けが不可能だといわれていた。細かな音をシビアに聴き分けるためには、部屋はできるだけデッドにした方がよい、というのが定説になっていたと思う。たとえば、よいリスニングルームを定義するのに、「吸音につとめた」というような形容がしばしば見受けられたのもその一つの証明だろう。
 現実にごく最近まで、いや現在、または近い将来でさえも、音を聴き分け判断するためのいわゆる試聴室は、できるかぎりデッドにつくるべきだ、という意見が大勢をしめていると思う。しかしそれならば、決して部屋の響きがデッドではない、一般家庭のリビングルームなどを前提として生み出される欧米の様々な優れたスピーカーやアンプやその他の音響機器たちが、何故あれほどバランスのよい音を出すのだろうか……。なおかつそれを日本の極めてデッドなリスニングルーム、つまり、アラを極めて出しやすいと信じられているリスニングルームで聴いても、なおその音のバランスのよさ、美しさ失わないか、ということに疑問を持った。その結果、部屋の響きが長い、ライブな空間でも、音の細かな差は聴き分けられるはずだと確信するに至った。部屋の響きを長くすることが、決して音のディテールを覆いかくす原因にはならない。また、部屋の響きを長くしながら、音の細かな差を出すような部屋の作り方が可能だという前提で、この部屋の設計を進めてきた。
 部屋の響きを美しくしながら、なおかつ音の細かな差をよく出すということは、何度も書いたことの繰り返しになるが、残響時間周波数特性をできるだけ素直に、なるべく平坦にすること。つまり、全体に残響時間は長くても、その長い時間が低域から高域まで一様であることが重要だ。そして減衰特性ができるかぎり低域から高域まで揃っていて、素直であるということ。それに加えて、部屋の遮音がよく、部屋の中にできるかぎり静寂に保つ、ということも大事な要素である。ところでこの部屋を使い始めて1年、さまざまのオーディオ機器がここに持ち込まれ、聴き、テストをし、仕事に使いあるいは楽しみにも使ってみた。その結果、この部屋には、音のよいオーディオ機器はそのよさを一層助長し、美しいよい音に聴かせるし、どこかに音の欠点のある製品、ことにスピーカーなどの場合には、その弱点ないしは欠点をことさらに拡大して聴かせるというおもしろい性質があることに気がついた。
 これはおそらく、従来までのライブな部屋に対するイメージとは全く正反対の結果ではないかと思う。実際この部屋には数多くのオーディオの専門の方々がお見えくださっているが、まず、基本的にこれだけ残響の長い部屋というのを、日本の試聴室あるいはリスニングルームではなかなか体験しにくいために、最初は部屋の響きの長さに驚かれ、部屋の響きにクセがないことに感心して下さる。反面、たとえば、試作品のスピーカーなどで、会社その他の試聴室では気づかなかった弱点が拡大されて聴こえることに、最初はかなりの戸惑いを感じられるようである。特にこの部屋で顕著なことは、中音域以上にわずかでも音の強調される傾向のあるスピーカー、あるいは累積スペクトラム特性をとった場合に部分的に音の残るような特性をもったスピーカーは、その残る部分がよく耳についてしまうということである。
 その理由を私なりに考えてみると、部屋の残響時間が長く、しかも前掲のこの部屋の測定図のように、8kHzでも1秒前後の非常に長い残響時間を確保していることにあると思う(8kHzで1秒という残響時間は大ホールでさえもなかなか確保しにくい値で、一般家庭または試聴室、リスニングルームの場合には0・2秒台前後に収まるのが常である)。高域に至るまで残響時間がたいへん長いということによって、スピーカーから出たトータル・エネルギーを──あたかもスピーカーを残響室におさめてトータル・パワー・エナジーを測定した時のように──耳が累積スペクトラム、つまり積分値としてとらえるという性質が生じるのではないかと思う。普通のデッドな部屋では吸収されてしまい、比較的耳につかなくなる中域から高域の音の残り、あるいは、パワー・エネルギーとしてのゆるやかな盛り上りも、この部屋ではことさら耳についてしまう。従って非常にデッドな部屋でだけバランス、あるいは特性を検討されたスピーカーは、この部屋に持ち込まれた場合、概してそれまで気のつかなかった中高域の音のクセが非常に耳についてしまうという傾向があるようだ。いうまでもなく、こういう部屋の特性というのは、こんにちの日本の現状においては、かなり例外的だろう。しかしはっきりいえることは、これまで世界的によいと評価されてきたオーディオ機器(国産、輸入品を問わず)は、この部屋に持ち込むと、デッドな部屋で鳴らしたよりは一層美しく、瑞々しい、魅力的な音で鳴るという事実だ。
 つまりこの部屋は、オーディオ機器のよさも悪さも拡大して聴かせる、というおもしろい性質を持っていることが次第にわかってきた。
(「ひろがり溶け合う響きを求めて」より)
     *
グラフィックイコライザーを菅野先生と同じレベルで使いこなせれば、
同じことがいえる。
もちろんグラフィックイコライザーをどんなに調整したところで、
リスニングルームの残響特性が変化するわけではない。

けれどうまく部屋のクセを補整していくことで、
オーディオ機器の音の違いは、よりはっきりと聴きとれるようになる。

Date: 3月 25th, 2022
Cate: コントロールアンプ像

パッシヴ型フェーダーについて(その7)

グラフィックイコライザーを、
本当の意味で使いこなされていたのは、私の知るかぎりでは菅野先生だけである。

他にも、菅野先生と同じレベルで使いこなしている人は、きっといよう。
でも、私が知るかぎり、私が音を聴いている範囲では菅野先生だけ、といえる。

知人でグラフィックイコライザーの有用性を以前から唱えている人がいる。
彼のグラフィックイコライザー歴は、菅野先生ほどではないにしても、そこそこ長い。
それに各社さまざまなグラフィックイコライザーを使ってもいる。
けれど、その使い方(目的)はずいぶんと違う。

結果として、出てくる(鳴ってくる)音は、大きく違っている。
部屋が違い、スピーカーが違い、アンプその他も違うから──、
ということでの音の違いではない。

グラフィックイコライザーの使い方の違いによる音の違いが、
顕著にそこにはある。

知人は、彼によってイヤな音を出したくないためのグラフィックイコライザーである。
もちろんそればかりではないのだろうが、
第一にグラフィックイコライザーを使う理由は、そうである──、
そうとしか感じられない音でしかない。

私だけがそう感じたのではなく、
グラフィックイコライザーを通した音、パスした音、
両方の音を聴いた人は、そう感じていたし、
グラフィックイコライザーを通した音だけを聴いた人でも、そう感じた人がいる。

知人の使い方が間違っている、とはいわないまでも、
グラフィックイコライザーを積極的に使っている、というだけで、
菅野先生と知人を同じに捉えてはいけない。

Date: 3月 25th, 2022
Cate: 604-8G, ALTEC, ワイドレンジ

同軸型ユニットの選択(その26)

604-8Gのシステム構想をあれこれ練るのは楽しい。
どんなシステムにするのかは、どんなエンクロージュアにするのかに大きくかかっている。

まず浮ぶのは、
ステレオサウンド 51号のマイ・ハンディクラフトに登場した
ジェンセンのバス・ウルトラフレックス型である。

604-8Gだけを鳴らすのであれば、このエンクロージュアがいい、といまでも思っている。
けれど、ここで考えているのは、6041を超えるシステムであり、
ワイドレンジを狙ったものであるから、トゥイーターとウーファーを足すことが前提となる。

バス・ウルトラフレックス型エンクロージュアに604-8Gをおさめ、
サブウーファーは別エンクロージュアにする、
トゥイーターはバス・ウルトラフレックス型エンクロージュアの上にのっける。

かなりおおがかりになるけれど、失敗することはあまりない、ともいえる。
けれど、ここで大事なのは6041を超えるということであり、
一つのスピーカーシステムとしてまとめることである。

そうなるとエンクロージュアをどうするのかが、とても難しく重要となってくる。
6041のエンクロージュアは内部で二分割されていた。
サブウーファーと604-8Gのクロスオーバー周波数は350Hzである。

個人的には604-8Gはもう少し下の帯域まで使いたい(鳴らしたい)。
そのためには604-8Gのバックキャビティはどのくらいにするのか。

それよりも604-8Gをとにかく朗々と鳴らしたい、という欲求が頭を擡げてくる。
バス・ウルトラフレックス型エンクロージュアという選択も、
そのことがあってのものだ。

となると平面バッフルに604-8Gと取り付ける、という方法を考えることになる。

Date: 3月 24th, 2022
Cate: コントロールアンプ像

パッシヴ型フェーダーについて(その6)

完璧なリスニングルームも完璧なスピーカーシステムも、
いまのところ存在していない。

完璧でないリスニングルームに、完璧でないスピーカーシステムを置く。
つまりリスニングルームとスピーカーシステムの相性によっては、
クセの強い音、特に低音が鳴ってくることもある。

そういう場合にどうするのか。
リスニングルームを建て替えることができれば、それが一番の解決法だが、
多くの人がやれる方法ではないし、建て替えたリスニングルームにおいては、
また別の相性の問題が発生するかもしれない。

ならばスピーカーシステムを買い替えるのか。
リスニングルームの建て替えよりは、ずっと現実的なのだが、
そのスピーカーシステムがずっと憧れてきて、やっと手に入れたモノであれば、
そんなに簡単に買い替えできるわけでもない。

リスニングルームの建て替えもスピーカーシステムの買い替えもダメだとしたら、
ルームチューニング、音響パネルと呼ばれている製品を、あれこれ買ってきては試すのか。

うまくいけば効果は十分得られるだろう。
市場にはいくつもの音響パネルがある。

こんなに効くのか、と驚くモノもある。
けれど、中にはそうではないモノもある。
それにこれらの製品の外観も、また無視できない。

その見た目が許せるモノとそうでないモノとがあるし、
どんなに効果があるとわかっていても、そういった製品で壁を埋め尽くそうとは思わない。

選択肢はまだある。
グラフィックイコライザーである。

Date: 3月 24th, 2022
Cate: 映画

THE BLUE NOTE STORY(その3)

映画“THE BLUE NOTE STORY”、
最終日の今日、やっと観てきた。

それまでは午前と午後の二回上映だったのが、
3月18日からは午前中一回のみになっているため、
なかなか都合がつかずにぎりぎりになってしまった。

アップリンク吉祥寺は、パルコ吉祥寺の地下二階にある。
アップリンクの前は、そこは書店だった。

吉祥寺に寄るときは、その書店によく行っていた。
この書店が閉店してからはパルコに行くことも極端に減ってしまった。

なので大型のシネマコンプレックスとは、映画館としてのつくりが違う。
天井も高くないし、おおがかりな音響装置があるわけでもない。

ただしスピーカーは田口音響製である。

それに上映中に立って歩く人がいると、その人の影がスクリーンに投影される。
今日はそうだった。
遅れて入ってきた人の影が、スクリーンを横切る。
しかも、この人、完全に終了していないときに出て行ったものだから、また影が横切る。

帽子のシルエットが同じだったから、同じ人のはずだ。

“THE BLUE NOTE STORY”は、熱心なジャズの聴き手ではない私が観ても興味深かった。
いずれストリーミングでも観れるようになるだろうから、その時は観てほしい。

私が個人的に印象に残っている、というか、
いわれてみると、たしかにそうだ、と感じたのは、
ブルーノートは録音しレコードを出すことで、
アメリカの公民権運動の一翼を担っていた、というところだ。

そういう見方をしたことがなかっただけに、
この時代、リアルタイムにブルーノートのレコードを聴いてきた人は、
どう思っているのだろうか──、
そのことが知りたくもなった。

今日(3月24日)は岩崎先生の命日である。
岩崎先生は、この映画にどんな感想をもたれただろうか。

Date: 3月 23rd, 2022
Cate: コントロールアンプ像

パッシヴ型フェーダーについて(その5)

パラメトリックイコライザー、グラフィックイコライザーの存在に否定的な人は、
コントロールアンプとパワーアンプ間に、
これらのイコライザーを接続した場合の音、
これらを省いてダイレクトに接続した音を比較して、
ほら、これだけ音が変るだろう──、といったりする。

接続ケーブルだけでも音は変るし、
アンプの置き方、置き台によっても音は変るくらいなのだから、
これらのイコライザーを挿入すれば、もちろん音は変る。
変らない方がおかしい、ともいっていい。

ここでの「変る」は、否定的な人にとっては、
音質の劣化を意味している。

劣化した音は、どうやっても回復させることはできない──、
というのは、確かに事実であるわけだが、
ここで重要なのは、パラメトリックイコライザーにしても、
グラフィックイコライザーにしても、使いこなしてこその評価であるべき、ということだ。

1/3オクターヴのグラフィックイコライザーは、一朝一夕に使いこなせるものではない。
測定器をもってきて、周波数特性を測って、それがフラットになれば、
使いこなした、といえるものではない。

ピークのある周波数のところをグラフィックイコライザーで減衰させたり、
ディップのあるところを持ちあげたりする──、
そういう認識では、いつまで経っても使いこなせるようにはならない。

つまりイコライザー類の評価には、そうとうな時間を要するし、
そのうえで、本当に音質は劣化するのかどうかを検討すべきである。

Date: 3月 22nd, 2022
Cate: コントロールアンプ像

パッシヴ型フェーダーについて(その4)

パッシヴ型フェーダーを用いることでコントロールアンプを使わない、
そんな選択の対極にあるのが、コントロールアンプを使うに留まらず、
コントロールアンプとパワーアンプ間に、
パラメトリックイコライザーやグラフィックイコライザーを挿入する、というのがある。

ここでのコントロールアンプはトーンコントロール付きと考えてもらってもいい。
周波数特性をいじる機能が、いくつもあるシステム構成は、
パッシヴ型フェーダーを使い、そういった機能を省略したシステム構成と比較すれば、
音の鮮度という点では、不利といえば不利なのだが、
ここで考えたいのは、そういった機能を使いこなした場合においてでも、
不利といえるのか、である。

瀬川先生はトーンコントロールがないコントロールアンプは、
使う気になれない、と公言されていた。

長島先生はトーンコントロールを否定されてはいなかったけれども、
トーンコントロールをどんなにうまく使おうとも、本質は変化しない──、
そういう考えをされていた。

菅野先生は、積極的にシステムにイコライザー類をとりいれられていたし、
その使いこなしに、そうとうな情熱と時間を費やされていた。

瀬川先生が、ステレオサウンド 53号でマークレビンソンのML6について書かれている。
ML6は音の純度を追求するために、コントロールアンプにも関わらずモノーラル構成で、
入力セレクターとレベルコントロールのみというつくりである。
     *
 だいたいこのML6というアンプは、音質を劣化させる要素をできるだけ取り除くという目的から、回路の簡素化を徹底させて、その結果、使いやすさをほとんど無視してまで、こんにちの技術水準の限界のところでの音質の追求をしている製品だけに、そういう事情を理解しない人にとっては、およそ使いにくい、全く偏屈きわまりないプリアンプだ。個人的なことを言えば、私はレコードを聴くとき、できればトーンコントロールが欲しいほうだから、本来、こんな何もないアンプなど、使う気になれないというのが本心だ。
 そうでありながら、このML6の鳴らす音を一度耳にした途端から、私はすっかり参ってしまった。なにしろおそろしく透明で、素直で、音の表情を素晴らしくナイーヴに、しなやかに、鳴らし分ける。どこか頼りないくらい柔らかな音のように初めのうちは感じられるが、聴いているうちに、じわっとその音のよさが理解されはじめ、ふわりと広がる音像の芯は本当にしっかりしていることがわかる。こういう音を鳴らすために、いまの時点でこういう使いにくさがあるとしても、こりゃもう仕方ないや、と、いまやもうあきらめの心境である。
     *
ML6の音は、
《おそろしく透明で、素直で、音の表情を素晴らしくナイーヴに、しなやかに、鳴らし分ける》、
これを読んで、ML6に憧れた時期が私にもある。

このころ10代だった人は、ML6に特別な感情をもつ人が少なくないように、
いまも感じている。

いま読み返して再確認したのは、ここには鮮度という単語がないことだ。

Date: 3月 21st, 2022
Cate: 組合せ
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石積み(その3)

不揃いの石を積んでいく。
全く同じ形、同じ大きさの石は世の中にはない(はずだ)。

そういった不揃いの石を、
モルタルもコンクリートも使わずに積んでいくのが、空積みと呼ばれる施工法である。

空積みは教わったからといって、誰にでもできることではない。
だから多くの人は、石を積むのであれば、
モルタルやコンクリートを石と石の隙間に流し込む。
練積みである。

その1)で、
石は、その人にとってのこれまでの体験でもあり、
石はまた人でもある、と書いた。

ならば練積みにおけるモルタルとコンクリートは、なににあたるのか。

Date: 3月 21st, 2022
Cate: 老い

老いとオーディオ(なにに呼ばれているのか・その2)

その1)からほぼ三年。

なにかに呼ばれて、ここまでオーディオの道をやってきた──、
そんなふうに感じるというか、そういう感覚が芽ばえてきての三年である。

なにかが、なんなのかは、あいかわらずわからないけれど、
三年前よりも、なにかに呼ばれて、ここまで来た、という実感は強くなっている。